ここに報告されているのは、まったくのプロパガンダなのか、事実が誇張されているのか分からない。しかし、日本軍の慰安所について、真偽さだかならぬ話まで事実のように世界中で語られている中だから、バランスをとる意味であえて紹介しようと思う。(国連軍の犯罪 民衆・女性から見た朝鮮戦争 不二出版 より)」
なお、翻訳者の藤目ゆきの出版記念講演(2000年)の内容がネットに上がっているので、彼女にざっと本の内容を紹介してもらおう。魚拓
『国|連軍の犯罪』という本は資料集です。
朝鮮戦争での国|連軍の犯罪に関する国際NGOの調査報告書を三つ収録しています。
朝鮮戦争の勃発が1950年6月なんですが、1951年5月、国際女性調査団が戦場を視察します。 その報告書が一つ。次が法律家調査団の報告書です。国際民主法律家協会が調査団を編成して現地へ行ったんですが、その報告書です。三つ目が、科学者たちの報告覿彼らは特に細菌戦の被害状況を科学的に検証するために派遣された人たちでした。
以上三つの報告書を集成したわけですが、副題に「民衆、女性から見た朝鮮戦争」とつけているよぅに、この資料集の特色は、戦場になった朝鮮半島で民衆・女性の体験がつぶさに検証され具体的に報告されていることです。お読みいただけたらよくわかると思うんですけど、国|連軍の側のおこなった民衆に対する虐殺・蛮行は、国際法でも戦争犯罪とされているものでした。
(中略)
最近・90年代に至ってこそ、戦時性暴力が独自の戦争犯罪として重く見られるようになりましたが、1950年代にはまだ全然そのような視点が確立しているわけではないんです。だから特に「性暴力」だけで独自の報告項目を構成するということはなされていません。しかし随所にそれは伺いしれます。性拷問だけでなく、国|連軍兵士が欲望を満たすために女性たちをレイプする。そういう強姦についても多数の報告があります。またレイプセンターも作られていたようです。「慰安所」といった呼び慣わしがありますが、「レイプセンター」と呼ぶべきだというのが近年、国|連人権委員会の報告などで言われることで、その方が適当な呼び方だと思います。つまり一カ所に女性を収容して監禁して、そして、兵士たちがレイプする。そのためのセンターが国|連軍占領地域でもつくられていた形跡がある。具体的にはピョンヤンなど何カ所かについて、そんな報告が含まれています。
それでは、本サイトのテーマと関係のある、藤目が言う米軍主体の国|連軍用のレイプ・センターの存在を示唆している部分を「国際婦人調査団報告」から引用。
サイサン・リのキム・スクセン(金淑先)は、かの女自身が婦人団体の活動家であったというので、その子供三人がつれてゆかれ、殺されたといった。夫も殺された。20歳の娘キム・チユンズア(金春子)は、看護婦の勉強をしていたが、釘を耳につきさされ、背中に太鼓をゆわえつけられはだかで街をひきまわされた。そのあげく監獄にぶちこまれた。ア|メリカ兵はこの女に暴行をくわえようとしたが、抵抗したので、銃でさしころさせた。母親はかの女の死体をみつけたが、それはめちゃくちゃに傷つき、二つに切りはなされていた。 キム・スクセンの話によると、ア|メリカ軍は街にはいってくると、きれいな少女はア|メリカ軍やイ|ギリス軍の将校や兵隊にあてがわれ、その他のものは李承晩軍にあてがわれた。彼女はこの娼家にいたことのある三人の少女が、まだ生きているのを知っているといった。その他のものは殺された。かの女の村には、140軒の家があったが、全部で240人の人が殺された。
この壕に住むカン・ボクセン(姜福善)の娘が調査団に話したところによると、ア|メリカ軍は オペラ・ハウスやその附近の住家を軍用娼家にした。この娼家に、かれらは街頭でつかまえた婦人や少女を強制的につれてきた。
二人の子供の母親で27歳のチヤ・オクスン(卓玉順)は、かの女の夫はコ・リの郵便局ではたらき、かの女自身はちっぽけな田畑をたがやしていたが、ア|メリカ軍は、「赤い」家族だといって、かれら夫婦と子供(下の子供はやっと1歳であった)もいっしょに、監獄にぶちこみぶんなぐったと話した。かの女はその後二度と夫にあっていない。数日後、監獄にいるうちかの女はたった二杯の飯をうけとっただけである。それで、赤ん坊に乳をやることができなくなった。元山の監獄にいるときには、ア|メリカ兵が毎晩いく人かの少女をえらんで、暴行をくわえた。元山の監獄に20日いたのち、かの女は人民軍の手で釈放された。
17カ国の代表からなるこの調査団を派遣したのは、国際民主婦人連盟(Women's International Democratic Federation)なる団体であった。
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