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奴婢(ノビ、ぬひ)は、高麗、朝鮮における奴隷階級である。
高麗と朝鮮は奴隷制国家であり、それは19世紀末まで奴隷制を堅持したが、16世紀末辺りから徐々に崩壊して行っていた様である。高麗時代の仏寺も奴婢を大量に所有し、田地を耕して潤っていた。
奴婢には大きく、
官奴婢 国の所有物
私奴婢 個人の所有物
が居る。
官奴婢は1801年頃崩壊し、私奴婢は甲午改革(1894年)まで残った。それらは、地主や両班の小作人や使用人として組み込まれており、制度としては消滅したものの事実上残っていた。
また、その居住形態で3つに分ける事が出来る。
率居奴婢 主人の家に住み、主に雑用などをこなす。
外居奴婢 主人の家の外に住み、主に国や主人の土地の土地を耕作する。一種の農奴。
独立奴婢 身分上は奴婢であるが、名目上の主人を持つが、経済的には完全に独立した奴婢。こうした奴婢は自ら奴婢を持つことができ地主になっている事もあった。
実は奴婢制度崩壊の最初の要因は、秀吉の朝鮮出兵と清の二度の出兵である。これにより朝鮮の国庫は破綻し、銭を収める事で身分解放する制度を導入した。
要するに奴婢でも金さえ持っていれば常民、両班になれた。官奴の場合、徴税を行う場合もあるので農民から税金をくすねれば相当の金品がため込められたと考えられる。従って、下手な農民より奴婢の方が富んでいると言う矛盾が生じていた。
また、朝鮮が焦土戦術を取ったために、戦乱後、人口が激減し、労働力が枯渇したために奴婢を優遇しなければ為らなくなったと言う点である。ちょうどヨーロッパでペストにより人口が激減したために農奴の経済力が向上し、農奴解放につながったのと似ている状況である。
もう一つは片親が奴婢であればその子は自動的に奴婢になると言う制度の矛盾である。両班が奴婢に産ませた息子でも管理上は奴婢になる。ところが、この奴婢は両班の財産をある程度受け継いだので、地主奴婢と言うべきものが産まれ、その奴婢が奴婢を使役すると言う矛盾が生じていた訳である。常民には軍役かその代わりになる軍布の義務があったから、不都合がなければあえて金を払って身分を買い重税に苦しむ常民になるメリットは無い。従って18世紀に入ると3番目の奴婢が大幅に増えた。
常民になるぐらいであれば族譜と官位を買って一気に両班に為った方がメリットが大きいのである。
それ以外の奴婢、つまり人権を持たず主人の虐待を受けていた奴婢は、北へ南へ、山の中へ場合によっては海を越えの逃亡を図った(李氏朝鮮が鬱陵島を空島にした理由の一つに奴婢が逃げ込むからと言うのがあったとされる。)
こうして朝鮮の奴婢制度は17世紀から18世紀にかけて崩壊していったと言われている。
この奴婢逃亡、奴婢制度の事実上崩壊によって朝鮮宮廷も方向転換せざる終えず、
1801年に内侍奴婢を廃止した。事実上の官奴婢制度の廃止である。これによって奴婢から解放された数は6万6067人とされる。結構な数である。
しかし私奴婢はそのまま残った。しかし奴婢制度はそのまま崩壊を続け、1894年の甲午改革により奴婢制度は廃止される。それに対する強い反対は無かったようである。
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