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「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(3)
東アジア(歴史) | author : くっくり | 2009.09.28 Monday
イザベラ・バード著「朝鮮紀行—英国婦人の見た李朝末期」(時岡敬子訳/講談社学術文庫)から、19世紀末の朝鮮に関する興味深い記述を引用でお届けするシリーズ、第3弾です。
※過去記事
8/9付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)
9/13付:「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(2)
【バードが旅したルート。画像をクリックすると新規画面で拡大します】
「朝鮮紀行」の著者イザベラ・バードはイギリス人女性。1894年(明治27年)1月から1897年(明治30年)3月にかけ、4度にわたり朝鮮を旅行しました。
当時の朝鮮は開国直後でした。
1894年8月に日清戦争が勃発、翌年には下関条約により長年支那の「属国」だった朝鮮は独立します。
列強各国の思惑が入り乱れ、まさに激動の時代にあった朝鮮の貴重な記録ということになります(ちなみに日韓併合成立は1910年)。
この第3弾では、日清戦争や朝鮮王室にまつわる記述をメインにお送りします。政治色が強く、やや重たい感じですが、ついてきて下さいね(^^ゞ
バードが最初に朝鮮入りした1894年初め頃、すでに東学党(主体は農民)は動き始めていました。本格的な内乱となったのは春で、6月、清が朝鮮側の要請により軍を派遣。それを見た日本も軍を派遣します。
戦争が迫り来る中、バードはイギリス副領事の忠告によって済物浦〈チエムルポ〉(ソウルの海港。漢江〈ハンガン〉の河口にある)をあとにせざるをえなくなります。
バードは秋の旅に備えた荷物を元山〈ウオンサン〉に置いたまま日本の肥後丸に乗船、最初の寄港地である清国の芝罘〈チーフー〉(現在の山東省、煙台)に降り立ちます。
そして牛荘〈ニユーチヤン〉(現在の遼寧省、営口)を通り満州に到着、そこで二カ月過ごします。満州については「同じ清国でも漢族の住む地域と異なった点がいろいろあって興味深かった」と記しています。
また、この時代からすでに満州(当時ロシア領)には約三万世帯の朝鮮人が暮らしていて、バードは「その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である」と述べています。
満州の後は奉天、長崎、ウラジオストクでの記述を経て、その後いよいよ王室——李氏朝鮮の第26代王である高宗、高宗の王妃である閔妃(韓国では明成皇后と呼ぶ)、高宗の父である大院君を中心とした——の記述に入ります。
閔妃殺害事件(乙未事変)のくだりでは日本批判がかなり多くなっています。バードは閔妃に何度も謁見し好感を抱いていたため、それが大きく影響したものと思われます。
とはいうものの、バードの記述には閔妃を批判した部分、日本を擁護した部分も少なからずあります。
「朝鮮紀行」イギリス人女性が見た19世紀末の朝鮮(1)でも紹介した通り、そもそもバードは日本による朝鮮の改革そのものは大変評価しているのです。
その改革をことごとく潰したのが、他ならぬ閔妃でした。
閔妃殺害事件の経緯をざっと振り返りますと——
閔妃は自分の一族の政権登用を乱発し、大勢の大院君派を国政から追放、流刑あるいは処刑にするなど強権を振るっていました。
また、宗主国の清を後ろ盾とし朝鮮の改革を嫌っていた事大党を重用したことにより、政治改革はことごとく閔妃によって潰されてしまっていました。
やがて閔妃は親露に傾いていったため、それに不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国にいっそう警戒されることになります。
このような情勢の中、1895年(明治28年)10月8日、大院君を中心とした開化派武装組織によって、景福宮にて閔妃は暗殺されました。
この時、日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられました。日本は国際的な非難を恐れ、三浦らを召還し裁判にかけましたが、首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり、釈放。
朝鮮政府はこれとは別に李周会、朴銑、尹錫禹の3人とその家族を、三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑しています。
さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗(閔妃の夫)は、露館播遷(ろかんはせん。1896年2月11日から約1年間、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政をとったことをいう)の後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)ら6名の処刑を勅命で命じています。
が、事件の全容は未だ明らかになっておらず、現在も論争が絶えません。ただ、日本政府による計画的な策謀でなかったことは判明しています。
「朝鮮紀行」の閔妃殺害事件に関する記述が、学術的に価値があるのかどうか私は知りません。ただ、少なくとも当時の雰囲気が読み取れるという意味で、それなりに貴重な資料ではないかと思います。
以下、イザベラ・バード著「朝鮮紀行」の引用です。
〈 〉内はフリガナ、[ ]内は訳註です。
フリガナについては固有名詞以外の判りやすいもの(「流暢」「狡猾」など)は省略しました。
※なお、この第3弾では「訓練隊」という名称が何度も登場しますが、これは日本人が教官の朝鮮人部隊です。
「朝鮮紀行」引用ここから_________________________
●東学〈トンハク〉党は朝鮮の官軍を何度か打ち負かしており、朝鮮国王は逡巡を重ねたすえ、清に援軍を要請した。清はこれに対して即座に応じ、一八九四年六月七日、朝鮮へ自軍を送る旨、日本に通告した。両国とも天津条約により、当時のような状況下では派兵できる権利を同等に有していたのである。同日、日本は清に対してみずからも進軍の意志があることを明らかにした。清国軍葉〈ヨー〉[志超〈チーチャオ〉]提督は三〇〇〇の兵を率いて牙山〈アサン〉に上陸し、また日本軍は済物浦〈チエムルポ〉とソウルを武力で占領した。
急送外交文書では清は二度朝鮮を「わが国の属国」と呼んでおり、これに対して日本は、大日本帝国政府は朝鮮を清の属国と認めたことは一度としてないと答えている。(p.265)
●七月二五日、輸送船高陞〈コウシン〉号がイギリス国旗を掲げて一二〇〇名の清国兵を運ぶ途中、日本の巡洋艦浪速〈なにわ〉に撃沈されて多くの人命が失われ(引用者注:当初イギリスで対日批判が起こったが、真相が判明するとともに日本側の正当性が認められた)、その四日後には日本軍が牙山の戦いで清国軍を撃退した。七月三〇日の時点ですでに朝鮮は清との協定を破棄すると宣告したが、これはすなわち自国に対する清国の宗主権をもはや認めないと言っているのと同じである。八月一日、宣戦が布告された。これら一連のできごとの結末については、いや、できごと自体についてすら、わたしたちはほとんどなにも知らず、七月上旬まで奉天は「悠々自適の道」を歩んでいた。(p.266)
●八月一日に宣戦が布告されると、事態は急速に悪化した。日本が制海権を完全に掌握していたため、清国軍は満州を通って進軍せざるをえず、吉林、斉斉哈爾〈チチハル〉その他の北部都市から集めた、訓練を受けていない満州族兵士が一日一〇〇〇人の割りで奉天を通過していった。満州族兵士は南進する途中、手当たり次第にものを略奪し、料金も払わずに宿屋を勝手に占領し、宿の主人をなぐり、キリスト教へのというより西洋文明への反感からキリスト教聖堂を荒らした。外国人に対する憎悪は奉天から四〇マイル離れた遼陽〈リヤオアン〉で最高潮に達し、満州族兵士は聖堂を破壊したあとスコットランド人宣教師のワイリー氏を撲殺し、「洋鬼子」と親しいからという理由で行政長官に危害を加えた。(p.267-269)
●奉天に向かうすべての道路は(引用者注:清国軍の)兵士でごった返した。行進とはほど遠いだらだらした歩き方で、一〇人ごとに絹地の大きな旗を掲げているが、近代的な武器を装備している兵はごくわずかしかいない。ライフル銃一丁持たない屈強な体つきの連隊すらある! ((中略))正確無比の村田式ライフル銃を持っている日本軍を相手に、このような装備の兵を何千人も送りだすのは殺人以外のなにものでもない。兵士もそれを知っていた。だからこそ西洋人を見ると「こいつら洋鬼子のせいでおれたちは撃たれにいくんだ」ということばが出てくるのであり、総督の宮殿に大群で押しかけて護衛から撃つぞと威嚇されたとき、「どうせ朝鮮で撃たれるのだから、ここで撃たれてもかまわない」と言い返したのである。(p.269-270)
●戦時中であり、船が戦争にとられているうえ状況も不穏のため外洋交通は徹底的に乱れていた。大海戦が勃発するといううわさが毎日のように飛ぶなかで、何週間かかけてウラジオストク行きの汽船を探したが、ようやく見つかったのは、乗客ひとりだけならとしぶしぶ応じてくれたドイツの小型船しかなかった。そして悪天候にもまれた船で快適とはほど遠い五日間をすごしたのち、ちょうど菊が満開の季節を迎え、真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、わたしはそれまでとはがらりと変わった気持ちのいい一日を味わった(引用者注:清国の芝罘から満州へ向かうのにバードが利用したこのウラジオストク行きの船は、長崎にも立ち寄るコースだった)。照明もあり、清潔で、完璧なまでに治安もよく、道路には穴ぼこもごみの山もない——この矮人〈こびと〉と人形のこぎれいな町は、清国のほとんどの都市ででも外国人居留地の外に出さえすれば見られる、吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは、胸のすく対照を示していた。
清国人は支配民族の一員たる雰囲気を漂わせて長崎の通りを歩きまわっていた。彼らに要求される唯一の手続きは在留登録で、それさえしてあれば、憂さなどとはまったく縁のないようすで商売にいそしみ、大事な買弁〈ばいべん〉[売買仲介人]の呼び出しを行っている。清国では日本領事の要請ですべての日本人が国外へ逃げだし、人身・物品の双方に危害を受け、はぐれた「矮人〈ウオジエン〉」が町で見つかろうものならまちがいなく殺されているはずなのに、である。(p.274-275)
●(ウラジオストクの港で)しばらくのあいだことばもちんぷんかんぷんななかで何隻ものサンパンを渡りあるいたすえ、わたしはよく笑い大声で話す、身なりの汚ない朝鮮人の若者多数に陸まで運んでもらった。この若者たちはわたしの所持品をめぐって仲間どうしかなり強烈なブローをかわし合ったあと、わたしの荷物を肩にかついでばらばらな方向へ逃げてしまった。わたしはけんかのあいだ必死で握っていたカメラの三脚とともに残され、途方に暮れた。そう遠くないところにドロスキー[ロシアで使われる屋根なし軽装四輪馬車]があり、四、五人の朝鮮人がわたしを捕まえて声高な朝鮮語で話しかけながら、それぞれ自分の馬車のほうへ引っ張っていこうとした。そこへコサックの警官が来て彼らをどやしつけ、いさめてくれた。波止場には何百人もの朝鮮人がいて、騒々しいのと強引な点をのぞけば、済物浦〈チエムルポ〉に上陸したようなものである。(p.277-278)
●朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが(ロシアの)沿岸州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。(p.307)
●シーズン最後の日本の汽船でウラジオストクを発ったわたしは、元山〈ウオンサン〉で二日すごした。元山はほとんど変わっておらず、変化といえば、町並みのむこうの山が雪をかぶっていることと、朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと、商取り引きに活気があること、木造の哨舎〈しょうしゃ〉に日本人の番兵が立って平穏な通りを警備していることくらいだった。戦時中は一万二〇〇〇人の日本兵が元山経由で平壌に向かったのである。つぎにわたしが上陸した釜山には二〇〇人の日本兵がいて、新しい浄水所ができ、丘の上にある軍墓地に立つおびただしい墓碑は、大量の日本兵が死んだことを示していた。(p.319)
●その前年(一八九四年)の冬の不況は終わっていた。日本は支配的立場にあった。この首都に大守備隊を置き、内閣の要人数名が国の名代として派遣され、日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。改善といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれていた。表向き王権を取りもどした国王はそのような状況を容認し、王妃(引用者注:閔妃のこと)は日本人に対して陰謀をいだいているとうわさされたが、井上[馨]伯爵が日本公使を務めており、伯爵の断固とした態度と臨機応変の才のおかげで表面上は万事円滑に運んでいた。(p.322)
●(前項のつづき)一八九五年一月八日、わたしは朝鮮の歴史の広く影響を及ぼしかねない、異例の式典を目撃した。朝鮮に独立というプレゼントを贈った日本は、清への従属関係を正式かつ公に破棄せよと朝鮮国王に迫っていた。官僚腐敗という積年の弊害を一掃した彼らは国王に対し、《土地の神の祭壇》[社稷壇〈しゃしょくだん〉]前においてその破棄宣言を準正式に執り行って朝鮮の独立を宣言し、さらに提案された国政改革を行うと宗廟前において誓えと要求したのである。小事を誇張して考える傾向のある国王は自分にとってきわめて嫌悪を感じさせるこの警告をしばらく延期しており、式典の前夜ですら、代々守ってきた道をはずすことはならぬと祖先の霊から厳命される夢を見て、式典執行におびえていた。
しかし井上伯爵の気迫は祖先の霊を凌駕し、北漢山〈プツカンサン〉のふもとの鬱蒼〈うっそう〉とした松林にある、朝鮮で最も聖なる祭壇において、王族と政府高官列席のもとに誓告式は執り行われた。(p.322)
●国王の宗廟誓告文
((中略))今後わが国は他のいかなる国にも依存せず、繁栄に向けて大きく歩を踏み出し、国民の幸福を築いて独立の基礎を固めるものとする。その途において、旧套〈きゅうとう〉に陥らず、また安直もしくは怠惰な手段を用いることなく、ただ現状を注視し、国政を改め、積年の悪弊を取りのぞいて、わが祖先の偉大なる計画を実行できんことを。((後略))(p.326)
●国政改革のための洪範一四カ条
一、清国に依存する考えをことごとく断ち、独立のための確固たる基礎を築く。
二、王室典範を制定し、王族の継承順位と序列を明らかにする。
三、国王は正殿において事を見、みずからら大臣に諮〈はか〉って国務を裁決する。王妃ならびに王族は干渉することを許されない。
四、王室の事務と国政とは切り離し、混同してはならない。
五、内閣[議政府]および各省庁の職務と権限は明らかに定義されねばならない。
六、人民による税の支払いは法で定めるものとする。税の項目をみだりに追加し、過剰に徴収してはならない。
七、地租の査定と徴収および経費の支出は、大蔵省の管理のもとに置くものとする。
八、王室費は率先して削減し、各省庁ならびに地方官吏の規範をなすものとする。
九、王室費および各省庁の費用は毎年度予算を組み、財政管理の基礎を確立するものとする。
一〇、地方官制度の改革を行い、地方官吏の職務を正しく区分せねばならない。
一一、国内の優秀な若者を外国に派遣し、海外の学術、産業を学ばせるものとする。
一二、将官を養成し、徴兵を行って、軍制度の基礎を確立する。
一三、 民法および刑法を厳明に制定せねばならない。みだりに投獄、懲罰を行わず、なにびとにおいても生命および財産を保全するものとする。
一四、人は家柄素性に関わりなく雇用されるものとし、官吏の人材を求めるに際しては首都と地方とを区別せず広く登用するものとする。(p.326-327)
●(前項のつづき)現在朝鮮の改革は日本の保護下では行われていないとはいえ、進行中のものはほとんどの段階においても日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない。
日日新聞は井上伯が朝鮮に関し「王室と国しかわたしの眼中にはなかった」と述べたと報じている。一八九五年当初においてはこのような結論が正当だったのであり*1、おなじ結論に達したわたしは井上伯のように申し分のない権威に擁護されていることをうれしく思う。(p.327-328)
*1 引用者注:残念ながら朝鮮の国政改革は「洪範一四カ条」の通りには進まず、この後も延々と宮廷内の闘争が続く。特に閔妃は国政よりも王宮経営、それも自分と親族の権力や利権を守ることに必死な上に、相変わらずの浪費家であり、日本側が苦労して朝鮮兵や文官たちの給料を調達したり国家予算のほぼ全額を貸与したりという中に、幾度も宴会を開いていた。閔妃が支援を請うたロシア公使ですら、「若し君主が内閣の権力を奪取り、余り自身に之を振過ぎるときは、国家滅亡に至るべし」と述べている。詳細はこちらを参照。
●(バードが王妃に最初に謁見した際)王妃は皇太子の健康についてたえず気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々さらされていた。頻繁に呪術師を呼んだり、仏教寺院への寄付を増やしつづけたりといった王妃の節操を欠いた行為のなかには、そこに起因したものもあったにちがいない。謁見中の大部分を母と息子は手をとり合ってすわっていた。(p.332)
●その後三週間にさらにわたしは謁見をたまわった。二度目は前回と同じくアンダーウッド夫人(引用者注:王妃の侍医であり懇意な友人でもあるアメリカ人医療宣教師)とごいっしょし、三度目は正式なレセプションで、四度目は厳密に内々の面会で一時間を超えた。どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力がなみはずれてつよいことや、国王に対してもつよい影響力を行使していること、などなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君〈テウオングン〉を主とする敵対者たちはみな、政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いをつのらせている。王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と鋭い洞察力と知恵のすべてを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失墜させるべく闘っていた。多くの命を粛清してきたとはいえ、そのために朝鮮の伝統と慣習を破るということはなく、また粛清の口実として、国王の即位直後に大院君が王妃の実弟宅に時限爆弾をひそませた美しい箱を送り、王妃の母、弟、甥をはじめ数名の人間を殺害したという事実がある。その事件以来大院君は王妃自身の命もねらっており、ふたりのあいだの確執は白熱の一途をたどっていた。(p.334-335)
●(前項のつづき)王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。わたしは国王が心底ではその知力と相応に愛国的な君主であると信じている。国王は国政改革にもむしろ乗り気で、申しだされる提案のほとんどを承認してきている。しかし不幸にも、また国にとってはさらに不幸にも、その声明が国の法となる立場の人間にしては、彼はあまりにも人の言いなりになりすぎ、気骨と目的意識に欠けていた。最良の改革案なのに国王の意志が薄弱なために頓挫してしまったものは多い。絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシアチブのもとに行われないかぎり成功は望むべくもない。(p.335)
●(前項のつづき)国王は四三歳で、王妃はそれよりすこし年上だった。国王がまだ未成年で例にもれず中国式の教育を受けているうちは、国王の父であり、ある朝鮮人作家の評するところによれば「鉄のはらわたと石の心」を持つ大院君が、摂政として一〇年間きわめて精力的に国を統治した。一八六六年には二〇〇〇人の朝鮮人カトリック教徒を虐殺している。辣腕〈らつわん〉であり、強欲であり、悪を省みない大院君の足跡は常に血に染まっていた。彼はみずからの息子すら亡き者にしている。摂政時代が終わってから王妃暗殺まで、朝鮮政治史はおもに王妃およびその一族と大院君の激しい確執の歴史であった。わたしは宮殿で大院君に拝謁し、その表情から感じられる精気、その鋭い眼光、そして高齢であるにもかかわらず力づよいその所作に感銘を受けた。(p.335-336)
●日本人はかつてイギリスがエジプトに対して行ったように、朝鮮の国政を改革するのが自分たちの目的であると主張した。たしかに自由裁量が許されていたなら、彼らはそれをなし遂げたはずだとわたしは思う。とはいえ、改革事業は予想をはるかに越えて難航し、井上伯がほぼにっちもさっちもいかない状態にあることは明らかだった。伯爵は「使える道具がなにもない」と考え、それをつくれたらという希望のもとに、上流階級の子弟多数を二年の予定で日本に留学させた。最初の一年は勉学に努め、つぎの一年は官庁で実務の正確さと「道義の基本」を学ばせるのがねらいである。(p.342-343)
●(前項のつづき)日本のさまざまな要求は当初は国王の譲歩を得ながらも、受け入れなかった。しかし一八九四年一二月、ついに井上伯はそのうち五件の要求を即座に実行するという正式の誓約を手に入れた。
(1)一八八四年[甲申政変]の陰謀者全員を赦免する。(2)大院君および閔妃は今後国務に干渉しない。(3)王家の親戚はいかなる官職にも就かない。(4)宦官と「側室」の数を最小限に減らす。(5)身分の区別——貴族と平民——を廃止する。
以上のうちいくつかについては官報で勅命が発され、また「側室」ともども多くの宦官が荷物をまとめて夜間ひっそりと宮殿をあとにした。しかし広大な住まいにいた国王は「側室」や宦官がいないとどうにもさびしく、翌朝にはすぐさまもどらないと厳しく罰するという命令を出した。そしてその命令は即刻守られた!(p.343)
●(前項のつづき)朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。一般大衆は、ほんとうの意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈〈ばっこ〉していた。
このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階級が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じてのならわしであり、どの職位も売買の対象となっていた。(p.343-344)
●外国人の意のままになる国王には忠誠を誓うことはできないと謹みをもって訴え、あらたな王を規定していた東学党は、一月はじめに壊滅しており、その首領の首がある律儀な郡守によりソウルへ送られた。その首が《西小門》外の《北京街道》にあるにぎやかな市場にさらされているのをわたしは見た。首は三本の棒をキャンプのやかんかけのようにぞんざいに組み合わせたものに、もうひとつの首とともにつり下げられていた。少し離れたところにそれまでさらされていたまたべつのふたつの首は、棒からはずれて土ぼこりのなかに転がり、うしろ側を大きく犬にかじられていた。その顔には最期の苦悶の表情がこわばったまま残っている。そばに転がっていたかぶらを小さな子供がふざけて刻み、首の黒ずんだ口にさしだしていた。このむごたらしい首は一週間さらされたものだった。(p.345)
●「旧秩序」は日本人顧問の圧力下で日々変化を見せており、概してその変化はよい方向をめざしたものであったとはいえ、制定ずみもしくは検討中の改革の数があまりに多いため、なにもかもが暫定的で混沌としていた。朝鮮は清と日本のあいだで「迷って」いた。清が勢いを盛り返したら「憎まれる」のではないかと、日本の提案する改革に心から同意することもできず、また日本の天下がいつまでもつづくのではないかと思えば、改革に積極的な反対もできなかったのである。(p.347)
●わたしが朝鮮を発った時点(引用者注:1895年2月)での状況はつぎのようにまとめられよう。日本は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。国王はその絶対君主権を奪われ、実質的には俸給をもらう法令の登録官となっていた。井上伯が「駐在公使」の地位にあり、政治は国王の名において一〇省庁の長官でなる内閣に司られていたが、そのなかには「駐在公使」の指名する者が数人含まれていた。(p.350)
●一八九五年一〇月、長崎に着いたわたしは朝鮮王妃暗殺のうわさを耳にし、駿河丸船上で、事態収拾のため急遽ソウルにもどる合衆国弁理公使シル氏からうわさの真偽を確認した。そして済物浦〈チエムルポ〉からソウルに直行し、ヒリアー氏の客としてイギリス公使館に滞在し波瀾〈はらん〉の二カ月を過ごした。(p.351)
●(井上伯が帰国前に国王夫妻と面談した時の様子を政府に報告した文書より。下線はバードによる)【わたしはこれからのことについてできうるかぎりの説明をして王妃の疑心を解いたあと、朝鮮独立の基盤を確固たるものにする一方で、朝鮮王室を強化するのが日本国天皇および日本政府の心からの願望であることをさらに説いた。それゆえ、いかなる王室の一員が、さらにはいかなる一般朝鮮人が王室に対して大逆行為を企てようとも、日本国政府が武力をもってしても必ずや朝鮮王室を守り、朝鮮国の安全を確保すると請け合った。このことばは国王夫妻の心を動かしたらしく、夫妻の将来に対する不安は大いに軽減したようだった。】
日本の傑出した政治家であり、信頼と敬意をもって接すべき相手だと認めていた人物からかくも率直に請け合われたのであるから、国王夫妻がその約束をあてにして当然と考えたのはむりからぬことであろうし、またそれであるからこそ、一カ月後にあの運命の夜がやってきたときもある種の油断が入り、危険の兆候が最初にあらわれても王妃は逃げだすことを考えなかったのである。(p.352)
●(以下は1895年10月8日の閔妃殺害事件について、広島地裁の判決文にそった形でのバードの記述)三浦子爵*2は大院君とのあいだに結んだ周知の取り決めをいよいよ決行に移すときが来ると、王宮の門のすぐ外にある兵舎に宿営している日本守備隊の指揮官に、訓練隊(教官が日本人の朝鮮人軍隊)を配置して大院君が王宮へ入るのを護衛し、また守備隊を召集してこれを助けるよう指令を出した。三浦はまたふたりの日本人に、友人を集めて大院君派の王子が当時住んでいた漢江〈ハンガン〉河畔の竜山〈ヨンサン〉へ行き、王子が王宮へ向かうのを警護するよう頼んだ。その際三浦は、二〇年間朝鮮を苦しめてきた悪弊が根絶できるかどうかは、今回の企ての成功いかんにかかっているのだと告げ、宮中に入ったら王妃を殺害せよとそそのかした。三浦の友人のひとりは非番だった日本人警察官に、私服を着て帯刀し、いっしょに大院君の住まいへ来るよう命じた。(p.352-353)
*2 引用者注:三浦梧楼。井上馨は事件の1カ月前に帰国し、後任が三浦だった。
●(以下はダイ将軍(アメリカ人)とサバティン氏(ロシア人)の陳述と数種の公式文書からバードが「読者の興味を引きそうな箇所」を記したもの)七日の朝、訓練隊は日本人教官とともに行進と反対行進を行い、王宮を包囲する形となって王宮内に不安を引き起こした。ダイ将軍とサバティン氏は八日未明に非常召集を受けた。このふたりは門のすきまから外をのぞき、月の光のなかで多数の日本人兵士が着剣して立っているのを見て、そこでなにをしているのかと尋ねたところ、兵士たちは左右に散り、物陰に隠れてしまった。塀のべつのところには二〇〇名を超す訓練隊が隠密の行動をとっていた。ふたりの外国人がどうすべきかを相談しているところへ、大門のほうからなにかを激しく連打する音が聞こえ、銃声がそれにつづいた。
ダイ将軍は侍衛隊(引用者注:王宮直属の軍隊でダイ将軍はその教官)を呼び集めようとしたが、襲撃者の群れは五、六発銃を乱射したあと、ふたりの外国人を跳ねとばさんばかりの勢いで国王の住まいを通りすぎ、後宮へと突進した。そのあとのできごとについてはこれまで明確な記述が一度としてなされたことがない。(p354)
●事件そのものは一時間ほどのできごとだった。皇太子は自分の母親が剣を持った日本人に追いかけられて廊下を駆け逃げるのを見た。また、暗殺団は王妃の住まいに殺到した。王女は上の階に数人の官女といるところを見つかり、髪をつかまれて切りつけられ、なぐられたあと階下へ突き落とされた。王妃が服を着て逃げだそうとしていたところをみると、宮内大臣李耕植〈イギヨンシク〉が危急を知らせたものらしい。暗殺団が部屋に入ると、宮内大臣は両手を広げてうしろにいる王妃をかばい守ろうとしたが、それは相手にだれが王妃かを教える結果となってしまった。両手を切り落とされさらに傷を負いながらも、彼は身を引きずるようにベランダから国王のもとへ行き、そこで失血死した。
暗殺団から逃げだした王妃は追いつかれてよろめき、絶命したかのように倒れた。が、ある報告書は、そこでやや回復し、溺愛する皇太子の安否を尋ねたところへ日本人が飛びかかり、繰り返し胸に剣を突き刺したとしている。(p.355-356)
●事件当夜が明けてまもなく、大院君はつぎのような二文を布告した。
第一の布告文「王宮内に卑劣な輩がおり、人心が乱れている。ゆえに大院君が政権にもどって国政改革を行い、卑劣な輩を排除し、かつての法を復活させて国王の威信を守るものとする」
第二の布告文「予は国王を補佐するため、卑劣な輩を排除し、善を成し、国を救い、平和をもたらすため王宮に入った」
王宮の門は着剣した反逆的な訓練隊が警護しており、門からは三々五々朝鮮人が出てきていた。旧侍衛隊の残兵で、制服を脱ぎすて武器を隠していたが、門を出る際にはひとりひとり身体検査を受けねばならなかった。((中略))国王の信任の厚かった者はほとんどすべてが地位から追放され、政府要職のいくつかには訓練隊上層部の指名する者が就いた。(p356-357)
●その日は各国公使が国王に謁見した。国王はひどく動揺しており、ときとしてむせび泣いた。王妃は脱出したものと信じており、自分自身の身の安全をひどく案じていた。なにしろ国王は暗殺者の一団に囲まれており、その一団のなかでもいちばん非道な存在が自分の父親(引用者注:大院君)だったのである。慣例を破って国王は各国公使の手を握り、今後さらにこのような暴動が起きないよう国王派に好意的な人々の協力をあおげないものかと頼みこんだ。国王は訓練隊に代わって日本軍が王宮警備に就いてくれることを切望していた。その日の午後、各国公使は日本大使館を訪ね、日本人が深く関わっている今回の事件について三浦子爵から事情説明を聞いた。(p.358)
●(前項のつづき)事件から三日後、国王と一般大衆が王妃はまだ生きているものと信じているなかで、残虐な暗殺行為に追い打ちをかけて王妃を貶める、詔勅なるものが官報に発表された。国王はこの詔勅に署名を迫られ、署名するくらいなら両手を切られたほうがましだと拒否したが、布告は国王の名前でなされ、宮内大臣、首相、その他六人の大臣の署名が入っている。
【詔 勅
即位して三二年になるも、朕の統治力は広きにおよんでいない。閔〈ミン〉妃はその親族を王宮に入れて要職に就け、それにより朕の良識をにぶらせ、人民を財物強要にさらして朕の政治を乱し、官爵位を売買させていたるところに盗賊をはびこらせた。かかる状況において、わが国の礎は危機に瀕している。朕は閔妃を邪悪のきわみと知りながら、一派を恐れまた無勢でもあり、これを排除し罰することができなかった。
朕は閔妃の権勢を抑止することを切に願う。昨年一二月、朕は閔妃とその一族ならびに朕の親族が二度と国務に介入しないことを宗廟の前に誓った。これにより閔妃一派が態度を改めることを願った。しかし閔妃は邪悪な行為をやめず、一派とともに愚劣な輩が朕に対して謀叛を起こすのを助け、朕の動静を察して国務大臣の引接を妨げた。さらにはわが忠実なる兵隊を解散する令を捏造して騒乱をそそのかし、いざ騒乱が起きると壬午軍乱*3のときと同じく王宮を脱出した。その行方を探しだそうと試みたが、みずからはあらわれいでず、朕は閔妃が妃という位にもとるばかりか、罪科にあまりあると確信するにいたった。このような者とともには王家祖先の栄光を継承できない。よってここに王妃の身分を剥奪し、庶民に格下げする。】(p.358)
*3 引用者注:壬午軍乱=壬午事変。1882年7月23日、大院君らの煽動を受けて、漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件。学生等無関係な日本人も殺害された。事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。詳細はWikipedia等を。
●事件の翌日早くに浮かんだ疑問は、「三浦子爵は事件に関与していたのか、いないのか」であった。この件に関して仔細に触れる必要はない。王宮での惨劇から一〇日後、日本政府は、三浦子爵、杉村書記官、岡本朝鮮軍務顧問官を召還、逮捕し、政府自体はこの凶行にまったく加担していないことをただちに証明した。以上の三名は数カ月後、他の四五名の被告とともに広島第一審裁判所で裁判にかけられたが、「いずれの被告も彼らが独自に企てた犯罪を実行したとする証拠は不充分である」という法的根拠のもとに無罪となった。この犯罪とは判決文によれば、被告のうち二名が「三浦の教唆により、王妃殺害を決意し、そのために仲間を集め(中略)*4他の十余名に対して王妃殺害の指揮をとった」ことである。(p.361)
*4 引用者注:この「中略」は原文ママ。引用者(くっくり)によるものではない。
●(前項のつづき)三浦子爵の後任大使には有能外交家の小村[寿太郎]氏が就き、そのしばらくあとに井上伯が悲運の朝鮮国王にあてた日本国天皇の弔辞をたずさえて到着した。日本にとって東洋の先進国たる地位と威信とをこれほど傷つけられた事件はなく、日本国政府には同情の余地がある。というのも事件関与を否定したところでそれは忘れられ、王妃殺害の陰謀が日本公使館で企まれたこと、銃と剣で武装して王宮襲撃に直接関わった私服の日本人のなかには朝鮮政府顧問官が数名いたこと、そのほかにも日本の守備隊はべつにして、日本公使館と関係のある日本人警察官や壮士と呼ばれる者も含めて総勢六〇名の日本人が含まれていたことが、いつまでも人々の記憶に残るからである。(p.361-362)
●外国人のあいだで宴会の催されることはなくなった。混迷はあまりに深く悲嘆はあまりに切実で、冬のソウルのささやかな浮かれ気分すら控えられた。王妃の侍医であったアンダーウッド夫人や親しい友人であったウェーベル夫人をはじめ、どの外国人女性も王妃の死を身近な存在の死として受けとめていた。王妃が政治の場で見せた東洋特有の非人道的な性質は、その死にまつわる惨劇が恐怖の戦慄を引き起こしたために忘れられた。(p.364)
●王妃暗殺からほぼ一カ月後、王妃脱出の希望もついえたころ、新内閣による政治では暗殺の状況があまりに深刻なため、各国公使たちは井上伯に、訓練隊を武装解除し、朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠するよう勧めて、事態を収拾しようと試みた。日本政府がいかに列強外交代表者から非難を受けていなかったかが、この提案からわかろうというものである。しかし井上伯は日本軍が武装して王宮を再度占拠するという方策は、国王の身の安全を確保するという目的のためとはいえ、重大な誤解を受けやすく、またきわめて深刻な紛糾を招きかねないと考え、即答を避けた。列強が日本に対してはっきりと要求しないかぎり、このような発案が考慮されるはずはなかった。電信機が待機し、しかるべき根回しが行われ、一一月七日に北部への旅行に発ったわたしは、平壌に着いたとき、諸外国公使の見守るなかで重大なクーデターが首尾よく遂行されたというニュースが待っているものと思っていた。ところが、日本は井上伯と新公使の小村氏がふたりして働きかけたにもかかわらず、王宮占拠を行わず、訓練隊は相変わらず権勢を誇り、国王は軟禁されたままだった。なかでも日本の干渉を最もつよく勧めたのはロシア公使なのであるから、日本が各国大使の提案を受け入れていれば、現在のようにロシアが朝鮮に対して圧倒的な影響力を持つような事態も避けられたのではあるまいか。たしかにロシア政府は訓練隊を武装解除させて国王を守るよう日本にはっきり要求したのである。その要求を断った日本政府が結果的にロシアに干渉を許してしまうことになるのも身から出たさびといわざるをえない。(p.364-365)
●国王の復権を主張し王妃暗殺の連係者を処罰するという解決策(引用者注:列強による解決策)はうまく運びそうだった。ところがそれは侍衛隊と、ろくでもない輩の混じる多数の朝鮮人とが企てた「愛国的陰謀」により御破算となってしまったのである。この陰謀は国王の解放と、訓練隊に代えて官軍を置くことを目的としていた。そしてそれは前途有望な謁見のあった二日後、失敗に帰すのであるが、事前に発覚したためにその結果は惨憺たるもので、要人多数を巻きこみ深刻な疑惑を生んだ。また外国人への反感を増大させ、外国人数人(アメリカ人宣教師)が事前共犯ではないとしても計画を事前に知っていたとされて、社会全般の混乱をもたらし、五週間後にわたしが朝鮮を発ったときには混乱脱出の見通しはまるでなかった。国王は以前にも増して囚人さながらだった。取り囲む者はなれなれしくまた横柄になり、暗殺の恐怖はつねにあった。外国人との交流も王宮へ入る公的な資格を持っている者以外にもはやなく、そういった人々も次第に王宮へは近づかなくなっていた。
最も緊迫しているこのようなとき、毎日新しい事件があってうわさが流れ、重大なクーデターが起きると信じられているときに、ソウルを離れて内陸旅行に出るのはとても残念だった。しかし清西部への長期旅行を控えていたわたしには、自由にできる時間がほとんどなかった。(p.366)
_________________________「朝鮮紀行」引用ここまで
皆さんすでにお気づきでしょうが、閔妃殺害事件が起こった時、バードは朝鮮にはいませんでした。
上で引用した通り、彼女は長崎にいた時に「朝鮮王妃暗殺」のうわさを耳にし、合衆国弁理公使シル氏からうわさの真偽を確認しました。
また、事件後の国王(高宗)の様子等についても直接見たわけではありません。
事件にまつわるバードの記述は、日本側の主張(首謀者とされた三浦梧楼以下が裁かれた広島地裁の判決文)、ダイ将軍(アメリカ軍を退役後、王宮を護衛する侍衛隊の教官を務めていた)およびサバティン氏(歩哨の監視役として臨時に雇われていたロシア人)の陳述と、数種の公式文書からの引用とされています。(p.353)
ただ、三浦らの公判中(事件から11日後)に朝鮮政府が実行犯として朝鮮人3人とその家族を処刑した件について、バードはなぜか一言も触れていません。また訓練隊の大隊長で、閔妃殺害事件の際、訓練隊動員の責任者だった禹範善(後に国王の勅命により処刑を命じられる)の名前も出てきません。
バードの手元にはこういった情報が来ていなかったのでしょうか?それとも触れられない事情でもあったのでしょうか?
閔妃殺害までの経緯(なぜ彼女は暗殺されなければならなかったのか?について)は、「気ままに歴史資料集」さんの資料を順を追って見ていくと分かりやすいです。特に以下の3点。
・日清戦争後の日本と朝鮮(1)
・日清戦争後の日本と朝鮮(2)
・日清戦争後の日本と朝鮮(3)
時間に余裕のある方は「日清戦争下の日本と朝鮮」も。目次からたどって下さい。
また、閔妃の評価については韓国人も含めいろんな国の人が行っています。そのまとめはこちらを。
・大日本史番外編 「 朝鮮の巻 」閔妃暗殺
ところで、「釜山でお昼を」さんの考察によれば、韓国人は日本人が以下のような神業(かみわざ)が出来たと信じている人が多いようです。
「王宮に入ることのできない身分の少人数の日本人の壮士が日本刀だけを持って、深夜に次々と堅固な門を破り、初めて入る複雑な王宮内で、鉄砲を持った多人数の護衛兵と戦闘したが全員無傷で勝利して、迷うことなく正確に王妃の部屋まで短時間で進入できて、多くの官女・使用人、後宮の妃など多くの女性の中で、見たことも無い写真もない閔妃を正確に暗闇の中に見分けて殺害した」
そう、朝鮮人も行動を共にしていたことは意図的に無視しているのです。
この韓国人の認識を何の疑いもなく垂れ流した日本のテレビ番組が、少し前にありました。
テレ朝「報道ステーション」で8月24日に放送された「“114年後の氷解”王妃殺害事件・日韓で子孫が再会」なる特集です。
私がまず引っ掛かったのは、古館キャスターやナレーションによってくり返し述べられた、「この事件が反日感情の原点にあると言われている」という言葉です。
何をおっしゃいますやら。それよりずっと前から朝鮮人が反日だったのは、バードのこの「朝鮮紀行」ひとつ読んでも明らかです。
また、なぜ日本が朝鮮半島に進出したのか、なぜ日清戦争に至ったのか、そのへんの背景の説明も全くありません。日本=侵略者というイメージを視聴者に植え付ける、いつもの印象操作です。
ところが、閔妃については「国を守ろうとロシアに接近していた」などと、めちゃ「いい人」扱い。はぁ?閔妃が国のことを思ってたって?
閔妃びいきのバードですら、閔妃が息子を溺愛しすぎて「節操を欠いた行為」(浪費)をくり返していることや、「政府要職のほぼすべてに自分の一族を就けてしまった」ことや、「政治の場で見せた東洋特有の非人道的な性質」(大院君一派など敵対勢力や改革派勢力の粛清、処刑、暗殺…)を見せていたこと等々、批判しているのに。
「報ステ」は、閔妃にとって都合の悪いことは全てスルーしました。
それだけならまだしも、何と、事件の中心人物として絶対に無視できないはずの大院君の「大」の字も出さず、さらには実行犯の中に朝鮮人がいたことも無視したのです。
とにかく事件は完全に日本の仕業で、「全部日本が悪いのよ」という、あまりにも偏向した内容になっていました。
が、「朝鮮紀行」と照らし合わせると、「報ステ」の報道には明らかに矛盾があります。
まず、事件の翌日、怯えきった国王は「訓練隊に代わって日本軍が王宮警備に就いてくれることを切望」しています。
国王は閔妃殺害の現場にいたとされているのですが、自分の妻を襲撃したのが日本人主体の集団だったとして、当の日本側に警備を頼もうなどと普通考えるものなんでしょうか?
それに「国王は暗殺者の一団に囲まれており」、その中にはもちろん日本人もいましたが、「その一団のなかでもいちばん非道な存在が自分の父親(大院君)だった」とバードは断定しているのです。(p.358)
何より、その後日本は列強各国から非難を受けるどころか、各国公使たちが「朝鮮独自の軍隊に国王の信頼を得るに足るだけの力がつくまで日本軍が王宮を占拠してはどうか」と勧めたとあるのです。なかでも「日本の干渉を最もつよく勧めたのはロシア公使」だったと記述されています。(p.364)
「報ステ」の言うように事件が全て日本側の仕業であるなら、このような展開にはならないと思うんですが……。
仮に事件が全て日本側の仕業であるなら、各国大使のこの申し出はまさに渡りに船、一気に王宮を占拠してしまってもおかしくないのでは?(ちなみに日本軍は1884年、金玉均ら開化派が起こした甲申政変の際にも王宮を占拠したことがある)
にもかかわらず、日本軍は「王宮占拠を行わず、訓練隊は相変わらず権勢を誇り、国王は軟禁されたままだった」とバードは記述しています。(p.364)
ついでに言えば、バード自身も、「日本が各国大使の提案を受け入れていれば」、すなわち日本軍が王宮占拠をしていれば、「現在のようにロシアが朝鮮に対して圧倒的な影響力を持つような事態も避けられたのではあるまいか」と、日本側の対応を批判しているのです。
それどころかバードは、ロシア政府が「訓練隊を武装解除させて国王を守るよう日本にはっきり要求した」にも関わらず、「その要求を断った日本政府が結果的にロシアに干渉を許してしまうことになるのも身から出たさびといわざるをえない」とまで言っているのです。(p.364-365)
もちろんバードの記述が全て正しいとは言えないでしょうし、他の文献も調べてみないと何とも言えませんが、少なくとも「報ステ」の報道と「朝鮮紀行」の記述に大きな齟齬があることだけは確かです。
ところで、「報ステ」でこの特集が放送される直前の韓国の報道によれば、「閔妃殺害実行犯」子孫の韓国謝罪訪問には「明成皇后を考える会」というのが絡んでるらしいんですが、これは「平和憲法を活かす熊本県民の会」というのが元の組織であると。
やっぱりプロ市民が絡んでましたか……(T^T)
また、「実行犯」の一人とされる国友重章の孫に当たり、韓国へ謝罪訪問を2005年以降続けている開業医の河野龍巳さんについて、「報ステ」では、「熊本にある歴史研究会(「明成皇后を考える会」か?)の呼び掛け」により訪れた、つまり自らの意思で謝罪訪問を始めたように伝えていました。
ところが、当時の韓国の新聞にはこう書かれてあるのです。
【明成皇后殺人犯の後孫達の謝過訪韓は、フリーランサーのドキュメンタリーPDチョン・スウン(鄭秀雄・62・写真)ドキュソウル代表の執念が作り出した‘作品’である。
チョン氏は今年8月頃にSBSと日本NHKで放映される2部作ドキュメンタリー‘明成皇后弑害事件,その後孫達 110年ぶりの謝罪’の製作の為に、去る1年間、日本の熊本にだけでも13回も行き来した。
その過程で彼は甲斐利雄(76)氏等の良心的な退職教師達を知るようになり,‘明成皇后を考える会’を組織して弑害犯の外孫子の河野龍巳氏の訪韓を成功させた。
“河野氏は始めは韓国の人間だと言ったら、とても警戒したのです。それで河野氏の病院の患者まで動員して接触を継続した結果、彼を説得することができたのです。”
彼は“ドキュメンタリー‘東アジア 激動20世紀’の製作を構想しながら明成皇后弑害事件に関心を持つようになった”とし、“日本の知識人達が主軸となった、いわゆる浪人達が隣家国の皇后を殺害した前代未聞の事件を糾明しなくては、到底その時代をまともに眺める事はできない”と言った。
チョン氏は “弑害事件の主犯である三浦梧樓(1846〜1926) 当時の日本公使の後孫も捜し出して謝罪訪韓を成功させる”と言った。
http://www.donga.com/fbin/output?n=200505110242
【「散歩道さん」>05/5/14付:それは、脅迫と言わないですか?より引用】
閔妃がいくら朝鮮の近代化にとって邪魔な存在だったとしても、それを暗殺というやり方で排除を図ったことについては、韓国ではもちろん日本でも批判の声はあるでしょう(あくまで現代の価値観に照らしての話ですが)。
ただ、だからと言って、史実を正しく伝えない偏った報道はやはりどうかと思いますし、そんな報道は韓国人にとっても、長い目で見れば決してプラスにはならないでしょう。
……というわけで、第4弾につづく!?……
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