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Thursday, February 9, 2012

naked comfort woman By half moon castle

http://www.han.org/a/half-moon/hm092.html

はだかの「慰安婦」メーリングリスト[aml 31398] 2002年12月21日

半月城です。  先日(13日)、テレビで「元従軍慰安婦、一枚のヌード写真が語る重い歴史」と題する番組が「筑紫哲也 NEWS23」で放送されました。その衝撃的な写真をめぐって、フリーライターの西野留美子さんが内容の濃い話を語っていましたので、それを補足して紹介します。  アメリカの公文書館に戦時中の資料として「中国軍によって捕虜にされた日本の女性」と称される一枚の写真が保管されました。えっ?女性が捕虜に?と思われるかもしれません。 おまけに捕虜のひとりはおなかの大きい妊婦であるだけに、彼女たちが捕虜だなんてにわかには信じがたい話です。それだけに、写真に写っている妊婦のしんどそうな姿を一度見たら誰でもその写真をけっして忘れることはできないでしょう。  実は、捕虜の妊婦とは朝鮮人「慰安婦」で、公文書館の別な資料に朴永心と記録されました。するとさらに新たな疑問がわきます。日本軍「慰安所」では性病予防をかねて利用者の兵士ひとりひとりに「突撃一番」とよばれる男性用避妊具を渡していたので、それが機能するかぎり「慰安婦」が妊娠するとは考えにくいところです。また、たとえまちがって妊娠したとしても「慰安婦」はすぐ堕胎させられるか、お払い箱になるのが通例なので、臨月近い「慰安婦」の存在は不可解です。  この疑問にたいするヒントは写真の撮影場所にありました。そこはミャンマー(ビルマ)に近い中国の山岳地帯で雲南省の拉孟(らもう、通称・松山)とよばれるところでした。  拉孟は中国抗日軍へ連合軍から物資補給されるビルマルート、いわゆる援蒋ルートの拠点にあたり、中国軍とのあいだで熾烈な戦闘が展開されました。日本軍は日に日に敗色が濃くなりやがて玉砕するのですが、当時のようすを西野さんはかろうじて生きのびた兵士の証言からこう書きました。       --------------------  戦況は不利の一途を辿り、やがて本土陣地も危険になり、早見たちは山崎台に後退していく。戦死者が続出した。ひとつの陣地の兵力はせいぜい多くて15,6名だった。彼が積山陣地に着いたとき、わずか12名になっていた。  連日の雨で、壕のなかは膝までぬかる溝川となっていたが、壕から頭すら出すことができなかった。用を足す場合も、迫撃砲の弾が入っていた空缶を使った。迎え撃ちたくともすでに弾丸はすべて切れていた。  制空権はすでに奪われ、後方からの食糧輸送は断たれていた。わずかな食糧を空缶に入れ、ろうそくの火でトロトロ煮て食べた。しまいにはジャングル野菜と呼んだ野草を食べて痩せこけた体を保った。空腹で疲労は極致に達していた(注1)。       --------------------  日本軍は戦況がどんなに不利になっても兵士に投降を許さなかったので、残された道は自滅的な突撃、すなわち玉砕しかありませんでした。番組に出演した朴永心さんは「日本兵もかわいそう、日本へ帰れば両親、妻子、兄弟もいるのに...」と哀れんでいましたが、愚かものが指導する侵略戦争は民衆の不幸を倍にしました。その最大の犠牲者が「慰安婦」なのですが、その「慰安婦」にすら「かわいそう」と同情される存在が皇軍兵士でした。 「慰安婦」はそうした心根で兵士たちと壕のなかで一緒に暮らし、炊事なども手伝い、運命を共にしました。「慰安婦」が連合軍により捕虜扱いされた理由はここにあります。  さて、先ほどの妊婦の写真ですが、西野さんはこれに10年以上もこだわり続けました。兵士などの証言から彼女の源氏名が「若春」であることもわかりました。そして今年になって、新たな数枚の写真を拉孟の近くの騰越で入手しました。それがテレビで取りあげられた問題のヌード写真です。  それらの写真は雑誌『プレイボーイ』顔負けの構図で「慰安婦」の全身ヌードや、ベッドで兵士と裸でたわむれる写真などでした。これらは、写真館を日本軍によって接収され「慰安所」にされてしまった熊氏により撮影されたものでした。  南京大虐殺(1937)以来、性欲旺盛な兵士により多発した強姦を減らすため、日本軍は各地に「慰安所」を設けました。松山でも部隊長の戦記「若い兵の為に考えてやらなければならぬのが慰安所である」との記述どおりに「慰安所」がつくられましたが、そのうちのひとつはいまでも建物だけが現存します。  朴永心ハルモニ(おばあさん)は、17歳の時、巡査に「いい仕事があるから」とだまされ、ビルマを経由して拉孟へ連れてこられました。そのときのことを朴永心さんは「なんでこんな所に...涙が止まらなかった...」と語っていましたが、今の高校生くらいの歳で皇軍兵士の「共同便所」がわりに奉仕させられた生き地獄さながらの日々は、筆舌につくしがたいものがあったようでした。  軍刀で斬りつけられた跡が今でも残っているハルモニの首筋をテレビカメラがうつしていましたが、性奴隷として半死半生の生活を余儀なくされたことが容易にうかがえます。  幸か不幸か、ハルモニのおなかの子どもは死産でした。子宮も摘出したので、ハルモニは二度と子どもを産むことはできませんでした。「慰安婦」生活は身も心も、そして人生もズタズタにしてしまったようでした。  さて、朴永心さんがヌード写真のモデルであるとの証言を得た西野さんは、どうしてもそれを本人から確かめるたい一心で北朝鮮に飛びました。ピョンヤンのホテルのロビーには公文書館の原画を引き伸ばした写真が掲げられていますが、そのメインである朴永心さんはピョンヤン近くの南浦市にいまでも健在です。  朴ハルモニに会った西野さんは、ヌード写真を見せようか見せまいか、さんざん迷いました。もし、写真の主が彼女とわかれば、朴さんのつらい過去をことさらえぐることになります。意を決して西野さんは写真をみせました。「この写真、誰だかわかりますか?」「いいや...私はおばあちゃんだし...」「ハルモニの若いときの写真ですか?」「そうですよ...」(涙)「もうやめましょう」  ハルモニは絶句した後、しきりに「死にたい」ともらしていたそうです。涙に暮れたつらい「慰安婦」時代の古傷を思い出したのでしょう。  ハルモニのような「慰安婦」のひとりが、もし、自分の母親だとしたら...そう思うと私はいたたまれない気持ちになります。私には朴永心さんが経験した地獄はけっして他人事ではありません。そのため、とめどなく涙を流すハルモニの姿を私はとうてい正視することができませんでした。  悲惨な青春しかなかったハルモニに、せめてもの償いやおわびがなされれば、すこしはハルモニも心安らぐのでしょうが、それは81歳のハルモニが存命中に何とかしてあげたいものです。  そうした過去を清算するはずの日朝交渉は、拉致被害者家族の帰国問題ですっかり暗礁に乗りあげてしまいましたが、交渉はハルモニが少しは償われるような形で解決すべきです。(注1)西野留美子『従軍慰安婦と15年戦争』明石書店,1993  (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

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