http://www.shd.chiba-u.ac.jp/~ghss/activity2/vol/kiyou/kiyou1103_07.pdf
「アリラン」の象徴性―金史良の「太白山脈」をめぐってThe Symbolism of “Arirang”:“Taebaek Mountains” by Saryang Kim
朴銀姫
PIAO Yinji
要旨 戦時期の『国民文学』に1943年2月から10月にかけて連載された「太白山脈」は、金史良の唯一とも言える日本語による長編小説である。「太白山脈」は歴史に素材を求めた小説である。「太白山脈」に金史良の民族主義的な理想が描かれているということに異議を差し挟む先行研究はほとんどない。しかし、金史良の民族主義の中味については一度議論しておく必要がある。金史良にとって「民族的なもの」とは、支配者である王宮や両班階層の伝統的な儀礼や文化、信仰というより、もっとも底辺層にいる山民たちの生活や精神そのものであった。つまり、因習、迷信、貧困の中で生きてきた人たちの精神的支柱こそが、彼の言う「民族的なもの」なのである。その一例が「アリラン」の歌の登場である。「太白山脈」では「アリラン」の歌が六回にわたって歌われた。本論文では、「アリラン」の記号論的な意味を考慮に入れつつ、象徴的な記号体としての「アリラン」について分析を加えてみた。また、梨木洞の女性らによって歌われる「アリラン」の歌がテクスト全般に及ぼす意味作用についても併せて検討してみようとした。
はじめに
金史良文学に関する研究は、日本、北朝鮮及び韓国を中心に為されてきた。
日本においては、1954 年に『金史良作品集』(理論社)が出版され、1973 年に『金史良全集』全四巻(河出書房新社)が発刊された。編者は主として在日朝鮮人文学者たちであった。彼らの研究は、主に作家の生涯についての整理や作品の翻訳に留まっていた。こうした作業は、金史良文学の本格的な紹介であるとともに「在日朝鮮人文学」の存在を世に知らしめる重要なきっかけとなった。金史良を「在日朝鮮人文学」の先駆者としての位置づけたのは、まさにこうした研究であったと思われる。
在日韓国人評論家である安宇植は1972 年に『金史良―その抵抗の生涯』(岩波新書)を、1983 年に『評伝金史良』(草風館)を発表した。作家に関する歴史資料や証言に基づいた安の著書は、金史良の生涯について概説する作家論として重要な意味を持っている。また、磯貝治良の『始原の光―在日朝鮮人文学論』(創樹社、1979 年)、川村湊の『生まれたらそこがふるさと―在日朝鮮人文学論』(平凡社、1999 年)、林浩治の『在日朝鮮人日本語文学論』(新幹社、1991 年)などは、金史良文学を「在日朝鮮人文学」の一環として扱いながら、簡単な作品紹介や分析を行なっている。
日本において金史良は、「在日朝鮮人文学」の先駆者として位置づけられている。さらに、被植民地朝鮮の悲惨な暗黒面を描き出すことによって、植民地支配・圧政を暴き出した抵抗の民族作家と評価されている。その理由は二つの面から説明できる。一つは、言語問題であり、もう一つは素材問題である。
金史良の小説「光の中に」は、1940 年上半期芥川賞候補作に選ばれた。「光の中に」が注目された理由の一つは、朝鮮出身作家の日本語による創作であったからである。朝鮮人作家の「国語」(日本語)創作を指導する日本文壇の「内鮮文学建設」への意志が、「光の中に」の理解に先入観として深く染み渡っていたのである。もう一つの理由は、芥川賞選考委員会の審査評に見ることができる。当時選考委員たちの共通認識を再構成してみると、第一に、「光の中に」は朝鮮人の民族問題を題材に取り上げている。第二に、その題材は「国家的重大事」と深く関わっている。したがってこの作品を高く評価するということになる。日本語による創作という言語問題、民族問題を題材にするという素材選択によって、「光の中に」は当選作である寒川光太郎の「密猟者」以上に話題となった。こうした評価は、日本における金史良文学にある程度共通するものであった。
北朝鮮においては、1955 年に『金史良選集』(国立出版社)が発刊され、その後1987 年に『金史良作品集』(平壌文芸出版社)が出版された。解放後、主として北朝鮮で作家活動を行ない、朝鮮戦争の時に亡くなったと推定される金史良であるが、彼に対する北朝鮮の評価は必ずしも高いものではなかった。『金史良選集』が出版されてから、1985 年に殷鍾燮の論文「偉大な領導にしたがってわが小説文学が歩んできた栄光の四〇年」が『朝鮮文学』(1985 年6 号)に掲載されるまでの三〇年間、金史良の名は北朝鮮の文学史から消えたままであった。北朝鮮において、金史良文学研究が本格的に行われ始めたのは、1990 年代に入ってからである。
1991 年、平壌社会科学出版社から刊行された『朝鮮語文』に、金日成総合大学の金明熙の「金史良とその従軍記」が掲載された。金明熙は、金史良を金日成と党に忠誠を尽し、祖国解放のために命をかけて戦った愛国作家として取り上げ、金史良の業績を金日成偶像化のための道具として扱った。2009 年3 月、『現代朝鮮文学選集』第四六巻として、『金史良作品集』(文学芸術出版社)が出版された。『金史良作品集』には、金史良の日本語作品である「太白山脈」と「無窮一家」が朝鮮語に翻訳されている。北朝鮮で金史良の作品集が出版されたのは、1987 年の『金史良作品集』以来のことである。2009 年版の『金史良作品集』の中で、殷鍾燮は「太白山脈」と「無窮一家」は「わが読者に特に知られているわけではない」と指摘し、これらの作品が解放後の北朝鮮において翻訳・紹介されたことが今までなかったことがその理由であると述べている。
平壌出身であり、解放後は主として北朝鮮で作家活動を行なった金史良であるが、彼に対する北朝鮮の評価は高いものではなかった。その理由は次の三点にまとめることができる。第一は言語問題である。日本語による作品は翻訳の問題、民族感情の問題に関わっているため、積極的に紹介されていなかった。日本語で書かれた作品はその内容とは関係なくすべて親日文学と捉えられてきた。こうした北朝鮮の状況は、金史良の日本語作品の翻訳に積極的ではなかったのである。
第二は家族問題である。当時友人であった保高みさ子は『花実の森』の中で、金史良について次のように語っている。「彼の家は平壌の両班で、ブルジョアである。母はアメリカで教育をうけた。その頃の朝鮮では、上流階級はアメリカで教育をうけ、中流の上階級は日本で教育をうけるという習慣があったと彼はいっていた」。金史良の日本留学を前後に、兄である金時明が京都帝国大学に留学し、妹の金五徳が東京帝国女子専門学校に留学した。こうした事実は、金史良の生家がかなり裕福であったことを物語っている。また、金史良の家族はキリスト教を信仰していた。母親、妹、妻の崔昌玉は忠実なキリスト信者であったという。さらに、兄である金時明の経歴は金史良に直接的な影響を与えた。小説「草深し」の中に登場する郡守は、実際のところ金時明をモデルとした人物であるという。金時明は京都帝国大学を卒業し、朝鮮の地方官吏(洪原道洪川郡郡守)を勤めていた。のちに彼は高等文官試験に合格し、朝鮮人としては最初の朝鮮総督府専売局長(地方専売局長)に就任した。兄を尊敬していた金史良はこのことを誇りにしていたという1。これは、金史良の思想傾向が民族主義的であったにせよ、一定の勢力を背景にする有力者として、当時の統治権力との間にある種のバランスを保つ関係にあったことを意味する。こうした富裕なキリスト教徒の家庭に育った金史良に対し、北朝鮮の研究者たちは厳しい視線を投げかけていたのである。
第三は革命的な系譜の問題である。日本から脱出した金史良は延安派と呼ばれる華北朝鮮独立同盟・朝鮮義勇軍に加担していた。当時延安派は「非金日成系」に属する抗日闘争集団であった。解放後、延安派は南労党派やソ連派とともに宗派分子と呼ばれ、金日成らのパルチザン派によってほとんど粛清された2。一連の政治的粛清とともに北朝鮮は金日成の独裁的支配体制へと転換した。したがって「金日成の歴史」をつくるために、他の政治集団の抗日闘争を扱った文学作品はほとんど排除され、否定されてきた。延安の抗日地区を主な背景とする金史良の文学作品は、こうした朝鮮文学(愛国文学)の雰囲気の中で常に排斥され、高い評価を与えられることはなかったのである。
一方韓国において、金史良の作品集が初めて出版されたのは1980 年代の後半のことである。韓国では1987 年、安宇植の著書『金史良―その抵抗の生涯』の翻訳本『アリランの雨が』(ヨルウム社)が出版されるとともに、北朝鮮作家の作品が本格的に紹介され始めたのである。1988 年に『韓国解禁文学全集』(全18 巻、三星出版社)が刊行され、1989 年『金史良作品集―駑馬万里』(東光出版社)が出版された。
2008 年、「光の中に」や「七絃琴」などの作品を収めた『金史良作品集』(知識古典千行社)と、「土城廊」、「尹主事」、「郷愁」などの作品を収録した『金史良作品と研究』(亦楽)が出版された。2009 年、金史良に関する論文を収めた金学蕫の著書『在日朝鮮人文学と民族』(国学資料院)が発刊された。
韓国では、日本帝国の政策文学への加担者という批判と、迂回的な書き方で消極的抵抗を行なったという好意的な省察が並存している。
まず、政策文学への加担者という批判は後期の作品批評によく現われている。ルポルタージュ「海軍行」、「駑馬万里」、「海が見える」、長編小説「海への歌」などの後期作品は、朝鮮語による作品である。金史良が民族主義作家と呼ばれるのは、強要された言語を逆手に取って厳しい状況下にあった植民地朝鮮の現実を描き、加害者の蛮行を告発したからである。しかし、太平洋戦争の末期に至っては、母国語による政策文学に加担せざるを得なくなったという韓国側の研究者たちの批判が高まっている。だが、後期の作品の背景はか
広津和郎や保高みさ子は、この時期の金史良が非常に矛盾めいた状態に置かれていたことを回顧して
いる。金史良は無産者階級に同情や愛情を抱いている反面、両班としての家柄を誇らしげに語ってい
たという。特に、開化思想に目醒めた資産家である母親、総督府の高級官僚である兄のことをかなり
誇りにしていたという。 2 北朝鮮における政治粛清は四段階に分けられる。第一段階、南労党派粛清(1952―1955年)、第二段階、
ソ連派粛清(1953―1956年)、第三段階、延安派粛清(1956―1958年)、第四段階、パルチザン派粛清
(1966―1969年)。(金甲哲他『南北韓体制の強固化と対決』、ソファ出版、1996年、28頁。)
なり複雑である。1943 年7 月、「海軍特別志願兵令」が公布され、8 月1 日の施行開始により、朝鮮海軍特別志願兵制度が制定された。これに伴い、鎮海警備府にまず朝鮮総督府の海軍志願者訓練所が設置された。朝鮮民衆への海軍に対する知識普及を徹底させるため、国民総力朝鮮連盟では、小説家、詩人、画家などを朝鮮の海軍関係学校などに派遣した。金史良もその一員として鎮海海軍訓練所に派遣された。当時加えられた様々な制限(政策強迫)のため、朝鮮民衆の独立決起を描いた作品はほとんど出版することができなかった。
こうした背景を踏まえ、一部の韓国側の研究者は金史良の文学作品を迂回的な書き方による消極的抵抗であると評している。一例を上げてみよう。朝鮮語で書かれたものだが、金史良は『海への歌』を1943 年12 月から1944 年10 月まで『毎日新報』に連載していた。この小説は、1866 年のシャーマン号の大同江侵入事件から第二次大戦勃発直後まで、ある島の一族の80 年間の歴史を取り上げたものである。最後に、一族の後裔が海軍志願兵制度により航空兵となる場面が置かれているところから、金史良の転向を示す作品とみなされてきた。しかし、韓国の文芸批評家である金在勇や郭亨徳らは、このテクストは東亜侵略を行なう西洋に対して立ち上がる志士の一族の運命を辿るものであって、日本帝国主義を肯定していると見るのはいささか極端な判断であると指摘した。しかも戦時下の新聞連載ということに伴う様々な制約の中で、金史良には自由な言動が保証されていなかったとみなしている。
植民地期の朝鮮半島の政治、文化的状況から見れば、完全なる抵抗文学は存在しえなかった。日本の朝鮮合併以来、朝鮮総督府の行政、司法、教育組織は、朝鮮半島を隅々まで効率的に支配したのである。それ故、植民地期の朝鮮文学を取り巻いていた状況、作品が生産・消費される環境は、植民地文化支配政策によって統制されていた。また、植民地期に公的に活動していた朝鮮人作家や知識人階層は、特に日中戦争以後の植民地末期には、植民地体制を維持しようとする支配権力に何らかの形で「協力」的に関わるようになっていた。金史良も例外ではなかった。
韓国における金史良研究がかなり遅れていた理由は、大きく三つの点から整理することができる。第一は言語問題である。これは北朝鮮と同じく翻訳の問題や民族感情の問題から理解できる。第二は思想問題である。金史良は北朝鮮出身であり、共産主義者である。解放後は北朝鮮に帰郷し、朝鮮戦争の時には朝鮮人民軍の従軍作家として活動した。第三は政治問題である。朝鮮半島の南北分断の歴史や分断文学史に起因する諸制約から、金史良の文学作品は忌避の対象となり、評価が与えられなかった。
以上が、日本、北朝鮮、韓国における金史良研究の概要及び評価である。ダブル・バインドに追い込まれた植民地時代作家の作品が、後世の読み手によって評価が分かれることの意義を問い質すことは重要な作業である。
近年においては、韓国出身の鄭百秀や南富鎮が日本で金史良研究を行ない、その成果には目覚ましいものがある。鄭の著書『コロニアリズムの超克』(草風館、2007 年)は、金史良の作品分析を通じて韓国の「植民地経験」と「脱植民地化」の相互因果関係を明らかにした画期的なポストコロニアリズム文化論である。
南の『近代文学の朝鮮体験』(勉誠出版、2001 年)と『文学の植民地主義―近代朝鮮の風景と記憶』(世界思想社、2005 年)は、植民地体験の原風景がいかに継続・内面化され、自己の記憶として甦ってくるかについて様々な角度から考察している。鄭とは違い、南は金史良作品の中から幾つかのキーワードを選択し、他の文学作品と比較しつつ議論を展開している。二人の著書の方法論的な共通点は、金史良作品を通してポストコロニアリズム文化論の新たな可能性を追求したところにある。二人の著者は、その後の金史良文学研究に対して新しい視点や研究方法を示唆したと考えられる。
日本、韓国、北朝鮮における金史良研究は活発に継続されている。本論では、こうした従来の金史良研究を踏まえ、新たな研究方法を模索していきたいと思う。
1.「太白山脈」というテクスト
戦時期の朝鮮のいわゆる御用雑誌『国民文学』に1943 年2 月から10 月にかけて連載された「太白山脈」は、金史良の唯一とも言える日本語による長編小説である。1970 年代に入って「太白山脈」を発掘したのは評論家安宇植である。安宇植はこの小説の再掲載の経過について、著書『金史良―その抵抗の生涯』の中で詳しい説明を行なっている3。また安は『評伝金史良』においても、「太白山脈」の作品性を高く評していた。彼は、「太白山脈」は統治権力の文芸誌『国民文学』に掲載されたという事実を除くならば、「朝鮮そのもののありようを歴史的事実に仮託し作品化している点で意味深い作品4」だと評価している。
実在した人物や歴史出来事を小説の背景にしたことから見れば「太白山脈」はまさに歴史小説である。「太白山脈」が注目したのは、清国・日本など外国の政治的関与の下で生じた朝鮮内部の政権抗争の歴史であった。さらに小説が選択した時代は、李朝末の激動期である。李朝末の激動期とは、1884 年前後の時期を指している。この頃は「激動期」と呼ばれる時代であった。19 世紀後半から、欧米列強は朝鮮に開国を強要し、内政への干渉も一段と強まった。さらに、朝鮮内部では壬午軍変(1881 年)、甲申政変(1884 年)、甲午農民戦争(1894 年)が次々と起こった。金玉均や朴泳孝などの開化派が守旧派の閔氏一族の「事大党」を排除しようとした甲申政変が、「太白山脈」の中心的な事件となっている5。
「太白山脈」の中では、開放と鎖国、近代と前近代、日本と清国との葛藤が複雑に絡み合っている。小説の主要舞台は、平地から追われてきた者たちが隠れ住む山中の梨木洞である。小説の冒頭にあるように、「それはこの山脈中のどの部落とも同じく、昔も今もその呼び名を持たない6」村であった。語り手はそこで、「この物語を進める必要の上から、(中略)これを梨木洞と呼7」んでいる。太白山脈の名もなき谷間に、いつの日からともなくつ
3 安宇植『金史良―その抵抗の生涯』、岩波新書、1972年、134頁。 4 安宇植『評伝金史良』、草風館、1983年、132頁。5 「甲申政変」とは、金玉均をリーダーとする急進的開化派が、1884年12月4日のクーデターによって
閔氏を中心とする守旧派政権を打倒し、開化派政権を実現した宮廷革命を指している。ところが三日目の12月6日、袁世凱が率いる清軍の武力介入によって新政権は崩壊した。政変の失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら九名は日本に亡命し、徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った。日本での再起計画に失敗した金玉均は、清国の北洋大臣李鴻章を説得するため1894年3月に上海に渡った。ところが朝鮮政府が派遣した刺客洪鍾宇によって、アメリカ租界の東和洋行で暗殺されてしまう。甲申政変後の1885年4月、李鴻章と伊藤博文との間で日清両軍の朝鮮からの撤退、もし出兵する時は事前に相手国に通告する内容の天津条約を締結した。したがって1885年から1894年の日清戦争までの10年間は、朝鮮に駐留する日清軍はいなかった。ところが甲申政変を武力でつぶした袁世凱は総理交渉通商事宜として漢城に居坐り、朝鮮の内政や外交に宗主権をかかげて介入した。(姜在彦『歴史物語―朝鮮半島』、朝日新聞出版、2006年、235―236頁。)
6 『金史良全集Ⅱ』、河出書房新社、1973年、249頁。 7 同書、249頁。
くられた部落。語り手によって「梨木洞」と命名されたこの場所が物語発端の地となる。それで、追っ手の追跡を逃れた開化派の指導者の一人である尹天一は、日童、月童という名の二人の息子を連れ、「梨木洞」へと紛れ込んでいく。
ここに移り住むようになった「総勢十六戸、七十三人8」。「梨木洞」に群れ住む人々は、朝鮮王朝の圧政から逃げ出した落人であり、自然災害による難民たちであった。そうした落人や難民たちは太白山脈に深く入り込み、火田民となっている。
「太白山脈」は歴史に素材を求めた小説である。安宇植はこのことについて、「あきらかにこれは、金史良のおかれた主体的状況のきびしさを物語るもの9」であると指摘している。「太白山脈」に金史良の民族主義的な理想が描かれているということに異議を差し挟む先行研究はほとんどない。しかし、金史良の民族主義の中味については一度議論しておく必要がある。つまり、金史良は開化派の政治変革に近代朝鮮の将来を夢見ていたのである。
「太白山脈」に登場する「新しい朝鮮人」の指導者である尹天一は、封建的な旧支配層のイメージをそのまま体現する人物である。「太白山脈」というテクストが孕む民族的イデオロギーを問う際、この点は必ず問題とされなければならない。つまり、そこには日本の帝国主義支配に対抗する朝鮮ナショナリズムの思想的力強さが欠けているのである。
さらに、金史良にとって「民族的なもの」とは、支配者である王宮や両班階層の伝統的な儀礼や文化、信仰というより、もっとも底辺層にいる山民たちの生活や精神そのものであった。つまり、因習、迷信、貧困の中で生きてきた人たちの精神的支柱こそが、彼の言う「民族的なもの」なのである。
その一例が「アリラン」の歌の登場である。「太白山脈」では「アリラン」の歌が六回にわたって歌われる。本論では、「アリラン」の記号論的な意味を考慮に入れつつ、象徴的な記号体としての「アリラン」について分析を加えてみたいと思う。また、梨木洞の女性らによって歌われる「アリラン」の歌がテクスト全般に及ぼす意味作用についても併せて検討してみたいと思う。
2.「アリラン」の起源及び伝承
「アリラン」とは何かという問いに答えることは難しい。俗に「アリラン百説」と言われるように学術的な定説や定義はなく、多くのアリラン研究者たちがそれぞれのアリラン説を展開してきた。また、「アリラン」についての批評家たちの解釈や理解も様々である。
まず、「アリラン」の語源や由来に関する代表的な民話、口伝などを参照しながらその意味を考えてみることにしよう。
古いものとしては新羅国の始祖、朴赫居世の王妃閼アル英ヨンをめぐる「アルヨン」説がある10。
僧一然の歴史書『三国遺事』(1285 年)によれば、ある日閼英井という名の井戸端に鶏竜が現われ左の脇腹から一人の童女を産む。その童女は非常に美しかったが、鶏の嘴をしていたという。そこで童女を月城の北川で沐浴させるとその嘴が抜けた。のちに、その童女は王妃となる。閼英井の「アルヨン」が「アリラン」に似ているところから、新羅初期に
8 同書、249頁。 9 同書、136頁。10 金智栄・山川力『「日韓合併」とアリラン』、北海道新聞社、1992年、217頁を参照せよ。
アリラン説が生まれたという。
李朝初期の「アラン」(阿娘)説は、密陽尹府使の娘アランの悲話に由来する11。アランは鄭という通引(吏属)に言い寄られ、殺されてしまう。森の中に捨てられたアランは毎晩幽霊になって新任の府使に助けを求める。だが、新任の府使は仰天して死んでしまい、その後は府使の職を望む者がいなくなる。ある日、都南山郡の大胆な書生が密陽府使を願い出て、アランの幽霊に会う。彼は鄭通引を極刑に処し、それ以後、アランの幽霊は出なくなる。この哀れなアランを偲んで「アラン、アラン」と歌ったのが「アリラン」の起源になったというのが「アラン」説である。
その他によく知られているものとしては、「アイロン」(我耳聾)説、「アリラン」(我離娘)説、「アナンリ」(我難離)説などがある。いずれの説も、幼少の高宋(1863―1907 年)の実父で大院君の称号を持つ李是応(1820―1898 年)が実権を握り、1865 年景福宮再建を強行したことに基づいている。財物掠奪、賦役の動員によって困窮に陥った民衆は「但願我耳聾、不聞願納戸(願わくばわが耳聾になり、納金懲発の声が聞えないことを願う)」と唱えたという。その「我耳聾(何も聞えなくなればいい)」が転化して「アリラン」になったというのが「アイロン」説である12。
「アリラン」(我離娘)説13も、同じく大院君による景福宮再建工事に由来している。官僚による監視や鞭に苦しみながら強制労働に従事した人夫たちの、故郷にいる妻子を思う心が「我離娘」の歌を生んだという説である。「我離娘」は恋する人との別れを題材にしている。
また、「アナンリ」(我難離)説によれば、「アリラン」は再建工事に狩り出された人夫たちが辛い労働に耐えかね、「魚遊河、我難離」(魚は水で遊んでいるのに、われわれはこの辛い現場を離れて家に帰ることもできない)と嘆いたことに由来するという14。
これらのアリラン起源説は時代に応じて三つの類型に分けることが可能である。
第一は、新羅初期、つまり封建社会の初期にアリランの歌が生まれたという説。第二は、李朝中期、つまり封建社会の中期にアリランの歌が生まれたという説。第三は、李朝末期、封建社会の末期をその起源と見なす説である。
三つの説の中で文献的な根拠があるのは、第三の説だけである。封建末期の詩人崔永年は、『海東竹枝』の中でアリランを景福宮再建工事と結びつけている。彼は、「アラリ」が「今から三十余年前に、どこからともなく聞えてきて、全土に広がって歌わない人がなく、その声はもの悲しかった15」と述べている。こうした文献や現存する歌詞が概ね近代の社会状況を反映していることからすれば、「アリラン」の歌は景福宮再建工事の場でよく歌われた歌の一つであると思われる。無論、既に述べたように、口承による民話の多様性から、「アリラン」の語源を一つに確定することは不可能である。
また、アリラン起源説は歌の内容に応じておおよそ二つに分類することができる。
一つは愛の情緒を歌ったものである。19 世紀末に創作されたアリランには、愛の感情を
11 同書、217―218頁を参照せよ。 12 宮塚利雄『アリランの誕生』、創知社、1995年、193頁を参照せよ。 13 同書、194頁を参照せよ。 14 金智栄他、前掲書、218頁を参照せよ。15 同書、219―220頁を参照せよ。
基本にしているものが多い。愛する人への切々たる訴え、自分をすてていった人への怨み、離別の情緒などを歌うものがほとんどである。しかし、アリランは単純に愛の歌として終わるわけではない。そこには、愛の表現を通じてその時代の人々の様々な生活や情緒が反映されているのである。さらに言えば、愛という主題が中世的な桎梏から逃れ、個性解放への志向と固く結び合っているところに、アリランの重要な文化的意義があると思われる。
もう一つは悲惨な境地に対する民衆の絶望を歌ったものである。それは「アイロン」(我耳聾)説、「アナンリ」(我難離)説からも分かるように、官僚たちの搾取や掠奪によって生活の基盤を失った庶民の悲しみ、賦役に狩り出された人夫たちの悲鳴などを歌っている。封建社会における民衆の困窮や強制労働現場の悲惨な情景をもっとも生き生きと表現したのが、こうした「アリラン」であった。「アリラン」の歌の社会的な意義は、対立、矛盾、暴力から生じる苦しみや絶望を如実に反映しているところにある。
いずれにせよ、「アリラン」の歌の内容的特徴は民族独特の情緒をよく表現しているという点である。「アリラン」は、封建社会末期の共同体意識を映し出す鏡でもある。鏡の中で繰り広げられることは虚構であるが、そこにはまた実像としての、朝鮮文化の一面が読み取れるのである。
3.象徴的な記号としての「アリラン」「アリラン」は、朝鮮半島に住む人々の文化、歴史、情緒などを表象する一つの重要な
キーワードである。
まず、「アリラン」は一つの文化である。
朴敏一はその著書『韓国アリラン文学の研究』の中で、「アリラン」の文化的特性について次のように述べている。「民謡には民衆の感情が率直に表現されており、その中でも特にアリランには多くの情緒がよく表われている。だからその内容を分析することにより、民衆の情緒と感情が把握できる16」。また李御寧は『韓国人の手、韓国人の心』という著書の中で、「アリラン」は「時代を、地域(国境)を、世代を越え韓国人の生活に溶けこみ歌い継がれ、語られてきた17」と指摘している。
「アリラン」の歌の旋律や歌詞は、時代、地域、場所によって様々である。「アリラン」には後に社会風刺や個人感情が加えられ、朝鮮庶民社会の情緒を如実に反映する民謡として今でも各地で歌われている。
「アリラン」には喜怒哀楽、葛藤、対立などが表出されている。この意味で「アリラン」は、民族情緒を歌によって昇華し、哀しみを表現する恨プリ18でもある。これは「アリラン」の持つ文化機能である。
また、「アリラン」は歴史の声である。
開化期からその後の暗黒期と民族解放を経て、南北分裂や六・二五戦乱に至る歴史を「アリラン」は歌の形式を用いて物語っている。「アリラン」はそれぞれの歴史物語を敏感に反映している。これは他の民謡には見ることのできない特徴である。こうした意味で、「アリラン」は確かに朝鮮民衆の声であり、歴史である。
16 朴敏一『韓国アリラン文学の研究』、江原大学校出版部、1989年、107頁。17 李御寧『韓国人の手、韓国人の心』、デザインハウス、1994年、73頁。18 恨プリ:恨を晴らすこと。
「アリラン」の歌の特徴は、最初民衆の内部で自然発生的に生まれた後、絶えず再解釈、再生産されてきたというところにある。長年にわたって民の歌として伝承されてきた「アリラン」は、近代国家のシンボル的な民謡として再構成された。例えば、1910 年の朝鮮併合以後に作られた反日的な「新アリラン」がその一つである。そこには日本帝国主義下での不合理な社会状況が生々しく反映されている。「新アリラン」は、主として民族の悲しみ、怒り、そして闘争精神などを題材にしている。
畑は壊され道路になり
家は崩され停車場になる
アリラン アリランアラリヨ
アリランの峠にわたしを越えさせてよ19
この「新アリラン」の一節にはその特徴がよく表われている。この歌は、従来のアリランの主題をかなり大きく変化・拡大させている。「畑」や「家」が朝鮮民衆の安定した生活状況を象徴するとすれば、「道路」や「停車場」はそれを破壊する植民地的な状況を暗示している。つまり、「畑」が「道路」になり、「家」が「停車場」になるという表現は、最低限の生活環境さえも破壊されてしまった民衆の状況を示唆している。
また、「アリランの峠にわたしを越えさせてよ」というリフレインには、他の土地を求めていこうとする民衆の心情が表われている。つまり、「アリランの峠」を越えなければならなかった当時の現実を強調することで、支配者への憎悪や怨嗟を表現している。「アリランの峠」とは地理的な山境というよりは、被支配者として乗り越えなければならない苦難や逆境を示す隠喩である。このように「新アリラン」には、植民地政策や掠奪行為によって日に日に荒廃していく農村の苛酷な現実が如実に反映されていると思われる。
1930 年代、抗日闘争の展開とともに「新アリラン」は一層思想的な内容をもつようになる。この時期のアリランの歌は、民衆の悲哀や嘆息を歌うだけに留まらず、革命的精神や勝利への確信を唱え、将来への希望を高らかに歌い上げるのがその特徴になっている。
行くお方をつかまえないでよ
お帰りの時は もっとうれしい
アリラン アリラン泣かないでよ
アリランの峠に 旗がひらめく20
この「新アリラン」には、民衆の抗日感情や必勝の信念に基づく革命的楽観主義が漲っている。「行くお方」とは闘争へ向かう男性を指すが、その帰りは「もっとうれしい」という表現は革命の勝利を予言している。また、アリランの峠にはためく「旗」は朝鮮の独立を象徴する勝利の「旗」である。この歌は、アリランの伝統的な愛の主題と抗日精神を効果的に結び合わせ、アリランの持つ思想的、教養的意義を一層深化させている。
19 金智栄、前掲書、222頁。20 同書、224頁。
このように、「アリラン」の歌は、民族の魂を甦らせ、消えゆく民族意識を再燃させようとしている。しかし、「アリラン」の歌が日本の支配下で歌われるためには、歌詞に民族性が直接表現されてはならなかった。
アリランの歌は民族的情緒を維持しながら、異なる時期における民衆の生活変化を盛り込んで絶えず進化してきた。この意味で、「アリラン」には彼らの歴史や文化を象徴する民族アイデンティティが色濃く表出している。
さらに、「アリラン」は民族情緒を象徴的に表現している。
「民族」とは近代という特殊な時代に生まれた観念に過ぎない。にもかかわらず「民族」には、その起源なるものが存在しているかのような幻想がつきまとい、外部に対しては異質感、内部に対しては同質感といった情念を引き起こす。こうした情念は一つの共同体だけに帰属する「固有性」や「伝統」を作り出そうとする。「アリラン」の歌も、こうした近代的な想像行為によって生み出された「民族の歌」にほかならない。
「民族」という観念を想像することと、想像された「民族」という観念の中に人々を包摂することは同時に生起する。また、「民族」の構成員となった人々は、反復的な「想像」行為を通じて自らのアイデンティティを維持する。「アリラン」という言葉の中には民族、そして民衆に共通の感情が含まれている。これまでの朝鮮文学・文化論は、民族情緒をもっとも典型的に表象するものとして「アリラン」の歌を取り上げてきた。先行研究に見られる「アリラン」に対する認識は、主として以下の三つの要点を共有している21。
第一に、「アリラン」は恋人との離別を克服していく女子の悲しみを表現する。第二に、この悲しみは詩的情緒と密接に結びついている。第三に、「アリラン」は朝鮮民族の伝統的感情を切実に表現する代表的な民謡の一つである。
「アリラン」を民族共同体の構成員全員が共有する文化として普遍化するためには、民族的情緒なるものに絶対的な価値を与えるしかなかったであろう。すなわち、「アリラン」は民族固有のものと規定される情緒世界の中に閉じ込められる必要があるのだ。また、「アリラン」にまつわる記憶を共有する人々は、「アリラン」の主題を「恨」の感情と結び付ける形で想像するようになる。言い換えるなら、「恨」の感情に浸される「アリラン」の歌は、時間的な隔たりや社会的階層、文化的感受性、地域、性別などの相違を超えて「民族」の枠内に吸収されることになる。したがって、「アリラン」の歌は同一「民族」の住むあらゆる地域において、情緒的な共感を呼び起こす文化的、歴史的キーワードの一つになるのである。
ここで付言しておきたいことは、「アリラン」の歌が喚起する想像世界は、朝鮮半島の人々に固有なものではなく、他の民族、共同体、あるいは文化圏の人々が共有するものであるということである。自己の民族文化は、常に他者たちの国民文化(正確に言えば、他者の国民文化と想定されるもの)との対照や区別を通して思い描かれる。「アリラン」という言葉から「朝鮮」もしくは「朝鮮なるもの」を連想するのは、ほとんどが他者たちの方なのである。自民族文化というものは、他民族文化との相対的、比較的な関係によってしかそ
21 本論では主として、金達寿の『わがアリランの歌』(中央公論社、1977年)、金煉甲の『アリラン』(現代文化社、1986年)、水谷慶一の「『アリラン』について想うこと」(『記録』、記録社、1987年)、金智栄・山川力の『「日韓合併」とアリラン』(北海道新聞社、1992年)、宮塚利雄の『アリランの誕生』(創知社、1995年)などを参照した。
の姿を現われないからである。したがって、あるものが民族文化とされるためには、他者(国際社会)からの認知を必要とする。そして、この点について言うなら、「アリラン」は、民族内外においてその文化的価値が認知されている。
一方、民族固有の文化的、歴史的価値を構築することを目標としてきた「アリラン」の言説は、逆説的に「アリラン」をもはや具体性を内包する実体的対象としては提示し得ないことを暴露している。すなわち、民族文化の実体を構築しようとした自民族文化中心主義の企画、その展開から脱構築の可能性を確認することができるのである。
「アリラン」に関する言説が持続的に再生産される中で、「アリラン」は対象的な実体性を自明の価値として獲得できる。理論的に「アリラン」が実体性を得るということは、そのプロセスに対する歴史的記憶の忘却を前提にする。もし度重なる言説効果によって実体性が得られていくプロセスを意識したとするなら、当然その実体性の根拠が不在であったことも同時に意識しなければならないからである。つまり、実体性を獲得する過程を忘却することによって、「アリラン」は民族文化として認識されるのである。
また、ここにはもう一つの認識論的転移が見出される。それは、「アリラン」が民族文化の本来的価値を獲得することによって、それ自体が文学・文化テクストを語る規準になってしまうということである。言い換えるなら、「アリラン」はそれ自体の概念的領域の中で民族文学・文化テクストを語ることのできる正当で有力な認識規準になっているということである。つまり、「アリラン」がこうした規準になったということは、「アリラン」の実体性が疑うことのできない確固たる地位を得たことを意味している。こうして、
「アリラン」と言えば「朝鮮」を思い浮かべるほど、この言葉には民族のシンボル的な意味が根強く馴染みつくことになったのである。
長い歴史の中で歌われてきた「アリラン」の歌が、国家・民族的な次元で言説化されたのは1960 年代以降のことである。その理由は次のような事情にある。
戦後の韓国・北朝鮮における文学・文化状況の中でもっとも重要な課題は、植民地期に抑圧、排除されていた朝鮮(語)文学・文化の再建であった。それは新たな民族文学・文化を樹立することと繋がっていた。解放とともに新しく構築していかなければならなかったのが自民族による国民共同体であるとするなら、その共同体構築においてもっとも肝心な精神的要となっていたのが「アリラン」の言説であった。というわけで、「アリラン」は朝鮮的な民族精神を象徴的に表現するもっとも重要な媒体であったと思われる。
4.「太白山脈」における「アリラン」の歌
既に述べたように、「アリラン」の歌は異なる時代、地域、場所および歌い手の志向性や願望を反映するために、多くの変種をつくり出してきた。「太白山脈」において、「アリラン」を歌うのは梨木洞の女性たちである。彼女らは新天地に対する憧れを、それぞれの歌に昇華させている。テクストで、「アリラン」を歌い始めるのは七星女である。
アリラン峠は 金取り峠
金のない奴は 越されぬよ
アリラン アリランアラリヨ
月が落ちるに はよ越そうアリラン峠は 越えて逃げても
鬚爺(一圓紙幣) 一枚だけは忘れるな
アリラン アリランアラリヨ
月が落ちるに はよ越そう22
七星女は、哀れな死に方をした隣家の錦順を想いながら「アリラン」の歌を歌い出す。「金のない奴は 越されぬよ」という歌詞が暗示するように、錦順一家は生活難のため死んでゆく。ここで「金」は生活を維持するための最低限の経済的保証を指している。その「金」のない錦順が「越されぬ」峠とはまさに生の峠である。この歌の場面では錦順を想う七星女が可視的な存在として、また悲惨な結末を迎えた錦順が不可視的な存在として描かれている。したがって、この歌では七星女の属する可視空間である生の世界と、錦順の属する不可視世界としての死の世界が二分化されている。そして、その世界の中心には一本の道が何よりもくっきりと描き出されている。それが、アリラン峠に他ならない。この峠は七星女と錦順を結ぶと同時に、二人を切り離しもする想像上の峠である。
梨木洞の女たちの想像が集中するアリラン峠に、語り手はどのような詩的要素を付与しているのであろうか。七星女が歌う「アリラン」に登場するアリラン峠は、生の世界と死の世界の間に存在する幻想の峠である。「鬚爺一枚」とは、死んでいく者が生き残った者へ送るメッセージを比喩的に表現したものにほかならない。「鬚爺一枚だけは忘れるな」というのは、錦順の応答である。アリラン峠を越えてきても「金」は必要であるというメッセージ。死者からの想いと死者への想いを交差させる歌詞から、アリラン峠の象徴性は明らかになるであろう。
アリラン峠とは、地理的に存在する峠の名ではない。朝鮮半島の地図を広げてみてもアリラン峠という名はどこにも記載されていない。つまり、アリラン峠というのは、町境、国境の峠のことであり、異境に逃げのびる朝鮮人が故郷との境にある峠を幻想的に指し示す呼称である。アリラン峠とは想像上の峠なのである。
また、「アリランの峠」は歌だけでなく、説話、小説、演劇、パンソリ、踊り、美術など、あらゆる朝鮮文化の中に登場する。それらは、封建的暗黒を越える峠、民族の苦難を越える峠、離別を越える峠など、様々なアリラン峠として登場する。
「太白山脈」におけるアリラン峠は、梨木洞に住む人々の「誰しもが夢に見、わけても慨きの多い彼女等が想ひを馳せ幸を望んでゐた天国への門23」なのである。日童と月童が新天地を探しに旅立つと知らされた時、彼女らは「どれ程その輝かしい成功を祈り、且つは今度こそ夢のアリラン峠が現はれますやうにと願った24」ことであろうか。
彼女らにとって、アリラン峠は天国と地獄の狭間に位置している。それが天国へ繋がるか、地獄へ落ちるかは日童兄弟の帰還次第である。日童兄弟の帰還とともに彼女らは梨木洞を離れ、抑圧や搾取のない「安住の地」へ向かうことができる。しかし、兄弟が戻ってこなければ、彼女らは生活の困窮を逃れることができず、邪教の犠牲となってしまうこと
22 『金史良全集Ⅱ』、前掲書、305―307頁。23 同書、304頁。 24 同書、304頁。
になる。だが、日童兄弟の消息は絶え、彼らは姿を現わさない。そうした失望から来る悲しみや嘆きを彼女らはアリランの歌で表現するのだ。
次に、コプシリが胸をしめつけられるような切ない声で歌い始める。彼女らは朝鮮の方々の地域から梨木洞へ流れ込んだため、アリランの歌にもそれぞれの違いがある。
ドンベク
アジュカリ柊柏25よ 實るでない
田舎娘が 賣られゆく
アリラン アリランアラリヨ
アリラン峠は 涙の峠
杉の高いは御殿の柱に
ソウル
野良働きの男は京の賦役に
アリラン アリランアラリヨ
アリラン峠は は―溜息の峠26
コプシリの歌声は「喉が張り裂けそうな悲痛なかげりを帯び27」ている。悲しみの絶頂に達した彼女は急に嗚咽し始める。「アリラン峠の莫迦!莫迦!28」。
当時政府の財政状態は困窮を極め、民衆の生活は明日の糧米さえないほど悲惨な状況にあった。にもかかわらず、王宮内では宴楽巫祭が日々催され、度重なる御殿の修築や造営に壮健な男たちが動員されていった。また、地方の官家でも同様な姿勢だったため、民衆たちの生活は困窮を極め家族の離散さえ余儀なくされていた。
コプシリの歌の中にも「野良働きの男は京の賦役に」、「田舎娘は賣られゆく」といった当時の社会状況が如実に反映されている。コプシリがアリラン峠を「莫迦」と表現するのは、賦役に引っ張られる男も、売られる女もそのアリラン峠を越えてゆくからである。「アリラン峠は涙の峠」、「アリラン峠は溜息の峠」という歌詞からも窺えるように、アリラン峠は家族の離散をもたらす絶望の峠として象徴化されている。
朝鮮の民謡には峠や山を歌ったものが非常に多い。国土の七〇%以上が山岳地帯である朝鮮にとって峠や山地は主な生活圏であり、人々はこれらと共存しながら暮らしてきた。人間の感情をアリラン峠に喩える発想の背景にはこうした自然条件や、度重なる外敵による国土蹂躙という歴史的条件が横たわっている。
アリラン峠は、悲しみの峠、別れの峠であるが、同時に新たな地への入口でもある。また、峠は人が往来する分岐点でもある。山の彼方に対する憧憬は、人々に安住の世界を思い描かせる。火田民たちや尹天一父子が夢見る新天地は、まさにアリラン峠の彼方にある。つまり、アリラン峠の向こう側は、彼らにとって一つのオアシスなのである。慰安の場所、
25 柊柏:ヒマと椿、いずれも女性の髪油製造に用いる。26 『金史良全集Ⅱ』、前掲書、307―308頁。 27 同書、308頁。 28 同書、308頁。
安住の場所としての新天地がアリラン峠を越えるだけで目の前に開かれているという幻想を抱きながら、彼女たちはアリランの歌を歌うのである。コプシリの「アリラン」の歌を聞いて悲しみに沈む彼女たちに向かって今度は鳳伊が歌い始める。
アリアリラン スリスリランアラリガ ナンネーエアリラン峠を越え越え行くいとしい君の 帰りには言の葉も 口に咥へ口だけ にんまり
アリアリラン スリスリランアラリガ ナンネーエアリラン峠を越え越え行くそれ 見やさんせ 見やさんせ妾を見やさんせ霜の師走に花咲いたやう妾を見やさんせ29
アリラン峠は、鳳伊にとって絶望の峠であると同時に願望の峠でもある。鳳伊はこの谷間で最後の一人になっても月童の帰りを待つことを誓っている。この歌は、新天地を見出すためアリラン峠を越えていった月童を思う鳳伊の哀切な心情をよく表現している。鳳伊は月童に限らない愛情を抱いている。家族を捨てても月童との愛だけは放棄できないという決心がテクストの隅々に表れている。
「太白山脈」以前の金史良小説における女性は、男性の補助以上の役割を持たなかった。つまり、それまで金史良が描いていた女性は男性が想像したもの、男性によって語らせられる受動的な存在にほかならなかった。「土城.」の先逹婦、「光の中に」の貞順、「草深し」の文素玉など、彼女らの能力や知力は男性のそれよりも劣っており、なかには自分の声を失っている人物さえいた。しかし、「太白山脈」における女性のイメージは大きく変化している。
鳳伊は「愛は肉親の情よりも強い30」と確信している。月童との恋愛関係を堂々と表明する彼女は、自由意志を持つ女性として描かれている。愛に対する果敢な表現、父親に対する正面からの反抗、また狂女である母親への傍観的態度、これが鳳伊という人物の特徴をなしている。とはいえ、彼女の一連の行動を既存の封建社会秩序に対する徹底的な反抗として捉えることはできない。月童との関係において鳳伊はいかにも順従であり、また献身的であるからだ。テクストの結末には二人の関係を明確に表現する場面がある。
29 同書、309頁。30 同書、369頁。
彼の唇は言葉を一つ一つ投げ出すやうに重々しく動いたのだった。そしてそれは一言
だった。「見苦しい!」「ああ、あなたは妾のお父を怨んでるのね、憎んでるのね」(中略)彼女は再び嗚咽し出した。「それにもう、あなたは妾までが憎くなったんだべ、要らなくなったんだべ……」「独りきりの病人の母も大事な筈ではないか!」「いいえ、あなたは嘘ば云ってるだべ……」「俺は嘘は云ひたくない。お前がどこまでもついて来るといふなら、強いていやとも
云はぬ。……ただ、俺は京へ出て、独り身軽にあばれ廻りたくなったのだ。足まとひてまとひになって貰ひたくないのだ」「まあ、月童様!」
鳳伊は驚きのあまり、目を瞠った。(中略)「ねえ、妾も連れてって、連れてってよう」と、彼女は月童の腰元に抱き付いて、激しく身慄ひするのである。「離れちゃいや、いや!31」
鳳伊の父親である成ソンダリは、尹天一を殺害した邪教信徒の一人である。だが、月童は成ソンダリに対する憎しみや尹天一の不幸に対する悲しみから鳳伊との関係を考え直すわけではない。月童にとって大事なのは、金玉均を奪い返し、政変を再び計画することである。彼は「単身京へ飛び立たう、金玉均先生を救はねばならぬ、めめしく女への愛情にほだされる時ではない32」と心に鞭打つ。これに反し、鳳伊は月童との愛に自分のすべてをかけている。「見苦しい」と冷たくあしらう月童の前で、鳳伊は「妾も連れてって」、「離れちゃいや」と哀願しながら激しく戦慄する。テクストの後半に見られる鳳伊のこうした行動は、彼女の自主的なイメージを揺り動かす。
月童が放棄しようとする愛を、鳳伊は最後まで守ろうとする。ここには、月童が「愛」という私的な感情を排除し、「革命」という公儀に生き、「国民」と化していく姿が明白に表現されている。月童は「個」(愛)を超えて国家に尽くすという「男」としての生き方を選択するのだ。この「国家」のために生きる男性と、「個」(愛)に身を捧げる女性という対比がテクストの最終場面を構造化しているのである。したがって、鳳伊の無条件的な服従には、「男」社会の価値観を追認する「女」の姿が典型的な形で立ち現われている。この場合、「女」は「国民」としての資格を自ら放棄するしかないのである。
月童と鳳伊とのこうした愛情関係から読み取れるものはいったい何であろうか。無論、封建社会末期という時代状況において、愛する人への心を堂々と表現する鳳伊の姿は、金史良小説の中では確かに特筆すべきものである。だが、いかに自主的な女性として描かれているとしても、鳳伊は結局、月童という男性の意思に左右される受動的な存在にすぎない。「太白山脈」に登場する他の女性たちもこの点においては同様である。日童兄弟が新天
31 同書、369―370頁。32 同書、370頁。
地を発見することで自分たちの運命が変わるとも言える彼女らは、「アリラン」の歌を歌いながら最後の望みを彼らに話している。男性たちに女性たちの希望を託すという構図には、作者の男性中心主義の一端が顔を覗かせている。無論、こうした書き方にはそれなりの理由がある。
近代朝鮮はある意味で男性性を奪われている。朝鮮女性たちが慰安婦、朝鮮妓生などに身を落としたことは、朝鮮の男性性までを破損し、去勢してしまうという結果をもたらした。植民地化された状況の中、朝鮮は去勢の恥辱を忍びつつ、男性性を取り戻そうとした。そのため、朝鮮の男性たちが利用したのは女性たちであった。ここで提起すべき問題は、いかに「民族」なるものと同時に「女性」なるものを想像し、再創造するかということである。この意味で「国家」(男・革命・共同体)を代表する存在である月童が、個人の愛を否定する者として登場するのはむしろ当然の成り行きである。国家(男)概念の確立があらゆる恥辱を濯ぐ唯一の方法であるとすれば、月童を含む「太白山脈」の男たちも、作者である金史良もそうした方法を放棄することはできなかったであろう。したがってテクストの結末部分には、男性を「国民化」するための動きが始動する「近代」の状況が如実に顔を覗かせていると考えられる。
「太白山脈」は、愛する女を犠牲にすることで確立される国家・民族主義的男性自我の物語である。無論この物語は、単に女(愛・個人)を棄てて出世に走ろうというような単純な意図に置かれてはいない。去勢された近代朝鮮を克服し、男性性を取り戻すため、国家優先の論理が定着したことは言うまでもない。近代朝鮮の作家たちは男性自我の物語を語り、しかるべき自己像を示しながら「国家」の主体化を描くことになるのだ。つまり、テクストが語っているのは、近代的自我が存在するとすれば、それは民族的・男性的な「国家的自我」でしかないということである。鳳伊の自主的な形象が、テクストの結末において崩壊することにもこの小説の時代的な限界が現われている。
次に、朝鮮男性がその男性性を回復するために利用したもう一つの事例を取り上げてみよう。それは、「内鮮結婚」と言われている日本人女性と朝鮮人男性との結婚である。朝鮮男性は被支配者としての去勢記憶を忘却あるいは解消するために、支配者の性を利用したのである。つまり、「内鮮結婚」を通じて自己の男性性を回復し、確認しようとしたのだ。これは、儒教的思想を基盤とする朝鮮が男根中心主義的な意識を露にした事例であり、それには女性の専有こそが男性性の獲得もしくは確認につながるという思想が浮き彫りにされている。
「内鮮結婚」は朝鮮併合という歴史的な出来事によって、本格的に社会問題として取り上げられた。「内鮮一体」が日本と朝鮮の結婚に喩えられ、李垠王世子と梨本宮方子の結婚に象徴される政略的な出来事であるとするなら、「内鮮結婚」はそうした状況の中で流通した言説的スローガンであったと言えるだろう。また「内鮮結婚」のイメージは、明治中期以降の民族と国家の隠喩、プロレタリア文学における同志愛、昭和期の国策など様々な局面に登場した。だが、朝鮮男性たちにとってもっとも重要だったのは、支配者の性を利用し、奪われた男性性を回復することであった。
本論では、こうした民族とジェンダーとの関係を梨木洞の女性たちの「アリラン」の歌を通して考察してみたいと思う。彼女らの歌う「アリラン」が「太白山脈」に及ぼす意味作用は、大きく二つの点から整理することができる。
一つは、当時の民衆の感情を効果的に反映し、歌を民族情緒へと昇華させたことである。「アリラン」の歌は、新天地を夢見る梨木洞の女性たちが共有する感情として一般化され、さらに民衆の普遍的情緒として絶対的な価値を獲得するようになった。「アリラン」の詩的情趣は「天国」への門と見なされるアリラン峠の中に閉じ込められている。そこにはまた、アリラン峠の夢が結局は男性によって実現されるというテクストのメッセージを見出すことができる。
もう一つは、朝鮮男性の男性性を最大限に強調し、植民地期の朝鮮を「女」として表象する当時の支配的言説に向かって正面から反論を提起したことである。月童、日童といった男たちは個人的な愛よりも国家次元の革命を重要と考えている。つまり、新たな国家を建設するため、男たちは個的な空間を放棄しようとするのだ。こうした男たちに女たちは献身的に服従し、自分の運命を捧げようとする。ここには、国家・民族共同体を強化することによって、自我を確立しようとする近代朝鮮の男性像が如実に表現されている。
これらの点において、梨木洞の女性たちが「アリラン」を歌う場面は、単なる物語的なエピソードではなく、物語全体の意味構造を支える重要な要素であると思われる。
おわりに
「太白山脈」は、夢の新天地にたどり着いた二〇〇名の火田民たちが尹天一を取り囲み、昇る朝の太陽を迎える場面で終わる。その時得甫老人は命のように大事にしてきた族譜を一枚一枚ちぎっては空高く飛ばす。「新しい生命、新しい後裔を作るべき一人の祖先となり得ることを悟った33」得甫老人。新天地の周辺の山々と峰を指しながら「この峰は、わし等一同の見果てぬ夢でありしアリラン峠と呼ぶがいい34」と言い、静座したまま息を引き取る尹天一。ここで、族譜をちぎる得甫老人の行動は、新しい後裔を作り出そうとする脱民族的な理想を暗示しているかのように見える。だが、その峰の名を「アリラン峠」と呼ぶことを提案する尹天一の声によって、理想郷は再び民族共同体の枠内に吸収されてしまう。異民族を排除し自民族だけの世界を築こうとする尹天一には、近代化がもたらした民族という枠を打破ることは不可能なのである。つまり、尹天一の理想郷建設も結局は権力構造の完全なる破壊という目標を達成することができなかったと言えるであろう。
「アリラン峠」は自然の境界だけではなく国家の境界を表わす言葉として理解することができる。国境としての「アリラン峠」は国家形成のための重要な役割を演じているのだ。国境が、既に達成されている政治的統一性をさらに強化する役を果たしてきたことは確かであろう。国境は国家形成の原理ではなく、国家統一を確保するための物質的、精神的なシンボルとなっているのである。
尹天一は「新しい民衆」による新天地を希求する。しかし、「新しい民衆」は民族という枠を脱することができない。そもそも「新しい民衆」とは、イデオロギーの支配や束縛から逃れた民衆という幻想を提供するものにすぎない。しかし、民族や国民の同一性をそれが想像的な機制によるものであるとして否定することはできない。想像的な機制によるものであるからこそ、民族や国民は疑いようのない社会的現実として存在するのである。民
33『金史良全集Ⅱ』、前掲書、377頁。34 同書、377―378頁。
族共同体の脱構築が民族の解体でないのは、こうした想像的な機制を厳密に分析し、そのあり方を追究することによって、再び別の形態の共同体を作り出すことができるからである。既存の機制は常に自らを脱構築し続けるのである。
この意味で、「新しい民衆」は理論的には可能であっても、現実的には成立不可能である。「太白山脈」の中でも「新しい民衆」の成立は不可能であったが、そうした不可能性の可能性を追求しようとした点において、そこにはそれなりの意義があったと思われる。
「太白山脈」は転換期の朝鮮を背景とし、歴史小説のジャンル的特徴を充分に生かしながら創作された長篇小説である。民族共同体・民族国家に対する追求意識は、尹天一父子が「アリラン峠」という理想郷を求める過程に鮮やかに表出している。
「太白山脈」を連載するにあたり、『国民文学』の編集者であった金鍾漢は編集後記で、「新しき朝鮮の夜明け前を、影と光で織りなす豪華な絵巻は、沈思黙考のはてになっただけに、金史良氏自身にとっても画期的な発砲となるだらう35」と書いている。
金鍾漢の言う「影と光」とは、「アリラン」の反理想郷と理想郷それぞれの性格を示唆する比喩表現であると思われる。また、この小説にはどうにもならない現実的な状況を徹底的に突き詰めていくことで、逆にその対極へと転じ、そこに解放の手段を模索しようとする意志を認めることができる。「太白山脈」はまさに、想像力の限りをつくし「沈思黙考のはてになった」「画期的な発砲」だったのである。
安宇植の「現実の状況を反対物に転化すべく、限界状況においてなされた彼のぎりぎりの抵抗の所産36」という指摘も、こうした理解に基づくものであろう。「太白山脈」以前の小説が理想社会への憧れを暗示的に描いたものであるとするなら、「太白山脈」はそうした志向を直接的に前景化した作品であったと言えるであろう。
参考文献
(1)金史良作品テクスト『金史良全集Ⅰ』、河出書房新社、1973 年『金史良全集Ⅱ』、河出書房新社、1973 年『金史良全集Ⅲ』、河出書房新社、1973 年『金史良全集Ⅳ』、河出書房新社、1973 年『光の中に―金史良作品集』、講談社、1999 年『金史良作品集』、知識古典千行社、2008 年『金史良作品と研究』、図書出版亦楽、2008 年
(2)金史良に関する参考文献安宇植『金史良―その抵抗の生涯』、岩波新書、1972 年安宇植『評伝金史良』、草風館、1983 年磯貝治良『始原の光―在日朝鮮人文学論』、創樹社、1979 年川村湊「金史良と張赫宙」『近代日本と植民地6―抵抗と屈従』、岩波書店、1993 年
35 安宇植、前掲書、『金史良―その抵抗の生涯』、136頁。36 同書、137頁。
川村湊『生まれたらそこがふるさと―在日朝鮮人文学論』、平凡社、1999 年金在勇他『親日文学の内的論理』、図書出版亦楽、2003 年金允植『韓日文学関連様相』、一志社、1974 年金允植『韓国近代文学思想史』、ハンギル社、1984 年鄭百秀『コロニアリズムの超克』、草風館、2007 年南富鎮『近代文学の朝鮮体験』、勉誠出版、2001 年南富鎮『文学の植民地主義―近代朝鮮の風景と記憶』、世界思想社、2005 年林浩治『在日朝鮮人日本語文学論』、新幹社、1991 年林鍾国/大村益夫訳『親日文学論』、高麗書林、1976 年林鍾国編『親日論説選集』、実践文学社、1987 年
(3)その他姜在彦『姜在彦著作選第3巻―朝鮮の開化思想』、明石書店、1996 年姜在彦『歴史物語―朝鮮半島』、朝日新聞出版、2006 年金甲哲他『南北韓体制の強固化と対決』、ソファ出版、1996 年金達寿『わがアリランの歌』、中央公論社、1977 年金智栄・山川力『「日韓合併」とアリラン』、北海道新聞社、1992 年金煉甲『アリラン』、現代文化社、1986 年朴敏一『韓国アリラン文学の研究』、江原大学校出版部、1989 年宮塚利雄『アリランの誕生』、創知社、1995 年李御寧『韓国人の手、韓国人の心』、デザインハウス、1994 年渡邊一民『〈他者〉としての朝鮮』、岩波書店、2003 年尹健次『朝鮮近代教育の思想と運動』、東京大学出版社、1982 年
No comments:
Post a Comment