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Friday, February 17, 2012

Ondol 온돌 destroyed korean wealth of natural mountains.

オンドルとは熱の伝導、 放射、 対流を利用して効率よく部屋を暖める暖房法のこと。床下に石を用いて煙のトンネルをつくり、その上に薄い板石をのせ、泥を塗り、さらに特殊な油紙を張って床とする。寒さの厳しい韓国に古くから根ざしている方式だ。外や台所にある焚き口で火をたくと、その煙がトンネルを通って部屋の反対側の煙突から出るあいだに、床下から部屋全体を暖める仕組みになっている。

オンドルを漢字で表現すると「温石」となり、縁の下に置いた石を暖かくする事で暖を取る床暖房システムです。詳しい構造や歴史は以下のサイトが参考になると思うのでぜひ読んでみて下さい。







http://contents.innolife.net/cafe/list.php?ac_id=17&ai_id=3911


http://blog.alc.co.jp/blog/3302600?offset=240
オンドル
韓国では、長年、暖房としてのオンドルを使ってきました。基本的に昔、オンドルにする際は、まず、溝を作り、両側に石を立て、その上に平い石を乗せます。つまり、熱が通りやすい石を使うのと同時に、粘土質の土で隙間を埋めていきます。ほんとうに小さいとき、工事現場を見ていた風景が脳裏に残っています。
燃料として、昔は薪を使ってしましたが、セマウル運動<1970年代に入って、新しい村づくり運動の一環として>が始まり、森林保護という名目の下、薪が使えなくなりました。それによって<練炭>が普及されはじめ、その後、<石油>に至った経緯を持っています。今じゃ、マンション暮らしの人が増えてきたので、ほとんどの家庭では石油を燃料として使っています。仕組みだって今のオンドルは変わっていまして、床下に銅管の細いパイプを部屋中めぐらしている構造です。ちなみに、韓国は、北緯33度~43度に位置しているが、仙台とソウルの緯度はほぼ同じだと言われています。そして、ちなみに冬の寒さでいうと、札幌の気候に非常に似ているので、冬は寒いといえるでしょう。
四季の移り変わりにおいても、日本と似ているが、でも、夏の湿度においては韓国は低いといえます。その分、すごしやすいかと思います。
そのせいか、昔は木造家屋、土壁、屋根では藁葺きか、瓦葺がほとんどでした。冬はやはり寒いので、昔はオンドル部屋に家族一同集まって食事をしたりしていました。
私が小さい時、居住していたオンドル部屋の空間というのは、まず屋根と天井が低く、窓だって小さくて、昼間もほの暗い感じでしたね。
このオンドル部屋によって生まれた生活習慣そのものは、ものすごく大きいと思います。日本の畳と比べても。
たとえば、焚き口から薪を入れると、オンドル部屋は約1時間くらいで、部屋中があたたかくなります。特に、焚き口に近いほうの床が一番暖かく、そこがいわば上座<윗목>の役割をしていました。直に熱が体に伝わるので、たまに火傷する場合もあります。ほんとうに体の芯まで温まるような感じで朝方まで大体熱がもちます。
でも、薪が足りなかった場合、朝方に寒い思いをして目が覚めることだってありました。<薪をいれる>ことを<군불을 때다>といいます。
そして、オンドル部屋には、日本の押し入れのような収納スペースはほとんどありません。古い昔は、布団とかはそのまま部屋の片隅の床の上に置いておけば、オンドルの余熱とかで自然乾燥して使うことになります。今じゃ、布団を韓国語で<농>といって箪笥の中にしまっておきます。
従いまして、オンドル部屋は、床が熱いので、人間の座り方にも影響を与えました。日本の正座と韓国の胡坐を思い出したら、わかるかと思います。
部屋中が暖かいので、当然<生け花>の習慣もなかったかと思います。すぐ枯れてしまいますね。あと、家具にも、扉などにも影響を与えたといえます。
そして、今みたいに電気釜がなかった時代は、焚き口に近い一番熱い上座のほうに、蓋付きのご飯の入ったお椀を置いていました。つまり、保温代わりに使っていました。
あと、オンドルといえば、必ず煙突が付き物といえます。いつも、夕方4-5時頃になると、煙突から煙が上がります。今でも、小さい時のオンドルにまつわる記憶がよみがえります。

http://konn.seesaa.net/article/6110223.html

2005年08月22日
Ondol is the great Korean invention!


Q. What's the country North Korea?
NHK children's News Weekly, the large question in this week 2002,

A: a lot of question given from everyone, that " why North Korea is food shortage?! "

there are occurred a lot of Large flood frequently,especially the flood of July 1995, as much as 50 thousands of people lost their homes, vineyards and rice fields were also badly damaged in North Korea.
afterwards the flood often occurs , food shortage has continued.
as regard of the investigators of congressional in the United States, at least one million people also died without a thing to eat.

because of there is many mountains in North Korea,  not enough only the flat land to plant crops.
Therefore, they cut down the tree of the mountains, they made the fields and rice paddies to the mountain. This was to be the problem.
There is an important role in the tree of the mountain.  if it rains a lot, the root stretchs tightly, the mountain could prevent from collapse.

In addition, the roots keep the rain, the water would not flood at to the foot. The root of the tree has to play a role, such as the dam.
What if the tree of the mountain be cut down, the rain would fallen like flow to the shadow at once, landslides also more occur, the field would become be useless.

コリアが発明したオンドルは優秀だ!
6カ国協議での北朝鮮による強硬な姿勢の真意や、かつての日本政府の食糧支援による政治家のキックバック利権の真相を緋も解こうとすると、どうしても『北朝鮮の食糧事情』を分析したくなる。
その過程で、NHKによる以下の記事を見つけたので、まずはご紹介する。

・北朝鮮とはどんな国?
NHK週刊こどもニュース:今週の大はてな2002
みんなから質問が多かったのが、「北朝鮮は食糧不足だと聞きますが、なぜですか」というものです。

北朝鮮ではたびたび大きな洪水が起き、特に1995年7月の洪水では、50万人もの人々が家を失い、田んぼや畑も大きな被害を受けました。その後も洪水がしばしば起きて、食糧不足が続いています。アメリカの議会の調査団の調べでは、少なくとも100万人もの人たちが、食べるものがなくて死んでしまったとも言われています。

北朝鮮がたびたび洪水に襲われるのには、原因があります。北朝鮮には山が多く、平地だけでは農作物を植える土地が足りません。そこで、山の木を切り倒し、山の上まで田んぼや畑をつくりました。これが問題でした。山の木には重要な役割があります。たくさん雨が降っても、根がしっかり張っていれば、山が崩れるのを防ぎます。さらに、根が水分をたくわえてくれるので、ふもとまでいっぺんに水が流れてくることがありません。木の根がダムのような役割を果たしています。その山の木を切り倒してしまったら、降った雨がいっぺんにふもとに流れ、土砂崩れも起こりやすくなり、畑もダメになってしまいます。

さらに国が、「畑にはトウモロコシを植えなさい」「稲はびっしり植えなさい」と命令しました。でも、トウモロコシは場所によっては育てるのにふさわしくない場所もあります。全国一斉に植えたので、所によっては育たなくなったのです。また稲は、びっしり植えると、かえって育たないのです。こうして農作物のできる量が減っていきました。

農家は、「集団農場」といって、みんなで一緒に働き、できたものもみんなのものになる仕組みです。「自分ひとりが一生懸命働いても自分のものになるわけではない」と考える人が多く、こうした理由でも農作物が減ってしまいます。

また、山から土砂崩れが多いので、ダムが土砂で埋まってしまい、水力発電があまりできなくなります。電気が足りなくなり、工場が動かなくなります。工場が動かなくなると、外国に売る商品もつくれなくなり、外国のお金が入らなくなります。外国から輸入する石油を買えなくなり、石油を燃やす火力発電所も電気をつくれなくなり、ますます経済がうまくいかなくなります。

こうしたことが続き、悪循環になって、経済がすっかり駄目になってしまった、と専門家の人たちは見ています。

今回、北朝鮮が拉致(らち)を認め、日本に謝ったのは、それだけ困っていて、日本に援助してもらいたがっているからではないか、と見られているのです。

【 2002/9/21 放送(内容は放送時点でのものです) 】


조선에서는 자주 큰 홍수가 일어나고, 특히 1995년7월의 홍수에서는, 50만명이나 되는 사람들이 집을 잃고, 논이나 밭도 큰 피해를 입었습니다. 그 후도 홍수가 자주 일어나고, 식량부족이 계속되고 있습니다. 미국의 의회 조사단 조사에 의하면, 적어도 100만명이나 되는 사람들이, 먹는 것이 없어서 죽어버렸다고도 말해지고 있습니다.

북한이 자주 홍수에 습격 당하는것에는, 원인이 있습니다. 북한에는 산이 많아, 평지것만으로는 농작물을 심는 토지가 충분하지 않습니다. "그래서(") 산의 나무를 잘라 쓰러뜨리고, 산 위까지 논이나 밭을 만들었습니다. 이것이 문제이었습니다. 산의 나무에는 중요한 역할이 있습니다. 많이 비가 내려도, 뿌리가 확실히 뒤덮이고 있으면, 산이 무너지는 것을 막습니다. 게다가, 뿌리가 수분을 축적해 주므로, 기슭까지 한번에 물이 흘러 올 것이 없습니다. 나무뿌리가 댐과 같은 역할을 다하고 있습니다. 그 산의 나무를 잘라 쓰러뜨려버리면, 내린 비가 한번에 기슭에 흐르고, 산사태도 일어나기 쉬워져, 밭도 안 되어져버립니다.

더욱 나라가, 「밭에는 옥수수를 우에(植) 포의 반찬」 「벼는 빽빽이 심으세요」라고 명령했습니다. 그러나, 옥수수는 장소에 따라는 키우는데도 어울리지 않은 장소도 있습니다. 전국 일제히 심었으므로, 곳에 따라서는 자라지 않게 되었습니다. 또 벼는, 빽빽이 심으면, 돌아가서 자라지 않습니다. 이렇게 해서 농작물이 생기는 양이 줄어들어 갔습니다.

농가는, 「집단 농장」이라고 말하고, 전부(함께) 같이 활동, 할 수 있었던 것도 모두의 물건이 되는 구조입니다. 「자신 혼자가 열심히 일해도 자신의 물건이 되는 것은 아니다」라고 생각하는 사람이 많아, 이러한 이유라도 농작물이 줄어들어버립니다.

또, 산으로부터 산사태가 많으므로, 댐이 흙더미로 묻혀버려, 수력 발전이 별로 할 수 없게 됩니다. 전기가 모자라져, 공장이 움직이지 않게 됩니다. 공장이 움직이지 않게 되면, 외국에 파는 상품도 만들 수 없게 되고, 외국의 돈이 들어오지 않게 됩니다. 외국에서 수입하는 석유를 살 수 없게 되고, 석유를 태우는 화력 발전소도 전기를 만들 수 없게 되고, 점점 경제가 잘 되지 않게 됩니다.

이러한 것이 계속되고, 악순환이 되고, 경제가 완전히 안 되어져버린,이라고 전문가의 사람들은 보고 있습니다.

이번, 북한이 납치 (들 지)을 인정하고, 일본에 사과한 것은, 그것만 곤란하고 있어서, 일본에 원조하게 하고 싶어하고 있기 때문이 아닐까,라고 보여지고 있는 것입니다.

私が考えていた北朝鮮の食糧不足の原因は、農業に適さない土地であること、寒冷地が多いので併合時代に日本が植林した木々をオンドルによって焼き尽くしたことだ。また、そもそもの農家の生産性の悪さに、金正日の悪政が拍車をかけた。NHKは、どこの国の立場で物事を考えているのだろうか?

さて、話を戻すと、私自身、実はオンドルの実物を見た事がない。恐らく、左図のような感じ(詳細)だったのだろうか。下記記事を読んで頂ければ、私が強くオンドルが原因と思った理由をご理解して頂けると思う。

・コリアが発明したオンドルは優秀だ!
大日本焼肉文化研究所
オンドルって知っていますか?


家の床を熱風を通らせ、暖房するんです。
良いアイデアですね?
で、これってコリア起源なのでしょうか?



オンドルとはそもそも遊牧民が、ゲルを暖房するために考えた物です。
家畜の糞を燃やして暖房するので、非常に効率が良いです。
家畜の糞はくさくありませんし、乾かせば燃料になります。

で、なぜコリア人はオンドルをするのでしょうか?
わざわざオンドルを遊牧民以外がすれば、木があっという間になくなり、国土が焦土となります。
朝鮮人って土地の所有という概念があまり無かったんですよ。
だから、平気で木を切り倒して燃やす。
暖かければいいと考えます。
で、国土は砂漠状態になり、焼き畑の方に突入していたのが李氏コリアです。
世界最貧国が李氏コリアでした。


考えたらわかりますが、遊牧民はいらない家畜の糞を使うから、お得な暖房ですが、木を遣うコリア人のオンドルは非常に効率が悪く愚かですpu
ちなみにEUではオンドルのような物がありますが、当然温かい水を循環させる暖房です。
そりゃそうだよねw
床の下を熱風をくぐらせるなんてアホじゃんw
まさに金をどぶに捨てているような物。
でも、馬鹿でも出来るし、簡単です。
結局、コリア人は目先のことしか考えないんですよ。

長い目で見ればオンドルは国土を消滅させるし、水を循環させるオンドルの方が効率的。
デモそんなことは考えないんですねw
どうしようもないから。
当然日本のこたつや、その他暖房は非常に効率的です。
まあ、かの国と比べるまではないが。
コリア人は反面教師ですよ。


結論 オンドルは遊牧民が始め、現在も続けている。
そして、なぜかコリア人が真似をして国土を焦土と化した。
ポイントは無料の家畜の糞を燃料にするか、貴重な木を燃料にするかです。

木でオンドルなんかしたらあっという間に気がなくなるだろw
さすがコリア人w
で私の言っていることはおかしいと思う?


北コリアでは今でもオンドルをしています。
で、はげ山だらけです。
はげ山になったらふもとも農作物が育ちません。
洪水が発生したら、防げません。

歴史は繰り返す。
コリア人はコリア人。
放置すれば李氏コリアに戻るのです。
何時になったら進化して、オンドルという、コリアには不利な暖房システムを辞めるのでしょうか?

歴史を捏造して、オンドルの起源はコリアだ!
と、言っている間は無理でしょう。
歴史の捏造から生まれるのは、滅亡です。
捏造は慎重にしなければ、自滅するのです。
コリア人=反面教師

とおもったら、現在は温熱式らしいですね。
それだったら世界中にあるじゃんw
何処がコリア起源なの?
馬鹿?

確かに熱風はコリア起源です。
そんな馬鹿なことをする民族はいませんからね。

常識で、熱風は直接人間に当たるようにした方が暖かいのは当たり前です。
温水は熱の保持に優れて、さめにくい。
が、温水なんか直接かけたらやけどするw

以上のようなことが原因で、毎年、北朝鮮で食糧危機が発生している。食糧の不足量を試算すると、以下のようにざっと約100万トンから150万トンもの規模で慢性的に不足するのではないだろうか。ここで、不足量に幅があるのは、人口の増減や収穫量に変動があるからだ。

表.北朝鮮の食糧事情

項目量(万トン)
北朝鮮食糧最少必要量約500 (H14.5の資料)
北朝鮮国内での食糧生産量約350 (H11.11の資料)
不足量(必要量)約100~150(上記2項目の変動を考慮)



金正日の視点で見ると、食糧危機が毎年発生するので、たまったものではない。自身だけは、食うに困らないかもしれないが、放置すれば飢えた軍部などが暴走しかねないからだ。
これを解決するには、諸外国から毎年恵んでもらう必要がある。それを韓国一国だけで賄うには役不足である。
そこで、経済的に裕福な日本から巻き上げる事を考えているのだろう。核や拉致問題などで、ゴネて、脅かしてのオンパレード。
これを解決したらその年だけの援助があるかもしれないが、翌年度以降も援助が続く保障が無いので、解決させるわけがない。
宗教観念の無い共産党の北朝鮮からみると、本当は、どうでも良い8月15日の靖国神社参拝だが、こればかりは、ありがたい事に毎年訪れることだから、難癖付ける。
私は、北朝鮮の構造的な問題は、このように理解しているし、そのことをベースに6カ国協議の北朝鮮の主張を分析するようにしている。 
機会があれば、別途、6カ国協議について述べたい。



http://bemil.chosun.com/nbrd/bbs/view.html?b_bbs_id=10038&num=53747&pn=0&compn=1#none

臆斷(억단)과 獨善(독선)의 식민지수탈론
만 | 2009-06-30 20:23:48 조회 603 | 추천 3 | 다운로드 0
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한용운이라는 자를 무슨 독립투사인것처럼 세뇌시키고
민영환을 우국지사로 세뇌시키고..식민지 수탈론??..
남대문이라고 부르면 일제의 잔재라고, 민비라고 부른다고 일빠라고...참
식민지 수탈론 시초는 50년대 이재무라는 자죠. 역사왜곡 누가 하고 있을까?...
왜 나라를 지키지 못했나 왜 나라를 잃었는가 내부적 반성은 찾아볼수 없고 맨날 남탓사관,니탓사관..
일명 이혼녀 사관..
역사는 되풀이 된다나..



[서평] 臆斷(억단)과 獨善(독선)의 식민지수탈론
『일제 식민지정책과 식민지근대화론 비판』, 신용하, 문학과 지성사, 2006

[李榮薰(이영훈) | 서울대학교 교수, 경제학]
신용하 교수가 지난 6월에 출간한 『일제 식민지정책과 식민지근대화론 비판』에 대한 서평을 『시대정신』의 편집부로부터 주문받고서 거절하지 못한 것은, 내가 지난 1993년과 1997년에 신 교수를 심하게 비판한 적이 있어 미안한 마음이 있고, 또 그 비판에 대해 그간 침묵해온 신 교수가 이번에 출간한 책에서 혹 어떤 대응이라도 하지 않았을까 궁금했기 때문이다.

대부분의 독자들은 내가 10년 전에 행한 신 교수에 대한 비판을 잘 알지 못할 것이기 때문에 우선 그에 대해 간략히 소개한다. 해방 후 한국인들이 한국인으로서 아이덴티티를 확인하고 주체성을 확립함에 있어서 반일 민족주의가 얼마나 큰 역할을 수행해 왔는지에 대해서는 새삼 지적하기도 싱거울 정도이다. 그 반일 민족주의의 핵심 내용은 일제가 식민지기에 우리 민족을 그야말로 야만적으로 수탈하였다는 것이다. 이러한 수탈 담론은 해방 후부터 정치인이든 연구자든 여러 사람들에 의해 심심치 않게 이야기되기 시작했다.
중ㆍ고등학교 국사교과서에 수탈 담론이 명확히 모습을 드러낸 것은 1960년대부터라고 생각된다. 1962년 역사교육연구회라는 단체가 저술한 국사교과서에 일제가 조선 농민의 토지를 절반이나 빼앗았다는 내용의 기술이 처음 나타났다. 뒤이어 1967년에는 민영규와 정형우가 지은 국사교과서에서 일제가 토지조사사업을 통해 국토의 40%를 수탈하였다는 기술이 나타났다. 이러한 1960년대의 경과에 관해서는 『시대정신』 28호(2005)에 실린 나의 「국사교과서에 그려진 일제의 수탈상과 그 신화성」이란 논문을 참고할 수 있다.

1904년 러일전쟁 이후 1920년대까지 한반도 연안부의 저습지와 未墾地(미간지)를 중심으로 일본인들의 토지 투자가 있었다. 그들은 헐값으로 대량의 미간지를 매수한 다음, 제방을 쌓고 저수지를 파고 수로를 뚫고 농법을 개량하여 미간지를 비옥한 논으로 개간하였다. 그렇게 생겨난 일본인의 농장이 남한의 경우 전체 농경지의 10%를 차지하였다. 거기서 생산된 쌀은 모두 일본으로 移出(이출)되었다. 일본인 농장은 식민지기 조선 농촌사회의 기본 구조를 이룬 식민지 지주제의 첨병이자 상징이었다.

실체가 이러했던 일본인의 조선 농촌으로의 진출을 두고 위와 같이 1960년대의 교과서는 일제가 토지조사사업을 통해 전 토지의 40~50%를 빼앗았다는 식으로 쓰기 시작했다. 그런데 이 수탈 담론의 중대한 약점은 누구도 40% 또는 50%라는 수치를 증명한 적도 없고, 수탈의 과정이나 양상을 구체적으로 밝힌 적도 없다는 사실이다. 그것은 입소문과 같았다. 누군가 최초로 일제가 토지를 수탈하였다고 속삭이자 수많은 사람들의 입을 거치는 과정에서 솜사탕처럼 부풀려진 것이 40~50% 수탈설이라고 할 수 있다.

그럼에도 이 40~50% 수탈설이 지금까지 40년을 넘도록 국사교과서의 서술로 면면히 이어져 오면서 국민적 기억으로 확고히 자리 잡는 데는 신용하 교수의 공로가 컸다. 신 교수가 토지조사사업(이하 ‘사업’으로 약칭)에 관한 연구를 시작한 것은 1977년이다. 이후 1979년에 신 교수는 3~4편의 논문을 모아 『조선토지조사사업연구』(지식산업사)라는 책을 출간했다. 이 책은 ‘사업’에 관한 최초의 본격적인 연구서라는 큰 의의를 지니고 있다. 신 교수는 이 책에서 총독부가 편찬한 ‘사업’에 관한 보고서를 비롯한 여러 자료를 활용하여 일제가 ‘사업’을 시행한 목적이 토지에 대한 농민의 소유권ㆍ경작권ㆍ개간권 등 일체의 권리를 부정하고 수탈하기 위함에 다름 아니었다고 주장하였다. 권리를 부정당한 농민들의 저항을 억누르기 위해 총독부는 무장조사단을 결성하였다. 그 무장조사단의 강압적인 측량과정을 신 교수는 “한 손에는 피스톨을 다른 한 손에는 측량기를 들고”라고 문학적으로 표현하였다.

그런데 1982년 경상도 김해군에서 ‘사업’ 당시의 토지신고서를 비롯한 원자료들이 대량 발견되었다. 1985년부터는 그 자료를 이용한 새로운 연구 성과가 배영순과 조석곤에 의해 발표되기 시작하였다. 특히 조석곤은 ‘사업’ 당시에 국유지인가 민유지인가를 둘러싼 소유권 분쟁에 있어서 상당한 양의 토지가 민유지로 판정 받았음을 구체적인 자료를 통해 명확히 하였다. 신 교수의 주장처럼 일체의 분쟁이 피스톨을 든 무장조사단에 의해 강제적으로 진압된 그러한 야만적 상황은 아니었다.

이후 1992년 나는 ‘사업’ 당시의 총독부 官報(관보)를 검토하다가 1911년 3월, 곧 ‘사업’의 초기에 총독부가 국유지로 조사된 토지 가운데 민유지가 혼입된 것을 원소유자에게 돌려주라고 도장관에 명령을 내리는 기사를 발견하였다. 나는 이를 단서로 1910~19***에 걸쳐 국유지의 면적이 연도별, 도별, 지목별로 어떻게 변해왔는지를 추적해 보았다. 국유지는 1910년 9월에 11만 8천여 정보, 19*** 12월에 12만 7천여 정보였다. 이 두 수치에 근거하여 신 교수는 ‘사업’ 기간에 발생한 소유권 분쟁이 일체 억압된 것으로 보았다. 수많은 분쟁이 일어났음에도 국유지의 면적이 오히려 늘었기 때문이다.

그런데 위와 같이 국유지의 면적을 세밀히 추적한 결과, 同 8년간 놀랍게도 9만 9천여 정보의 국유지가 추가로 조사되고 9만 1천여 정보의 국유지가 민유지로 돌려졌음을 발견하였다. 이에서 명확하듯이 일체의 분쟁이 억압되고 말았다는 신 교수의 주장은 국유지의 면적이 연도별, 도별, 지목별로 어떻게 변하고 있었는지에 관한 그야말로 기초적인 演算(연산) 작업조차 행하지 않은 가운데 제출된 臆斷(억단)에 불과하였다. 나는 그러한 취지로 신 교수를 비판하는 논문을 1993년 『역사비평』22호에 「토지조사사업의 수탈성 재검토」라는 제목으로 발표하였다.

이어 1997년 김홍식 교수를 대표로 한 ‘사업’에 관한 공동연구서 『조선토지조사사업의 연구』(민음사)가 출간되었다. 이 책에서 우리는 ‘사업’의 구체적인 실태에 대한 실증적 이해를 심화시킴과 동시에 조선시대 토지제도와의 관련성에서 ‘사업’이 지닌 연속적이면서도 단절적인 역사적 의의를 추구하였다. 이후 지금까지 ‘사업’에 관해서는 별다른 논문이나 연구서가 나오지 않았다. 그런 점에서 자화자찬일지 모르나 위 책은 ‘사업’에 관한 현재의 연구수준을 대변하고 있다.

이 책에서 신 교수는 다시 한 번 비판의 도마에 올랐다. 신 교수가 피스톨과 측량기를 든 무장조사단이 민유지를 국유지로 약탈했다면서 애써 제시한 여러 사례는 ‘사업’의 보고서에 소개된 분쟁을 제멋대로 각색한 것에 불과하다는 취지의 비판이었다. 예컨대 ‘사업’의 보고서는 구황실의 內需司(내수사) 장토에서 343건의 분쟁이 발생하였는데, 민유의 주장은 어떻고, 국유의 주장은 어떻다는 식으로, 19*** 말 당시까지도 진행 중인 분쟁의 내용을 객관적으로 소개하고 있을 뿐이다. 그런데 신 교수는 그 343건의 분쟁지가 모두 국유지로 강제 편입되었다고 단언하였다. 그러면서 세력 없는 농민들이 총독부의 무단정치에 맞서 민유임을 주장했기 때문에, 그 주장은 충분히 근거가 있는 것이라고 해설하였다. 그렇지만 아무리 세력 없는 사람들의 주장이더라도 그것은 옳을 수도 있고 틀릴 수도 있다. 그 점을 전제하지 않으면 역사학자가 굳이 먼지 묻은 자료를 뒤지며 실증 작업에 몰두할 이유가 처음부터 없다고 하겠다.

그런데 김해에서 발견된 ‘사업’의 원자료를 통해 김해의 내수사 장토를 둘러싼 분쟁에서 민유임을 주장한 사람들의 면모를 확인하면, 당시 김해에서 최대의 지주인 許發(허발) 진사를 비롯하여 1904년 이후 이곳에 들어와 토지를 매수한 일본인 등의 대지주들이 수두룩하였다. 그들은 결코 세력 없는 농민들이 아니었고, 오히려 농촌사회의 지배계층으로서 일제의 협력자라 불릴 만한 사람들이었다. 이렇게 현장 수준으로 내려가 분쟁의 실태를 확인하면, 사례마다 복잡 다양한 가운데, 세력 없는 농민의 토지가 무장조사단에 의해 강탈되었음과는 실로 무관한 복잡한 이해관계의 충돌을 확인할 수 있다. 그 점을 연구실에서 상상의 날개를 펼친 신 교수는 짐작조차 할 수 없었다. 솔직히 말해 신 교수의 ‘사업’에 관한 연구는 거의 소설과 같은 수준이었다. 그렇게 표현하지는 않았지만 1997년의 위의 책에서 나는 그러한 취지로 신 교수를 비판하였다. 그리고 그것은 한 연구자에게 가해질 수 있는 비판으로서는 더 이상의 다른 예를 찾기 힘들 정도로 통렬한 것이었다.

그러한 민망함이 있었기에, 앞서 이야기한 대로, 나는 신 교수의 최근작 『일제 식민지정책과 식민지근대화론 비판』에 대한 서평 부탁을 사양하지 못했다. 이 책에서 ‘사업’에 관한 부분은 제7장 「일제의 ‘토지조사사업’ 실시와 토지약탈 및 농촌 사회경제의 변화」이다. 나는 당연히 그 章을 먼저 읽었는데, 어느 정도 예상하긴 했지만 참으로 크게 실망하였다. 신 교수가 ‘사업’에 관해 지금까지 주장해온 것들이 거의 그대로 옮겨져 있기 때문이다. 그렇다면 이전의 그 유명한 著作(저작)으로도 충분할 터인데, 무엇 때문에 100쪽에 가까운 지면을 낭비해 가며 위와 같은 제목의 글을 새로 쓴 것인지가 잘 납득되지 않는다.

무엇보다 그가 ‘사업’에 관한 기존의 論著(논저)들을 나열 소개하고 있는 대목(동서, 182쪽)에서 앞서 언급한 1997년 출간의 「조선토지조사사업의 연구」가 포함되어 있지 않다. 또한 ‘사업’에 관한 연구서라면 1991년 일본에서 나온 미야지마 히로시(宮嶋博史) 교수의 『朝鮮土地調査事業史の硏究』(동경대학 동양문화연구소)를 빼놓을 수 없는데, 그 책 역시 빠져 있다. 다시 말해 신 교수는 ‘사업’에 관한 1990년대 이후의 연구 성과를 무시하고 있으며, 그런 식으로 그간 자신에게 제기된 일체의 비판에 귀를 막고 있다.

이제 독자들에게 내가 왜 이 글을 통상의 서평 형식으로 쓰고 있지 않은 지 양해를 구할 차례이다. 통상의 서평이라면 먼저 책의 구성과 내용을 압축적으로 소개한 다음, 그것의 의의를 평가해 주고, 연후에 評者의 의문을 조심스럽게 제기하는 순서로 쓰인다. 그런데 나는 신 교수의 위 책에 대해 그런 통상의 형식으로 예의 바르게 비평할 별다른 유인을 발견하지 못한다. 연구자는 자신의 학설에 가해진 비판에 성실히 답변할 의무가 있다. 비판이 틀렸음을 논박하거나, 약간의 과오가 있지만 나의 학설은 여전히 타당하다거나, 아니면 자신의 과오를 인정하면서도 여전히 이러저러한 문제가 남아 있다든가 등으로 대응해야 함이 연구자가 취할 마땅한 자세이자 직업윤리이다. 아니면 끝까지 침묵함으로써 더 이상의 혼란을 야기하지 않는 최소한의 미덕을 발휘할 필요가 있다. 신 교수는 이상의 어느 것도 아니다. 내가 그의 최근작에 대해 통상의 서평을 포기한 이유가 이와 같음에 대해 독자 여러분의 양해를 부탁드린다.

남은 지면을 활용하여 신 교수가 최근작에서 제기한 총독부가 국토의 50.4%를 수탈하였다는 주장이(21, 271쪽) 안고 있는 문제점을 간략하게 지적해 둔다. 이 주장은 신 교수의 이전 저작에는 없던 것이다. 신 교수의 새로운 주장은 일제가 임야조사사업을 통해 518만여 정보에 달하는 대량의 민유림을 국유림으로 수탈하였음을 주요 근거로 삼고 있다. 우선 신 교수 자신과 국사교과서가 지난 40년간 일제의 토지 수탈을 이야기해옴에 있어서 그 중심 대상은 임야가 아니라 농경지였음을 명확히 할 필요가 있다. 논의의 대상을 슬그머니 임야로 옮기는 것은 옳지 않다.

일제가 ‘사업’을 통해 파악한 전국의 농경지는 487만 정보이다. 그 가운데 국유지는 19*** 말 현재 12만 7천여 정보이다. 이 2.6%의 국유지는 앞서 설명한대로 무장조사단에 의해 강탈된 것이 아니다. 그것조차 1924년까지 연고 소작농에게 법정 地價(지가)로 불하되어 이후 국유 농지는 사실상 소멸하였다. 신 교수는 이 토지들이 동양척식주식회사나 일본 이민에 불하되었다는 지난 40년간의 교과서 주장을 되풀이하고 있으나, 믿을 만한 사례를 제시할 필요가 있다.

전체 농지의 97.4%가 되는 민유 농지에서 무장조사단의 약탈상에 관한 신 교수의 설명은 궁색하기 짝이 없다. 신 교수의 설명대로 민유지 총 1,910만여 필지 가운데 99.5%가 소유자가 신고한 대로 소유권이 사정되었다. 그렇게 무장조사단이 설칠 여지는 처음부터 없었다. 신 교수는 전국적으로 9,355필지(0.05%)의 無신고지가 발생하여 국유지로 편입되었음을 수탈의 표본으로 강조하고 있다. 그렇지만 그때보다 소유권 의식이 발달한 오늘날에도 전국의 토지를 신고하게 하면 분묘지나 잡종지를 중심으로 그 정도의 無신고지는 발생하기 마련이므로 처음부터 논리가 서는 주장이 아니었다.

신 교수가 이러한 窮迫(궁박)한 모순으로부터 벗어나기 위해 새롭게 개발한 논리가 바로 임야조사사업을 통한 민유림 518만여 정보의 수탈이다. 또한 지난 40년간 국사교과서의 권위를 빌려 국민적 기억으로 자리 잡은 농지 40% 수탈설이 심각한 비판에 직면하자, 그 수탈설의 성립에 가장 공헌이 컸던 신 교수가 대안으로 내세운 것이 임야를 포함한 국토의 50.4% 수탈설이라고 할 수 있다. 이 새로운 수탈설은 과연 성립하는 것인가.

1908년의 삼림법 제정, 1911년의 삼림령 공포, 1917~1924년의 임야조사사업의 실시를 경과하면서 한반도의 임야제도가 舊來(구래)의 무주공산 체제에서 근대적인 소유제도로 이행하였음은 이에 관한 기존의 연구가 대체로 수긍하는 바이다. 그 과정에서 창출된 국유림과 민유림은 1927년 현재 총 1,616만여 정보 가운데 각각 955만여 정보와 661만여 정보이다. 다시 국유림은 ‘연고자 없는 임야’ 618만여 정보와 ‘연고자 있는 임야’ 337만여 정보로 나뉜다. 후자의 ‘연고자 있는 임야’는 연고자가 소유권을 입증할 객관적 근거가 부족하여 국유림으로 편입된 것이다. 바로 이 부분의 국유림을 신 교수는 수탈의 근거로 중시하고 있다.

그런데 신 교수는 여기까지만 주목하였다. 이후 식민지 말기까지 이 연고 국유림을 중심으로 어떠한 일이 벌어졌는지에 관해 신 교수는 애써 외면하고 있다. 신 교수도 지적하고 있듯이 총독부는 국유림을 일정한 조림 실적을 거둔 사람에게 불하하는 造林貸付制度(조림대부제도)를 실시하였다. 총독부의 산림정책은 당시 너무나 황폐한 산지를 푸르게 만들기 위한 綠化主義(녹화주의)를 기본으로 하였으며, 조림대부제도는 그에 부응한 국유림의 관리 정책이었다. 이에 관해서는 최근에 나온 이우연의 박사학위논문 『조선시대-식민지기 산림소유제도와 林相(임상)변화에 관한 연구』(성균관대학교, 2005)를 유익하게 참조할 수 있다. 이 제도에 따라 대량의 국유림이 민유림으로 불하되었다. 그에 따라 1934년 현재 국유림은 남부지방에서 44만여 정보(8.0%)의 작은 비중에 불과하였고, 강원도와 함경도 등의 북부지방에서는 530만여 정보로서 여전히 적지 않은 48.8%의 비중을 점하였다. 조림대부의 민족별 실적을 보면, 총 건수 8만 건에서 조선인이 97.1%의 압도적 비중을 차지하였는데, 면적에서는 일본인의 단위 조림면적이 커서 조선인의 비중은 52.9%에 그쳤다.

요컨대 총독부가 조선인의 민유림을 대량으로 수탈하였다는 신 교수의 주장은 총독부 산림정책의 기본 지향에 대한 이해가 부족한 가운데 조림 실적에 따라 다수의 연고 국유림을 민유림으로 불하한 임야조사사업 이후의 산림정책의 실태에 대한 하등의 검토 없이 성급히 제기된 것이라고 할 수 있다. 결과적으로 보면, 조선시대의 무주공산 체제하에서 사실상 사유림으로 성장해 온 농민들의 임야에 대한 권리는 총독부의 단계적 정책과 농민 스스로의 주체적인 대응, 곧 조림을 통해 오늘날과 같은 사유림으로 전환하였다.

1910~1942년의 기간 동안 한반도 전역에 걸쳐 약 82억 본의 묘목이 심어졌다. 그것은 해방 이후 지금까지 한국 정부가 심어온 묘목의 수를 능가하고 있다. 총독부는 그가 조선왕조로부터 인수한 황폐한 산지를 녹화하는 데 실로 적지 않은 노력과 비용을 들였다. 그 점에서 비록 바깥에서 들어온 점령 권력이라고 하나 총독부는 근대적 의미의 공권력이었다. 그 公의 세계에서 펼쳐진 산림정책을 신 교수는 모리배들이 날뛰는 私의 세계로 묘사하였다. 1910년의 조사에 의하면 한반도 임야의 26%는 그야말로 벌거벗은 無立木地(무립목지)였고, 42%는 1정보당 입목축적이 10㎥ 미만의 穉樹發生地(치수발생지)였다. 그렇게 황폐한 산야는 원래 탐욕스런 모리배들이 도모할 대상이 못 되었다.

나는 신 교수에게 18세기 이래 조선의 산야가 어떤 상태였는지에 대한 역사적 이해가 결여되어 있다고 판단한다. 그는 식민지기의 산림정책에 관한 사료를 끝까지 다 읽지도 않았을 뿐 아니라, 그 역사적 전제인 조선시대의 산림에 관해서는 거의 아무 것도 알지 못한 채, 성급하게도 국토의 50.3% 수탈이라는 새로운 학설을 제기하였다. 반복되고 있지만, 내가 그의 최근작에 대해 통상의 서평을 쓰지 않은 것은 그 책에 담긴 14개 章 모두가 그렇게 지독한 선입관과 부족한 조사와 성급한 억단과 비판을 무시하는 독선으로 쓰인 것들에 불과하기 때문이다.

"이영훈 :
서울대학교 한국경제사 박사. 現 다산학술문화재단 이사, 낙성대경제연구소 소장, 경제사학회 연구이사. 저서로는 『수량경제사로 다시 본 조선후기』, 『해방전후사의 재인식(공저)』, 『국사의 신화를 넘어서(공저)』 등이 있음" - 편집자 주






'파문' 유도하는 이상한 '파문' 보도
이영훈 교수 기고문에 대한 언론보도를 보고

4월26일 인터넷 포털사이트 '네이버' 핫이슈 코너에는 '국사교과서, 위안부 등 일제침탈 과장'이라는 제목의 한 일간지 신문기사가 톱으로 올랐다. 그 기사 첫 줄은 이렇게 시작한다.

"한 국내 학자가 우리 국사교과서가 위안부 문제 등 일제의 침탈상을 지나치게 과장하고 있다고 주장해 파문이 일고 있다."

이어 신문은 그 '파문'의 사정이 무엇인지를 다음과 같이 시작하고 있다.

"대표적인 식민지근대화론자인 이영훈 교수(서울대학교 경제학부)는 지난 23일 웹진 '뉴라이트'(www.new-right.com)에 기고한 글 '북한 외교관과 남한의 교과서가 빠져 있는 허수의 덫'에서 그동안 교과서 등에서 통용돼 온 위안부와 강제 연행자의 숫자가 정확한 검증없이 과장돼 왔다고 주장했다." 그러면서 이 신문은 이 교수 기고문을 비교적 상세하게 정리했다.

이에 의하면 '파문'이라고 규정된 '과장된 숫자'는 대표적으로 두 가지가 있다. 하나는 일본군 위안부 숫자이며 다른 하나는 일제말 조선인 강제동원 수치.

위안부 숫자와 관련해 남한의 고등학교 교과서는 '수십 만명'이라고 하고, 최근 북한 유엔대표부 김영호 서기관은 제네바 유엔인권위원회에서 20만명이라 언급했으나 이 교수에 의하면 이는 아무런 근거가 뒷받침 되지 않는 수치라는 것이다.

나아가 일제시대, 특히 1939년 이후 1945년까지 강제동원된 조선인 숫자에 대해서는 우리 국사교과서는 '650만명', 김영호 서기관은 840만명이라고 했으나 이 교수는 이 수치 또한 얼토당토 않은 허구라는 것이다.

강제동원 수치와 관련해 이 교수는 "1940년 국세조사 자료를 근거로 당시 조선인 남자 중 20-40세에 해당하는 인구는 321만이었다"면서 "그 나이 남자들을 모조리 다 끌고 가도 반을 채울 수 없는 숫자가 교과서에서 가르쳐지고 또 국제회의에서 거론된다면 문제이지 않은가?"라고 묻고 있다.

사실 이와 같은 주장에서 새삼스러울 대목은 한 군데도 없다. 이번 기고문에서 주장한 내용들을 이 교수는 이미 여러 차례 제기해 왔다.

주장이야 그렇다 치고 과연 이 교수의 주장은 '파문'인가? 그것이 '파문'으로 규정되기 위한 조건은 말할 것도 없이 그 주장이 심대하게 잘못돼 있음을 전제해야 하며, 더구나 그런 주장들이 결정적으로 오류라는 증거가 있어야 한다.

위안부 숫자만 해도 어느 누구도 그것을 모른다. 어느 연구기관이나 연구자도 그 정확한 숫자를 제시한 곳은 없다. 물론 국사교과서나 북한의 주장처럼 수십 만 혹은 20만이 될 수 있으나, 가능성이 있는 수치가 실제를 뒷받침하는 것은 아니다.

강제동원 숫자만 해도 종래 주장되는 '650만명' 혹은 '840만명'이 억지임은 말할 나위가 없다. 당시 조선인구를 고려할 때 도저히 이 만한 숫자는 나올 수 없다.

따라서 이 교수 주장이 '파문'이 아니라, 과장된 수치나 증거가 없는 숫자를 마치 실제인양 포장하고 있는 기존 주장이나 그에 기반한 우리의 '믿음'이 '파문'인 셈이다.

주객이 전도된 '파문'의 규정으로 인해 학자라면 누구나 제시할 수 있는 주장 중 하나를 내 놓은 연구자에게 "친일파 xx"와 같은 갖은 욕설과 익명성의 폭력을 쏟아내게 만드는 언론보도는 추방되고 퇴출되어야 한다.

http://blog.yonhapnews.co.kr/ts1406








아래도 [펌]

내가 아주 어렸을 적에, 역사학자라는 놈들이 사기를 한창이나 치고, 그런 사기에 내가 세뇌가 되다시피 했을 때, 그 중 대표적인 세뇌 공작 중 하나가 일제 수탈론이었으며, 그 중 예를 들자면 산림 수탈론이란 게 있었다. 요즘도 이런 식으로 일선 교육현장에서 가르치는 자들이 부지기 수에 달하거니와, 그래 놓고는 그것이 무슨 대안교육인양 선전하는 자들이 있거니와, 그리하여 그네들이 요즘도 쓴 국사교과서란 것도 보니 이 모양 이 꼬락서니로 일제 산림수탈론을 제기하거니와, 그 요점은 일본은 한반도 산림을 수탈했다는 것이다.

일본 열도에 가 본 적 있는가? 나는 다른 무엇보다 그 압도적인 산림에 압도당하곤 한다. 그네들이 미쳤다고 이런 본토 산림을 놔 두고 도로 기반 시설도 없고, 산이라고는 천둥벌거숭이 민둥산밖에 없는 한반도에 기어 들어와 산림을 수탈했단 말인가? 산림 자원의 구비 여부는 차치하고라도 이런 산림수탈론은 경제학적으로 수지가 도통 맞지 않는다.

혹자는 압록강 뗏목 사진을 논하면서 일제가 그 울창한 한반도 북부 산림을 작살냈다고 하거니와, 그렇다고 하자. 그걸 이 먼 곳에서 베어나와 해로를 통해 일본 본토로 옮겼단 말인가?

나는 이런 산림 수탈론이 말짱 거짓말인 것은 19세기말 이 땅에 들어온 서양 놈 선교사 부류 등이 남긴 한반도 풍경 사진을 보고는 거짓말인 줄 간파했다. 그네들 글을 읽어봐도 그렇고, 사진을 봐도 그렇거니와 도대체 당시 이미 조선에는 산림이 성한 곳이라곤 단 한 군데도 없었다.

이는 견주건대 기름이라곤 단 한 방울도 나지 않는 한반도에서 일제가 석유를 수탈했다는 주장이랑 진배 없다.

일제가 들어오기 전에 한반도 전체가 벌거숭이가 된 까닭 중 하나는 익히 지적되거니와, 가장 큰 원인 중 하나가 온돌의 보급이었다. 온돌을 세계에 내놓을 한국적 문화상품으로 장사하려는 족속들이 요즘 보이거니와, 미안하지만 온돌은 산림파괴 제1 주범이다.

한반도에서 온돌이 수행한 산림파괴가 시공간을 조금은 바꾸어 北宋 시대 중국으로 돌아가면, 뜻밖에도 ‘먹’이 그 역할을 수행했음을 엿볼 수 있으니, 먹이란 무엇이냐? 지필묵紙筆墨이라 할 때 그 먹을 의미하는 것으로 글씨 쓰는 재료를 말함이니, 난데없이 애꿎은 먹이 산림파괴와 무에 상관이랴 할지 모르지만, 당시까지만 해도 먹을 만드는 주된 재료가 소나무를 태워 낸 그을음이었다는 사실을 알지면, 조금은 수긍하게 되리라.

그렇다고 해도 과연 그러한가? 라고 되물을지 모르겠다. 나는 근거 없는 얘기는 안 한다. 史料가 뒷받침되지 않는 얘기는 단정하지 않는다. 이에 대비되어 저 일제 산림수탈론을 볼 지면, 그런 주장을 뒷받침하는 사료가 도통 없다. 사료 없는 주장. 이는 강요에 다름 아니며, 훈육에 다름 아니다.

북송시대 文士 심괄이란 자가 집필한 《몽계필담》(夢溪筆談) 卷24는 제목이 잡다한 것들을 모았다 해서 잡지(雜誌)라, 그 중에서도 제1이다. 그에는 다음과 같은 일화를 수록했다.

부(鄜)와 연(延)이라는 곳 境內에는 석유(石油)가 나니, 옛날에 “고노현(高奴縣)에서 기름 물이 난다”고 한 말이 바로 이를 가리킨다. (석유는) 물가에서 나오니 모래와 돌이 샘물과 서로 뒤섞여 망망(惘惘)히 나온다. 그 지역 사람들이 메추리 꼬리로 그것을 묻혀서는 취하고는 항아리 속에다 두면 자못 순정한 칠(淳漆) 같고 그것을 태우면 마치 마(麻)와 같았다. 다만 연기가 매우 심해 그로 인해 장막이 모두 그을음이 검게 들었다. 내가 그 연기를 사용할 방법이 없을까 해서 시험 삼아 그 매연으로 墨을 만들어 봤더니 검은 광택이 마치 漆과 같아 소나무로 만든 먹(松墨)이 미칠 바가 아니었다. 그리하여 마침내 그것으로써 먹을 만들어 그에다가 표식하기를 “연주석액”(延川石液)이라 하니 바로 이것이다. 이 먹은 나중에는 반드시 세상에 크게 유행하리라. 그것은 내가 처음으로 만들었다. 무릇 석유가 나는 곳은 많고 땅 속에서 나는 양이 무궁무진하여 소나무와 같이 고갈되는 일이 없다. 지금 제(齊)와 노(魯) 지방에서는 송림(松林)이 다 고갈되고 그런 추세가 점점 태행太行ㆍ경서京西ㆍ강남江南까지 미쳐 송산松山은 태반이 천둥벌거숭이가 되는 판이다. 소나무 그을음으로 먹을 만드는 사람들은 아마도 석유 매연의 이익을 알지 알 것이다. 내가 장난 삼아 《연주시延州詩》란 시를 지었으니 그것은 이렇다.

이랑산二郞山 아래 눈이 펄펄 날리니
천막 치고 살다가 변방 사람 다 되었네
입은 옷 모두 검게 되었지만 아직 겨울이고
석유 연기 대체로 낙양의 먼지와 같네

鄜ㆍ延境內有石油,舊說“高奴縣出脂水”,卽此也. 生于水際,沙石與泉水相雜,惘惘而出,土人以雉尾○之,用採入缶中. 頗似淳漆,然之如麻,但煙甚濃,所沾幄幕皆黑. 余疑其煙可用,試掃其煤以爲墨,黑光如漆,松墨不及也,遂在爲之,其識文爲“延川石液”者是也. 此物後必大行于世,自余始爲之. 蓋石油至多,生于地中無窮,不若松木有時而竭. 今齊ㆍ魯間松林盡矣,漸至太行ㆍ京西ㆍ江南,松山大半皆童矣. 造煤人蓋知石煙之利也. 石炭煙亦大,墨人衣. 余戲爲《延州詩》云:“二郞山下雪紛紛,旋卓穹廬學塞人. 化盡素衣冬未老,石煙多似洛陽塵.”

**원문을 교감해야 하나, 그러지 못했다. 추후 보강하기로 한다.
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댓글 [40]
best 만 | 2009-06-30 | 추천 5
역사든 뭐든지 근거를 제시해야지
맨날 떼서기 우기기..목소리 큰게 이기는 나라...그게 천민의 나라 아닐까?
만 | 2009-07-01 | 추천 0
zeppln//
이런것들이 일본 AV는 졸라 밝히더군..
전에 독립군 손녀라고 설치던 김희선이라는 년 생각나는군..
하는짓거리가 꼭 그런년하고 똑같지..
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
청석//
자빠져 자라 이 쓰레기야
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
참고로 하나 더 말하면
국보 132호 징비록..
서애가 징비록을 남긴 이유가 청석 같은 저런것들은 전혀 모르고 있죠.
남탓 하지말고 좀 반성을 하고 남긴거죠.
자기역사에 반성 없이 발전??.. 맨날 일본탓하는것들 이런 버러지들..이런것들 때문에 일본을 못이기죠. 오히려 일본한테 당하지 않으면 다행이죠. 역사는 되풀이 된다는것...사학자들의 예외없는 시각이라는것..
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청석 | 2009-06-30 | 추천 0
만//흠...이래줘야 되는가배...
일본 av...흠 그거 어찌하면 볼수 있는건가?

남대문이란 명칭이 실록에 나온다...어디실록???
언제부터...??

파블로프의 개라...???
내는 일본 가서 살고 싶다는 심정을 여러번 피력했는디...???

조금이라도 일본을 씹는듯이 보여지는 사람에겐 이빨 드러내는분은
파블로프의 개에서 자유로우려나???

흠...아마 당신이 페미와 이갈고 있는분이지....
쯧.....오죽 싸울 상대가 없으면 가스나들하고....끌...이해혀....
오늘은 내가 피곤혀서 실수혔어....담에 제대로 상대해주께...

아..글고 반말은 니가먼저 썼다...알아묵엇제...잉...??
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HellCat | 2009-06-30 | 추천 0
지금까지 낙성대학파에 대해 논리적으로 반박하는 인간을 못 본것 같네요. 신용하 저 사람은 캐발린거 오래전이고.... 있다면 실증에는 실증으로 맞서는 허수열씨 정도이랄까... 만님 심정 이해합니다.
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만 | 2009-06-30 | 추천 1
청석//
진짜 웃기는 인간이구만..
남대문이라는 명칭은 실록 곳곳에도 나오고..
명성황후라는 호칭은 민비가 죽고 2년뒤에 추존된 호칭이야.

그리고 자살한 우국지사 매천 황현선생의 "매천야록"에는 아예 민비가 아니라 민씨라고 나온다.
무슨 일본이야기 나오면 파블로프의 개처럼 발광하는것들..그것들 일본 AV는 졸라 보지..
왜 나라를 잃었는가 왜 나라를 지키지 못했는가 반성은 없고 맨날 남탓 일본탓 하는 너같은것들이 매국노야..왜냐?..반성이 없는 역사는 "우민화(愚民化)"의 표상이지..알간?..

파블로프의 개 같은것들 치고 제대로 된놈 못봤다. 그리고 역사날조범은 삼족이 아니라 구족을 멸해야돼..알간?
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HellCat | 2009-06-30 | 추천 0
그리고 대공황때의 일본인의 토지획득에 대한 언급이 빠졌네요. 사실상 조선인 자작농은 몰락하죠. 규모가 어지간히 크지 않은 대주지도 마찬가지고... 일본인의 토지소유는 이 시기에 전체 밭이 아닌 논의 거의 30~40%에 육박합니다. 그것도 생산성이 좋은 호남,황해도 지방들이 집중적으로...
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청석 | 2009-06-30 | 추천 0
만...그게 역사적 사실이라 쳐드리지요

그래서 숭례문 현판 남대문 으로 읽으시고,
명성황후...민비로 읽으세요

우리는 숭례문 현판 남대문으로 읽기 시작한넘...
명성황후..민비로 불러준넘들 탓 하고 있을테니까요....

만 당신은 그런 사람들 탓하고 있음 되겠네요
아예 귀화 하셔...안말리니께....
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HellCat | 2009-06-30 | 추천 0
이영훈 교수가 일본인들의 소유경지가 미간지를 개간해서 새롭게 추가된 것이라고 하는데 이유가 뭔지 궁금하네요. 허수열 교수의 책에 의하면 저 10%는 대충 맞는데 일본인이 일반적으로 경지를 획득하는 경향이 미간지 불하에 의한 것이라는건 아닌듯 한데 말이지요. 경작지가 급격하게 늘어나는 토지조사사업 이전에 일본인 소유의 20% 정도가 미간지였는데 이를 다 개간해도 전 조선경지의 1%도 되지 않죠. 조사사업이 끝난 *** 이후엔 경작지 변화가 별로 없고 따라서 치수나 개간에 의한 미간지 개척은 이 시기에 집중적으로 이루어졌다는 걸 감안하면 미간지 개척에 의한 경지 획득은 너무 미화시켰네요.
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
낭만돼지//
박정희와 식민지 수탈론과 뭥미?..
자빠져 자라
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가이바G | 2009-06-30 | 추천 0
그리고 일본 정부는 우리나라를 완전히 자기네 땅으로 된걸로 생각했었고 대륙 진출의 교두보로 삼기 위해서 차근차근 개발을 해 나갔던 겁니다.
간단히 말하면 이런거죠.
딴 사람 집을 강제로 빼았아서 집주인을 종으로 부리면서 자기가 살면서 살기 편하게 여기 저기 고치고 보수했다고 그 사람이 원 집주인을 위해서 한건 아니죠.
게다가 돈이 되는 물건은 싸그리 팔아 버려서 그 돈으로 한건데...
그게 수탈이 아니라면 뭐가 수탈일까요?
세계사를 보시면 아시겠지만 거의 완전히 식민지화 된 나라는 상당히 발전됩니다.
침략한 나라 사람들이 살기 편하게 하기 위해서죠.
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낭만돼지 | 2009-06-30 | 추천 0
만 아 동아일보 찾아보라니깐 일본에 수도 이전계획 박정희 대통령님 밑에서 국토계획하던 분이 찿아내 자료다
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가이바G | 2009-06-30 | 추천 0
80넘으신 분들에게 물어 보세요.
외 할머님도 일본인 집에서 하녀로 지내셨는데요.
일반인들은 좋았다고 합니다.
근데 약탈이나 수탈, 여러가지 잔혹 행위들은 기록으로도 남아 있고 직접 격은 분들도 아직 살아 계신데 무슨 소릴 하시는건지...
마을 주변은 민둥산이 많긴 했지만 그 당시 우리나라 인구가 그렇게 많았던것도 아니고 깊은 산까지 가서 큰 나무 베어서 쓸만큼 운송수단이 발달되어 있지도 않았습니다.
주변산의 작은 나무들이 적었던 이유는 연료로 쓰기 위한거였기 때문이죠.
이런 현상은 농경국가에서 대부분 일어난 일입니다.
마을 주변이 나무가 없다고 우리나라 같이 산이 70%인 나라에 전부 민둥산이였다고 주장하는건 장님 코끼리 만지기입니다.
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
낭만돼지//
니 추정이니 생각이니 이런것 말고 구체적 자료 하나 올려봐..쓰잘데기 없는 소리 하지 말고..
"일본"이면 엄청나게 설쳐되는 신용하 영감도 반론 못하고 있는데..쓰잘데기 없는 소리 하고 있지..
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편재 | 2009-06-30 | 추천 0
산림수탈이 없었다........
우리나라 소나무 많은데 가면 중앙에 상처가 커다란게 나있는 것들이 있어요
그거 부모님 말씀이 일제넘들이 송진 공출해간다고 그랫다던데 이거 어째된건가요??
부모님이 한이야기가 거짓말인가요???

그리고 어머니( 지금도 생존해 계심) 일본놈들 그러면 지독한 놈들이라고 부들 부들 떠시던데
그분은 직접 일제시대에 사셧던 분인데 그분도 왜곡된 역사인식을 바탕으로 하나요??

기역에 하나 남는게 있는데
어머니께서 집에서 쇠라 쇠는 다 뺏어 갔답니다. 하루를 멀다하고 순사하고 면사무소 직원이 돌아 댕겻다던데요.
그래도 제사지내는 제기(놋그릇)은 뺏길수 없어서 헛간 땅속에 묻어두엇는데 그걸 꼬쟁이로 쑤셔가면서 끝내 찾아 갔더라구 하던데요.....
어 이런일이 우리 어머니 집안에만 있엇나요
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낭만돼지 | 2009-06-30 | 추천 0
만 롬족에 주장처럼 사실적인 통계를 바탕으로 비판하는 것은 좋단 말이지 그 주장에는 동의 하는데
사실이 진실이 아니면! 난 의구심이 드는게 요세 나오는 식민지 근대화론 심지어 일본에 조선 지배는 천운 이였다라는 주장이 통계에 의한 사실일지는 모르지만 진실은 아니라고 본다 지금이 주장를 하는 학자 또는 이 주장를 받아 들이는 정치세력들이 무슨 의도로 이 주장를 하냐 말이지 그 이면에는 일제시대부터 기득권를 가진 매국노들이 해방이후 우파에 기생하면서 자신들를 합리화 시키는 도구로 사용하고 있다는 의심를 지울수 없다는 거다 이들에 주장에 따르면 독립운동은 뻘 짓이고 조선은 미개사회여서 발전 가능성이 전혀 없는 나라라 이거야 좌파에 과장되게 주장하는 술책하고 무슨 차이냐 이거야
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편재 | 2009-06-30 | 추천 0
'20-40세에 해당하는 인구는 321만명....이라 40년대에 한반도에 인구가 2천5백만인데 이건 우째 된건지.. 서로 다른 통계를 이용하나요?? 남자 하나가 7명을 부양하는 셈인가요??
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편재 | 2009-06-30 | 추천 0
어 우리아버지도 일본 탄광에 가서 다리 다쳐서 살아 생전에 다리가 비뚫어져서 걷기가 불편하셨는데
우리아버지 같은 경우가 매우 드문 경우였군요...
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
신원동아 내가 그런말 한적이 없다고 말했는데도 자꾸 허위사실 나불될래?
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나는 전설이다 | 2009-06-30 | 추천 0
아...만님 글이었군요.
"김구가 밥을 사줬냐? 떡을 사줬냐?
하시던 분이군요.
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
낭만돼지...
저기에 은혜를 입었다는 말이 어디 있나??
사실을 말하는데도..
천민이 뭘까?.......천민과시냐?
역사 날조범이 뭘까?

맨날 일본놈 나쁜놈,일본탓...무슨 애국자인것처럼 행세하는것들 일본AV는 졸라 밝히더군
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낭만돼지 | 2009-06-30 | 추천 0
그리고 산림수탈은 사람이 많이 모여 있는 곳은 민둥산 이였지만 지리산이나 백두대간은 좋은 나무가 많아다고 합니다 그쪽으로 벌체해서 실어 나간게 꾀 많다고 하네요
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롬족 | 2009-06-30 | 추천 0
낭만돼지.....[그것를 무슨 은헤를 입은마냥 떠드는 것도 우습고] 누가 그러디?
누가 그러는지 한번 데리고 와보세요.

날도 더운데....좀비 새끼들은 썩지도 않나.........
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10terror | 2009-06-30 | 추천 0
고인이되신 제부친께서 일제시대말에 일본군 징용으로 탄광에 끌려가셔서 평생장애인으로 고생하시다가 돌아가셨는데 ... 복수만 할수있다면 빨갱이와도 손잡을수있습니다.
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낭만돼지 | 2009-06-30 | 추천 0
이영훈 교수에 주장이 사실이고 수탈도 조금밖에 안했고 한글보급도 해주고 했다고 해서 일본이 우리나라를 위해서 했다는 것은 아니라 말이지 그것를 무슨 은헤를 입은마냥 떠드는 것도 우습고 웃기다 이거야 그리고 동아 일보 기사 찾아보면 일본에 수도이전계획이 나오니깐 너가 찾아봐
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투어   | 2009-06-30 | 추천 0
저는 딴건 모르겠고.. 산림수탈에 대해선 확실하게 알았습니다..원래 조선은 민둥산이였는데.. 수탈이고 자시고 할게 없었다는거죠..

그리고 보면. 자원이 될만한 나무도 크게 없는 듯.. 마을 당나무들이 곳곳에 있는 것을 보면.. 멀쩡하자나요..
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투어   | 2009-06-30 | 추천 0
롬족님, 제말 뜻을 이해 못하셨군요.. ㅎ
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rudxo88 | 2009-06-30 | 추천 2
예를 들어 보자면

광주무장폭동당시 좌파들은 그 피해자가 이천여명이 넘는다며 부풀리기를 했습니다...정말 그런가? 하는 국민들도 많았습니다...

그러나 조사를 해보니까 실제는 거의 90%이상 거짓선동이었습니다...
죽은 사람들중에 시민군의 카빈소총에 죽은 사람도 20명이 넘었고 민주화투쟁으로 여겨졌던 광주폭동은 무장폭동에 폭도들이 교도소까지 습격하고 교전을 벌인 무장폭동임이 드러났습니다...

피해자의 피해부풀리기는 심리적으로 어쩔수 없다고는 하지만 역사까지 왜곡한다는건 좀 부끄러운 일입니다...
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rudxo88 | 2009-06-30 | 추천 0
피해자는 자신이 입은 피해를 부풀리고 싶어하고 가해자는 자신이 행한 가해를 축소하고 싶은게 어쩔수 없는 이치입니다...

일본문제의 가장 큰 전제는 피해자(한국)영원히 피해자이고 가해자(일본)는 영원한 가해자라는 겁니다...

이 전제를 무시하는 일부 좌파들은,
객관적인 자료를 들이밀어도 유치하게 부풀려진 피해상황을 부정한다며 친일로 매도합니다...

하늘이 무너지고 해가 서쪽에서 뜬다고 해도 일본이 한국을 병합한 사실과 가해자란 딱지는 없어지는게 아닌데 피해자측의 소설에 가까운 피해상황부풀리기와 일방적 역사매도를 부정하는 모든 행동을 친일로 몰면서 민족주의를 팔고 있는 거죠...
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롬족 | 2009-06-30 | 추천 1
투어님...별로 엄청난 말 아닙니다.
전국민의 동의를 왜 얻어야 합니까?
그건 좌파적 사고방식이고........역사에 대한 판단은 관념이 아니라 사실과, 펙트로서 판단하는 것입니다.
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best 만 | 2009-06-30 | 추천 5
역사든 뭐든지 근거를 제시해야지
맨날 떼서기 우기기..목소리 큰게 이기는 나라...그게 천민의 나라 아닐까?
롬족 | 2009-06-30 | 추천 0
우리가 학교에서 애들에게 가르치고...우리 또한 그렇게 배운 것들이........왜곡된 것이 얼마나 많은지 일반인들은 잘 모르죠.
이미 학교 교육과 사회 관념이 그렇게 세뇌시켰으니 말이죠.
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
낭만돼지// 그런소리 하지 말고 불리한 정보 한번 올려보지..
당신 같은것들 보면 친한파도 혐한으로 돌아선다.
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롬족 | 2009-06-30 | 추천 1
우리나라가 이뻐서 돈주고 기술주고 키워다는 주장이겠지만 웃기는 소리지
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미친놈.....일본이 우리가 이뻐서 근대화 시켰다는 소리 한 구절도 없구만.......올바른 소리가 귓구멍을 통해 뇌세포로 전달되면, 사건을 왜곡시키는 암세포가 당신의 주둥이 놀리는 세포를 지배하나보지?
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투어   | 2009-06-30 | 추천 0
솔직히 너무 엄청난 말이라 믿기 어렵네요..
이건 전국민의 동의를 얻어야 될 듯.. 역사가 사실이든 뭐든 ㅋㅋㅋ
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낭만돼지 | 2009-06-30 | 추천 0
일본이 왜 조선에 제국대학를 짖고 일본 세금를 써가면서 기간사업를 했을까?
우리가 이뻐서 조선사람들이 불쌍해서? 그건 일본이 조선를 영구 식민지로 만들기 위한 조치였지
우리나라 국민들이랑은 아무 상관이 없어 그런데 우리가 고마워 해야 하나? 심지어 일본에 수도를
한반도로 옮기고 일본 사람를 대규모로 이주시키고 조선 사람은 만주로 보내는 구상까지 했다고 한다
감사할 일이니 어이 만 사실만 보지 말고 숨겨진 진실를 봐야지 정말 옆에 있었으면 주둥아리를 날아갔소 일본애들이 자신들한테 유리한 정보는 남기고 불리한 정보는 다 폐기시키고 일본이 주는 유리한 정보만 입으로 떠드는 학자나 그걸 믿고 꼴에 우파라고 좌파욕하는 인간이나 언제부터 매국노=우파가 성립 됐는지
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만 | 2009-06-30 | 추천 5
역사든 뭐든지 근거를 제시해야지
맨날 떼서기 우기기..목소리 큰게 이기는 나라...그게 천민의 나라 아닐까?
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만 | 2009-06-30 | 추천 0
낭만돼지//
미즈노 슌페이가 왜 변했는지 당신같은 보면 알수 있지..
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투어   | 2009-06-30 | 추천 0
개娼이가.. 종훈이 맞구먼..
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미래의창 | 2009-06-30 | 추천 0
똑같이 일본에 식민통치당한 대만은 조용한데, 한국만 시끄러운 이유는...민족주의에 물든 좌빨들이 박정희 같이 위대한 사람도 친일파로 몰아붙이며 국민들을 선동했기 때문입니다.
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낭만돼지 | 2009-06-30 | 추천 2
이영훈 교수의 말 객관적인 사실이고 통계된 수치라면 믿어야 겠지 하지만 보이는 것이 사실이라고 해서 진실이라고 말할수는 없을거야 여기서 웃기는 것은 당신같은 자들이 말하고 싶은 주장은 일본이 우리나라가 이뻐서 돈주고 기술주고 키워다는 주장이겠지만 웃기는 소리지
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http://www.leesiwoo.net/?p=1365


연재10 한강하구 숲의 역사-마지막회2007/01/10 941

2012년 12월 2일 · by leesiwoo · in 평화
처음 생각했던 연재보다 굉장한 시간과 분량이 소요되었습니다. 이제는 일단락을 지을때가 된 것 같아 여기까지 쓰기로 했습니다.
한강하구에서 유엔사를 디딤돌로 유라시아 평화체제의 도약점이 마련되기를…..

한강하구 숲의 역사
사진가 이시우(www.siwoo.pe.kr)

사진1 혈구산
사진글 나무가 모여 숲을 이룰 순 있지만 산을 만들 순 없습니다. -강화 혈구산-

들어가며
새벽 3시 강화읍내에 있는 집을 나서서 선원면연리에 있는 작업실로 가는 2-3시간동안 세 번의 고개를 넘고 세 번의 숲을 지난다. 때론 막막한 두려움으로, 때론 어머니 같은 너른 품으로, 달빛이 애무하는 듯한 사랑의 공간으로 숲은 내게 다가온다. 글귀를 암송하거나 낮은 노래를 부르며 가다보면 어떤 숲은 최상의 오페라하우스로도 흉내내지 못할 고상하고 아름다운 울림으로 수많은 나무와 나 자신을 황홀경에 빠진 청중으로 만들어버린다. 나무가 모여 숲이 된다고 하지만 그것은 숲을 보지 못한 관념의 구성이다. 나무와 나무 사이에는 간격이 필요하고 그 간격이 만드는 공간의 장과 함께 비로소 숲이 된다. 나무와 나무사이의 공간이 만드는 장에 의하여 비로소 숲은 이루어지는 것이다. 그 공간에는 나무의 바탕인 흙이 있으며 흙의 피인 물이 있으며, 흙의 뼈인 바위가 있다. 그러나 모든 요소에는 동력과 중심이 있으니 나무사이의 공간이 아무리 중요해도 나무가 베어지면 공간도 사라진다. 그리고 숲도 사라진다. 나무와 공간과 숲은 인간에게 무한한 문명의 영감과 상상력을 제공해 왔으며 그 결과 무수히 베어져 쓰러져갔다. 인간의 문명에 상상력을 제공한 죄로 수없이 명멸해간 숲의 역사는 거대한 서사시이다. 그리고 그 비극의 서사는 강바닥과 갯벌에 고스란히 기록되어 있다. 나무를 중심으로 한 관계의 장인 숲은 나무가 베어지는 순간 해체되기 시작하여 강과 바다에 새로운 장을 구성한다. 숲은 훼손되어도 다시 복원되는 힘을 가지고 있어 가역적인 체계이지만, 황폐화된 숲에서 유출된 토사와 토사에 의해서 형성된 갯벌은 다시 숲으로 돌아갈 수 없다는 점에서 불가역적인 체계이다. 그러나 그것은 작은 차이일뿐 숲과 강과 바다의 연관을 부정할 수 있는 근거는 되지 못한다. 숲과 강, 흙과 물, 자연과 마을은 관계의 장이 진화하며 만드는 매듭일 뿐 분리된 실체가 아니다. 한강하구를 논하면서 숲을 이야기할 이유가 여기에 있다. 숲은 이제 더 이상 순수한 자연이 아니라 인간화 된 자연이다. 그 역사를 살펴봄으로써 숲은 숲 스스로의 문제가 아닌 사람의 문제임을 알게 된다. 숲을 대하는 태도와 관점은 결국 세계의 주인이라고 자처해 온 사람의 지위와 역할을 검증하는 추와도 같다. 우리는 숲이 인간에게 의존하는 것 보다 인간이 숲에 더많이 의존하고 있었다는 사실을 깨닫기 시작했다. 세계의 가장 특출한 존재로서의 인간은 자연을 정복하고 수탈할 수 있다는 점에서가 아니라 존중하고 조화할 수 있다는 점에서 빛을 발한다.

고대 한강하구의 숲
자연 그 자체의 천연림으로서 존재했던 숲은 인간이 불을 발명하고, 문명이 급속도로 진전되기 시작한 시기부터 매우 빠른 속도로 파괴되어 가기 시작했다. 여기서 쓰고자하는 것은 사실 숲 파괴의 역사이며, 달리 표현한다면 인간화된 숲의 역사이다. “소돔과 고모라와 그 분지 일대를 굽어보니 그 땅에서는 연기만 치솟고 있었다. 마치 아궁이에서 뿜어 나오는 연기처럼 피어오르고 있었다.”, “시나이 산은 연기가 자욱하였다. 가마에서 뿜어 나오듯 연기가 치솟으며 산이 송두리째 뒤흔들렸다.”(창세19,28;출애19,18) 소돔과 고모라에서 나는 연기와 시나이 산에서 나는 연기는 석회가마(lime-kiln)에서, 또는 옹기가마에서 나는 연기에 비유된다. 도시로 상징되는 문명은 숲의 가장 먼저 위협한 존재였다. 여기에 더하여 농업혁명은 숲의 파괴를 가속시키는 요인이 되었다. 생물진화의 마지막 단계에 나타난 인간과 인간을 현재의 인간으로 만든 사회의 형성은 카오스의 자연을 코스모스의 자연으로 바꾼 결정적 계기가 되었다. 이미 숲은 인간의 역사와 문명속에 편입되기 시작했다. 숲은 그때로부터 자연의 모습과 더불어 역사와 문명의 모습을 갖추어가기 시작한 것이다. 나무야말로 우리를 석기와 골각기 문화에서 현시대로 이끈 기술혁신의 찬양받지 못한 영웅이다. 이미 고대에도 문명의 가혹한 희생양이 되고 있는 숲에 대한 비평가가 있었다. 예언자 이사야는 야심가인 아시리아의 왕이 죽은 후 다음과 같이 말했다. “삼나무와 레바논의 송백까지도 손뼉치며 네가 쓰러진 후에는 아무도 저희를 찍으러 올라오지 않는다고 좋아하는 구나.” 인간은 숲을 변화시키고 있었지만 숲도 인간을 변화시키고 있었다. 숲은 이미 문명이었다. 나무는 고대 아일랜드의 알파벳 문자도 나무이름에서 따왔다. 가령 A인 ‘엘림(alim)은 엘름(elm느릅나무)에 해당했고 B인 비스(birch:자작나무), C인 콜(coll)’은 ‘헤이즐(hazel: 개암나무) D인 데어(dair)는 ‘오크(Oak참나무)에 해당했다.(숲의 서사시,존 펄린.따님출판사 2002.p25)
숲을 파괴하는 가장 강력한 요인은 인위적요인이지만 특별히 취약한 자연적 조건과 결합될때 숲의 파괴는 가속화 된다.
한강과 한강하구의 지질구조는 우리나라의 전반적인 특징과 함께 화강암과 화강편마암이 압도한다. 화강암류는 풍화가 쉽고 그렇게 풍화되어 생성된 토양은 산성화하는 경향이 있으므로 지질분포상 각종 침식과 유실에 약하다. 1932년부터 1933년까지 2년에 걸쳐 조사된 황폐지조사 결과에 따르면 전국의 민둥산황폐지 면적 218,013정보중 83%가 화강암과 화강편마암지역이었다. 또한 황폐지의 93%가 경기 강원 남쪽지방에 분포하고 겨우7%가 이북지방에 분포되어 있어 황폐지의 대부분이 남녘에 집중되어 있었음을 알 수 있다. (황폐지복구사 산림청1988 p72)
지질과 함께 숲의 훼손을 가속화 시키는 것은 지형요인이다. 흐르는 물의 침식작용은 하천의 상류, 중류부의 산아래 및 하상을 침탈하고 모래자갈을 하류로 운반하여 산을 평평하게 깍아낸다. 이런 침식윤회작용은 지형을 결정짓는다. 산지의 지형은 암석의 종류에 따라 드러나는 것이 아니고 침식윤회활동에 의해 드러나므로 침식활동이 왕성한 시기의 지형은 산의 붕괴가 보다 용이한 지형인 것이다. 지표경사와 산붕괴와의 관계에 대한 조사보고에 따르면 지표경사 30도 내외에서 가장 붕괴발생이 많고 20도이하 40이상의 지형에서는 적다. 한강하구와 관련지역인 서울,경기,강원중 서울,경기의 경사도는 다른 도에 비해 매우 완만한 편이나 강원지역은 15도 이상의 급경사지가 많다. 산골짜기는 빗물이 집중되고 토사가 쌓이므로 산붕괴가 가장 많이 발생한다.
기상 또한 산림황폐의 직간접요인이 된다. 우리나라의 기후는 대륙성기후로서 한서의 차가 심하고 특히 겨울의 일교차가 심하여 암석의 풍화를 격심하게 일으킨다. 그러나 이보다 직접적인 것은 게릴라성 호우, 폭풍우, 태풍, 눈과 같은 요인이다. 특히 7,8월 두달은 일년동안 내리는 비의 1/3이 내리며, 6,7,8,9월 넉달은 1/2이 내린다. 또한 역사적으로 하루최대 강우량과 1시간 최대강우량이 발생한 곳도 서울과 인천이었다는 것은 한강하구지역의 거친 기상상태를 잘 표현하고 있다.(1984년 재해대책편람참조)
산림의 병충해 또한 산림황폐화의 요인이 된다. 특히 우리나라는 소나무를 중심으로 하는 비교적 단순한 수종으로 구성되어 있으므로 어느 특정한 해충이나 병균의 전파와 번식이 용이하다. 특히 과거에는 솔나방과 솔잎혹파리의 피해가 극심하여 이로 인한 숲의 고사가 잦았고 최근에는 소나무재선충이 새로운 위협으로 등장했다.
한강하구의 자연환경은 숲의 훼손을 가져오기에 양과 음의 요소를 모두 가지고 있지만 숲의 파괴를 본격화 한 것은 한강이 한반도 역사상 문명의 중심지란 점이다.

사진2 도장리숲
사진글 도장리 석릉숲의 안개는 주술에 걸린 듯 묘묘한 긴장이었습니다.

신석기시대 한강하구의 숲
한강하구의 문명은 숲을 어떻게 바꾸어갔을까? 흙속에 묻혀있던 토기의 파편은 사라진 문명의 증표이자 숲의 파괴를 알리는 신호탄이기도 했다. 강화군의 도장리,동막리등 약10군데에서 신석기 유적과 함께 빗살무늬토기가 발견되었다. 도장리에서는 빗살무늬토기와 민무늬토기가 126점이나 출토되어 신석기시대에서 청동기시대까지 긴 시간을 한 장소에서 정착해 살았음이 확인되었다. 여차리의 토기는 신석기 전기양식이어서 매우 일찍 사회가 형성되었을 것으로 추정된다. 한편 우도에서는 볍씨자국토기가 발견되었는데 볍씨낟알의 길이가 너비의 2배가 넘어 인도형에 속한다. 섬 둘레가 4km 밖에 안되는 우도의 지형조건상 논농사보다는 밭벼농사였을 가능성이 크며 이것은 기존의 숲을 개간하여 이루어졌을 것이다. 어쨌든 이것은 한강하구 지역에서 이른 시기에 농경이 시작되었음을 말해준다. 수렵이 숲에 의존하는 것이라면 농경은 숲을 부정하고서야 가능하다는 점에서 농업혁명은 숲 파괴의 가장 결정적 요인이었다. 이와 더불어 주목되는 것은 토기 그 자체이다. 토기를 굽기 위해서는 높은 온도의 열이 필요하고 이것은 전적으로 나무에 의해서 이루어진다. 나무가 아니고서는 높은 온도의 불을 만들어낼 수 없기 때문이다. 동막리가 위치한 마리산과 도장리가 위치한 진강산은 신석기에서 청동기에 이르는 1000년에서 2000년 정도의 오랜기간을 토기를 생산하는 마을이 형성되어 있었다는 점에서 강화에서 가장 일찍 숲의 파괴가 진행되었던 곳으로 판단된다. 도장리에서 100여 가구가 넘는 큰마을을 이루고 있었다면 집을 짓는데 소용되는 나무와 난방용 땔감이 지속적으로 필요했을 것임은 자명하다. 우도에서 발견된 농경의 역사는 오랜 정착생활이 이루어진 도장리에서도 최소한 청동기시대의 어느 시점에서는 시작되었다고 볼 수 있다. 곡물을 재배하는데 사용된 도구로는 개간용으로 사용된 토지 굴지구(도끼류)와 돌이나 뿔로 만든 보습, 괭이, 곰배괭이 등이 있는데 이외에도 자료는 남아있지 않지만 나무로 만든 여러 도구들이 사용되었을 것이며, 석기에도 나무자루를 끼워서 사용했기에 더 많은 나무가 필요해졌을 것이다. 나무가 제대로 된 목재로 사용되기 위해 50년 정도의 기간이 소용된다고 봤을 때 한 장소에서 약 100여 가구가 집중적으로 나무를 소비했다면 나무가 소비되는 속도와 나무가 자라나는 속도 사이엔 균형이 깨어졌을 것이고 그 결과는 나무위기로 연결되었을 것이다. 도장리 숲의 파괴는 대흥과 하록마을을 지나는 골짜기를 따라 토사를 유출시켰을 것이고 선두포 갯벌로 흘러들어가 갯벌층의 고도를 점점 올려갔을 것이다. 동막등 강화 갯벌의 나이가 5천년 정도 되는 것은 이러한 문명의 시간과 무관치 않은 것이다.

사진3 고인돌
사진글 농경은 천문을 낳고, 천문은 권력을 낳고, 권력은 새로운 고인돌을 낳았다.

고조선(청동기)시대 한강하구의 숲
청동기시대에서 철기시대에 이르는 기간의 역사적 실체는 고조선이다. 고조선의 영역을 한강까지 보는 경우도 있으나 아직은 논쟁의 소지가 있으므로 고조선과 같은 시대에 한강하구에서 이루어진 숲의 역사정도로 범위를 정해두고 이야기를 시작하자. 환웅이 태백산 신단수에 내려와 신시를 열었다는 단군신화는 숲을 고조선 건국의 배경으로 하고 있다. 삼국유사발해조에서 후위서를 인용하여 소개한 고아시아족의 명칭중 하나인 물길勿吉(Wu-tsi)이란 말은 “숲에서 생활하던 사람들”을 가리키는 용어이며, 말갈靺鞨이란 말은 “물가에서 생활하던 사람들”을 가리킨다. 만주의 자연환경과 기후구분에 따른다면, 북쪽 한냉대 습윤기후(Dwb)의 삼림지역(Taiga)에서 수렵을 위주로 생활하던 사람들을 물길勿吉(Wu-tsi)이라고 한 데 비하여, 남쪽 한냉대아습윤기후(Dwa)의 강가·평야지역에서 농경생활을 하거나 수렵에서 농경으로 이행하는 과정에 있었던 사람들을 말갈(Moxo)이라고 한 듯하다.(古代東北アジア史硏究.三上次男 pp.223~244)
청동기시대는 이미 숲을 배경으로 성장한 부족들이 정착하며 지역세력을 만들어 가던 정황을 추측케 한다. 강화 삼거리의 팽이형토기는 새로운 단계에 들어선 문명의 존재를 암시케한다. 청동기시대를 대표하는 무문토기가 한강유역에 전래된 것은 강화도 삼거리에서 무문토기전기형인 팽이형토기가 발견된 것으로 보아 서북한지역으로부터 일찌기 한강유역까지 확산 전래되었음을 알 수 있다. 그리고 이 팽이형토기가 전래됨으로써 이 지역 즐문토기문화인들은 새로운 토기문화에 접하게 되어 그들 토기의 제작 수법에도 변화를 가져왔다. 한강하구와 인접한 파주시 교하리와 양주군 진중리등에서 무문토기 태토에 즐문이 새겨진 토기편이 발견되었고 춘천 교동 동굴주거지에서도 무문토기와 태토가 비슷한 토기가 나왔다. 그 중에는 무문소호도 있어 역시 무문토기와의 접촉에서 즐문토기가 변한 것임을 알 수 있다.
무문토기 중기형의 대표적인 것은 공열문토기라 할 수 있는데 공열문은 원래 함경북도 두만강 유역에서 나타난 문양형식인데 함흥평야를 거쳐 동해안을 따라 남하하여 한강상류지방으로 들어와 점차 전 지역에 확산되었다. 한강유역 평야지대 구릉상에서는 거의 발견되고 있어 공열문토기인들이 한강유역에 들어올 때 급격한 인구증가가 있었음을 알 수 있다. 지금의 잠실, 영동지구의 야산일대에는 수십호씩의 수혈주거취락들이 몰려있었다. 후기 무문토기는 한마디로 흑도라고 할 수 있다. 흑색마연수법은 전기, 중기의 무문토기 제작수법과는 상당한 차이를 보인다. 우선 태토가 다르고 다음으로 연기를 씌운 수법이 다른데 이것은 굽는 방법에서 어느정도 발달된 시설물을 이용한 것임을 알 수 있다. (한국청동기문화연구 p338-344임병태 학연문화사 19981.15)
강화도 삼거리에서 출토된 토기가 중요한 것은 이것이 800℃ 이상의 고온을 필요로 하는 로爐기술이 있어야 한다는 것이다. 이러한 기술은 청동기와 철기문명을 일으키는 결정적인 조건이 되었다. 북에서 행한 다음의 질그릇소성실험은 1,200℃의 고온을 내는 가마시설과 숯이 청동기제작기술의 전제였음을 추론케 한다.

질그릇은 보통 800℃ 정도에서 구워낸다. 우리나라 신석기및 청동기 시대의 질그릇 가운데 불그스레한 밤색빛이 도는 것들은 대개 800℃ 정도에서 노천에서 구워낸 것들이다. 신석기 질그릇 가운데는 잿빛이 도는 굳은 도질그릇이 적지않다. 서포항유적 신석기시대 말기의 새김무늬 그릇을 실험 분석한데 의하면 그 소성온도는 1,200℃이며 내화도는 1,400℃ 정도에 이른다고 한다. 이것은 아주 높은 온도에서 구워냈다는 것을 의미하며 이러한 질그릇은 노천이 아니라 비교적 잘 정비된 가마시설에서 구워냈다는 것을 보여준다. 우리나라에서 청동기시대는 기원전 2000년 초에 시작되었다. 청동기는 선행한 석기제작기술과 질그릇 제작기술이 일정한 수준에 이르렀을 때 비로소 가능하게 된다. 구리의 녹음점은 1,083℃이지만 청동은 700-800℃에서 녹일 수 있다. 1200℃에 이르는 높은 열도에서 구워지는 질그릇은 해당한 발전된 가마시설과 기능로력을 요구하며 또 질 좋고 다양한 청동기의 제조는 높은 전문기술과 협동로동을 필연적으로 요구하게 되었다.(조선수공업사 p12-13 손영종, 조희승저 1990 사회과학원력사연구소)

청동기를 생산하는 방법은 다음과 같았을 것으로 추정된다.

로안에서 야금을 시작할 때에는 먼저 나무와 숯을 넣고 다음에 동광석을 넣었으며 용재로는 석회석을 넣었다고 생각된다. 그 웇층에 다시 나무와 숯, 광석과 용재들을 번갈아 쌓아올린 다음 불을 지폈다. 불이 달려붙기 시작하면 풍구를 이용하여 로안에 바람을 불어넣어 로안의 온도를 높였다고 인정된다. 연기가 나오는 정도에 따라 로위의 연기구멍을 조절하였다. 이러한 청동야금로의 형태와 청동야금법은 신석기시대말기 질그릇로의 형태와 질그릇 굽는 방법을 본따서 더욱 발전시킨 것으로 볼 수 있다. 선조들은 보다 합리적인 청동야금로와 풍구를 창안리용함으로써 로안에서 1천 수백도 이상의 높은 온도를 얻을 수 있었다. 다음으로 우리선조들이 창안한 청동야금기술에서 중요한 문제의 다른 하나는 야금로에 숯과 동광석, 연, 아연광석들을 합리적으로 쌓아놓고 녹이는 방법문제였다. 우리선조들은 숯으로는 열량이 높은 참나무숯을 비롯하여 여러가지 나무들의 숯을 이용하였다. 그리고 오랜 경험에 기초하여 숯의 량과 여러 가지 광석들의 비율과 그 량을 조절하였다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p26.27) 밀폐된 질그릇 로의 흔적은 함경북도 온성군 삼봉구의 청동기시대 유적지에서 발견되었다.(위책p30)

숯이 아니고서는 천수백도의 온도를 얻을 수 없다. 청동기 생산을 위해 사용된 숯은 그자체가 막대한 양의 나무연료를 필요로 하는 것이었다. 60파운드(2.880kg)짜리 구리 주괴 하나를 만드는데 필요한 6톤의 숯을 구우려면 120그루의 소나무, 즉 500평방미터에 가까운 소나무 숲을 베어야 했다. 고고학자들은 키프로스에서 채굴되고 정련된 구리주괴 200개가 청동기시대의 한 난파선에 실려 있는 것을 발견했다. 그 정도의 양을 생산하려면 거의 2만4000그루의 소나무를 희생시켜야 했을 것이다. 기원전 14세기와 13세기 유럽에서의 활발한 주괴 교역은 해상운송을 통해서 또한 광활한 삼림의 벌채를 동반하면서 이루어졌다. 구리산업으로 매년 평균적으로 4-5평방마일의 숲이 벌채되었다.(숲의서사시.존펄린.따님출판사.2002.p69)
청동을 생산하기 위해서는 숯막이 따로 존재해야만 했다. 숯을 만드는 과정은 다음과 같다.
땅을 파고 흙으로 둥그런 벽을 세워 지름 5m 높이 2m정도의 가마를 만든다. 아궁이는 위에 내고 그 옆에 나무를 넣는 문을 낸 후 반대편에 굴뚝을 뚫는다. 가마의 벽은 3m-4m가 넘어 몇 년을 쓸 수 있을 정도로 튼튼하게 짓는데 덮개의 흙은 나무를 다 들어 보낸 후 초벌, 애벌, 세벌에 거쳐 두들겨 다져서 만든다. 이 작업을 등치기라고 하는데 숯막의 일 중 가장 힘든 일로 숯막의 일꾼들은 힘겨움을 잊기 위해 “에헤야 탄이야 에헤야 탄이야”하는 노래를 부르며 등치기 작업을 반복한다. 가마가 완성되고 참나무나 소나무 숯감이 다 넣어지면 불을 지피는데 불을 놓은 지 나흘쯤 되면 굴뚝에서 나오던 하얀 연기가 파랗게 변한다. 이것은 나무가 거의 다 탔다는 징후이며 그러다가 연기가 끊기면 막았던 가마 문을 조금 뚫고 불 빛깔을 보아 잘 익은 감색이 보일 때부터 다음 작업에 들어가는데 이때 불의 빛깔을 보는 것이 기술이다. 불에 탄 나무를 그대로 가마에 두고 식혀도 열이 천천히 식으면서 숯이 되는데 이러한 숯을 흑탄 또는 검탄이라고 하며 흑탄은 질이 좀 떨어지므로 더 좋은 숯을 얻기 위해 벌건 불기운이 있는 나무를 꺼내어 흙을 덮어서 열을 식혀야만 겉면에 흰빛을 띠는 단단한 숯을 얻을 수 있는데 이를 백탄이라고 부른다. (http://www.charmsoot.com/charchol05.htm) 흔히 볼 수 있는 숯은 대부분 검탄이다. 400∼700℃의 온도에서 3∼4일 정도 구워낸 숯으로 가마의 불을 끄고 공기가 들어가지 않도록 가마 내부를 막은 다음 만들기 때문에 재가 묻지 않아 색깔이 검다. 백탄은 1000∼1200℃의 온도에서 7일 정도 구워낸 숯이 백탄이다. 숯이 거의 구워지면 가마 위에 공기구멍을 내어 공기를 불어넣은 다음 숯을 꺼낸 뒤 석회와 모래, 흙을 혼합하여 만든다. 이처럼 토기를 굽기 위한 재료인 숯을 만드는 과정에서 이미 천문학적인 양의 나무와 숲의 파괴를 동반한다.
결국 무문토기와 청동기가 제작되기 위해서 필요했던 높은 온도의 재료는 다름 아닌 나무였다. 수많은 나무와 숲이 토기와 청동의 제작을 위해 로안에서 사라졌다. 청동기시대에는 북으로부터의 집단이주로 서울은 말할 것도 없고 북한강에서부터 한강하구까지 광범위한 청동기유적이 발견, 조사되었다. 춘천지역에서 양평지역에 이르기까지 많은 청동기유적이 발견되었으며, 포천에서 가평을 이어주는 교통로역할을 했던 조종천변에서도 무문토기가 발견되었다. 가평 달전리에서는 공렬토기계 무문토기와 불기운을 받은 붉은색 소토의 노지, 아궁이등이 발견되었다. 이는 춘천지역 거주지 유적에서 발견된 것과 동일하다. 청동기시대부터 이미 한강은 인구급증과 그에 비례한 문명과, 그에 비례한 숲의 파괴가 본격화되기 시작한 것이다. 청동기시대에 이르러 고조선이 성립되면서 청동기는 국가와 거수국들에서 활발하게 제작되기 시작했고 광범위한 청동기의 확산은 머지않아 숲의 고갈을 불러왔으며 연료난은 새로운 기술, 즉 철에 대한 관심을 불러일으켰다. 이것은 문명사에서 청동기와 비교할 수 없는 중요한 계기가 되었다. 철기문명을 발생시킨 원인이 연료인 나무의 부족이었다는 해석은 의미하는 바가 크다. 소아시아 지방에서 이루어진 다음의 과정은 우리에게도 참고할 만하다.

구리생산을 위축시켰던 연료위기는 야금가들로 하여금 철을 다루게 해준 계기가 되었다. 청동기 시대의 키프로스 사람들은 구리함량은 4퍼센트를 넘지 않지만 철 함량은 40퍼센트나 되는 광석을 제련했기 때문에 똑같은 양의 연료를 쓰더라도 구리보다 훨씬 많은 철을 얻어낼 수 있었다. 요컨대 철제련은 연료가 귀해졌을 때 시작된 것이라고 보아야 할 것이다. 키프로스의 구리선광찌꺼기에는 많은 양의 철이 함유되어 있었다. 연료가 충분했던 시절에 야금가들은 원광만 제련했지 큰 무더기로 쌓인 슬래그는 거들떠보지도 않았다. 그러나 연료 구하기가 어려워지면서 생산을 줄일 수 밖에 없게 되자 야금가들은 슬래그 더미에서 ‘황금’을 찾아냈다. 슬래그에 엄청난 양의 철이 함유되어 있었던 것이다. 게다가 망치로 두드리면 간단하게 철을 떼어낼 수 있었다. 다시말해 가열과정을 거치지 않고도 슬래그로부터 철을 분리해 냄으로써 연료부족이라는 제약을 극복할 수 있게 된 것이다. 이들이 철을 얻는데 성공함으로써 지중해와 유럽에 철기시대로 진입할 수 있는 발판이 마련되었다.(숲의서사시,존펄린.따님출판사2002.p71-73)
존펄린은 사회를 바꾼 기술에 대해 이야기하고 있다. 한편 좌전左傳에 ‘진국晉國이 기원전 513년에 솥(鼎)을 철로 주조하고 그 표면에 선자宣子의 ‘형서刑書’를 주록鑄錄하였다‘ 했는데 이는 중국에서 철의 주조에 관한 가장 오랜 기록이다. 궈모뤄(郭抹若,1892-1978)는 철제농기구에 의한 심경법深耕法의 도입이 노예제도에서 봉건제도에로의 이행에 가장 중요한 요인이었다고 하였다. 이처럼 기술에 의한 사회의 발전은 우리의 상식 속에 자리잡은 유력한 가설중의 하나이다. 그러나 사실은 기술에 의해서 사회가 바뀌는 것이 아니라 사회의 요구에 의해 기술이 발명되고 선택된다. 설령 새롭고 혁신적인 기술이 발명되었다 해도 그것을 수용할 사회의 요구와 가치가 형성되어 있지 않을 때 그 기술은 사장된다. 유럽에서 증기기관이 발명된 것은 고대희랍시대였지만 발명자였던 헤론의 아이디어는 기껏 장난감을 만드는 것으로 끝났다. 당시의 노예제사회에서 증기기관이 도입된다는 것은 10명의 노예대신 한명의 노예만이 일하면 되는 것을 의미했고, 그것은 노예제사회의 붕괴를 가져올 불경이었다. 그러나 산업혁명기 부르조아사회의 요구는 중세장인들의 특권을 해체하고 대량생산체제를 완수하는 것이었기 때문에 당시의 시대정신과 사회적 요구에 증기기관은 정확히 부합한 기술이었다. 결국 유럽은 1800년이 지나서 사회의 발전이 이루어지고서야 증기기관을 받아들인 것이다. 한강하구에서의 철기시대의 도래 또한 기술요인이 아닌 사회요인에서 찾을 필요가 있다. 아마도 그 변화는 산정상부에 위치한 강화고천리와 교산리고인돌군에서 찾아지게 될 가능성이 높다. 과연 철기를 선택하고 수용할 내재적 조건을 마련한 새로운 세력은 있었는가? 있었다. 점토대토기(덧띠토기)를 만든 집단이 그들이다.

사진4 교산리고인돌
사진글 조강 건너 북녘땅이 지척/조선의 고인돌로 오천년/남한의 고인돌로 오십년

점토대토기문화
점토대토기는 표면이 갈색 ·적갈색 ·흑갈색이고 바탕흙은 점토에 가는 모래를 약간 섞었으며, 아래로부터 위까지 손으로 빚어 만든 다음 아가리에 덧띠를 덧붙인 토기이다.
점토대토기유적의 첫 번째 특색은 강이나 바다를 내려다 볼 수 있는 고지에 위치해 있다는 점이다. 전형적인 정착농경취락의 특색을 보이는 공렬토기, 각형토기, 송국리형토기문화등이 강변평야지대나 저구릉지대에 위치한 것과 현저히 구별된다. 구리시 수석동 유적은 한강의 가파른 절벽 위 구릉상에 위치해 겨울삭풍과 기후조건을 고려하면 농경민의 취락입지로 보기 어렵다. 춘천시 칠전동은 공열토기문화의 취락인 춘천시 서면 신매리나 동면 거두리 같은 강변평야지대나 저구릉지대와 달리 가파른 산록경사면에 위치하고 있다. 여주 멱곡리, 파주 심학산등도 마찬가지 입지이다. 한반도 남쪽 어느지점에선가 처음 출현한 점토대토기문화는 불과 2세기 남짓한 동안에 백령도로부터 한강을 따라 서울권, 춘천 칠전동, 강원도 양구해안면 강원영동의 양양 군지리와 강릉송림리등 태백산맥의 심심산중뿐아니라 제주도에 이르기까지 한반도 전역에 확산되었다. 공열토기문화와 비교하면 점토대토기문화의 유별난 확산속도는 두드러진 것이고 이를 가능케 한 사회적 성격은 무문토기문화의 그것과는 분명 다르다고 보아야 할 것이다. 송국리형문화나 공열토기문화가 적당한 지형에 정착하는 것을 목적으로 확산된 것과는 달리, 점토대토기문화의 경우는 사방으로의 확산자체가 우선하는 목적이었기 때문에 지형지리적 조건이나 상황은 부차적인 고려사항에 불과했던 것으로 보인다. 점토대토기인들은 산간에서도 가능한 잡곡농사를 포함하는 식물경작, 어로와 사냥등이 혼합된 생계경제를 영위했을 것으로 추정되고 순발력과 이동성이 강하고 기존의 정착농경민집단의 영역을 활발하게 진입해 들어가 힘을 발휘한 것으로 보인다. 송국리형토기나 공열토기문화의 기본적인 사회성격과 생계경제방식이 한반도 남쪽의 삼한사회의 전형적인 정착농경문화에 가깝다고 할 때, 점토대토기문화는 압록강유역 초기고구려의 공격적이고 진취적이며 정복적인 사회성격과 그에 따른 경제방식과 유사하다는 생각이 든다. 이에따라 석기,청동기,철기의 삼시구분기법은 바뀔 필요가 있다. 첫째 수렵어로채집문화를 기본으로 하는 단계에서 무문토기문화의 도래에 따른 본격적인 농경정착문화로의 전환이고, 둘째는 평등한 농경정착사회의 수준에서 점토대토기문화의 등장을 계기로 본격적인 계급복합사회의 수준으로 발전하는 것으로 보아야 한다. 반면 철기의 수용과 도래는 그러한 계급복합사회의 질적 수준과 복합의 양상을 더욱 심화시켜 국가수준의 사회로 증폭,발전시킨 촉진제가 되는 것이지 철기수용을 기점으로 새로운 사회구조의 전환이 이루어졌다고 보기는 어렵다. 점토대토기문화의 등장과 확립은 선사시대 최대의 사회적 전환이라고 본다.(노혁진 한림대사학과 한국고고학보45 2001 p106-119)
한 지역에 살면서 나무연료의 압박을 받아야하는 정착민들에 비해, 쉽게 이동할 수 있는 점토대토기인들은 나무연료의 압박으로부터 비교적 자유로웠을 것이다. 이는 정착민들이 정착지 주변의 고갈되는 나무연료를 절약하기 위한 다양한 방법을 고안했을 가능성에 비해 점토대토기인들에겐 나무연료의 과소비를 추구했을 가능성을 제기한다. 아직 발굴작업이 이루어지지 않았지만 산정상부에 위치해 있는 강화 교산리 고인돌이나 고천리 고인돌들 역시 점토대토기문화권과 유사한 입지조건을 보인다는 점에서 주목할 만하다.

고조선의 의식주와 숲
볍씨는 근래에 경기도 일산과 김포에서 기원전 3000-2000년경의 이른 시기 것이 출토되었다.(한국선사문화연구소.일산새도시개발지역학술조사보고1.1992.p29) 따라서 당시 한강하구 사람들의 주식은 곡물이었을 것이다. 음식과 위생은 문화의 중요한 척도인데 고조선에서는 청동이나 뼈보다는 대나무나 나무를 이용한 숟가락과 그릇이 더 많이 보급되어 있었다. 한서 지리지에 ‘(조선)의 전민田民은 변籩과 두豆를 사용해 음식을 먹는다.’(漢書 卷28下 地理志下)고 하였다. 변과 두는 잔처럼 굽이 높은 그릇인데 이에 대해 안사고顔師古는 주석달기를 ‘변은 대나무로 만든 것이고 두는 나무로 만든 것이다’라고 하였다. 이처럼 가장 일상적인 생활용품도 주재료는 나무였으며, 나무는 대량으로 소비되었다. 또한 고조선 사람들은 소금을 조미료로 사용했던 것으로 보인다. 후한서 동이열전중 동옥저전에는 고구려가 동옥저를 병합한 후의 상황을 다음과 같이 전하고 있다.
‘고구려는 다시 그 가운데 대안을 사자로 삼아 그로써 함께 그 지역을 다스리게 하였으며 조세로서 담비가죽, 물고기, 소금및 해산물을 징수하고 미녀를 징발하여 그 종이나 첩으로 삼았다.’(後漢書 卷85 東夷列傳 東沃沮傳)
위 기록에 따르면 동옥저에서는 소금이 생산되었다. 옥저는 지금의 요서지역에 있었던 고조선의 거수국이었는데 고조선이 붕괴되자 동쪽으로 이동하여 동옥저가 되었다. 한편 관자 지수편에는 ‘연나라에 요동의 자煮가 있다’고 했다.(管子 卷23 地數) 자는 바닷물을 끓여서 만든 소금을 말한다. 연지역의 제염기술은 경제문화교류가 빈번했던 고조선도 당연히 가지고 있었을 것이다. 한강하구의 석모도염전이나 해주염전의 역사에 대해 밝혀진바 없지만 그 입지조건만은 천혜의 제염지란 점에 비추어 한강하구 지역 역시 소금을 사용했을 가능성이 있다.그러나 소금을 얻자면 역시 불을 지펴 바닷물을 끓여야 했기에 엄청난 나무가 소요되어야 했다. 소금은 나무연료의 소비 없이는 생산 자체가 어려운 조미료였다.
고조선은 의복에서도 수준 높은 생활을 했던 것으로 보인다. 길림성 후석산유적에서 출토된 고조선 후기 기원전 4세기경의 마포는 방직기계를 사용하여 짠 것으로 확인되었다.(吉林地區考古短訓班 吉林猴石山遺址發掘簡報 考古 1980年 第2期 p141) 한서 지리지에는 ‘은의 도가 쇠퇴하자 기자는 조선으로 가서 그 지역 주민들을 예의로써 가르치고 농사짓고 누에치며 길쌈하였다’고 전한다. 이를 통해 고조선에서는 양잠과 길쌈이 생활화되어 있었음을 알 수 있다. 옷을 짓기 위해서는 천을 짜야하고 그러기 위해서는 실을 뽑아야 한다. 범의구석유적지의 청동기문화층에서 발견된 가락바퀴의 수가 크게 증가한 것은 고조선시대에 이르러 실을 뽑는 일이 그만큼 많아졌음을 의미한다. 그러나 이곳의 철기문화층에서는 가락바퀴가 오히려 줄어들었다. 철기시대에 이르면 인구도 늘어나고 생산도 증대되어 더 많은 실이 필요했을 텐데 가락바퀴가 준 것은 역으로 한층 능률적으로 실을 뽑을 수 있는 나무로 만든 자새나 물레와 같은 것이 발명되었기 때문이다. 고조선에서는 직물생산을 위해 베틀이 사용된 것으로 보인다. 함북 회령 오동유적 8호집자리에서 발견된 빗모양의 뼈는 바디인 것으로 추정되며, 자강도 강계시 공귀리에서는 흙으로 만든 그물추가 발견되었는데, 이는 베틀의 날실 끝에 달아매는 추였을 것으로 추정된다. 그렇다면 베틀 또한 나무로 만들어졌음은 자명하다.
집은 어떠한가? 이전시대에는 주로 지하움집이었으나 고조선 중기에는 지상식건물이 발견되기 시작한다. 평면형태도 원형에서 장방형으로의 변화가 뚜렷하다. 황해북도 송림시 석탄리유적의 움벽변두리 기둥의 지름은 5-10cm 이고 가운데 기둥은 20-30cm이다. 조림한 나무가 일년에 5mm에서 1cm가 자라나지만 자연성장한 소나무는 백오십년에서 삼백년된 소나무도 50cm 정도이다. 따라서 30cm 기둥을 썼다는 것은 송림시 근처의 숲에서 굵은 지름의 나무를 구할 수 있었음을 말한다. 그러나 집을 지을 때 중앙부와 가장자리 나무기둥에 차등이 생긴 것은 굵은 나무를 쉽게 구하기 어려워 진 때문으로 볼 수도 있다. 한강하구로부터 멀지 않은 파주군 월롱면 옥석리의 집자리에서는 130여개의 나무기둥이 움벽 가장자리만을 따라 세워져 있었다. 집 한채에 130그루의 나무가 소용된 것이다. 석탄리와 다른 것은 중앙을 받치는 굵은 지름의 나무가 없는 것이다. 이것은 임진강변의 숲에서 더 이상 굵은 지름의 나무를 구하기 힘들어진 사정과 연관이 있을 것으로 보인다. 회령오동유적과 무산범의유적에서는 기둥수가 줄어들고 기둥자리에는 주춧돌이 놓여 있었다. 불과 10개 안팍의 기둥자리만 남아 있는 것도 있다. 이집들은 독립된 기초를 가진 기둥들과 도리,들보,대공,용마루등의 재목으로 맞물린 견고한 힘받이 구조로 이루어진 건물이었던 것이다. 가평 달전리 유적에서는 이러한 특징이 완전히 정착된 것을 볼 수 있다. 이러한 건축구조의 발전은 목재를 절약하기 위한 목적과 부합되는 것이었다. 벽체와 지붕이 분리되지 않은 움집의 경우 비가 많이 오는 한반도의 특성상 나무가 빨리 썩을 수밖에 없는 한계가 있다. 그러나 벽체가 서고 지붕의 처마가 길어지면서 비로부터 나무를 보호할 수 있으며 주춧둘을 써서 땅에서 올라오는 습기에 의해 나무기둥의 밑둥이 썩는 것을 방지할 수 있게 된다.
황해북도 봉산군 신흥동유적에서는 간막이 시설을 한 것도 발견되었는데 이는 주택의 혁명적 변화라고 할 수 있다. 고조선인들은 벽장이나 저장움을 만들거나 큰 독을 두고 곡물을 저장하였다. 또는 독립된 창고건물을 가지고 있기도 하였다.
지배귀족은 이보다 더 큰 주택을 가지고 있었던 것 같다. 후한서 동이열전 부여전에 의하면 ‘부여는 둥근 목책으로 성을 만들고 궁실과 창고, 감옥이 있다.’(後漢書 卷85 東夷列傳 夫餘傳) 고 하였다. 고조선을 이어받은 부여에 이런 건축물이 있었다면 고조선 또한 유사한 건물이 있었다고 볼 수 있다. 결국 건축기술의 발달은 한 건물에 들어가는 나무의 양을 줄이긴 했지만 폭발하는 건축수요에 의해 국가가 사용하는 나무의 총량은 오히려 늘이는 결과를 초래했을 것이다.
나무를 구하기 어려워지는 사정은 난방기술을 발달시켰다. 화덕의 열량을 높이기 위한 여러 가지 시설이 개발되었다. 화덕의 바닥이나 주변에 돌과 자갈을 깔아 그것들이 달구어져 열을 보존하도록 하는 방법이 채택되었으며, 고조선 말기인 기원전 2세기경에 이르면 온돌이 출현하였다. 초기 온돌이 확인된 곳은 자강도 시중군 노남리 유적, 중강군 토성리 유적 영변군 세죽리유적등이며 고래가 한 줄인 것과 두 줄인 것등 온돌구조가 여러 가지로 나타난다. 이것은 고조선인들이 복사열을 높이고 오랫동안 보존하기 위해 온돌을 끊임없이 개량했음을 알게 해 준다. 결국 최종적인 온돌구조는 아궁이에서 음식을 조리하면서 방의 난방까지 동시에 해결하는 고효율의 열관리체계여서 나무연료의 절약에 큰 기여를 했다. 가평 달전리 유적 또한 직선식고래와 꺽임식고래의 온돌구조가 혼합되어 나타나는 것으로 봐서 한강과 한강하구에 비슷한 온돌구조가 사용되었을 것으로 생각된다. 온돌의 발명은 인구의 증가, 마을규모의 증가, 지속적인 인근 숲의 벌채등과 함께 점차 심각해지는 나무연료의 부족이 초래한 위기와 연관된 것으로 보이며 결국 이러한 위기를 극복할 수 있는 대안을 마련해준 발명이었다고 볼 수 있다.

고조선(철기시대) 한강하구의 숲
청동은 희귀한 금속이었기 때문에 청동의 용도와 사용자는 매우 국한되어 있었다. 이에 반해 철은 매장량이 풍부하고 가격도 저렴하기 때문에 매우 폭넓게 사용되었다. 때문에 철기시대에 접어들면서 귀족이나 장인을 넘어 평범한 농부도 금속으로 된 도구를 마련할 수 있었던 것이다. 철기시대가 지금까지 계속되고 있는 이유 중의 하나는 바로 여기에 있다.
사기와 한서의 기록에 의하면 진시황 당시(기원전3세기) 고조선지역의 장해군(예족의 한 추장임)은 력사(힘있는 장사)에게 120근이나 되는 철추(자객들이 쓰던 무기)를 가지게 하였다.(사기 권55 류후세가 제25 장정조) 그리고 요동의 평곽(지금의 개현)지방에서는 일찍부터 철이 생산되고 있다는 기록이 있다.(한서28 지리지 요동군) 기원전 1000년대 후반기 한강하구와 인접한 지역에서 고조선의 철기유물인 도끼(혹은 자귀)가 나온 곳은 황해남도 배천군 석산리 움무덤이다. (조선전사와 고고민속론문집8호 참조/조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p56-57재인용)
한강과 한강하구에서 조사된 유적들에 의하면 고조선 멸망 전후 급속한 인구의 증가가 있었던 것으로 판단된다. 최근 가평 달전리 유적에서는 고조선 멸망 후 이동한 유민들의 것으로 보이는 흔적이 발견되었다. 우선 가평 달전리유적에 대한 보고를 살펴보자.

가평지역에서 가장 확실하게 확인되는 시대 흔적은 철기시대이다. 마장리와 이곡리(공렬토기) 대곡리와 대성리(경질무문토기,타날문토기) 청평리, 삼회리등 북한강변으로 흘러드는 소하천변과 북한강변을 따라 철기시대 유물들이 지표조사에서 수습보고 되었다.
가평 달전리 발굴을 통하여 서북한지역에서 확인되던 낙랑고조선계 토광묘가 가평지역에서도 확인됨으로써 고조선 멸망 후 혼란기에 고조선 유민들이 한반도 남부지역으로 이동하였다고 전하는 삼국지와 삼국사기 삼국유사등 문헌의 기사가 고고학적으로 확인되는 계기가 마련되었다. 나아가서 위만조선의 영역문제나 낙랑군현의 영역관할방식 문제 등에 대한 새로운 해석을 제기하는 실마리가 확보되었다. 지금까지는 남한지역의 고고학조사에서는 전혀 염두에 둘 수 없었던 낙랑고조선계 토광묘가 향후 가평지역뿐만 아니라 청평, 춘천, 철원등 경기와 강원 영서 인근지역에도 존재할 개연성이 높아졌기에 한강권을 중심으로 하는 한반도 중부지방에 대한 발굴조사의 방식과 목표설정이 새롭게 전환되는 결정적인 계기가 되었다.(박성희.한림대박물관.제27회한국고고학전국대회자료집.p153)

가평 달전리 유적에서 발견된 토광묘는 한강과 한강하구가 고조선 멸망전후 고조선사람들이 남하한 증거사료로서 의미를 갖는다. 이 같은 고고학적 자료가 문서자료와 일치하므로 이는 중요한 발견이 아닐 수 없다. 발굴의 성격이 고고학에서 역사학으로 옮겨져야 할 필요성을 의미하고 있는 것이다. 이에따라 한국전쟁 당시 가평 마장리에서 미군에 의해 발견된 유적도 새롭게 볼 수 있는 근거가 생긴 셈이다. 마장리 유적에 대한 보고서를 보자.

한국전쟁 당시 미군야영지에서 발견된 가평 마장리 유적에 의하면 이 취락은 강변 모래밭에 이루어진 아마도 수십이상의 수혈주거로서 구성되었으며 각 수혈은 최대 4-5인으로 된 핵가족에 의해 사용되었다. 이러한 강변 취락은 그 당시 북한강에서 한강하류일대에 걸쳐 퍼져 있었으며 한강군이라고 할 수 있는 문화벨트를 형성하고 있었다고 하겠다. 마장리인들은 가내공업으로서 소규모야철에 종사하고 있었으며 이 철을 주요교역물자로서 타 지역과 교역하였을 것이다. 그들의 야철이란 인접한 춘천지대에 걸쳐서 분포되어 있는 함철화강암을 깨트려서 사철을 채취, 그것을 녹여서 주철, 즉 선철을 얻는 것이었을 것이다.(김원룡.가평마장리야철주거지.역사학보50,51합호1971.9.p130)

청동에 비해 철은 낮은 온도에서 얻을 수 있었기 때문에 나무장작을 절약하는데 크게 기여했지만 그와 더불어 철의 소비가 비약적으로 늘었기 때문에 결국 나무와 숯은 더많이 필요하게 되는 결과를 초래했을 것이다. 또한 좀더 좋은 철을 만들기 위한 노력은 다시 높은 온도를 필요로 하게 되었고 더 많은 나무와 더 넓은 숲을 요구하였다. 북의 조선광업사에 소개된 다음설명을 보자.

일반적으로 자연계에서 발견되는 철광석은 보통 산화철의 형태를 띠고 있는데 여기서 철을 얻자면 산소를 제거하는 것이 필요하다. 그런데 700-800℃ 정도의 온도에서는 철의 환원이 진행되는데 당시 조건에서 이런 정도의 온도는 보장할 수 있었을 것이다. 그러나 이처럼 산화철의 환원에 의하여 얻어지는 철은 완전히 녹지 않고 절반정도 녹다가만 고체상태로 돌부스레기와 뒤엉켜 있었기 때문에 그대로는 쓸 수가 없었다. 이렇게 800℃ 이하에서 얻어지는 철을 련철이라고 하는데 여기에는 탄소의 함유량이 0.01%정도 이하이다. 이러한 련철을 가지고 철기를 만들자면 매로 때려서 쓸모없는 돌부스레기들을 제거하여야 한다. 이때 녹지 않은 철광석의 대부분은 버럭과 함께 나가버린다. 따라서 련철 생산단계에서 생산성은 매우 낮았으며 또 단조과정을 거쳐야 철기들을 만들 수 있었다.(조선광업사1.리태영외.공업종합출판사.1991 p58)
기원전 6세기경 고조선에서 선철을 만들기 위해 적용한 제철야금법에서 핵심문제는 제철로안의 온도를 어떻게 높였는가 하는 문제이다. 제철로의 온도를 1000℃ 이상으로 높이자면 철의 환원은 급속히 끝나고 철은 탄소를 흡수하기 시작하여 철의 녹음점도 낮아져 1200℃ 정도에서 액체상태로 된다. 이렇게 얻어지는 선철은 굳기는 하지만 부서지기 쉽다. 그리고 제철작업을 할 때는 제철로 안에 먼저 나무와 숯을 넣고 그 우에 철광석가루를 넣었으며 반복하여 숯과 철광석가루를 넣은 다음 불을 지폈다. 여기서 제철로의 온도를 1200℃ 이상으로 높이는 것이 중요하였는데 이때 제기되는 문제는 참나무와 밤나무등의 숯을 이용하는 것과 로의 크기를 보장하는 것이며 보다 중요하게는 송풍장치를 잘하는 것 등이었다. 그래야 로의 온도를 높여 선철을 생산할 수 있었다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p62-63)

결국 로의 온도를 청동을 만들 때와 마찬가지로 1200℃를 만들어야 했던 것이다. 청동보다 늘어난 철의 수요와 좋은 선철을 가지려는 요구가 늘어나면서 오히려 나무의 소비는 청동기 시대보다 더 촉진되었을 것이다. 좋은 철을 생산하는 데는 더 많은 숯이 필요했다. 탄소는 철과 합금을 이루면서 철의 녹음점을 낮춘다.

제철야금로안에 참나무숯과 철광석 가루를 엇바꾸어 층층이 쌓고 로밑의 작은 구멍을 통해 불을 지핀 다음 로밑에서 풍구로 바람을 불어 넣었다. 로안의 온도가 점차 높아져서 1100℃ 정도 되면 철광석이 녹기 시작하여 철알갱이들이 생겨나고 용해된 쇠물이 생겨난다. 이때 용해된 쇠물 속에는 탄소가 흡수되면서 철탄소합금이 생겨난다. 철속에 탄소가 4.3% 정도 들어가면 철탄소합금의 녹음점은 1130℃로 낮아진다. 순수한 철의 녹음점이 1539℃라면 이에 비해 철탄소합금은 그 녹음점이 400℃나 낮아진다고 볼 수 있다.(철과강 과학백과사전출판사 1979 p18.)

숯은 철의 녹음점을 낮추는데는 기여했지만 나무의 소비를 막는데는 큰 기여를 못한 것으로 보인다. 왜냐하면 숯 자체를 생산하기 위해서는 엄청난 나무가 필요하기 때문이다. 나무연료의 부족은 로의 온도를 낮추기 위한 발명을 요구했고 그것은 용재의 이용으로 어느정도 해결되었다. 용재는 석회이다.

선조들은 생철에서 숙철을 생산하는 법을 창안했는데 그것은 철광석에서 뽑아낸 생철(선철)을 숙철로에서 다시 끓여내는 방법이었다. 생철을 숙철로에서 다시 끓인다는 것은 1200℃ 보다 높은 온도에서 재차 녹인다는 것을 말하며 용재는 석회석을 썼다. 석회석은 선철 안에 일부 남아 있는 공재(맥석)들의 녹음점을 낮추는 작용을 하였고 쇠물에 있는 유황성분을 빼내는 작용을 동시에 하였다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p101)

철기생산에 용재로 사용된 석회의 발명은 좀 더 낮은 온도에서 철을 얻기 위한 것이었으며 이는 곧 나무의 소비를 줄이기 위한 것이었다. 숲이 점점 훼손되어 가는 것에 대한 압력이 작용한 결과로 볼 수 있다. 그러나 석회는 나무와 숲을 다시 요구했다. 석회는 철생산 뿐 아니라 집을 짓는데도 중요한 자재가 되었기 때문에 석회의 소비는 마을단위가 커지고 도시가 형성되면서 비약적으로 늘게 된다. 석회석으로 석회를 만들려면 로에서 구워야 했기 때문에 석회만을 만들기 위해서도 역시 많은 나무가 필요했다.
참고로 중동부 일본에 남아있는 재래식 제철방법의 과정을 참고로 살펴보면 다음과 같다.(立川昭二.?鐵(東京1966) p10-13) 길이 10m, 폭 1m 정도의 나무판으로 짠 홈통을 여러개 만들어 그것을 함철 암석에 대어서 경사지게 연결, 가설한 다음, 따로 높은 곳에서 홈통으로 물을 끌어 이 가설홈통에 연결하여 물이 항상 흐르게 한다. 그러고 나서 괭이로 함철석을 잘게 깨트려서 이 홈통으로 흘러내리게 하면 가벼운 돌가루 따위는 물에 씻겨나가고 사철만이 나무홈통에 부착 잔류한다. 그러면 그 사철을 모아서 집으로 들고 와 용로를 만드는데 그 방법은 우선 점토로 상자(길이 3m, 폭 0.9m, 높이 1m, 두께 10-20cm, 단 덮개판은 없음)를 만들고 그 안에 숯을 깔고 그 위에 사철, 다시 숯 사철식으로 교체해 쌓은 다음 아래에 구멍을 뚫고 풀무를 꽂고 바람을 불어놓으면서 불을 붙여 3일간 계속하면 철은 녹아서 바닥에 선철 덩어리로 깔린다. 그러면 점토를 깨트려 없애고 그 철괴를 채집한다.(김원룡.가평마장리야철주거지.역사학보50,51합호1971.9.p131)
흐르는 물로 철광석에서 1차로 철을 분리한 뒤 모아진 적은양의 사철만을 가열하여 절을 얻는 방법이다. 이는 유럽의 철기시대에서도 시도된 방법이다. 결국 철기문명의 점진적인 발전은 나무연료를 절약하기 위한 처절한 노력의 소산이었다. 고조선시대에 우리나라는 상당한 수준의 문명을 성립시켰음은 분명하다. 그러나 그 과정에서 나무와 숲은 문명속으로 이름도 남김없이 사라져 갔다.

백제시대 한강하구의 숲
기원전 3-2세기 무렵 위만에게 쫒긴 고조선 준왕의 남하시기와 연관하여 강화는 마한의 소국이었던 것으로 판단된다. 삼국지에 의하면 ‘마한은 서쪽에 위치해 있고. 50여개국이 있으며 큰 나라는 만여가이고 작은나라는 수천가로서 총 10여만호이다.’라고 하였다.(三國志.卷30.魏書30.烏丸鮮卑東夷傳30.韓條) 위 책에 적혀있는 마한 50여개국 중 강화로 추정되는 나라는 소석색국이며 교동도로 추정되는 나라는 대석색국이다.(천관우.고조선사.삼한사연구.일조각1989.p246)
마한지역은 진한 변한에 비해 인구도 많고 세형동검문화단계에서는 정치문화적인 발달정도도 선진적이었다. 금강과 영산강유역에서 발견된 분묘유적에서 부의 상징인 청동제품들이 다량 분포되어 있는 것이 이를 뒷받침한다.
대동지지에 ‘본래 백제의 검포였는데 신라 경덕왕16년에 김포로 바꾸고 장제군의 영현으로 삼았다’고 했다(大東地志 卷4 金浦沿革) 신증동국여지승람에는 ‘본래 고구려의 검포현’이라고 적고 있다.(新增東與地勝覽 卷10 金浦縣) 백제는 삼한의 경험등 선점집단의 전통을 기반으로 일찍부터 해양능력을 갖추고 있었다. 비류와 온조는 이전부터 사용되어 온 연안 및 근해항로를 통해 경기만으로 상륙한 다음 현재의 인천 또는 서울에 정착하였다. 삼국사기 백제본기의 이설에는 비류가 동생과 따르는 무리를 이끌고 패수와 대수를 건너서 미추홀에 정착하였다고 했다. 이때 패수의 위치는 예성강이었을 가능성이 크다.(이병도.백제의건국문제와마한중심세력의변동.한국고대사연구.박영사.1976.p470) 대수는 임진강과 조강을 포함한 한강하구일 가능성이 크다.
백제의 해양진출은 221년에 이루어졌을 가능성이 있다. 삼국사기에 따르면 구수왕은 ‘한수의 서쪽에서’ 열병을 했다.(三國史記 卷24 百濟本紀2 古爾王3年條) 이곳은 현재의 인천이나 김포방면으로 추정되는 곳으로 한성에서 강화로 가는 길목으로서 왕의 열병은 강화로의 진출 가능성을 알려준다. 236년(고이왕3)에 ‘시월에 왕은 서해의 대도에서 사냥을 하였는데, 손수 사슴40마리를 쏘아잡았다’는 기사가 있다. 서해의 대도는 강화도일 가능성이 많다. 왕이 사냥을 했다는 것은 사냥을 할 만한 숲이 있었다는 것이고, 그 숲은 완전한 원시림이 아닌 일정정도 관리가 된 숲이었다는 것을 의미한다. 그러나 정치,군사적 행위인 왕의 전렵행위는 당시 서해안을 둘러싼 정세와 관련된 것이었을 것이고, 백제는 마한을 병합하면서 해양활동거점을 탈취하고 그 능력도 흡수하였을 것이다.(윤명철 신편강화사 상 p86) 백제는 3세기 전에 이미 강화지역을 자국의 중요한 영토로 하였다. 백제가 강화를 복속한 이유는 해양으로의 진출때문이었다. 따라서 국가사업으로 선박을 만드는 일이 중요해졌고 이제 조선업은 가장 좋은 나무를 가장 많이 사용하는 소비처가 된 것은 자명하다.
백제전기의 구의동 유적에서는 쇠괭이 7개와 함께 쇠스랑형 괭이 1개가 나왔는데 백제시기의 쇠스랑은 자루를 꽂는 윗부분은 좁고 끝으로 내려가면서 퍼졌고, 가운데 가지(길이13.5cm)는 아래로 곧추 뻗었으나 양쪽 두 가지는 ㄱ자형으로 생겼으며 아래로 내려가면서 밖으로 퍼졌다. 이것은 풀뿌리를 들추어내는데 알맞게 만든 쇠스랑이다.” (과학백과사전종합출판사, 조선기술발전사2, p223)
구의동유적에서 나온 쇠스랑은 숲을 태우고 난 뒤 흙에 박혀 있는 뿌리를 캐내기 위한 용도의 유물이다. 즉 화전이 시작된 증거가 된다. 인구의 증가는 농경지의 확대를 요구했고 가장 원시적인 방법으로 숲을 태우는 화전이 채택된 것이다. 이미 숲은 농업혁명에 의해 심각하게 위협받고 있었던 것이다. 조선에서의 화전은 일제시대 많은 학자들로부터 산림 황폐화의 제1원인으로 주목되었다. 화전은 몇 년 지나면 지력이 감퇴하여 폐경하게 되고 다시 다른 숲을 찾아 화경을 하게 되므로 화전 및 화전지는 내리는 비에 의해 표토가 침식되고 영양분이 유실되므로 산림황폐의 원인이 된다. 예로부터 잦은 전란, 전쟁, 중과세, 과중한 부역, 유형, 학정등으로 인한 도피는 거의 유일한 생활수단으로 화전경작을 선택케 했으며 이같은 현상은 후대까지도 끊이지 않았다. 이같은 과정에서 한강하구의 산림은 급속도로 훼손되기 시작했을 것이다. 화전은 산림훼손 뿐아니라 국토의 훼손이라는 커다란 문제를 안고 있었고, 이것은 사회적 측면에서의 화전민에 대한 생활대책과 국토보호측면에서의 화전정리라는 과제를 지속적으로 제기하게 된다. 이제 숲은 사회모순이 직접 투영되는 장소로 변해가기 시작한 것이다.
백제에서 만든 철판과 쇠칼등은 일본에까지 널리 전해졌다. 일본서기에 의하면, 백제에서는 왜에서 온 사신이 돌아갈 때 철정(철판) 40장을 주었으며 그 후에도 칼과 거울을 왜에 보냈다는 기록이 있다.(일본서기 권9 신공기 46년) 일본서기 편년에 의하면 257년에 백제에서 구저라는 사람을 일본에 파견하여 칠지도1개와 칠자경1개, 그밖의 여러 가지 보물을 선물로 보낸 일이 있다.(일본서기 신공황후기 52년조) 이는 백제의 철기문명이 높은 수준에 이르렀음을 알리는 기사이다. 백제성립초기 철광업의 중심지역은 한강하류지방이었다. 철기유물이 많이 드러난 곳은 경기도 양평, 가평지방이다. 철광석을 캐는 광부들 중에는 전업으로 일하던 광부들도 있었지만 부역로동의 형태로 동원된 양인 출신의 농민들이 많았다고 생각된다. 백제의 중앙관청에는 도刀부가 있었는데 이것은 그 이름으로 보아 칼 생산을 맡았던 부서로 생각된다.
5세기후반기 규슈섬에 있던 백제계통 후국의 우두머리의 하나는 구마모도지방에 있던 후나야마고분의 주인공이라고 말할 수 있다. 이 무덤 안에 있는 무기와 질그릇장신구등은 모두 백제의 것이었다. 이 무덤에서 나온 칼에는 은 상감으로 된 글자가 있었는데 그 내용은 다음과 같다.
‘천하를 다스리는… 대왕의 시대에 대왕의 명령을 받은 관청 사람, 이름은 무리가(지휘하여)만든 것이다. 8월중에 큰 용해가마를 썼다. 4척이나 되는 ☐도를 80번이나 단련해서 60진 3재를 만들었다. 이 좋은 칼을 차는 자는 오래살고 자손도 많아 세가지 은혜를 다 받을 것이요 그 통솔하는 바(나라)도 잃지 않을 것이다. 이 칼을 손수 만든자의 이름은 이태어요 글씨를 쓴 것은 장안이다’(세계고고학대계3일본3고분시대헤이본샤p76,1964년/조선광업사1재인용)
이 칼이 백제대왕의 명령으로 백제의 기술자들에 의해 만들어졌다는 점, 칼의 글자내용이 백제의 이두로 씌여졌다는 점에 비추어 이 칼은 5세기 후반기의 백제국왕 개로왕이 북큐슈왕에게 준 것이었다.(초기조일관계연구 사회과학출판사 1966 p196-220 )
여기서 주목되는 것은 우선 ‘큰 용해가마를 썼다’는 것이다. 이것은 선철(주철)로부터 강철을 뽑기 위한 용해로라고 볼 수 있다. 그리고 80번이나 단련했다는 것은 백제에서의 열처리 단조법을 표현한 것이라고 볼 수 있다. ‘60진 3재’는 강철의 질을 규정한 척도단위를 표현한 것인데 매우 좋은 강철을 표현 한 것이라고 볼 수 있다. 이미 백제가 80련철이라는 선진적인 열처리 단조법을 써 왔다는 것을 알 수 있다. 한편 백제의 높은 제철제강기술을 보여주는 유물로는 나라현 이소노가미신궁에 보관되어 전해지는 백제칠지도가 있다. 칠지도는 백련철이라고 했는데 이는 백번 담금질하여 단조한 쇠를 말한다. 이제 철 생산은 철광석에서 철을 용해내는 과정 뿐 아니라 담금질을 위해서도 높은 온도를 필요로 했다. 용해로의 질적발전에는 엄청난 양의 나무소비가 요구되었고 이는 숲을 더욱 위협했다.
백제에 의해 만들어진 제품가운데는 나라현 동대사에 있는 노사나불상이 있다. 이 부처는 662년에 백제에서 일본으로 건너간 덕수 국골부라는 사람의 손자 공마려가 757년에 완성한 것이었다. 이 부처는 높이가 16m이고 질량이 380t 이나 되는 굉장한 크기를 가진 부처이다. 이 부처를 제작하는데 구리가 73만 9000근 석이 1만2000근이 들었으며 이것을 녹이는데 숯이 1만8000섬이나 소비되었고 연 217만 공수의 노력이 들었다고 한다.(우리나라(일본)고대제철법의 추상,다다라연구 2호 1965/조선광업사1p140재인용)
위 기록은 동대사청동불상제조에 들어간 숯의 양을 약 18,000섬이라고 구체적으로 적고 있는 귀한 자료이다. 1섬은 180리터이므로 이는 곧 3,240,000리터이며 숯의 비중이 1.9이므로 질량으로 환산하면 61,560톤이 된다. 숯을 생산하는데는 4배 질량의 나무가 필요하므로246,240톤의 나무가 소비되었을 것이다. 직경 1m, 높이 10m의 다자란 참나무(비중0.98) 2천400만그루가 결국 이 노사나불상을 위해 희생된 것이다. 백제를 비롯 삼국은 모두 불교를 국교로 삼으면서 수많은 청동불상과 범종등을 제작했으며 이들 유물에는 엄청난 양의 숯과 그 숯을 만들기 위한 더 많은 양의 나무가 소용되었을 것이 자명하다.
전라남도 나주군 반남면 신촌리의 9호무덤과 11호 무덤에서는 5세기 전반기의 세잎사귀고리자루 긴 칼 등이 나왔는데 잎사귀 장식은 나무와 숲과 관련된 상징으로 나무가 무한한 소비의 대상에서 문화적 상징으로 주목받게 된 현실을 반영하는 것으로 보인다. 나무의 존재가 문화적으로 인식되고 있는 것은 나무부족이 가져온 현상으로 나무가 더 이상 무한하지 않으며 귀중한 자원이란 인식이 생긴 것으로 판단되기 때문이다.

고구려시대의 숲
동아시아는 5호 16국 시대였고 고구려와 후조는 중간에 있는 연나라를 견제하기 위해 해양포위 공격을 기도하고 군수물자를 수송했다. 백제는 낙랑, 대방등 중국주변세력과 직접적으로 대항하면서 성장했다. 백제의 의욕적인 정복사업은 4세기에 이르러 남방정책을 쓰던 고구려와 충돌하게 되고 낙랑과 대방의 멸망으로 고구려의 해상작전권이 확대되자 양국은 경기만 확보와 탈취를 둘러싼 전쟁에 들어간다. 광개토대왕은 407년 정벌때까지 예성강및 한강유역의 백제 활동영역을 완전히 점령하였다. 강화는 백제시대에는 갑비고차였으나 고구려대에서는 혈구군이 되었다. 강화군 불은면 삼성리에는 혈구산이 있고 그 아래에 안양대학교운동장터는 군사들이 훈련을 했다는 습진벌성이 있었다. 삼성리에는 서문등의 이름이 남아있어 성의 경계를 추측케 한다. 이것은 고구려대에 삼성리를 중심으로 큰 성곽도시가 형성되어 있었다는 것을 의미한다.
이미 해양쟁탈전이 시작되었고 고구려는 해상강국으로서 급성장하였다. 위서 백제전에는 472년(개로왕18) 백제가 북위의 효문제에게 사신을 보낸 기록이 있다. 백제가 사신을 보내고자 하나 ‘승냥이와 이리 같은 것들이 길을 막고 있어서…’라고 하여 고구려에 의해 해양교통로가 차단되었음을 알리고 있다. 해양통제력을 장악하기 위해서 무엇보다 필요한 것은 함선이다. 함선제조용 목재는 가장 좋은 목재여야 한다. 특히 돛대는 힘을 가장 많이 받는 부분으로 나무를 이어붙일 수 없으므로 수백년된 거목을 필요로 한다. 한강하구지역 역시 선박제조용 나무를 공급하기 위해 숲에서의 나무벌채가 성행했을 것은 자명하다. 그러나 3국 모두 영토를 장악하고 있었던 기간이 길지 않았으므로 조림이나 효과적인 숲 보호정책을 폈을 것으로 판단되진 않는다. 벌채의 속도가 조림의 속도를 훨씬 앞서가면서 일어났을 숲의 파괴와 축소는 예견가능한 일이다.
한편 구당서 고구려조에 의하면 겨울철에는 모두 구덩이를 길게 파서 밑에다 숯불을 지펴 방을 덥힌다고 하였으니 난방으로 숯을 사용했음을 알 수 있다. 그을음이 생기지 않는 숯은 신라의 서라벌을 비롯 삼국시대 귀족들의 집에선 보편화된 난방재료였다. 난방의 고급화는 나무의 더 많은 소비를 촉진했다. 한편 고대국가의 형성은 전쟁을 통해서 가능했고 전쟁을 통해 유지됐으며 전쟁을 통해 망해갔다고 해도 과언이 아닐만큼 군사와 전쟁이 중요해지기 시작했다. 철기의 위력은 사회의 가장 중요한 부분에 집중될 수밖에 없었으니, 먹고사는 문제인 농업과 죽고사는 문제인 전쟁이 그것이다. 그중에서도 최대의 소비처는 전쟁과 군사분야였다. 246년 위나라침략군을 격멸한 동천왕의 철기군들은 패쪽갑옷을 입었고 말에는 말갑옷을 입혔다고 했다. 이것은 그만큼 철생산량이 많아졌다는 것을 보여준다. 즙안에서 나온 패쪽갑옷(찰갑)은 길이 3cm, 너비 2cm, 두께2mm정도의 작은 패쪽을 여러개 꿰어 붙여서 만든 갑옷이다. 이런 종류의 갑옷을 한벌 만들자고 해도 100여개 이상의 쇠패쪽이 필요하였다는 것을 고려하면 수만 수십만의 고구려군사들이 많은 철을 소비하여 무장을 갖추었다는 것을 알 수 있다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p103)
철기군 한명에게 들어가는 갑옷과 이러한 갑옷을 능히 뚫을 수 있는 화살촉과 창과 칼이 경쟁적으로 개발되면서 소비적인 부분인 군대는 가장 많은 철의 소비처가 되었다. 또한 전쟁의 승패를 좌우할 더욱 강한 철에 대한 요구와 집착은 그리스신화의 헤파이스토스처럼 대장장이를 신성화하는 단계에 이르렀을 것으로 보인다. 6세기이후 고구려의 무덤으로 알려진 즙안의 다섯무덤중 4호무덤과 5호무덤에서는 쇠를 벼리는 사람의 그림이 있다. 이것은 고구려에서 쇠를 벼리는 일이 매우 중요시되고 신성화되었기 때문에 큰 귀족들의 무덤에까지 이런 그림이 나타난다고 인정된다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p104)
철기문명의 이른 발달을 가져온 고구려에서는 삼림파괴로 인한 환경재앙이 나타나기 시작한 것으로 보인다. 656년(보장왕15년)5월 수도에 쇠가 비처럼 떨어졌다는 기록이 있다(삼국사기 권22,고구려본기,10,보장왕15년 5월도) 물론 이 자료를 놓고 하늘에서 운철이 비처럼 떨어졌다고도 생각할 수 있지만 부근의 철산지들에서 쇠가루가 바람에 휘날리어 올라온 것이 수도 상공에 가서 떨어진 것으로 이해 할 수 있다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p106) 수도주변 숲의 집중적인 과벌목은 철광산에서 날아오는 쇠가루 먼지를 걸러낼 수조차 없을 만큼 숲의 황폐화를 불러온 것이다. 벌채를 하더라도 나무는 다시 자라나지만 문제는 나무가 자라나는 속도보다 벌채속도가 훨씬 빠른 인구밀집 지역과 광산지역등에서는 집중적인 숲의 황폐화 현상이 일어난다는 것이다. 한편 금과 은의 사용이 확대되면서 이들 금광석과 은광석을 녹이기 위한 나무의 소비 또한 증가되었다.
금은은 사치품으로, 또한 이웃나라들과의 무역에서도 특수한 화폐상품으로 이용되었다. 430년대의 기록에 의하면 고구려는 중국의 후위와 매해 사신을 교환하였는데 그때마다 황금200근과 백은 400근을 보내어 무역을 진행하였다.(위서 100권 고구려전) 고구려는 605년에 일본에 장륙불상주조용으로 황금300량을 보내주었다(일본서기 추고기 13년조)
이중 400근의 은생산에 들어간 나무만을 계산해보자. 은400근은 64000돈이며, 은5돈생산에 숯1.7톤이 소용되므로, 숯은 총 10,944톤이 소비되었고, 이를 위해서는 나무 43,776톤이 필요하므로 결국 참나무 약4백만그루가 희생되었다.
얼핏보면 고구려시기에 와서 동의 가치가 매우 떨어진 것처럼 생각할 수 있다. 그러나 실지에 있어서 이 시기 동의 가치는 더욱 높아졌다. 왜냐하면 삼국시기이후부터 동은 이전처럼 농사도구나 무기를 만드는 청동합금의 원료로 이용되었을 뿐 아니라 값진 장식품이나 귀중품들을 만드는데도 많이 이용되었기 때문이다. 4세기 중엽부터 불교가 보급되면서 동은 불교계에서 널리 이용되었다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p116-117) 남포시 용강일대와 황해남도 장연일대에도 오랜 역사를 가진 동광산들이 자리 잡고 있었다.
또한 생활인구의 증가와 함께 기초 생활용품인 그릇 역시 많이 구워졌다. 박은식의 한국통사에 의하면 일본사람들이 무순탄광을 개발하다가 고구려사람들이 만든 자기그릇과 그 파편들을 발견하였는데 그 제법이 매우 교묘하다고 하였다. (조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p120)
고구려시기 나무와 숲의 남벌을 막을 수 있는 기술발전의 계기가 있었다. 그것은 석탄의 발견이었다. 요양,안산을 중심으로 하는 요동지방에서 석탄을 처음으로 개발,이용하였다고 볼 수 있는 자료들이 있다. (조선기술발전사자료집.4집(광업편)고등교육도서출판사 p105 1963) 삼국시기에 이미 석탄자원발견에 대한 자료들이 많이 나오고 있다. (삼국사기 권4 신라본기 제4진평왕 31년1월조/삼국사기 권5 신라본기 제5 태종4년 7월조) 지금의 무순탄광을 중심으로 한 요동지방에는 열량이 높은 석탄이 많이 매장되어 있다. 그러므로 고구려 사람들은 이곳의 석탄을 채굴하여 도자기를 굽거나 철을 생산하는 연료로 이용할 수 있었을 것이다. 석탄을 이용하면 도자기를 굽거나 철광석을 녹이는데 목탄을 이용하는 것보다 노력이 적게 들고 그 생산량이 많기 때문에 도자기생산과 철 생산량을 높일 수 있었던 것이다. 또 석탄에는 나무에 비해 열을 내는 기본원소이며 환원제가 되는 탄소가 많이 들어 있기 때문에 도자기로와 제철로들에서 높은 열량을 내는 좋은 연료로 널리 사용될 수 있었기 때문이다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p123)
그러나 이 석탄이 나무연료난을 해결할 만큼 보편화되었을지는 의문이다. 영국이 산업혁명기 석탄을 실용화할 수 있었던 것은 석탄 그 자체가 아니라 코크스를 발명함으로서 가능했기 때문이다.
16세기 중엽 이후 유럽을 덮친 삼림자원의 고갈,결핍은 땔나무와 숯의 부족에 따른 심각한 에너지위기를 불러왔다. 그 가운데서도 에너지위기가 가장 심각한 양상을 보인 것은 영국이었다. 이에 대하여 영국이 취한 위기극복대책은 대체에너지로서의 석탄을 가정용,공업용 연료로서 조직적으로 이용하는 일이었다. 그러나 석탄은 용광로 내에서 연화용융하거나 분화하므로 통기성이 악화되어 안정된 작업이 곤란하였다. 따라서 영국 A.데이비부자父子는 이러한 문제를 개선하기 위하여 미리 코크스화하여 용광로에 넣는 방식을 개발하여 1735년 처음으로 코크스만으로 제철하는 데 성공하였다. 따라서 코크스발명이 없는 석탄사용은 한계가 있다는 지적이다. 그러나 1952년 장항제련소의 기록에 의하면 일제시대 용해로연료로서 코크스만을 사용하던 것을 그 후 코크스구입난으로 무연괴탄을 시용, 성공한 결과 그 이후로는 무연괴탄만 사용하였다고 한다.(한국광업지 1952 윤성순 대한중석광업회사 p37)
코크스가 아닌 석탄만으로도 연료로 이용되었을 가능성은 충분하다. 그러나 석탄은 나무연료에 비해 흉악한 것이었다. 지독한 연기와 냄새 때문이다. 석탄이 나무소비를 줄일만큼 보편화되는 데는 역시 한계가 있었을 것으로 보인다.
한편 고구려 역시 화전농법이 시행되었다. 무순의 고이산성에서 발굴된 고구려유물들 가운데는 단조하여 만든 쇠도끼, 쇠괭이, 쇠호미가 있었으며 즙안에서 나온 고구려시기의 유물가운데서도 쇠보습과 함께 쇠도끼, 쇠낫등이 있었다.(즙안현문물지<중문>길림문물지편찬위원회p209-212.1984/과학백과사전종합출판사 조선기술발전사2.1994.p223재인용) 이 같은 사실을 통하여 고구려가 일찍부터 철기농구를 이용하여 토지를 대대적으로 개간하였다는 것을 알 수 있다.
벤나무는 개간하려는 땅에 펴서 말린 다음 바람이 부는 쪽에서 불을 놓아 그루터기와 풀종자들을 모조리 태워버렸다. 그 후 불터에 남은 재를 땅속에 갈아엎고 농사를 지었을 것이다. 이 방법의 장점은 첫째로 불태운 자리에서 2-3년 혹은 4-5년은 김이 무성하지 않으며, 둘째로 많은 양의 재를 갈아엎었으므로 2-3년간은 거름을 주지 않아도 농작물의 소출이 높으며, 셋째로 각종 벌레와 병균이 죽어 병해충의 피해를 덜 입으며, 넷째로 비교적 적은 노력으로 많은 땅을 개간하여 농사지을 수 있는 것이다. 그러므로 이 방법은 일제시대까지도 일부 산간지대 농민들 속에서 계속되었다. 그러나 이 방법은 오랫동안 산림속에서 형성된 유기물질을 모두 무기물질로 변하게 하여 토양영양성분을 파괴하므로 개간된 후 영양관리를 잘하지 않으면 농작물의 소출을 높이지 못한다. 그 당시만 하여도 아직 토양안의 영양물질에 대한 지식이 깊지 못하였던 관계로 이 문제는 땅을 쉬게 하는 방법으로 해결하였다. (과학백과사전종합출판사 조선기술발전사2 p223)
이같은 화전농법은 백제에 이어 고구려시대에도 한강하구지역의 주민들에게 널리 사용되었을 것이다.

신라
고구려와 나제동맹의 대결구조 속에서 한강점유를 둘러싼 각축전이 벌어진다. 신라는 해양력을 바탕으로 성장하여 진흥왕때는 나제동맹을 결렬시키고 백제를 공격, 한강유역을 차지한 후에는 북한산주를 설치하였다. 북한산주는 경기도 하남시와 강동구 일대로 추정된다. 신라는 한강하구와 경기만을 장악해갔으며 곳곳에 수군기지를 두고 함대를 양성하였던 것으로 보인다. 이미 삼국사기에는 467년(자비마립간10)신라가 전함들을 수리하였다는 기사가 나온다.(삼국사기.권3.신라본기3자비마랍간10년) 583년(진평왕5)에 선부서船付署를 설치한 사실은 신라해양력의 일단을 보게한다. 수의 중국통일로 수와 고구려의 전쟁이 불가피하게 되자 신라는 경기만을 통해 수와 국교를 맺고 고구려와 적대하게 된다. 당이 건국된 뒤 소정방이 백제를 공격하기 위해 660년 대규모 수로군을 이끌고 황해를 건넜다. 이때 신라의 태자인 김법민은 병선 100척을 동원하여 덕물도(덕적도)에서 대기하였다가 연합하여 금강하류 연안에 상륙한 후 수륙양면 작전으로 사비성을 공격 벽제의 항복을 받아낸다. 이때 덕적도로 집결한 신라의 군대는 남양, 인천, 김포와 강화에 주둔한 군대였을 것이다. 삼국을 통일한 신라는 고구려, 백제의 해양력을 흡수하였고 당나라와 격돌하는 과정에서 그 능력은 발휘되었다. 671년(문무왕11)신라는 당의 조선70여척을 격파하고 673년에는 당의 침입을 경계하기 위해 대아찬인 철천을 파견하여 병선100척을 거느리고 서해를 지키게 하였다.(삼국사기권7신라본기7문무왕13년) 이후 당은 말갈, 거란병과 연합하여 신라의 북변을 내침, 9번에 걸친 싸움을 하게 된다. 이때 신라는 호여(파주임진강)와 왕봉(한강행주)일대에서 대승을 거둔다. 그해 겨울 당나라군대는 우잠성(황해도금천군우봉리)을 치고, 거란,말갈병은 대양성,동자성(김포통진)을 점령하였다. 한강하구를 둘러싼 나당간의 싸움이 계속됨으로써 한강하구는 전화의 소용돌이에 휘말린다. 결국 신라가 매초성전투와 기벌포해전으로 당의 침략의지를 분쇄함으로서 735년 대동강이남에 대한 신라의 지배권을 인정받게 된다. 위의 사료들로 보건대 신라는 상비수군병력으로서 100척의 함선을 거느리고 있었던 것으로 볼 수 있으며 파주-김포-강화에 이르는 조강, 즉 한강하구지역은 나당세력의 주요전선으로서 대치했음을 알 수 있다. 전란에 휩싸인 전선에서의 삼림의 파괴는 불을 보듯 뻔한일이었으며 선박 건조를 위한 소나무의 급증하는 소비로 숲의 황폐화를 가속화했을 것이다.
한편 신라 또한 1세기 전반기에 쇠를 녹일 때 숯을 썼다는 사실이 삼국유사에 기록되어 있다.(삼국유사 권1기이,탈해왕조) 삼국사기 강수열전에서 학자였던 강수가 일찍이 부곡(가마골)의 야장쟁이의 딸과 사귀여 그와 결혼했다는 이야기가 있다(삼국사기 권제46,렬전6,강수) 이것은 철을 다루는 야장쟁이가 부곡민이면서도 독특한 지위를 인정받고 있음을 의미한다. 신라초기 144년(일성니사금11년)에 민간에서는 구슬과 함께 금,은을 함부로 쓰지 못하게 하는 법령을 채택하였다.(삼국사기,권1,신라본기제1,일성니사금11년)
이는 나무부족으로 인한 귀금속광물의 제련에서 오던 연료압박을 시사하는 기사로 읽혀진다. 자원이 부족해지자 계급적 통제가 강화된 것이다. 661년 5월에 술천성을 지키는 싸움에서 철질려라는 마름쇠를 많이 만들어 성 밖에 깔아놓음으로써 이웃나라 군대와 말들이 다닐 수 없게 한일이 있었는데(삼국사기권5신라본기무렬왕8년5월조) 이것은 쇠로 만든 여러가지 종류의 무기가 대량으로 생산되었던 사실을 보여준다. 철제무기사용의 급증은 이의 생산에 요구되는 나무와 숲의 벌채를 수반하였으므로 전쟁은 숲을 파괴시킨 제일 원인이 되었다.
분황사에는 전탑이 세워져 있다. 이는 신라인들의 생활에서 벽돌이 중요한 건축재료가 되었음을 알 수 있다. 서양자료에 따르면 1입방피트의 벽돌을 구우려면 1코드이상의 땔나무가 필요했다. 1코드는 128입방피트이므로 결국 부피로 치면 벽돌의 128배에 달하는 땔나무가 필요했다.(숲의서사시,존펄린.따님출판사.2002.p122) 결국 토기와 더불어 벽돌굽기 또한 나무와 숲의 파괴를 가져온 원인이었다.

참고로 발해의 철생산기술 또한 높은 수준을 가지고 있었는데 책부원귀에는 836년 당나라 개성원년에 그 치정절도사가 황제에게 상소하여 이후부터 발해국에서 가져오는 숙동(잘 정제된 정동)을 금지하지 말기를 요청하였다는 기록이 전한다.(책부원귀 권999,청구조) 발해의 숙동을 당나라에 수출하였다는 기록은 <신당서>발해전에도 있다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p165재인용) 중국의 동제련법의 발전사를 보면 조동생산은 이미 오래전에 알려졌지만 발해의 숙동과 같이 잘 정제한 질 좋은 동은 명나라시기에 와서야 널리 생산되었다(중국고대광업개발사(중문)p267-270,1980) 숙동생산에서의 기본원리는 제1차동제련로에서 생산된 조동을 정련로에서 다시한번 잘 정제하는 것이었다. 정련로에서는 이미 생산된 조동을 다시 녹였는데 여기에 녹임감으로 석회석(10%이하)을 넣는다. 이때 석회석은 조동을 쉽게 녹이면서 동과 버럭(맥석)을 갈라내는 작용을 하였다. 그리고 노안에 석영질 녹임감이 있는 조건에서 온도를 1200-1350℃를 보장하고 바람을 세게 불어넣으면 정제한 숙동이 생산되었다고 한다.(조선광업사1 리태영외 공업종합출판사 1991 p168) 결국 숙동의 생산에서 결정적인 전제는 1350℃의 고온이었고 그 숨겨진 공은 나무와 숲에 있었다.

고려시대 한강하구의 숲
대몽항쟁기는 강화도 역사상 가장 많은 인구와 가장 많은 건물의 집중적인 증가를 보인 시기였다. 그 이전에나 그 이후로도, 심지어 현재까지도 그렇게 많은 인구가 강화에 집중된 적은 없었다. 고려사절요에 의하면 1232년 ‘경도의 호는 십만에 이른다’고 하였다. 개성의 가구수가 십만호였으니 5인1가구로 계산해도 50만 인구가 된다. 그러나 이들이 모두 강화로 이사온 것은 아니었으므로, 개경인구의 1/3이 강화에 들어왔다면 그 수는 대략 15만명 정도 될 것이다. 장단과 해주등 개성인근에서 이주한 피난민들은 제외하고도 말이다. 1232년 6월 천도에 즈음하여 2령의 군대를 동원하여 궁궐공사를 하였다고 하였으니, 공사에 참여한 군인만도 2000명에 이른다. 1234년 1월, 천도 1년이 지나고서야 궁궐과 관청, 성곽, 사원, 주택등 도시의 기본 시설이 갖추어졌다. 궁궐과 관청을 둘러싼 성곽의 길이는 3874척(1240m)이었으며, 중성은 2960칸(9472m), 외성은 37,076척(11,864m), 집은 수천호에 이르렀으며 절은 봉은사를 비롯 12개가 넘었다. 1238년 이규보는 ‘고깃비늘처럼 이어진 만가를 멀리서도 끌어당겨 볼 수 있으니 옥루 높은 곳에 비단 장막이 걷어 올려졌네’라고 했으며 1240년에 ‘멀고 가까이 일천개의 푸른 기와집이 들쭉날쭉 이어지고 아침과 저녁으로 만개의 부엌에 푸른 연기가 피어나며 이웃한 먼나라 만조백관들은 별이 북신에 조아리듯하고 달려온 나라 백성들은 물이 바다에 조회하듯 하니 봉루에 베푼 잔치는 옛날에 비해 손색이 없다’고 하였다.(李奎報.東國李相國集.卷7.次韻李侍郞見和二首) 도시가 새로 만들어지는 과정에서 엄청난 양의 목재와 석회등이 사용되었을 것은 당연하다. 최우가 자신의 집을 짓는데 도방과 사령군을 부역시켜 개경의 재목을 실어오게 하고 집동산에 심을 소나무와 잣나무를 실어오게 한 것은 집권자의 호사를 나타냄과 동시에 이미 강화에 대주택과 원림을 조성할만한 재목과 나무가 존재하지 않았음을 반영한다. 더구나 이렇게 무분별하고 무질서하게 지어진 건물들은 수없이 많은 화재로 소실되어 갔다. 제대로 계획되지 않은 채 형성된 도시는 무질서하고 좁게 밀집되었고, 이는 항상 대형 화재의 원인이 되었다. 고려사 권53 지오행조의 기록을 종합하면 1234부터 1257년까지 약20년 동안의 고종집권기에만 16번의 대형화재가 있었고, 그 피해수는 4~5천호에 이르니, 1000호에 이른다던 집들은 4~5번씩은 불타고 새로 짖고를 거듭한 꼴이다. 이 과정에서 마을과 산중턱까지 맛 닿아 있었을 인근의 견자산, 송악산, 남산등의 숲 역시 불에 탓을 것은 자명하다. 배를 이용하지 않고도 나무를 운송할 수 있는 산림은 혈구산과 고려산뿐이었으므로 이들 숲 역시 빠른 시간내에 황폐지가 되었을 것이다. 이같은 사정은 이규보의 시를 통해 잘 나타난다. 일국의 재상인 그가 며칠 동안 아궁이에 불을 때지 못하여 솥에는 먼지가 쌓이고 일꾼들이 배가고파 집을 짓지 못하고 말이 굶주려 쓰러지니 땔나무를 해오지 못하였다고 했다. 이것은 강화의 숲이 천도이후 얼마나 급속한 속도로 고갈되었는지를 나타내준다. 인구의 집중은 주택난 못지않게 식량난을 초래했다. 이규보조차 녹봉이 충분치 못하여 여러차례 양식이 떨어져 물을 마시며 가난을 참아야 했다.(李奎報.東國李相國集.卷 1寓河陰客舍西廊有作) 그의 시 가운데는 동년 노생이 쌀을 빌려달라는 부탁을 받은 사실과 선비의 딸이 밥을 빌러 왔던 일도 기록하고 있다. 재상의 생활이 이 정도였으니 일반 민중들의 사정은 비참하기 이를데없었을 것이다. 땔감이 없어진 것은 과도한 남벌과 함께 화전경작이 가장 큰 이유였던 것으로 보인다. 이규보는 강화에 들어와서 사람들이 다투어 새로이 밭을 마련하여 경작하였다고 하였다. 당시엔 갯벌에 대한 간척사업이 진행되기 전이라 밭을 만들 곳은 산비탈뿐이었다. 식량난은 숲을 사라지게 하고 그 대신 밭을 늘어나게 했을 것이다. 그러나 이런 땅이나마 전쟁기간동안에는 농사조차 제대로 지어지지 않았다. 1255년에 큰 기근이 있었고, 그 이듬해에는 기아와 질병이 겹쳐 시체가 길을 덮었다 하였다. (고려사절요.권17.고종43년.12월) 이 같은 극심한 곤궁은 결국 갯벌간척에 눈을 돌리게 하였다. 나무수종에도 변화가 왔다. 느티나무는 옛부터 널리 사용되었던 나무로서 원삼국시대의 고분인 임당고분, 천마총 관재를 비롯하여 우리나라의 가장 오래된 목조건물인 무량수전의 기둥에도 느티나무가 쓰이고 있다. 또 기록에서도 삼국사기의 거기車騎조에 보면 목재사용을 규제한 내용 중에 수입 귀중목재인 자단, 침향과 같은 서열에 있을 만큼 흔하면서 귀중한 우량재였음을 알 수 있다. 그러나 고려시대의 몽고침입 등 전쟁과 사회적 혼란을 겪으면서 선박 건조사업 및 지배계층에 의한 각종 건축사업은 필연적으로 산림파괴를 가져왔으며 이는 숲 속에서 흔히 분포하던 느티나무가 급격히 줄어들고 소나무, 참나무등이 상대적으로 많아지는 계기가 되었을 것이다. 그 예로서 고려초 건물인 무량수전등은 기둥의 전부가 느티나무로 이루어진 반면 조선조 초기 건물인 화암사, 범어사, 무량사 등의 기둥재는 느티나무 외에 소나무와 전나무, 참나무류가 사용된 것에서 그 예를 볼 수 있다. (박상진.고려대장경판의재질로본판각지에대한고찰.인문과학12집,경북대)
고려조의 나무에 대한 고도의 지식과 벌채과정을 보여주는 것으로 팔만대장경이 있다. 대장경판을 판각하기 위하여 사용할 수 있는 나무의 특징은 우선은 재질이 균일하고 미세하여 글자 한 획 한 획이 깨끗하게 파져야 하며 너무 단단하여 글자를 새기기가 어려워서도 안된다. 그렇다고 너무 연한 나무는 인쇄를 할 때 빗침부분이 떨어져 나가버리므로 적당치 않다. 이런 조건에 맞는 나무는 그렇게 많지 않으며 우리가 흔히 알고 있는 소나무, 잣나무, 젓나무 등의 침엽수는 세포크기가 크고(머리카락의 1/2정도) 춘추재의 세포차이가 너무 뚜렷하여 부적합하다. 또 밤나무, 참나무, 느티나무, 물푸레나무 등은 물관의 직경이 무려 0.3mm나 되므로 쓸 수 없다. 그렇다면 적당히 단단하고 세포의 크기가 고르며 조각하기가 쉬운 나무는 대단히 한정되며 그나마 경판을 만들 수 있을 만큼 직경이 크게 자랄 수 있는 나무라야 하는데 이런 나무는 10여종에 불과하다. 경북대학교 임산공학과 박상진교수가 250여점의 대장경중 표본을 선정하여 분석한 결과에 의하면 대장경경판의 수종은 그동안 알려진 자작나무가 아니라 산벚나무와 돌배나무가 압도적인 비율을 차지하는 것으로 밝혀졌다. 산벚나무는 심변재의 구분이 확실하고 심재는 짙은 적갈색이며 조직이 치밀하고 곱다. 비중이 0.62정도고 잘 썩지 않으며 가공이 쉽다. 조각재, 칠기심재 등으로 쓰이며, 목판인쇄의 재료로서는 최우량재이다. 이른 봄 다른 나무들은 아직 새잎의 푸르름이 시작도 하기 전에 화사한 분홍빛 꽃을 지천으로 달고 있는 나무이다. 이 꽃이 필 무렵이면 멀리서도 쉽게 산벚나무를 구별할 수 있어서 몽골군에 유린당한 육지에서 몰래 몰래 한 나무씩 베어오기에 안성맞춤이었을 것이다. 전국의 어디에서나 자랄 수 있으나 특히 남부지방에 흔히 볼 수 있고 섬지방에도 잘 자라고 있다. 높이 20m, 직경이 거의 1m까지도 자라는 나무이다. 산벚나무는 강화에서는 잘 자라지 않는 수종이어서, 결국 팔만대장경은 강화 선원사와 합천 해인사에 두벌이 제작되고, 선원사 팔만대장경은 해인사로 옮겨진 것이 아니라 몽골군에 의해 불타진 것으로 보는 견해가 있다. 그러나 돌배나무는 주목된다. 배의 식용역사는 굉장히 오래된 것으로 추정되는 데 약 4천년전의 일산신도시 선사시대유적에서 발견되어서 무척 오래 전부터 애용해온 것으로 생각된다. 분포지역은 산벚나무류보다는 약간 추운 지방이다. 직경 60cm, 높이 10m까지 자랄 수 있으며 조직이 매우 치밀하고 균일하다. 강도가 강하고 단단한 반면 가공은 비교적 용이하다. 가구재, 기구재, 조각재 등으로 사용되었으며 1915년 일본으로 가져가기 위하여 인쇄를 하면서 누락된 경판18매를 발견하고 다시 새겨넣을 때 서울근교의 배나무를 사용하였다는 기록이 있다. 이규보의 동국이상국집에 의하면 강화에서 생산된 배를 먹어보고 지은 시에서 ‘본래 강화는 농사가 잘되던 곳이 아닌데 언제부터 가꾸어서 이 같은 배가 생산되었는지 놀랍다’고 하였다.(東國李相國集.卷5.食俗所號天子梨) 이는 배나무가 대장경판각 당시 강화에 많이 존재하고 있음을 시사한다. 따라서 강화 선원사 대장경의 수종은 배나무가 중심이 되었을 가능성을 염두해 볼 수 있다. 팔만대장경의 경판수는 총81,258장이다. 대장경제작에 들어간 목재의 양은 박상진교수의 연구를 인용하면 다음과 같다.
경판에 사용한 목재의 양은 크기별 전체 경판수에 대한 점유비율을 개략적으로 환산한 총재적總材積과 마구리에 사용한 목재의 양을 합하면 구할 수 있다. 추정한 경판의 재적은 약 370세제곱미터, 양마구리 재적이 약80세제곱미터로서 경판과 마구리에 사용한 목재의 총량은 약 450세제곱미터에 달한다. 이를 무게로 환산하면 비중을 0.6-0.7로 보아 약300톤 정도인데 4톤 트럭에 싣는다면 7-80여대에 해당하는 방대한 양이다. 그러면 450세제곱미터에 달하는 경판재와 마구리재를 얻기 위하여 어느 정도의 원목을 벌채하였으며 운반하는데는 얼마의 인원이 동원되었는지 추정해보자. 우선 450세제곱미터의 목재를 가공하는 데는 당시의 열악한 기술로 볼 때 원목에서 경판재를 만드는 비율은 적게는 원목의 10%, 많게도 40-50%를 넘을 수는 없다. 따라서 원목은 적어도 1000세제곱미터이상이 필요하였다고 본다. 경판길이가 64cm, 74cm인 것이 대부분이므로 이를 기준으로 본다면 통나무의 길이는 적어도 90cm는 되었을 것이다. 또 통나무의 직경은 경판폭이 24cm이므로 적어도 40cm이상이라야 한다. 한편 산벚나무와 돌배나무의 첫가지까지의 높이는 약 1-2m정도이므로 직경 40cm의 경우 통나무 한 토막에서 경판은 2장이 채취 가능하고 한 나무 벌채에서 약 1.5개의 통나무 토막이 생산 가능하다. 물론 실제로는 40cm이상의 대경목도 다수 사용되었을 것이나 운반 및 취급의 편의성을 고려한다면 사용 통나무 개수는 10,000-15,000본 정도로 추정되고 통나무를 선정 벌채하여 각판 장소까지 운반하는데 만도 동원된 연인원은 10만명 전후가 아닌가 생각된다.
한편 강화에서 서울로 서울에서 해인사로 옮긴다고 가정할 때 경판의 포장에 들어가는 총 판자의 양은 244세제곱미터이다. 오늘날처럼 기계로 제재하여 판자를 만들어도 이 양은 엄청난 양이며 나무를 벌채운반하는 인력까지 생각한다면 막대한 재정적 지원이 없이는 불가능하다. 경판의 총무게는 전체 경판수에다 평균무게 3.4kg을 곱하여 약 280톤, 여기에 포장재의 무게를 포함하면 400-500톤으로 추정할 수 있다. 두 사람이 한 조가 되어 50kg의 포장경판을 운반하면 연 인원 약 1만에서 2만여명이 필요하다. (박상진.고려대장경판의재질로본판각지에대한고찰.인문과학12집,경북대/http://bh.kyungpook.ac.kr/~sjpark/tri1.htm재인용 )
대장경에 깃든 우수한 민족문화의 얼과 함께 전란의 와중에서 가혹한 노역을 강요당해야 했던 백성의 고혈과 숲의 파괴를 같이 고려해야하는 몫이 우리에게 남아있다.
삼국시대에 이어 산림파괴가 계속되고 더불어 산림의 이용도가 급격히 높아지면서 고려대에는 민둥산이 나타나기 시작했을 것으로 판단된다. 특히 강화천도기를 기점으로 강화의 슾은 민둥산으로 변해갔을 것이다. 한편 국가재정의 고갈로 관료들에게 녹봉을 줄 수 없게 되자 간척한 땅과 함께 임야를 제공하게 되고 이로 인하여 임야의 사점화현상이 등장하기 시작했다. 그결과 땔감을 채취하기가 곤란하게 되었으므로 공용임야에 입산하여 집단적 채취를 하게 되었다. 이같은 특정지역에서의 계속적인 벌채는 마침내 화강암을 주로하는 강화의 지질등 자연요인과 결합되어 산지를 황폐화 시키는 결정적 요인이 되었을 것이다.
몽골의 침략은 페르시아의 산림황폐를 결정적으로 초래한 점에 비추어 20년간 거의 매년 이루어진 고려침공 역시 삼림의 황폐를 초래했을 것은 어렵지 않게 예상되는 바이다.
고려조 8대왕 현종은 산림황폐를 우려한 나머지 즉위 4년에 삼림남벌을 경고하고 제한하는 조치를 취했다. 또한 현종22년 신미에 벌채에 적절한 시기에 대하여 ‘입춘후금벌목立春後禁伐木’이라 하여 입춘이 지나고 나서의 벌목을 금하였다. (황폐지복구사 산림청1988 p77)
그러나 고려초 정부의 이러한 금벌정책은 몽골침략과 강화천도등 전란의 소용돌이 속에서는 그저 속수무책일 뿐이었고, 그 뒤 훼손된 숲이 자연복원된 흔적을 찾기 어렵다. 고려시대 대몽항쟁기간은 한강하구의 숲이 결정적으로 파괴되고 갯벌이 간척되는 등 생태환경의 극심한 변화가 초래된 시기였을 것이다. 이와 더불어 숲을 가꾸고, 갯벌을 보호할 민중들의 생활이 파괴되었다는 점에서 전쟁은 자연과 인간과 사회의 조화에 도전한 최대의 적이다.

조선시대 한강하구의 숲
시골에서 발견되는 돌판에 ‘棄灰者 杖三十, 棄糞者 杖五十’, 즉 재를 버리는 자는 곤장 30대, 똥을 버리는 자는 곤장 50대 라는 글귀가 발견되기도 한다. 곳에 따라서는 재를 버리는 데에 대한 형벌이 곤장 오십대, 똥을 버리는데 대해서는 팔십대와 같이 더 엄한 벌을 내리는 곳도 있었다. 똥과 재를 버린다는 것은 이들이 다 유용한 거름자원인데 이 자원을 낭비하고 강이나 길에 버려 환경을 오염시킨다는 뜻이다. 그리고 가축을 방목하여 산림을 훼손하는 행위도 곤장 100대에 해당할 만큼 엄한 벌로 다스려졌었다. 소나무 한 그루를 불법으로 베어내는 댓가는 곤장이 100대, 두 그루면 곤장 100대를 친 후에 군복무를 시키고, 열 그루면 곤장 100대를 친 후 오랑캐 지역으로 추방하기도 했었다. 모세의 율법에는 곤장을 40대 이상 때리면 사람이 영영 다친다하여 이를 금하고 있는 것을 보면 우리의 형벌이 얼마나 가혹한 것이었는지 짐작할 수 있다.
조선시대에 와서는 산림정책을 포함한 각종제도와 법전의 제정이 이뤄졌는데 1기는 건국에서부터 제도를 완성하여 경국대전을 편찬할 때까지인 1392년부터 1469년까지 77년간이고, 2기는 대법전이후부터 속대전이 편성된 1470년부터 1744년까지 274년간, 3기는 속대전 이후 1745년부터 고종즉위년인 1863년까지의 118년간이다. 시기별로는 다음과 같다.

1기; 지방관으로 하여금 산림을 순찰하여 산불을 방지하도록 하였다. 가뭄에 대한 기우제때도 명목산림에 대한 벌채를 금하였으며 당시 왕도의 성안팍의 하천가에 둑을 쌓고 나무를 심었다. 한편 개간이 성행하면서 임분이 많이 제거되고 임야에는 화전이 점증하였다. 특히 강원도 지방에서는 산악지대이므로 산림의 연소가 많았다. 경국대전에 하천둑은 수령이 매년 봄가을로 관찰사에게 보고하여 개수하고, 신축은 견고히 쌓도록 하였으며 읍의 하천둑 내외면은 잡목을 식재하여 훼손을 방지토록 하였다. 하천둑과 중요한 개소에서는 나무를 베고 밭을 일구는 개간을 엄금하고 사점을 금지하였다. 당시 서울에서는 4대산을 획정하여 보호림을 설정하고 지방에서는 봉산을 설정하였다.
2기; 서울내외의 산림내 경작을 금하고 잡목을 심어 물의근원, 즉 수원을 함양토록 하였으며 하천양안에 식재를 하거나 혹은 축재를 하고 방수림을 조성하였다. 하천연안의 벌목을 금하고 경작지도 경작을 금하여 수해방지책을 마련하였고 보호림의 산불에 대해 특별단속을 강화하였다. 그러나 유민이 계속 늘고 화전에 의한 피해가 심해졌으므로 1650년부터는 정책도 구체화되고 강화된다. 제언사提言司를 임명하여 하천둑등 수리시설을 관리하도록 하고, 산허리 이상의 벌목이나 신규벌목은 금지했으나 산허리이하의 옛밭은 경작토록 함으로서 개간을 막진 못하였다. 화전정리법으로 일정지역을 정해서 금양(경작금지)를 단행하고 지역적으로 정리대상을 정하였다. 산불이나 도벌을 단속하고 산림관으로 하여금 순찰토록 했다. 각도와 읍에 있는 소나무 숲의 보호취체규정을 제정하고 금산표주내에서는 경작을 금지하였다. 이러한 노력에도 화전등 산림훼손은 더욱 증가했으며 이는 조선말 각종 풍수해 빈발의 원인이 되었다.
3기; 서울주위의 4대산림에 1680년경 솔나방의 피해로 산림이 쇠퇴하고 토사유출이 심해졌다. 이로인해 성내의 냇물과 하천의 수로가 막히게 되고 강우시에는 하천이 범람하는 피해를 당하게 되었다. 이시기 숲정책에서 특기할 점은 금산, 봉산 기타의 관공용 임지이외의 일반임야에 대한 조림을 장려한 점이었다.
이제 한강하구의 숲을 중심으로 항목별로 살펴보자.

사진5 해안방어시설
사진글 한강하구의 해안방어시설에는 대량의 석회가 필요했고 이를 위해서는 더 많은 양의 나무가 베어져야 했다.-김길화사진제공

석회
석회석은 우리나라에 무진장하게 매장되여 있었으나 15-16세기경까지는 석회를 굽는데 드는 나무가 무성한 곳에서만 광상이 개발되었다. 임원16지(예규지 8역물산)에 의하면 당시의 석회광상소재지로 강화가 등장한다. 또한 동국여지승람에 의하면 석회석광상으로서 강화와 풍덕(개성) 두 곳을 들고 있다. 한편 문종실록에는 ‘수도를 옮긴 이후 석회구이장으로 양주와 강화 두 고을만한 곳이 없었다’고 하였다.(문종실록권4.즉위년10월경진조) 이미 태조대에 충청과 황해좌우도의 장정 천2백명을 징발하여 강화에서 석회를 굽게 하였다.(태조8권4년9월17일(무신)원전1집83면) 석회광상이 있다 해도 나무가 풍부한 곳이 아니면 석회가마를 운영할 수 없었다. 이러한 사실로 미루어 볼 때 태조때 강화도는 석회광상과 더불어 풍부한 숲을 유지하고 있었던 것으로 볼 수 있다. 고려시대이후 황폐화 됐던 숲이 시간이 흐름과 함께 복원되었다는 신호이기도 하다. 그러나 문종대에 이르러서는 강화의 숲 형편이 열악해져서 한강하구인근인 파주교하에서 시목(땔나무)을 운반하기에 이르고 이는 백성들에 대한 가혹한 착취를 초래했다.

전 현령縣令 김승비金承庇가 상서上書하기를,
“옛날에는 석회를 구워 만드는 데는 돌이 좋고 나무가 무성한 곳을 골랐기 때문에 들어가는 힘은 적으나 이루어지는 공효는 많았습니다. 요즈음에는 나무가 부족하고 그 돌이 좋지 않으므로, 이에 교하交河에서 백성들을 독촉하여 그 시목柴木을 운수하기 때문에 바야흐로 봄철 농사일이 바쁜 때에 파리하고 피곤한 소가 쉽게 밭을 갈지 못합니다. 그 가격으로 말한다면 1바리[駄]의 가격이 쌀 2, 30두斗에 이르니, 부자는 좋지만 가난한 사람은 불쌍합니다.(문종4권,즉위년,10월,10일(경진)원전6집299면)
석회구이는 비교적 간단한 방법으로 진행되었으므로 큰 토목공사가 진행될 때에는 어디에서나 그 생산이 진행되었다. 석회는 건축공사장에 필요한 건재를 보장하고 회회청을 비롯한 각종 도료의 생산에 이용되어 건축의 장식성을 높이는데 이바지 할 수 있었기 때문이다.(조선광업사2 리태영외 공업종합출판사 1991 p104) 공공건물등에 쓰일 석회를 만들기 위해서는 먼저 석회석을 900℃까지 구워야 했으므로 막대한 양의 나무가 필요했다. 게다가 건축용으로 쓰게끔 점착성을 지니게 하려면 장시간 고온에서 석회를 가열해야 했다. 로마의 기록에 의하면 석회가마 하나당 보통 하루에 약7,300킬로그램의 땔나무를 소비했다.(숲의서사시,존펄린.따님출판사.2002.p121) 강화의 석회가마에서 매일 7,000kg의 나무만이 소비됐다고 가정해도 한달이면 21톤, 10개월이면 210톤이다. 계산의 편리를 위해 1년 소비량을 210톤으로 가정하면 비중이 0.7이고 직경이 50cm이고 길이가 1m인 나무의 경우 1천2백만 그루가 태워 없어진 것이다. 지름이 50cm인 나무가 만드는 공간의 지름을 약5m로만 잡아도 1년 사이에 3억평방미터의 숲이 사라진 것이 된다.
임원16지에 의하면 강화도를 비롯한 36개 고을에서 특산물로 석회가 많이 생산되었다. 18세기말 수원성을 건설하는데 든 86,422섬의 석회는 8,211량의 돈으로 사들였는데 그 가운데서 60,097섬 2말은 1섬당 6푼8리의 값으로 황해도 금천에서, 6,013섬은 1섬당 8푼7리의 값으로 경기 안산에서, 1,545섬은 1섬당 5푼5리의 값으로 경기 풍덕(개성)에서, 4,425섬은 1섬당 1돈7푼2리의 값으로 충청 평신진에서, 6,479섬은 1섬당 2돈 6푼 6리의 값으로 수원에서 사들인 것이었다.(화성성역의궤,권5,조비,석회/조선광업사2,p211재인용) 화성을 짓는데 들어간 석회의 부피는 86,422섬(15,752,000리터)이고 생석회의 비중이 3.4이므로 그 질량은 535,568,000kg, 즉 약50만톤이다. 1톤의 석회를 생산하는데 1.6톤의 석회석이 필요하므로 50만톤의 석회를 생산하기 위해선 80만톤의 석회석이 필요하다. 정확한 통계를 알 수 없지만 만약 석회생산에 구리와 같은 양의 숯과 나무를 필요로 한다면 구리 3kg에 6톤의 숯과 120그루의 나무와 500평방미터의 숲이 사라지므로 50만톤의 석회를 위해서는 10억톤의 숯과 200억그루의 나무와 8백억평방미터의 숲이 사라진다. 한편 북한성 건축에는 석회가 9,638석, 숯이 14,859석이 들어갔다.(숙종50권37년10월19일(갑술)원전40집416면)
태조때부터 석회구이장으로 이름을 날리던 강화가 정조대에 석회생산지에서 사라진 것은 숲의 황폐화와 나무자원의 고갈이 그 원인이었던 것이 분명하다. 강화도 대신 풍덕(개성)과 금천이 석회구이장으로 변화된 것은 나무연료 공급지를 찾아 석회가마가 이동한 결과로 판단된다. 숙종대에 강화도의 49돈대를 건설하는데 이때 조달해야할 물자 중에서 가장 심각한 것이 석회였다. 심지어 석회를 대주는데 공을 세우는 자는 수령까지 관직을 제수하는 조치를 취할 정도이다.

행병조판사 민암이 아뢰기를
석회는 1만여 석이 들어가야 하는데 비록 사사로 매매하는 곳이 있기는 하나 제때에 제 수량을 다 구해 쓸 수는 절대로 없습니다. 또 직접 구어내 보려고 하면 돌을 뜨는 일이나 나무를 구해올 때에 아주 많은 인력이 쓰이며 구어 낸 뒤에도 실어나르기가 곤란합니다. 지금 만일 일을 성취할 만한 사람을 감관으로 정하여 물력을 주어 조달하게 하고 그 중에서 비용은 적게 들이고 성과는 많이 올린 자는 그 처지에 알맞도록 혹은 첨사와 만호를 제수하고 혹은 수령을 제수하며 혹은 가자加資하여 지금처럼 순례대로 승전을 받아 거행하는 관습을 버리고 이조와 병조(兩銓)로 하여금 즉시 수용收用하게 하면 혹 일을 성사시킬 수 있을 것입니다.” 하였다.(국역비변사등록.숙종16년(1690)11월24일)

1만석은 1,800,000리터로 6,120,000kg, 즉 6,120톤이다. 그러나 그 다음에 이어진 강화성곽수축은 3만석 즉 18,360톤의 석회를 필요로 했다. 숙종대에 이미 강화도내에서 성곽수축등에 필요한 석회는 물론 나무도 자급할 수 없는 상황에 이르게 된다. 49돈대를 만든 후 해안을 따라 관방시설을 축성하기 위해 들어가는 석회, 지렛대나무, 장목, 말목, 밥짓는데 쓸 나무바가지, 땔감, 아름드리재목등을 모두 외부로부터 조달하도록 지시한 비변사의 지시내용을 보자.

여장女墻에 쓰일 석회는 3만석을 한정하여 경기·황해 양도로 하여금 해변의 각읍에 분정하여 미리 구어 두었다가 얼음이 풀리는 즉시 강도에 실어다 납입한다. 성문과 성을 쌓을 때에 쓰일 지렛대나무 3천개와 돌을 운반할 때 엮을 나무 8천개, 가가假家를 짓는데 쓰일 각종 장목長木 6천개, 말목 6천개는 성을 쌓을 때의 예대로 차원差員을 따로 정하여 장산곶長山串에서 베어내어 얼음이 풀리는 즉시 강도에 실어다 바친다. 말목 3천개는 충청도에도 똑같이 분정한다. 많은 숫자의 공장工匠과 역군의 밥을 짓는데 쓰일 나무바가지는 1천5백개를 한정하여 강춘도(강원도)의 생산할 수 있는 각 읍에 분정한다. 공장과 역군의 밥을 지을 땔감은 불가불 미리 마련해야 하나 강화 전역은 모두가 민둥산이고 마니산의 나무는 뜻한 바가 있는 것이므로 가져다가 쓸 수 없으니 자연도紫燕島의 벌레먹은나무(虫損木)중에서 가려서 가가를 짓는 데와 말목과 엮을 나무로 쓰고 끝단과 지엽枝葉은 전부 가져다 쓰도록 한다. 자연도 이남의 여러 섬에 있는 땔감도 1만동을 한정하여 부근의 각 읍과 각 진포에 분정하여 얼음이 얼기 전에 베어내어 얼음이 풀리는 즉시 강도에 실어다 바친다. 성을 쌓을 때에 쓰일 동거童車, 썰매雪馬, 원다고圓多古, 고패(轆轤) 등은 각 영문에서 배를 만들고 남은 재료로 만들게 한다. 성을 쌓고 돌을 배치할 때 쓰일 큰 몽둥이는 성을 쌓을 때의 예대로 서울주변 사산四山의 공이가 많은 소나무를 가려서 베어다가 잘라서 쓰게 한다. 성을 쌓을 때에 조수가 들락거리는 항구나 갯가에는 각기 대소에 따라 수로水路를 내야 하는데 큰 곳은 돌로 쌓고 작은 곳은 흠통(桶)을 써야 하니 흠통감으로 아름드리재목(大不等)30주株와 성문에 가로지를 장목 3주는 값을 잘라 강춘도의 생산되는 각 읍에 분정한다.(국역비변사등록,숙종16년(1690)11월14일,후록)

위 기사는 마니산을 제외한 강화전역이 민둥산임을 공식적으로 확인시켜주고 있다. 석회와 소나무를 공급하던 강화도는 이제 외부로부터 무리할 만큼 공급을 받아야하는 최대의 소비처로 바뀌어 있었다.

사진6 비격진천뢰
사진글 비격진천뢰.우리나라 전통 대포 종류인 대완구(大碗口)에 사용하는 포탄이다.비격진천뢰는 내부에 화약을 충전하기 때문에 적 위치에 도달할 때쯤 자체폭발을 일으켜 파편으로 적을 직접 살상할 수 있었다.

화약
염초는 화약재료이다. 따라서 국가에서는 유황과 더불어 매우 중요한 군수물자였다. 대마도의 좌위문대랑이 객인을 보내어 부산포에서 배만들기를 청하고는 유황2천근을 바치므로 조선이 청을 들었다(세종08/07/07/(무술)원전3집35면/수군자료1집p320재인용)는 기사에서 보듯 왜인에겐 단 한그루의 소나무도 허용치 않던 금기를 깨고 유황을 바치자 선박제조용 소나무의 벌채를 허용하였을 정도로 화약재료는 중요한 것이다.
1477년 1월 경연지사 강희맹이 ‘화약고에 석류황 23만7000여근과 염초4만근이 있다’(성종실록 권75, 8년 1월정묘)고 하였다. 1596년 5월 충청도 서천에 사는 임몽이라는 사람은 사람과 말들이 밟고 다닌 바다흙을 가지고 염초를 생산하였다. 이런 흙에는 특별히 질산암모늄이 많기 때문에 염초생산에 적절했다. 선조 때 훈련도감의 제의에 ‘서천의 봉족인 임몽이 염초제조법을 여러가지로 시험하여 성공한 다음…남양의 바닷가에서 5일동안 바다흙으로 염초 1근을 구워냈고 짠흙 2푼중, 바다흙 1푼중을 가지고 염초 3근을 구워 바쳤다. 그것을 제조하여 폭발시켰더니 정하고 위력이 있어 쓸 만하므로 두가지 색깔의 화약을 각각 봉해서 올린다. 바다흙은 반드시 사람과 말들이 밟고 다니는 소금구이장에서 파내야 하는 것인 만큼 바다가의 나무가 무성한 곳에 가서 많은 량을 구워내면 힘을 덜 들이고도 많은 화약을 얻을 것이다’고 하였다.(선조실록 권63 28년 5월 정유조)
임몽의 가마에서 5일 동안 주위 숲의 땔나무를 지펴 염초 1근을 생산했으므로 300일을 불을 떼도 겨우 염초 60근 밖에는 생산하지 못한다. 임몽의 발명이후 염초생산은 더욱 활기를 띄어 15세기 중엽 예성강가의 개성 한고을에서는 염초 1000여근을 생산하는 수준에 이르렀다. ‘겸군기감 민계가 개성부에 가서 염초 1000여근을 제조하였다.’(문종실록권5즉위년12월무인조) 임몽식가마를 기준으로 한다면 염초 1000근을 생산하기 위해서는 약17년간 불질을 해야한다. 강희맹의 보고처럼 화약고에 이미 염초 4만근이 있었으니 이것이 생산되려면 임몽식가마 1개에서 550년 불질을 해야 한다. 시간을 줄이기 위해서는 임몽식가마를 늘리는 수 밖에는 없을 것이다. 그러기 위해선 전국에 염초제조만을 위한 약5백개의 가마가 있어야 1년안에 과업을 완수할 수 있었을 것이다. 임몽의 가마에서 염초 1근의 생산에 소용되는 땔나무의 양을 정확히 알 수 없지만 17년분의 땔나무양이라면 개성주변 숲의 황폐정도를 가늠해볼 수 있을 것이다. 땔나무가 고갈되면 더이상 염초를 생산할 수 없으므로 나무가 있는 장소를 찾아 염초가마를 옮겨야 했을 것이다. 임진란 이후 병자호란과 효종의 북벌정책에 의해 강화를 군사요새로 만들어 가는 과정에서 염초생산량을 늘렸을 것은 자명하다. 임진란으로 이들 화약이 모두 소비되면 다시 그 정도의 화약을 생산 비축하기 위해 엄청난 양의 숲이 파괴되어야 했다. 따라서 전쟁으로 인한 숲의 피해는 눈에 보이는 숲의 파괴 뿐아니라 국가 물자를 다시 충당하기위해 파괴되어야할 숲까지 계산되어야 한다. 전쟁은 그래서 가장 괄목한 만한 숲의 파괴자였다. 화약은 전쟁을 위해 국가만이 제조하는 단계를 넘어 암암리에 민간인들 사이에서도 급속도로 확산되었다.
17세기초부터 갱건설에 화약발파법이 도입되었다. ‘동점별곡’에 ‘한번치고 두번치면 석수갈피 날아들제 눈에들고 목이메니 화연내에 기막힌다’고 한 화연은 화약을 발파시켰을 때 나는 연기를 말한다. 18세기 초에 널리 알려진 흑색화약제조법은 1744년 김지남이 저술한 ‘신전자초방’에서 더 한층 발전하였다. 이 시기 봉건국가의 금지조치에도 불구하고 민간에 화약제조법이 널리 퍼져 갱건설과 광물채취에 화약이 널리 이용되었다.(조선광업사2리태영외,공업종합출판사1991,p182) 1811-1812년 평안도농민전쟁때 농민군의 최후의 보루였던 정주성벽을 파괴하기 위해 토벌군이 운산광산의 화약수를 강제로 끌어온데서도 민간광산에서 이미 화약발파법이 사용되고 있었음을 알 수 있다. 1812년4월19일 토벌군은 화약 수천근을(천근은 600kg)폭파하여 성벽10여칸을 파괴하였다.(위책 p180) 토벌군이 보유했던 화약을 3천근으로 가정하면 임몽의 가마에서 약50년동안 불질을 해야 할 양이다.
18-19세기에 들어와서 유황생산도 계속 증대되었으며 그 상품화과정도 촉진되었다. 개인 상인들 가운데는 유황을 몰래 생산하여 화승총총탄을 만들어 파는 자들이 나타났다.(위책 p212) 민간포수 중에는 호랑이 잡는 강계포수가 유명했는데 이들은 병인,신미양요 당시 참전하는 민간포수가 되지만 국가가 아닌 민간에서도 화약제조에 열광하면서 숯과 나무의 파괴는 더욱 가속화 되었을 것이다.
광업
19세기초에 편찬된 만기요람에 ‘숙종정묘1687년에 홍조로 하여금 광산들을 책임지고 관리하게 하며 별장들을 파견하여 광세를 징수하게 하였다. 이때부터 각도에 은광이 많이 개발되었는데 전후 개발된 고을은 68개에 이르렀다’고 하였다.(만기요람 재용편,4금은동연조) 이중 한강하구와 연관된 은광상은 파주, 교하, 삭녕, 신계, 이천, 평강, 정선, 영월, 춘천, 단양, 양주등이다.(조선광업사2 리태영외 공업종합출판사 1991 p160-161)
1771년 4월 당시 호조판서였던 채제공이 정조에게 “각도의 은광상으로서 개발할 만한 것은 모두 아문과 군문 궁방들의 소유로 되었습니다. 혹시 광상을 개발한다 하여도 호조에 소속시키지 않으니 이것이 어찌 옛날 제도와 같겠습니까?”(영조실록,권116,47년4월기축)라고 보고 한 것을 보면 이미 관영은광이 쇠퇴하고 민영은광이 발전하고 있었음을 알 수 있다.
1740년 1월 우의정 유척기는 “은점의 폐해는 이루다 말할 수 없다. 은점을 모두 깊은 산과 큰 골짜기에 설치하였는데 산전체를 파고 들어가 마치 벌이둥지 같다. 자그마한 풀도 남지 않고 온 산이 벌거숭이가 되었다. 근래에 와서 강줄기가 말라들었는데 그 원인은 절반은 화전 때문이고 절반은 광산을 설치한 때문이다.”(비변사등록영조16년1월20일/조선광업사2.p177재인용)
유척기는 강줄기가 마르는 원인을 숲에서 찾고 있다. 화전은 일반적으로 숲 황폐의 원인으로 알려져 있지만 광산을 숲 황폐의 원인으로 본 것은 예리한 관찰력으로 평가된다. 해마다 1000량 즉 37.5kg의 은을 뽑아내자면 적어도 그의 1000배 즉 37.5톤의 은광석이 요구되었다.(위책p177) 은광석중 방연석(비중7.4-7.6)을 가정하면 그 부피는 약5000리터이다. 이 정도에서 은을 제련하려면 어느정도의 나무가 필요할까?
1606년 호조의 보고에 ‘양주의 축석령은 갱에서 14명의 광부로 하루에 은이 섞인 흙 1말을 파내여 참나무숯 1섬과 관솔(송진이엉긴 옹이)400근, 숯4섬으로 18명의 로력이 5돈중의 은조각을 제련하였다(선조실록,권201,39년(1606년),7월신사)고 하였다. 즉 은 5돈중 생산에 필요한 광석을 채굴하는데 14명, 제련하는데 18명, 모두 32명의 광부가 요구되었으며 관솔400근, 즉 240kg과 숯5섬이 들었다. 이중 숯만을 따로 계산하면 숯1섬은 180리터이므로 총900리터의 숯이 소요됐고, 숯의 비중은 1.9이므로 1710kg, 즉 은 5돈중을 생산하기 위해 1.7톤의 숯이 소요되며 다시 이 숯을 만들기 위해선 34그루의 나무가 소요된다.
1말은 18리터이므로 1년치 방연석요구량인 5000리터는 277말이고, 여기에서 1,385돈중의 은이 생산된다. 이 정도를 생산하기 위해서는 473,670kg 즉 473톤의 숯이 필요하며, 결국 천량의 은을 생산하는데는 나무946그루의 희생이 필요한 셈이다.

19세기의 ‘오만동연점록’에는 ‘납100근에서 은5량을 제련한다’고 하였다. 즉 납1kg에서 은 3.1g을 생산하였다. 오만동납광산에서는 하루에 납130근(78kg)과 241.8g의 은을 제련하였다. 납1근의 값이 1량이었으므로 하루에 상평통보 130량 값의 납을 생산한 것이 된다. 이 광산의 광주는 하루의 제련에 숯값 60량(2000근)과 임금24량(연군12명의 품삯), 식사비15량 모두 99량을 지불하고 나머지 31량을 순소득으로 차지하였다. 광주는 이 밖에 연(납)을 제련하여 그의 0.31%에 해당하는 양의 은을 차지하였다. 오만동광산에서는 일차제련 후 남은 찌꺼기도 상품화되었다. ‘현재 은을 제련하고 남은 찌꺼기인 손주적으로 연(납)을 제련하게 되면 30만 내지 40만근을 얻을 수 있다. 그런데 연을 제련하는데는 숯이 필요하니 숯으로 제련하는데 드는 비용 5만-6만량이 먼저 필요하다.’ 이 납광산에서 하루의 제련에 드는 숯값이 60량(2000근)이었으므로 5만-6만량의 숯 값이면 1000일 동안 연(납)을 제련할 수 있다. 광산주는 1000일 동안 제련할 수 있을만한 양의 찌꺼기를 팔려고 하였다.(조선광업사2 리태영외 공업종합출판사 1991 p203)
한강하구유역에 속하는 예성강의 상류 수안 홀골에는 금광이 있었다. 정약용의 ‘대동수경’에 따르면 ‘언진산의 남쪽 홀골 안에서 황금이 난다. 수원유수 서유린이 금점주로서 감독하는 관리를 임명하고 광세를 거두었는데 금100량에 달하였고 금점주는 한해에 수천근을 얻었다. 굴을 파서 집을 만들고 사는 자들이 1만여호나 되었으며 산줄기를 자르고 파들어가서 아래로 황천까지 달하였다’고 하였다.(대동수경,권4,패수의3저수(예성강)조) 18세기경 은광산도시로서는 강계 운파가 가장 컸다면 금광산도시로서는 수안의 홀골이었다. 1798년 10월 황해감사 이희준의 보고에 의하면 수안금광산에는 본래 5개의 금광이 있었는데 2개는 광맥이 끊어지고 3개는 광맥이 매우 풍부하였다고 한다. 그해 여름에 새로 39개의 갱을 팠는데 장마로 하여 채굴을 일단 중지한 것이 99개에 달하였다. 이렇게 갱이 줄어든 조건에서도 550여명의 연군이 있었다고 한다. 홀골금광산에서 광주가 차지하는 몫만 하여도 금 수천근으로 대략 1.2t의 금을 해마다 생산한 것으로 보인다.(조선광업사2 p217) 홀골금광 역시 많은 양의 나무와 숲을 희생시켰을 것이며 그 피해는 그대로 하천과 강에 토사로 밀려 내려와 한강하구에 정사초와 같은 큰 사구에 퇴적되었을 것이다.
한편 철광상은 이미 15-16세기에 나라의 거의 모든 지질구에서 널리 개발되었고 17세기 이후에는 더 많이 개발되었다. 러시아인들이 조선을 둘러보고 쓴 ‘조선지’에 의하면 한강하구와 연관된 철광상소재지는 강화도와 예성강 상류의 황해도 신계, 한강상류의 경기도 여주, 충북 충주, 강원도 홍천, 한탄강상류의 강원도 김화, 철원등이다.(조선광업사2 p159)
만기요람(재용편4금은동조)에 의하면 효종신묘년(1651년)에 경기의 파주와 교하, 황해도의 곡산, 강원도의 춘천, 충청도의 공주등지에 설점수세(개인에게도 광산을 설치케 하고 세금을 받음)하는 은광산이 나타났으며, 숙종정묘년(1687년) 당시 개발된 68개의 설점수세은점중 한강하구와 관련 있는 지역은 황해도 곡산 수안, 강원도 금성, 평강, 홍천, 영월, 춘천, 경기도의 충주, 단양등이다. 당시의 위정자들은 잠채광산(정부 몰래 개인이 캐는 광산)을 없애는 것이 상책이지만 없애지 못할 바치고는 설점수세제라도 하는 것이 국가에 유익하다고 생각하였다. 18세기이후 잠채광산과 설점수세광산에서의 광물생산의 장성과 그 상품화과정의 확대는 자본주의의로의 발전을 촉진하는 조건들을 구비하고 있었다.
첫째, 당시 사회적 분업이 발전하고 임금노동이 급속히 보급된 조건에서 광산에 진출한 상업자본은 소생산자들을 임금노동자로 쉽게 전화시킬 수 있었다. 둘째, 수공업과 농업생산의 발전을 위한 유리한 조건을 조성하였다. 셋째, 광산도시의 형성과 광산을 중심으로 한 근대적 도로망의 형성에 유리한 조건을 조성하였다.(조선광업사2 p213)
자본주의적 관계의 발전은 다른 한편 새롭게 등장한 노동자들에 대한 가혹한 착취를 동반하는 과정이었다. 18세기말 영풍동광산의 광석채취형편에 대하여 전하는 ‘풍요삼선’에 실린 김락서의 시에는 다음과 같은 구절들이 있다.

만명의 광부들이/ 가래들고 삽들고/ 천길을 파고들어/ 구뎅이가 까맣구나/ 꺽이고 도는 고비/ 사다리로 길을 내나/ 혼자도 위태커니/ 둘이 나란히 갈수없네/ 한삼태의 광석을/ 밖으로 캐내려면/ 제아무리 기를 써야/ 빨라서 반나절일세/ 와지끈 우르릉/ 구멍이 무너진대도/ 광임자영감에겐/ 아무상관 없다네/ 광임자영감이/ 제 아니 죽었으니/ 다른사람도 함께/ 불행을 당할 밖에…

시는 노동자들의 생사에 대해서는 무관심한 채 광석채취로만 내모는 광산주의 냉혹함을 폭로하고 있다. 한편 ‘동점별곡’은 19세기 들어 급속히 확대발전하기 시작한 갑산동광산도시의 형편에 대하여 ‘억조창생 모여들어 수천가에 잠겼으니 조석연기 창천하니 현운무가 자욱한데 계명성이 자로나니 별유천지 여기로다’라고 하였다.(가사전집.조선문학예술동맹출판사.p325.1964/조선광업사2.p216재인용) 이 가사는 동광산도시에 수천호의 민가가 운집해 있고 현운무 즉 제련소에서 내뿜는 검은 연기가 구름을 이루고 있는 형상을 표현하고 있다. 대기오염이 시작된 것이다. 결국 잠채광산과 설점수세광산은 자본주의를 몰고오는 신호탄이었으며, 한편으로는 노동자를 착취하고, 한편으로는 대기와 숲을 착취하기 시작했다.

사진7 선박
사진글 소나무보호정책의 제일목표는 선박의 제조였다. -강화 더러미포구

병선
염초와 같이 전쟁 때문에 나무의 소비가 급증한 분야가 있었으니 그것은 병선이다. 고대유럽에서도 숲의 대규모 벌채가 시작된 것은 포에니전쟁(기원전3-2세기 로마와 카르타고의 전쟁)때부터 였고 주로 선박을 건조하기 위한 것이었다.(삼림의역사.미셀드베즈.중앙일보.1978.p25)
선박을 만들기 위한 우량수종의 벌채와 시선배등이 실어 나르던 엄청난 양의 땔나무의 벌채는 숲을 황폐화시켰고 황폐지는 숲에 비해 244배의 토사를 유출했다. 결국 강에는 토사가 쌓여 강바닥을 정기적으로 준설하지 않으면 안되는 수참제도를 불러왔다. 배를 만들기 위해 베어버린 숲이 강에 토사를 뱉어내어 배가 다닐 수 없는 강을 만든다면 이같은 역설이 또 어디 있겠는가?
잠시 기원전후 로마의 이야기를 돌아보자. 테베레 강의 주요지류들 근처의 언덕기슭에서 벌목꾼들이 베어낸 나무로 로마의 목재수요를 상당부분 충족시켰다. 이처럼 물 가까운 곳에서 나무를 베어내면 운송은 편했지만 엄청난 토사가 물길을 따라 하류로 내려갔다. 결국 하구에 토사가 쌓이는 바람에 오스티아항구에는 더 이상 큰 배가 들어올 수 없게 되었다. 큰 배들은 대신 바깥 바다에 정박해야 했는데, 상품을 싣고 로마로 오가는 작은 배들에 짐을 내릴 때는 파도가 큰 위협이었다. 클라우디우스 황제는 옛 항구에서 북쪽으로 2마일 떨어진 곳에서 새 항구를 건설함으로써 상황을 개선하려 했다. 기술자들은 수심을 깊게 하기 위해 200에이커를 움푹 파낸 다음 바다로부터 보호하기 위한 커다란 방파제를 두 개 건설했다. 그러나 새 항구를 테베레강 어귀에서 충분하게 떼어놓지 않은 것이 실수였다. 해류에 의해 토사가 밀려왔고 얼마 지나지 않아 새 항구는 침적물로 메워져 새 항구는 무용지물이 되어 버렸다.(숲의서사시.존펄린.따님출판사.2002.p123) 그나마 한강하구가 테베레강이 되지 않았던 것은 그 거대한 크기와 규모 때문이었을 것이다.
비변사등록에 따르면 숙종조에 병선은 총 135척이었다. ‘삼남 전선(戰船)의 원 수자는 1백 24척이고, 각각 병선兵船,방패선防牌船이 있는데 이것도 11척에 달합니다. 합하여 계산하면 병선의 수는 1백 35척입니다.’ 한편, 경강 즉 한강을 운행하던 민간선박은 작은 배를 제외하면 80척이었다. ‘경강의 큰 선박이 지금 현재 도합 80척이다.’(정조37권17년1월11일(을사)원전46집371면)
태종에게 충청도 경차관 한옹이 상언하기를 “근래에 병선을 만드는 일로 인하여 소나무가 거의 다 되었으니 비옵컨대, 각도의 각관으로 하여금 소나무가 성장할 수 있는 산에 불을 금하고, 벌채를 금하며, 매양 정월을 당하면 친히 감독하여 소나무를 심게 하소서” 하니 그대로 따랐다.(태종07/04/07(신묘)원전1집389면)
병선제조를 위해 쓸 만한 소나무가 나라에 거의 바닥났다는 위의 기사는 조선시대 소나무 소비의 제일순위는 병선제조였으며, 이것이 소나무보호정책의 최고전제였다.
세종의 왕세자가 서연에서 강하는데 윤참관 이조판서 박안신이 아뢰었다.“왜를 막는 방책은 전함이 제일이온데, 배를 만드는 재목은 반드시 백년을 기른 연후라야 쓸 수 있는 것입니다. 소나무를 베는 것을 금하는 법이 육전에 실려 있사오나 받들어 시행하는 관리가 문구로만 여기니 바라옵건대 각 도로 하여금 심어 가꾸게 하고 엄하게 고찰을 더하여 후일에 쓸 수 있도록 하게 하옵소서. 왜를 제어하는 방책이 이보다 나은 것이 없사오니 원컨대 유의 하시옵소서“ 세자가 말하기를 “이미 알았노라“ 하였다.(세종26/01/26(병자)원전4집538면/수군자료1집p481재인용)
세종 당시 경기인근에서 소나무의 제일산지는 강화도였다. 의정부에서 병조의 첩정에 의거하여 여러섬과 각 곶의 소나무가 잘되는 땅을 방문하여 작성한 기록에 의하면, 경기도의 송림은 다음과 같다.
강화부의 금음북今音北, 미법도彌法島, 말도末島, 정포井浦, 이북의 망산網山, 남건동을산南巾冬乙山, 사도蛇島
교동현의 서빙장곶西憑將串
통진현의 고리곶古里串, 대명곶大明串, 어모로於毛老
인천군의 자연도紫燕島와 용류도龍流島
부평부의 문지도文知島와 보지곶甫知串
안산군의 오질이도吾叱耳島
남양부의 선감미仙甘彌, 대부大部, 연흥鷰興 세 섬과 거재곶巨才串
수원부의 둑삼곶纛三串, 형두산荊頭山, 홍원곶弘原串, 광덕성산廣德城山
(세종30/08/27(경진)원전5집96면/수군사료1집 p528)

현재의 한강하구에 인접한 지역인 강화, 교동, 통진, 인천에 소나무산지가 집중되어 있음을 알 수 있다. 세종은 위 장소중 소나무가 있는 곳에는 벌목을 엄금하고, 나무가 없는 곳에는 그 도감사로 하여금 관원을 보내어 심게 하였다. 병선제조용 소나무는 이미 세종조에 이르러 고갈되는 지경에 이르고 조정은 이에 대한 대책을 세우는데 절치부심한다.

‘병조에서 전지하기를 “선재는 꼭 송목을 사용하는데 경인년이후부터 해마다 배를 건조해서 물과 가까운 지방은 송목이 거의 다했고 또 사냥하는 무리가 불을 놓아 태우므로 자라나지 못하니 장래가 염려스럽다. 각 포의 병선을 주장해서 지키는 사람은 수호하는 데에 조심하지 않아서 몇 해가 되지도 않았는데 썩고 깨어지므로 또다시 개조하게 되니 비단 재목을 잇대기가 어려울 뿐만 아니라 수군도 더욱 곤란하게 되니 나는 매우 염려한다. 송목을 양성하는 기술과 병선을 수호하는 방법을 상세하게 갖추어서 알리라” 하였다.(세종06/04/17(임술)원전2집 593면/수군사료1집p295재인용)

송림보호를 위해 우선 취해진 정책은 관리들을 엄중문책하고 법대로 다스리는 것이었다. 송림은 마치 무기와 같아서 국가만이 관리하는 것이었기 때문이다.

“송목은 사람이 없는 섬이면 만호, 천호, 진무가 선재 베어오는 것을 전적으로 관장하고 육지에서는 필요한 선재수량을 보고하면 감사가 병선이 있는 고을 관원에게 대중소선을 분간하고 재목이 소용되는 조건을 헤아려 제급한다. 전과 같이 너무 많이 베었으면 그 만호, 천호와 진무및 그 고을 수령을 율대로 논죄한다.”(세종06/04/28(계유)원전2집595면/수군사료1집 p295재인용)

나무의 부족은 병선조차 만들기 힘든 상황으로 압박해갔고 병선제조에 밀려 민간선박은 제조자체가 불법이 된다. 불법 제조된 선박은 몰수당할 뿐 아니라 그것을 제대로 관리하지 못한 관리들까지 죄를 묻게 하므로 민간선박의 제조가 얼마나 까다롭고 어려웠을지를 상상할수 있다.

병조에서 계하기를 “근해 지역에 병선을 만들기 위해 심은 소나무에 대한 방화와 도벌을 금지하는 법은 일찍이 수교한바 있으나 다만 사선의 조작에 대해서는 금령을 세우지 않았기 때문에 연해 각처에 있는 소나무를 몰래 도벌해 배를 조작하는 자가 있습니다. 이제부터는 해변의 소나무를 조재지의 수령 및 각 포의 만호, 천호로 하여금 엄금하게 하고 만약 사사로 선척을 조작하는 자가 있으면 적발 즉시로 논죄하여, 선척은 관에 몰수하고 수령 만호, 천호로서 이를 능히 고찰하지 못한 자도 형률에 따라 논죄하도록 하소서 하니 그대로 따랐다.(세종08/08/26(정해)원전3집41면/수군자료1집p321재인용)

배 뿐아니라 집조차도 송금 정책의 대상이 되었다. 잡목은 괜찮지만 소나무로 집을 지은 자는 집을 헐리우고 벌까지 받아야 했다. 그것은 오로지 군선제조를 위해서였다.

충청도 도관찰사가 아뢰기를 “소나무를 금벌하는 법이 육전에 실려 있고 또 여러차례의 수교로 지극히 자세하게 되었으나 각 고을의 간사, 누정에 정한 제도가 없으므로 모두 장려함을 숭상하여 옛집이 낮고 좁으면 기울고 썩었다는 핑계로 반드시 새로 지어서 높고 크게 하니 공재를 쓰고 민력을 다하여 세상에서 이름을 사고 소나무가 거의 다 없어지는 것이 오로지 이 때문입니다. 새로 설치하는 고을및 세월이 오래되어 어쩔 수 없이 새로 짓는 것이라면 간각의 다소와 동량의 장광을 해당하는 조로 하여금 법을 세워서 주,부,군,현의 차등을 두어 정수하여 정한을 넘기지 못하게 하되 어긴자는 파출하소서. 민가 및 사사에서는 잡목을 쓰는 것은 허가하되 만약에 소나무를 쓰는 자는 헐게하고 과죄 하소서. 이와같이 엄하게 금법을 세워 절약하고 공가의 흉작하는 폐단을 없애고 국가의 주즙舟楫 만드는 쓰임에 대비하소서.”(문종01/07/169(임자) 원전 6집 411면/수군사료2집 p65-66재인용)

정조때에는 소나무 숲이 민둥산이 된 이유가 병선제조에 있음이 지적되고 수리하기에는 아직 이른 병선을 보고한 죄로 통제사가 추고를 당하는 사태까지 벌어진다.

서명선이 또 아뢰기를,“지금 여러 도의 폐단 가운데 가장 근심스러운 것은 송정松政입니다. 각처의 송산松山이 민둥산이 되어버린 것은 오로지 전선戰船을 개조한 데서 초래된 것입니다. 그런 때문에 앞서 기한이 찬 배는 병영과 수영에서 직접 살펴 다시 보고하라는 내용으로 잇달아 신칙을 가하였는데, 근일 통제사의 장본狀本을 살펴보건대, 처음에 아뢴 다섯 척의 전선 가운데 기한이 차지 않은 것이 2척이나 들어 있으니, 청컨대 전 통제사 서유대徐有大를 종중 추고하게 하고, 이런 내용으로 여러 도의 수신帥臣들에게 신칙하소서.”하니, 그대로 따랐다.(정조.권11.5년4월5일(무신).원전45집231면)

이처럼 강력한 송금 정책이 있었기에 송림은 그나마 보존될 수 있었다. 여기서 잠시 조선중기와 비슷한 시기 유럽의 삼림정책을 비교해보면 조선의 삼림정책을 판단하는데 도움이 될것이다. 당시 유럽삼림정책의 모범으로 손꼽히는 프랑스 루이14세의 재무총감 콜베르(1619-83)의 1669년 대칙령이 있었다. 삼림에 있어서 어려운 문제가 야기되면 아무런 정견을 갖지 못하고 무능력했던 전임자들에 비해 콜베르는 삼림정책을 입안하고 그것을 지도해서 착착 실행으로 옮겨 삼림의 전반적인 개혁과 긴급하고 중대한 임무를 타개한 인물이었다. 콜베르가 루이14세에게 자신의 임업정책을 설득할 수 있었던 근거중의 하나는 바로 전함건조용 나무의 보호였다. 이점에서 그는 조선의 관리들과 다르지 않았던 셈이다. 프랑스혁명의 대격변기에도 그의 칙령만은 살아남았을 정도로 그의 임업정책은 유럽의 모범이 되었다. 개인의 자유를 위해서는 혁명법이 훨씬 이로운 것이었지만 말이다. 제후와 개인이 소유하고 있는 삼림이라도 일반민중의 공익을 위해서 일정한 규칙에 따라 벌채하지 않으면 안 되었다. 벌채하더라도 1ha당 30그루의 큰 나무를 남겨야 한다는 규정은 현재 모수母樹작업에 의한 갱신기술로 불리워지고 있다. 콜베르와 그의 동지개혁자들이 보여준 정열은 그 뒤 후계자들에 의해 그대로 지켜지지 않았다. 더욱이 많은 전쟁이 있었기에 칙령의 조문을 왕 자신이 무효로 만들지 않으면 안 되었다.(삼림의역사.미셀드베즈.중앙일보.1978.p81) 콜베르의 사례는 부르조아 혁명이 몰고 온 사적소유보다도 국가적소유와 관리가 숲 정책에는 더욱 이롭다는 사실과 그럼에도 불구하고 국가가 잦은 전쟁을 수행하기 위해 자원을 동원할 때 오랫동안 보존된 숲은 하루아침에 파괴된다는 사실을 동시에 보여주고 있다. 콜베르의 칙령은 조선조 숲 정책의 모본인 경국대전보다 훨씬 늦은 것이다. 조선의 관리들은 숲의 중요성을 잘 알고 고급관료라도 그 처벌에 관용을 베풀지 않을 만큼 엄정했던 것이다.

사진8 마니산
사진글 강화전역이 민둥산이 되어도 마리산만큼은 특별한 의미때문에 보존되었다.

땔나무
강화시선배는 본래 땔감을 실어나르던 것이 주임무라서 땔나무‘시柴’자를 써서 시선배라 불리우게 되었다. 그러나 현존하는 강화시선 뱃노래에는 땔나무 대신 조기등 어물이 등장한다. 이는 강화도의 땔나무가 고갈된 정황과 연관이 있는 것으로 보인다. 땔나무집산지는 한강하류 시선배들이 들르는 마포나루가 아닌 한강상류의 뗏목들이 들르는 뚝섬으로 바뀌었다. 숯구이용 땔감을 배에 실어 운반하다 풍랑을 만나 사망한 사례는 조선초까지 서해도서와 한강하구지역이 땔나무의 공급로였음을 알게 한다.

경기수군첨절제사 김문발이 아뢰기를 “도내의 선척이 덕적도에 들어가서 각해의 미납한 숯을 구을 나무를 싣고 오다가 큰 바람을 만나 두척이 깨어져서 선군이 물에 빠져 죽은자가 69인이고 살아남은 자가 3인입니다.(태종08/10/169(경인)원전1집458면)

이미 먼바다 섬까지 들어가 목숨을 걸고 땔나무를 실어와야 할 만큼 땔나무의 부족은 심각한 사회문제가 되고 있었다는 것을 알 수 있다. 땔나무의 부족은 일반 백성들에게만 문제가 아니었다. 정조대에 이르면 궁궐에서조차 땔나무 때문에 임금이 왈가왈부해야 하는 지경에 이른다. 땔나무삼판(시장柴場)에서 벼슬아치들이 봉록대신 결세結稅를 떼어 받는 일에 심각한 폐단이 생겨 이의 폐지를 둘러싸고 조정에서 격론이 벌어지는 장면마저 목격되고 있는 것이다.

공주가公主家에서 시장柴場을 절수받은 데서 생기는 폐단이 이루 말할 수 없었으므로 전후 진달한 신료들이 매우 많았는데, 상이 간혹 윤허하여 따를 때도 있었으나 끝내 견제당하는 데가 있어 쾌히 결단을 내려 혁파시키지 못했으니, 애석하다.(현개3권1년6월3일(병술)원전37집174면)

임금은 신하들의 제안을 받아들여 땔나무시장을 폐지하기도 했지만 때론 권세가들의 이권을 함부로 건드리지 못해 신하들의 문제제기에도 결단을 내리지 못하였다. 이는 숲의 사적점유를 둘러싼 치열한 갈등을 드러내는 사례이다. 한편 관청에서도 땔나무삼판에서 세를 받아들였다. 병기등의 제조를 맡아보던 관아인 군기시 산하 가평(양근)의 땔나무 숲은 임진난이후 정리가 안된 채 백성들이 암묵적으로 사용하고 있었다. 이곳에 무덤 하나당 숯을 수십섬씩 세금으로 내게 하니 백성들의 원성이 자자했다.

양근楊根에 군기시軍器寺의 시장柴場이 있는데, 허적許積이 도제조都提調가 되고부터 시장 안의 무덤을 세어서 숯을 거두되 한 무덤에서 수십 섬의 숯을 받고, 시장을 설치하기 전에 들어가 묻은 것도 다 억지로 받으므로, 백성이 다 한탄하고 원망하였다. 양근의 유학幼學 신의존辛義存등이 상소하여 그 폐단을 아뢰니, 비국備局에 내렸는데, 비국에서 말하기를, “신의존 등은 조상의 무덤이 시장 안에 있으므로, 탄역炭役을 면하려고 호소하였으니 참으로 외람된 데에 관계되고, 정원政院이 받아들인 출납出納의 도리를 잃은 것입니다.”하였으므로, 도승지都承旨 심재沈梓등이 대죄待罪하였다. 사람들이 말하기를 ‘예전에도 가혹한 정사가 많았으나, 무덤에서 세를 거두는 것은 없었다.’ 하였다.(숙종3권1년3월28일(병술)원전38집257면)

허적은 남인의 영수로 예송논쟁을 승리로 이끈 인물이었으나 다시 서인정권이 집권하게 되자 실각하게 된다. 위 기사는 허적을 공격하는 서인정권의 공세중의 하나로 나는 새도 떨어뜨렸다는 허적의 권세를 추락시킨 것중의 하나가 다름 아닌 숯이었던 셈이다. 다음의 기사는 왕이 이런 것 까지 고민했나 싶을 만한데 역시 땔감의 부족이 원인이다.

‘궁궐에 바치는 땔나무의 근수를 줄인 곡절에 대해서는 공조 판서가 직접 사핵査覈하라고 명하였다. “기인其人들이 바치는 것에 온돌에 쓰는 땔나무라는 명색이 있는데, 정해진 예는 매 단의 무게가 57근으로 되어 있다. 그러나 작년 이전에는 독촉하여 징수함으로 말미암아 매 단의 무게가 100여 근에 이르렀으니, 그것을 바치는 공인貢人들의 어려웠던 사정은 불을 보듯이 명백하였다. 그래서 내가 지난봄에 과감하게 법에 정해진 것 이상으로 지나치게 받던 근수를 일체 탕감하고, 그들로 하여금 정해진 근수에 따라서 바치도록 하였다. 그래서 내 생각에 이제부터는 공인들의 부담이 가벼워지리라고 여겼던 것이다. 그런데 얼마 뒤에 땔나무의 무게를 달아보라는 명을 내렸더니, 각 단의 무게가 겨우 30여 근에 지나지 않았다. 이에 혹 공인들이 근수를 줄여서 바친 것이 아닌가 했는데, 그들이 말하기를, ‘등촉방燈燭房의 하인들이 세 단은 나누어 다섯 단으로 만들고, 두 단은 나누어 먹기 때문에 자연 근수가 주는 것을 면할 수 없습니다.’ 하였으니, 이는 공인들의 죄가 아니다. 지난해 거듭 신칙한 바가 과연 어떠했는데, 하인들이 어찌 감히 또다시 이처럼 부당하게 징수하여 빼돌리는 짓들을 한단 말인가. (정조1년정유(1777,건륭42)11월5일(정묘))

정조는 땔나무를 궁궐에 바치는 공인들의 노역을 감해주려 했으나 엉뚱하게도 하인들이 땔나무를 빼돌리는 비리를 포착하고 이를 추고한 것이다. 이는 나무땔감이 귀해지면서 궁궐에서 조차 분쟁에 휘말리고 있음을 보여준다. 이미 선대인 영조대에서는 제사등의 일을 맡아보던 관청인 봉상시의 파주, 금천 땔나무 숲의 땔감사정이 안 좋아지자 서로 번갈아 바치게 하고 있었기 때문이다.

비변사에서 아뢰기를, “파주坡州에서 베어다 바치는 봉상시奉常寺의 땔나무를 금천金川과 함께 윤번으로 베어 바치도록 명하소서.”하니, 윤허하였다.(영조23권5년7년3일(병오)원전42집138면)

한강하구유역에 속하는 파주와 서울 금천의 봉산에서조차 땔나무구하기가 어려워졌을 만큼 한강과 임진강등 한강하구로 모여드는 강 주변숲의 사정은 안 좋아져 가고 있었던 것이다.
땔나무 채취는 농한기 중에 즉 겨울이나 여름에 하게 되는데 특히 추수기에 연료확보를 위하여 음력 7월 만추에 벌채하게 된다. 7월 벌채는 풋나무 벌채를 의미하며 이것이 매번 계속되므로 인구가 많은 주변의 산림에서부터 황폐지가 발생되기 시작하였다. 석주 권필은 강화에 내려와 시와 술을 가까이 하며 후학을 길렀는데 그의 눈에 비친 나뭇꾼의 애환을 들어보자.

삼사십이 되어도 아직도 총각이라오
농막살이도 못하는 신세라
해마다 해마다 산에서 산다오
나무를 찍으며 산에서 산다오
찍은 나무는 어디에 쓰이는가
서울거리에 높이 솟은
양반님네 누각감이 된다오
하늘에 잇닿은 울창한 나무
몽땅 찍어내라, 어서 나르라
관가의 독촉이 성화같다오
어젯밤 내린 비에 길은 미끄럽고
봄철이라 땅은 진창
길은 무릎까지 빠져드는데
온종일 짐 날라도 열댓걸음…
소는 풀이 없어 굶주리고
사람 또한 먹지 못했구나
사람은 오히려 견디어낸대도
어쩌랴 굶주린 소가 꺼꾸러진다면
달구지군 쏟아놓은 하소연
듣는 나그네도 측은하여 가슴아파하네
사람은 소를 몰고
소는 달구지를 끌어
소발굽은 터벅터벅
수레바퀴 삐걱삐걱
이렇듯 십여년에
달구지군은 자식없고
소마저 새끼없으니
일조에 소죽고 사람마저 죽으면
관가에선 어딜대고
사나운 채찍 휘두르려나
진정코 조정에 호소하거니
하루바삐 이런 고역 없애치우라
사람과 소 함께 고달피 잠들었네
기나긴 봄날 고요한 들판에는
뽕나무와 삼대만 우거져 푸르더라
(림제, 권필 작품집 p187-188 리철화 역 문예출판사 1990)

땔나무의 위기가 가져온 사회상황은 하층민에게 더욱 가혹하게 전가되고 있음을 권필은 보여주고 있다. 한편 수원 화성을 건설할 때 땔나무는 10만8천432단이 소용됐고, 숯은 모두 6만9천56섬(12,430,080리터)이 소용됐다. 숯의 비중이 1.9이므로 그 질량은 23,717,152kg 즉 약24,000톤이다. 숯 생산에는 4배의 나무가 필요하므로 이 정도의 숯을 만들기 위해서는 약96,000톤의 나무가 필요했다. 6톤의 숯을 생산하는데 약 120그루의 나무가 필요하므로 4000배인 480,000그루의 나무가 태워 없어진 셈이다. 직경10cm의 나무로 약1m의 폭을 가진 숲이 있다면 480,000평방미터(약14만평)의 숲이 없어진 것이다. 이들 숲은 식목을 하고 10년정도 정성껏 육림을 해야 회복될 수 있었을 것이다. 그러나 숯이 생산된 지역에서 식목이 있었다는 기사는 발견되지 않는다. 이들 숯은 한강하구의 상류지역인 지평, 광주, 용인에서 생산된 것이었다. 경기대 조병로 교수(사학과)의 계산에 따르면 화성건설에 소용된 목재는 종류에 따라 모두 2만6천206주였다. 그러나 숯과 땔나무와 쇠와 동 석회등을 만드는데 불태워진 나무는 빠진 숫자이다. 목재는 한강을 끼고 있는 경기도의 광주와 남양, 광평, 강원도의 한강 인근 지방, 황해도의 장산곶, 충청도의 안면도, 전라도 좌수영과 전라우수영의 각처에서 베어 들였다.
한편 강화성곽을 쌓는 데는 땔감1만동이 필요했으나 강화가 아닌 인근 섬등에서 공급을 받아야했다.(국역비변사등록,숙종16년(1690)11월14일,후록) 마니산을 제외하고 강화도 전역이 민둥산이었기 때문이다.

식목
태종때 충청도경차관 한옹의 제안에 따라 병선제작용 소나무 식수를 실행케 한 기록이 있다.(태종07/04/07(신묘)원전1집389면) 황형(黃衡1459-1520)장군은 강화 연미정에서 식목을 한 일화로 유명하다. 황형은 일찍이 과거 무과에 급제하여 나라가 외적의 침입으로 위급했을 때 큰 공을 세운 장군이었다. 북쪽으로부터 여진족의 침입이 있었을 때는 두만강을 건너 여진족의 마을을 소탕하였고 남쪽에서 대마도의 왜구들이 침입하여 난동을 부린 삼포왜란 때는 중종임금의 특명을 받고 왜구를 물리치기도 했다. 그가 나이 60이 넘어 강화도의 연미정 근처에 집을 짓고 살았을 때였다. 비록 몸은 서울을 떠나 시골에 와 있었지만 항상 나라의 앞날에 대하여 걱정을 하고 있었다. 그리하여 틈만 있으면 연미정에 올라 유유히 흐르는 한강하구를 바라보며 나라의 앞날을 생각하곤 했다. 어느 날부터 황형장군은 날마다 콩을 맛있게 볶아 마을 아이들을 불러모으기 시작했다. 그리고는 아이들에게 그 콩을 나누어 먹인 후, 대가로 어린 소나무를 바닷가에 옮겨 심게 했다. 그리고 가끔 아이들이 싫증을 낼 때쯤이면 황 장군은 늙은 몸으로 아이들과 편을 갈라 전쟁놀이를 해가며 소나무 심는 일을 계속해 갔다. 백발의 노인이 아이들과 함께 계속 나무를 심는 모습을 본 마을 사람은 이상하게 생각했다.
“황 장군님, 연세도 많으신데 지금 어린 나무를 심어 어디다가 쓰려고 하십니까?”
“내가 이 나이에 나라를 위해 할 일이란 이렇게 아이들과 놀면서 나무 심는 일밖에는 무엇이 있겠소. 두고 보시오. 아마 훗날 나라가 이 소나무로부터 적지 않은 도움을 얻을 것입니다.” 그 후에도 황 장군의 소나무 심는 일은 계속되어 그가 세상을 떠날 때쯤 솔밭이 수십 리에 이르게 되었다. 그로부터 70여 년 후 임진왜란이 일어났다. 선조 임금이 의주로 피난을 가고, 의병장 김천일이 서울을 다시 찾기 위한 준비로 강화도에 들어왔다. 마침 병력을 이동시키기 위해 배를 새로 만들고 정비하는데 많은 나무가 필요했다. 그러나 난리중이어서 나무를 찾지 못하고 애만 태우고 있었다. 고을의 한 노인이 김장군을 찾아왔다.
“장군님, 지금 장군님이 찾고 계시는 나무가 있는 곳을 알려드리겠습니다.”
하고는 황 장군이 심어 놓은, 이제는 아름드리 소나무가 된 숲으로 안내했다. 김 장군은 소나무 숲의 유래를 듣고는 크게 기뻐하며, “아! 이는 ‘황공선견黃公先見’이로다.”하며 눈물을 흘렸다.
황형의 예에서 보듯 강화는 국방상 요충지라는 지정학적 이유로 소나무를 심는 행위자체로도 애국이 되는 특징을 지니고 있었다. 특히 국가는 강화도 숲의 관리와 식목에 신경을 썼다. 다음은 숙종때 병조 판서 김석주등이 강화도를 살피고 돌아와 강화도의 산둔덕에 식목을 하여 숲을 만들 것을 제안하는 서계이다.

예전에 정장亭障에다 임목林木을 많이 심었던 것은 대개 나무뿌리가 크고 견고하여 지면 저절로 채책砦柵을 이루고, 나뭇가지가 서로 엉클어지면 치돌馳突하는 것을 방비하기에 족하며, 또 나의 몸을 엄폐하고 적敵을 사격하기에 편한 때문이었습니다. 더구나 사려師旅가 둔숙屯宿하는 지역은 더욱 나무를 찍고 풀을 베는 것으로 중함을 삼으니, 나무를 심는 정책에 힘쓰지 않을 수 없는데, 근부斤斧가 찾게 되면 오래 기르기가 실로 어렵습니다. 마니산摩尼山외에는 거개가 모두 민둥민둥하니, 완도와 변산의 소나무를 취하여다 그 산둔덕의 경작 못하는 땅을 가려서 두루 갈아서 심으면, 수십년을 지나지 않아서 반드시 울창하게 숲을 이루는 효험이 있을 것입니다.” 하니, 임금이 묘당廟堂에 명하여 차례로 행하게 하였다.(숙종7권4년10월23일(경인)원전38집397면)
금벌
조선시대 산림의 황폐화를 그나마 줄일 수 있는 게 있었다면 금벌정책 때문이다.
경주의 古記인 ‘동경잡기’에 쓰기를 ‘경국대전 호전에 비보에 해당하는 임수 안에서 나무를 베거나 농경을 하는 사람은 곤장80대를 치고 얻은 것은 되돌려 받고 해당수령의 관을 몰한다’라고 하였다.(한국민족문화대백과사전18 p727) 특히 나무를 베어 왜인에게 몰래 팔거나 하는 행위는 엄격하게 죄를 물었다.
‘삼포에 사는 백성등 가운데 몰래 소나무를 베어서 왜인에게 파는 자를 아울러 엄금하게 하소서.’ (성종05/09/09(을묘)원전9집144면/수군사료집2 p232재인용)
그러나 금벌정책은 때로 당리당략에 의한 정치적이고 일시적인 것이어서 지속적이고 효과적인 정책이 되기 힘든 적도 있었다. 붕당정치가 전면적으로 폭발한 숙종 6년 서인이 남인을 몰아낸 경신대출척 당시 남인의 지도자 중 하나인 윤휴에 대한 공격임이 분명한 다음의 기사가 그렇다.

한성부漢城府에서 아뢰기를, “동도감역관東道監役官이 보고한 바를 곧바로 접수하였는데, 관장하는 바 이외의 산의 도성암道成菴의 옛터는 본래 금표禁標 안쪽이고, 서울 주산(主山)의 내맥來脈인데, 병진년 이후부터 장원서제조掌苑署提調 윤휴尹鑴가, 그 소나무 사이에 잣나무 두 그루가 있는 것으로 임금에게 바친다고 일컫고, 그 산 전부의 땅을 본서本署의 관장으로 돌렸으며, 암자의 중들이 소나무를 몰래 베어낸 것이 3백 80여 그루에 이르러, 형조刑曹로 옮겨 가두었으나 사면을 만나 풀려났고, 장원서掌苑署에서는 또 첩문帖文을 만들어 중에게 주어 산지기 무리로 하여금 발도 들여놓지 못하게 했으며, 이 뒤로부터 소나무를 베어 내는 것이 날로 심해졌다고 합니다. 지금부터 도성암 옛터를 본부本府에 도로 예속시켜 벌목하는 것을 금하는 등의 일을 예전과 같이 거행하는 것이 어떻겠습니까?”하니, 아뢴 대로 하라고 하였다.(숙종9권6년7월8일(을미)원전38집463면)

남인을 불교세력과 결탁한 것으로 몰고 경국대전에 나와 있는 금벌정책의 위반으로 몰아 장원서로 편입된 숲을 한성부로 가져오므로서 남인에게 남은 한줌의 권력까지 거둬들이려는 과정이었으므로 이것이 공평한 금벌정책의 집행이라고 보기엔 무리가 있을 것이다.
왕실의 사유재산을 관리하던 곳인 내수사의 강릉,삼척의 황장금산(궁궐건축용으로 쓰이는 최상질의 소나무인 황장목黃腸木을 금양禁養하는 산)에 대한 벌채문제에 대해 이제 숙종은 신하들의 의견에 밀려 자신의 결정을 철회한다.

호조판서戶曹判書 정재숭鄭載嵩은 말하기를, “요즈음에 내수사內需司에 별판부別判付를 내려 송판松板 4백 장을 강릉과 삼척에서 벌채하게 하고 이어 감세하게 한 적이 있습니다. 이 두 고을은 곧 황장금산黃腸禁山이니, 만약 작벌斫伐하며 취함을 허락하신다면 반드시 남잡濫雜함이 있을 것입니다.”하니, 임금이 곧 시행하지 말게 하였다. (숙종15권 10년 7월 12일(병자).원전38집695면)

별판부란 임금이 상주문上奏文에 대하여 특별히 의견을 다는 것으로 임금의 지시로 행해진 송판 400장 벌채를 호조가 문제제기한 것으로 이는 국초부터 왕실재정의 중요원천으로 5할의 높은 이자를 운영하던 내수사 장리의 폐단에 대한 공격이자, 신권의 왕권에 대한 도전의 일환으로도 볼 수 있는 것이었다. 그러나 어쨌든 결과는 금벌정책의 수호였다. 이러한 봉산,송금의 금벌정책은 정조에 이르러 더욱 강력해진다. 국유림인 봉산의 소나무라도 50그루 이상은 임금의 결정을 거친 다음에만 벌채토록 한 것이다.

봉산封山의 송재松材 50주 이상의 것은 품지를 거친 다음 작벌斫伐을 윤허하는 것을 현저하게 법으로 삼도록 명하였다.(정조5권2년4월18일(정미)원전45집20면)

그러나 땔감문제는 식량문제와 더불어 백성에겐 중요한 연료정책의 문제였으므로 백성의 처지가 어려워지면 숲 보호정책은 쉽게 철회되기 마련이었다. 금벌과 남벌의 선택 밖에 없는 임업정책의 근본적 한계가 드러난 것이다. 순조가 금산으로 지정되어 있던 서울 도성 주위의 네개 산에 대해 꺾여진 나무등은 땔감으로 쓰도록 지시를 내리자 이것이 기화가 되어 남벌현상이 일어나는 것을 보고 공조의 박명섭이 상소하여 가난한 선비와 곤궁한 백성의 구휼하려던 원래의 정책취지가 왜곡되어 남벌만 횡행함을 제기한다. 이에대해 임금은 상소를 일축하고, 금송정책을 강화하라는 공허한 지시만을 내린다. 정책실행에 대한 선택의 폭이 매우 협소함을 드러내는 단면이 아닐 수 없다.

공조 참의 박명섭朴命燮이 상소하였는데, 대략 이르기를, “도성의 사산四山은 교외의 수택藪澤을 추요芻蕘와 함께 하는 데에 견줄 것이 아닙니다. 은교恩敎를 막 내리자마자 도끼를 들고 사산四山에 들어가서 마구 내달리며 모두 온 산을 짓밟아 문득 초장樵場 이루고 있습니다. 무릇 인정人情은 비상非常일에 대해 쉽사리 놀라고, 민욕民慾은 한정 없이 요구하는 데 대해 잇대기 어려운 법입니다. 더욱이 지금 성념聖念으로 진휼軫恤하는 것은 오로지 가난한 선비와 곤궁한 백성을 구제하는 데 있지만, 가난한 선비는 몸소 땔나무를 해오지 못하고, 곤궁한 백성은 도끼를 빌릴 곳이 없으니, 크게 비호하려는 은혜는 두루 미칠 수가 없고, 금벌禁伐하는 법만 반드시 점차 해이해질 것입니다. 삼가 바라건대, 빨리 성명成命을 정침停寢하시고 금방禁防을 엄중히 하여 사면事面을 존중하게 하소서.”하니, 왕이 비답하기를,“경산京山의 바람에 꺾여 죽은 나무를 팔도록 허락하는 것은 옛날에도 있었던 일이라는 것을 그대는 혹 모르는가? 모든 물건은 이미 천해지면 미치는 바가 저절로 넓어지는 것인데, 어떻게 반드시 이와 같이 계교計較하겠는가? 그러나 그대의 말은 직분을 수행하는 것이라고 할 수 있으니, 지극히 가상하게 여길 만하다. 이를 이어서 금송禁松의 정사政事를 각기 해당 영문營門으로 하여금 전보다 더욱 엄밀하게 하라는 일을 각별히 엄중하게 신칙하라.”하였다.(순조5권3년2월18일(갑인)원전47집452면)

그렇다 해도 조선에서의 금벌정책은 경국대전에서 수립된 일관된 원칙이었다. 조선이 쇠락해가던 마지막 순간에도 견결히 금벌정책은 지켜지고 있었다.

승지 이존수李存秀가 아뢰기를, “신이 영남의 감사로 있을 때, 경주의 봉산封山을 백성들로 하여금 개간하여 경작하게 하는 일에 대해 사리를 따져 보고하라는 뜻을 묘당에서 통고한 바가 있었습니다. 그리고 백성들이 비국에 진정서를 올려 봉산을 혁파할 것을 청하였습니다. 이른바 혁파할 것을 청한 것은 수목이 무성하여 호환虎患이 많기 때문이며, 수영水營에서 적간摘奸할 때 하리들이 주구誅求하기 때문입니다. 그러나 수백 년 금지하여 기른 80리의 봉산을 괜히 혁파할 수는 없습니다. 호환은 봉산의 수목이 무성한 곳은 어디나 있으며, 수영의 장교가 적간할 때에 하리들이 주구하는 폐단은 다만 마땅히 엄하게 단속하면 됩니다. 만약 백성들이 경작해 먹는 것을 허락하기 위해서라면, 갑술년, 을해년 이후로 백성들이 뿔뿔이 떠나 원결元結의 전답도 묵고 있는 것이 많습니다. 금년 재해를 입은 총 결수로 말하면, 파종하지 않은 논이 2천여 결이고 속전으로 강속降續된 밭이 7백여 결이나 되니, 이러한 원결 전답의 묵은 곳을 경작하라고 권해야지, 봉산을 혁파하고 개간할 필요가 뭐 있겠습니까? 더구나 봉산을 혁파하라고 청하는 간사한 백성은 형벌을 주어 귀양 보내는 것은 본디 금석金石과 같은 법이니, 묘당으로 하여금 엄하게 신칙하여 정한 법을 거듭 밝혀서 후일의 폐단을 막는 것이 좋을 듯합니다.” 하니, 그대로 따랐다.(순조19권16년12월29일(계묘)원전48집107면)

1907년 대한제국정부는 황폐지를 복구하기 위한 최초의 근대적 사방砂防사업을 시행한다. 서울 주변의 풍치증진과 수원함양을 위하여 창의문(북문)내 백운동(현재 청운동)국유림에서 조림사업과 적묘공(선떼붙이기)을 시행한 것이다. 황폐지에 대한 식재는 보통의 조림방법으로는 성공하기 어려우므로 기초공사로서 적묘공을 한 후에 소나무, 곰솔, 상수리나무, 산오리나무, 물갬나무등을 약 5ha 식재하였다. 다행이 이 사업은 성공하여 1908년부터 평양과 대구의 모범림조성에 참고가 되었다.

비록 그 시행과 대안에 많은 문제와 한계를 갖고 있었다해도 조선의 금벌정책은 국가의 존체가 유지되고 있을 때와 외침과 전쟁으로 전마에 휩싸이고 식민의 나락으로 떨어졌을 때는 그나마 숲은 보호받을 곳이 없음을 알 수 있다. 주인을 잘 만나야 비로소 숲이 산다는 평범한 진리를 일제의 가혹한 수탈속에서 경험해야 했다.

사진9 궤도이용한 목재수탈
사진글 강에서 떨어진 내륙의 목재를 남벌하기 위해 동원된 궤도차. 영국에서는 나무로 만든 궤도를 거쳐 쇠로 된 궤도로 발전했지만 일제는 곧장 쇠로 된 궤도를 깔고 원시림의 목재들까지 수탈해갔다. -산림청자료사진-

사진10 철도침목
사진글 목재를 수탈하기 위한 철길을 건설하는데도 침목은 사용되었다.-산림청자료사진-

일제기 한강하구의 숲
일본은 우리나라의 산림자원을 19세기 말부터 비밀리에 조사하여 수탈해간 것으로 알려져 있는데 한일합방 이전까지의 수탈기록은 공개되지 않았다. 일제는 한일합방전후에 전국적인 임상조사를 시행하여 극히 개괄적이나마 전국의 산림실태를 파악하였으나 국유, 민유의 경계선이 불명확하여 국가와 국민간 권리행사의 분쟁을 해결하기 위해 1911년부터 우선 서울에 대한 산림조사를 다시 실시하였다. 또한 동시에 국유림의 구분조사와 임야정리조사를 병행하였다. 임상과 삼림면적을 조사하고 한반도삼림의 가치를 조사하여 수탈목적자원의 소재를 명백히 한 것이다. 1910년 8월 한일합방조약이 강제로 체결된 후 일제는 우리나라의 천연 원시림을 벌채하기 위해 각종수단과 방법을 동원하였으며 전쟁용목재공급을 위해 지름이 넓고 키가 큰 나무들을 집중 생산하였다. 나중에는 소나무뿌리까지 캐갔다. 그것은 제2차대전말기 일본이 항공기엔진의 대용연료로서 소나무 뿌리에서 채취하는 경질유에 주목한 때문이었다. 당시 소나무 기름을 얻기 위하여 각지의 유서 깊은 당산나무나 소나무가로수까지 한쪽 끝에서부터 채벌하고 부녀자까지 총동원하여 수탈하였다. 소나무기름을 생산하면 그 부산물로 대량의 목초액이 회수되는데 당시는 특별한 용도가 없어서 폐액을 주변의 밭에 버렸다. 그러나 러일전쟁까지만해도 이 목초액은 매우 중요한 군수물자였다. 일본은 메이지시대부터 목재건류공장을 만들어 목초액을 대량생산했다. 또 여러 산촌에서도 숯 연기에서 목초액을 채취하고 이것을 원료로 초산석회를 만들었다. 목초액이 대량으로 이용된 것은 청일전쟁, 러일전쟁 무렵이다. 화약을 만드는데 대량의 아세톤이 필요하다. 당시 아세톤은 초산석회에서 만들어지고 있었다. 이 초산석회를 생산하는데 숯 연기에서 생산된 목초액을 사용한 것이다. 목초액 100리터를 만들기 위해서는 원목2톤이 필요하다. 숯생산에 4배의 나무를 필요로 하며, 목초액은 그것의 20배의 나무를 필요로 하기 때문이다. 따라서 목초액을 만드는데 따른 나무와 숲의 파괴규모를 짐작할 수 있다.
조선시대에도 한강수계로의 운반이 불가능한 울진, 봉화지역의 소나무는 조선조의 마지막까지 남아 있을 수 있었다. 그러나 일제 강점기 영주-봉화-태백으로 이어지는 산업철도가 놓이면서 이들마저 무차별 벌채되기 시작한다. 이렇게 잘려 나온 금강소나무는 춘양역에 모아두기만 하면 철마鐵馬라는 괴물이 하룻밤 사이 서울까지 옮겨다 주었다.(http://kr.blog.yahoo.com/gojibi3/576.html) 일제는 오지의 대원시림이 일반 국민들의 시야에 보이지 않는다는 점을 이유로 음폐정책을 펴서 황폐지만을 지적하고 부각시켜 우리삼림전체가 황폐지인 것으로 과장하는 한편, 원시림수탈에 대해선 여론화 되지 않게 하고, 황폐임야에 대한 조림과 투자공적을 찬양하는 등 치밀한 선전정책을 폈다.
1916년 일제가 만든 ‘조선의 임업자료’에 의하면 당시 전국의 숲 면적은 15,883천ha이고 그중 한강과 가장 밀접한 경기도의 숲 면적은 715천ha였다. 일제는 1918년부터 1919년까지 임시직원을 채용하여 치수상 중요한 황폐임야가 많은 8대하천유역에 대한 황폐지조사를 실시하였다. 이에 따르면 전체사방砂防공사필요면적 118,000ha중 경기와 충북에 걸친 한강유역의 면적은 17,000ha로 나타났다. 임진강은 기타하천 4,000ha의 일부로만 포함되어 있어 황폐면적이 미미했음을 알 수 있다. 즉 한강하구와 연계된 하천에서 황폐의 심각도를 본다면 한강은 임진강과 비교가 되지 않을 만큼 황폐진행도가 높았다는 것을 알 수 있다.
일제는 위 조사자료에 기초하여 1922년부터 국비직영에 의한 계속사방사업을 개시했다. 그러나 그 효과는 너무나 미미하여 숲의 황폐화 속도를 도저히 따라잡지 못했다.
1932년 실시된 황폐지조사자료에 의하면 한강유역에서 민둥산이 되어 사방砂防공사가 필요한 면적은 29,600ha로 1919년보다 두배에 가까운 증가세를 보이고 있음을 알 수 있다. 이것은 일제의 숲수탈정책에 더하여 1920년과 1925년 한강을 중심으로 발생한 대수해와 대홍수가 겹쳐 일어난 결과였다. 1937년 ‘조선의 임업자료’에 의하면 1935년말 한강하구와 연관된 군별 황폐지면적은 고양2,933ha, 여주3,830ha, 이천3,809ha, 김포1,538ha, 파주707ha, 장단 413ha, 개풍612ha, 충주1,909ha 연백860ha이다. 이것을 하천유역별로 보면 한강유역 25,761ha이고 예성강유역이 580ha이다. 한강유역 황폐지사방공사필요면적의 증감을 표로 보면 다음과 같다(황폐지복구사,산림청,1988p98-106)

년도
한강유역 황폐지사방공사필요면적
1919
17,000ha
1932
29,600ha
1935
25,761ha

표1 이시우
결국 1919년 이후 급속도로 증가한 한강유역 황폐지면적은 1930년대에 가도록 복구되지 않은 셈이다. 이것은 일제가 나름대로 근대적인 사방공사등을 실시했음에도 불구하고 삼림수탈에 의한 황폐화를 따라잡지 못했으며, 오히려 방치한 결과라고 볼 수 있다.
사방사업으로 땅 표면에 지피식생이 있는 입목지와 황폐지의 토사유출량은 약228배나 차이가 난다. 입목지의 토사유출량이 연간 1.43㎥/ha인데 비해, 무입목지는 291㎥/ha에 이른다.(http://blog.daum.net/kfs4079/3113762?popQuery=n)

년도
한강유역 황폐지사방공사필요면적
필요사방지년간토사유출량
1919
17,000ha
4,947,000㎥
1932
29,600ha
8,613,600㎥
1935
25,761ha
7,496,451㎥

21,057,051㎥

표2 이시우
표2는 한강유역의 황폐지로부터 쏟아져 나온 토사유출량을 나타낸다. 단 3년의 통계만을 구할 수 있었으므로 3년의 토사유출량을 계산하여 종합하면 21,057,051㎥이다. 한강하구에 5천년이상 퇴적이 이루어진 결과로서 현재 모래의 양은 10억㎥인 것으로 알려져 있다. 일제기간중 단3년만으로도 현재 한강하구모래양의 2%에 해당하는 토사가 유출된 셈이다. 더구나 이것은 황폐지중에서 사방공사가 필요한 면적이므로 황폐지 전체 면적을 전제로 하면 수치는 더욱 증가한다. 일제시기 동안 사방공사필요면적을 낮게 잡아 매년 20,000ha라고 가정하면 36년간의 토사유출량은 209,160,000㎥이다. 현재 한강하구모래양의 20%에 해당한다. 황폐화된 숲은 식목을 통해 어느정도는 다시 복구가 될 수 있지만 강으로 유출된 흙과 모래는 다시 숲으로 돌아올 수 없다.
따라서 황폐해진 산림은 국민들에게 직접적인 피해를 주었다. 수해로 인해 유실되거나 매몰되어 방치된 토지는 더욱 황폐해져 농사가 불가능하게 되었다. 또한 수리시설로 만들어진 저수지도 계속 토사가 쌓이면서 저수량이 줄어들어 가뭄피해에 제대로 기능을 발휘할 수 없었다. 아무리 농사를 잘 지으려고 해도 조금만 비가 많이 오거나 또 안와도 흉년으로 이어져 빈곤의 악순환은 계속되었다.
조선총독부자료에 의하면 일제는 식민지통치 말기에 대대적인 황폐지 복구를 위한 사방사업을 추진했다. 1936년 8월 중순 한강이남지방을 중심으로 한 태풍과 이에 수반된 호우에 의하여 경기,충북,전북,강원,경남,경북도 관내에 약 4000ha의 임야가 붕괴되고 격렬한 토석류가 발생되어 하류지방에 심한 수해를 가져다주었으므로, 특히 조속한 복구를 요하는 약 1800ha를 대상으로 국유림내에서는 전액, 민유림내에서는 국고8할, 도비2할의 경비로 사방사업을 시행하였다. 일제의 사방사업이 본격적으로 된 것은 1940년대에 들어서면서부터이다. 1933년과 1934년, 그리고 1936년 3개년에 걸쳐서 남측에 대화재가 발생하여 그간의 치산치수정책에 대한 재검토를 요하게 되었다. 항구적 대책수립을 위하여 전문가들로 ‘임시치수위원회’를 구성하고 그 대책을 강구하였다. 이때 위원회는 대책으로 ‘산허리보호공사의 효과를 완벽히 하기 위해서는 이와 관련된 소하천상류에 속히 야계野溪공사(산지에 접속된 시내 또는 하천에 대하여 시행하는 사방사업)를 실시할 필요가 있다고 답신하였다. 이 답신에 근거하여 중소하천개수공사가 시작되고 사방사업의 확충계획이 실현되지만 결국 공사는 여러사정으로 지연되었다. 1939년 이래 대가뭄과, 전시체제하의 식민지정책이 그 이유였다. 1940년 5월에 한해대책시설로 인계받아 처음으로 실시한 야계공사가 성과를 냈고, 경기도이남 7개도에 약131km의 복구개수가 시행되었다. 이것이 성공하여 그 후에 우리나라에서 ’야계공사‘라는 이름이 사용되는 계기가 되었다. 일본은 1932년부터 연평균 약 10,000-15,000ha, 가장 많은 때에는 27,000ha에 달하는 면적에 대한 산지사방사업을 실시하여 해방전까지 산지사방시행면적은 약200,000ha에 달하게 되었다.(황폐지복구사,산림청,1988p22-24)
기록에 의하면 1910년에 우리나라의 산림자원은 이미 7억㎥, 산림밀도로는 46㎥/ha였다. 이것이 해방되기 이전인 1945년에는 2억㎥, 밀도로는 13㎥/ha로 35년 만에 거의 7할이 없어졌다. 나무가 계속 자란다는 사실을 고려해보면 그 기간 동안에 수탈된 산림의 양이 엄청나다는 것을 알 수 있다. 목격자들의 증언에 의하면 동양척식회사가 목재를 베어가면 원시림이 하루아침에 민둥산이 되었다고 한다. 그리고 강이나 도로에는 목재를 실은 뗏목이나 차량들이 끝에서 끝이 안보일 정도로 줄을 이었고, 부산 부두도 뗏목으로 덮여 있었다고 한다. 지금으로부터 100여년전까지만 해도 산에 들어갈 엄두를 못 낼 정도로 울창하던 밀림도 일본이 통치한지 몇 십 년 만에 완전한 민둥산이 되어 버렸던 것이다. 특히 2차대전말기에는 전쟁을 치르는데 필요한 에너지인 목탄까지 우리 손으로 공급해줘야 했기 때문에 많은 산들이 말 그대로 시뻘겋게 헐벗어 버렸다.
8.15해방이후 문헌중에는 ‘일본제국주의의 조선지배(산림의 약탈)’, ‘조선에 있어서 일본제국주의의 식민지배적산림정책’등에서와 같이 일본제국주의의 약탈적 산림정책이야말로 조선의 산림황폐의 원인이었다고 기술하고 있다. 그 중 북의 원시림지대는 종전 후 일본에 의해 남벌되어 오늘날에는 아름다운 미림을 볼 수 없게 되었다는 비난도 기술되고 있다.(황폐지복구사,산림청,1988p69)
부패한 왕조와 봉건국가의 한계가 가져온 숲 정책도 문제였지만 수탈대상으로 전락한 식민지신세보다는 낳았던 것이다. 근대제국주의야말로 식민지의 착취자이자 동시에 숲의 착취자였던 셈이다.

사진11 사격장 숲
사진글 지난밤 미군훈련장의 포성으로 가득찼던 숲에는 고운 새벽눈이 조용히 내려와 있었습니다.

한국전쟁이후 한강하구의 숲
한국전쟁으로 인한 숲 피해는 1950년 10월말 현재로 조사된 전쟁피해조사(임업계1966)에 의하면 총피해면적은 780만평방미터로 추산되었다.(황폐지복구사,산림청,1988p77) 한국전쟁은 산림황폐의 원인중의 원인이었다. 특히 사방분야에서는 그동안의 사방시설들이 모두 파괴되므로서 황폐지는 사상 최고치를 기록했다. 1952년 5대하천유역의 사방공사필요면적이 약 590,000ha, 그리고 야계가 8,100km로 조사되었다. 57년까지 수립된 5개년계획에 따르면 한강유역(경기,충북)의 사방공사필요면적은 46,700ha로 이는 일제때 가장 황폐화가 심했던 1932년 29,600ha보다 약 1.5배에 해당하는 수치이다. 1952년에는 부락산림계가 조직되었는데 이것이 산림보호 및 사방공사 실행상 하나의 모본이 되기도 하였다. 또한 이때의 사업은 유엔한국부흥위원회(UNKRA)의 사업비 원조에 의해 노임을 밀가루로 지급하여 ‘밀가루 사방’이라는 별명을 남기기도 하였다. 1955년 미국국제협조처(ICA)의 원조에 의해 야계사방사업을 실시하였으며, 1956년에는 외국의 원조자금에 의한 사방 및 민유림조림사업을 확대시행하고, 1957년에는 2차사방사업5개년계획을 수립하였으며 특히 미국의 기술지원에 의한 ‘상류수원지,용수림지보전사업’에 관한 시험을 개시하였다. 1958년에는 미국식 토양보존공법 또는 상류수원함양공법을 채택하였다. 미국의 원조와 지원은 산림보호와 사방공사에 절대적인 영향을 끼쳤지만 큰 성과를 내지 못함으로써 결국 미국식공법을 폐기하게 된다. 1961년에는 산림보호임시조치법이 폐지되고 산림법이 제정되었다. 당시에는 국토건설사업의 일환으로 사방사업을 시행하였으며 그동안의 상류수원함양사업방식에 의한 사방시공법에 대한 재검토결과 그 효과가 만족스럽지 못한 것으로 평가되어 이 방법을 점차 재래식시공법으로 개선하기 시작했다. 신공법에서 구공법으로의 환원이후 1963년에는 전 산림사업예산의 80%를 사방사업에 집중투자하여 그해 18만ha를 시행한 기록을 남기게 되었다. 사방사업의 인부는 일반국민,공무원,학생,군인등을 동원하여 거국적으로 국토녹화운동을 전개하였으나 기술이 없는 사람들이 험한 산지에 와서 사방공사를 대량으로 실시한 결과는 대단히 미흡한 성과만을 내는 것으로 만족해야 했다. 1964년 PL480(미원조양곡노임지급)에 의해 사방사업을 시행하고 12만ha를 더 시공하였으나 그 효과 역시 만족스럽지 못하였다. 한편 유엔한국산림조사사업기구가 발족하여 항공사진에 의한 황폐지조사사업도 가능하게 되었고 보안림정비사업도 실행되었다. 한편 FAO/UNSF에 의한 산림조사 및 개발사업이 시작되어 72년까지 지속되었다.
1973년 산림청이 농림부산하에서 내무부산하로 이관되어 산림보호 및 절대녹화에 효과적인 산림행정체제로 전환되었으며 1차치산녹화10개년계획이 수립,시행(1973-1982)되었다.
70년대 이후 한미간의 관계가 불편해지면서 미국의 원조와 지원으로부터 벗어난 임업정책이 시도되기 시작했다. 1974년에는 녹화사업에 관한 한-독간약정이 체결되었고, 사방사업의 방침을 계통사방, 완전사방, 노임사방, 사방지 사후관리 및 사방사업지총괄대장화등 당시의 새마을운동과 연계하여 비교적 활기차게 추진하였다. 사방사업의 기본방침을 지구완결원칙에 두었다. 그리하여 ‘계통사방’은 산정+산허리+계곡+소하천(일반사방+특수사방+야계사방)가꾸기 사업을 연계실시하며, ‘완전사방’은 이전 시공지와 연결하여 지구별 완전복구가 되도록 하며 피복도를 14%에서 30%로 늘리도록 하였다. ‘노임사방’은 마을주민 도급 및 노임직영사업으로 실시하며, 1차투자사업이 2차소득사업에 연결되도록 추진하였다. 1975년에는 훼손지복구요령이 제정되었다.
1976년에는 ‘내마을붉은땅없애기운동’이 시작되었다. 1977년에는 육림의 날을 제정하고 임지훼손허가및 복구요령을 제정하였으며 한국의 사방사에서 그 중요성이 높이 평가되는 영일지구특수사방사업이 성공적으로 완수되었다. 1967년 당시 경기지역 화전면적은 3,195ha로 전국 화전의 7%에 해당했다. 그러나 꾸준한 화전정리사업의 결과 경기지역에서는 77년과 78년에는 화전이 사라졌다.(황폐지복구사,산림청,1988p80)
1978년에는 1차치산녹화10개년계획사업(1973-1982)이 4년 앞당겨 완수되었으나 사방사업에 있어서는 당초 계획의 50%밖에 시행되지 못하였다. 그러나 시행지의 성공도에 있어서는 다른시기보다 가장 ‘성공한 사방’이었다고 평가된다. 그러나 사방공법의 개발에는 투자하지 못하여 기술개발이 이루어지진 못했다.

사진12 한강전투
사진글 한강전투로 파괴된 숲들은 1980년까지도 완전히 복구되지 않았다.

1980년에는 전국 필요사방지일제조사를 실시한 결과 황폐산지 33,990ha, 야계 1,886km 해안사구 243ha로 조사되었다. 이는 일제당시 황폐지면적이 최고에 달했던 1932년 29,600ha를 아직 회복하지 못한 상태였다. 한국전쟁으로 인한 피해는 1980년에 이르러서도 원상복귀되지 못하고 있었다. 1984년 다시 전국적으로 필요사방지일제조사를 실시했다. 그 결과 황폐산지 8,530ha, 야계 2,464km, 해안사구 164ha로 조사되었다. 그동안 산지사방에 집중투자한 결과 광대한 황폐지가 거의 복구되어 남측의 숲은 전쟁전, 나아가 일제식민지 전 수준으로 급속히 회복되었다. 1986년 또다시 전국적으로 필요사방지일제조사를 실시했다. 그 결과 황폐산지 3,092ha, 야계 2,241km 해안사구 66ha로 조사되었다. 그러나 당시까지의 조사방법은 일선 치산사업소직원들이 주로 목측에 의해 판정해왔으므로 자료의 신빙성에 문제가 있다고 판단된다.(황폐지복구사,산림청,1988p27-30)
우리나라의 산림정책은 보호정책 위주로 계속되다 1980년대에서 1990년대 초까지 잠시 경제정책 위주로 재편되는 조짐을 보였고 90년대 중반 이후 다시 보존정책 중심으로 선회했다. 1987년 산림청 산림피해현황자료에 의하면 도벌과 무허가벌채, 산림훼손, 산불등에 의한 산림피해면적은 1958년 29,133ha, 1966년 35,896ha를 정점으로 하여 감소하기 시작했고, 1986년에는 1,960ha로 줄었다. 이중 사회적 요인인 도벌과 무허가벌채 산림훼손등은 점차 감소해간 반면 산불피해는 불규칙적이고 증감을 반복하였다. 1959년 산불피해면적은 465ha였던 것이 1968년에는 23,962ha로 최고를 기록했다가 1985년에는 247ha로 최저치 로 떨어졌다가 다시 86년에는 3,255ha로 급증했다.(황폐지복구사,산림청,1988p83-84) 1993-97년 사이 479건, 2251ha가 1998-2002년까지 539건, 6398ha가 산불피해를 입어 이상기후등에 따른 산불, 산사태등 산림재해가 대형화, 다발화하고 있다.
산불은 단지 나무의 손실에 그치지 않고 천연갱신지의 치수, 종자 인공조림지의 어린숲이 전소되며, 화재로 나무들이 고사를 모면했어도 생장력이 쇠퇴하고 재질이 손상되며 병충해의 발생을 유발한다. 또 숲의 유기질영양분의 근원인 지피물이 소실되고, 토양공기를 감소시켜 숲의 환경을 악화시키고 때로는 헐벗은 나대지를 생기게 하여 결과적으로 숲의 황폐를 초래하게 된다.(황폐지복구사,산림청,1988p82)
소나무재선충등 새로운 산림병해충 피해가 발생하고 있으며 산림병충해피해면적은 1993-97년 사이 1,834천ha, 1998-2002년 사이 1,364천ha로 역시 대규모화하고 있다. 강화대교 입구에는 소나무재선충유입을 경고하는 표지가 붙는 등 한강하구지역에도 소나무정책에 붉은등이 켜졌다.
산림황폐의 사회적 요인으로 등장한 것은 골프장이다. 1988년부터 노태우 대통령이 ‘골프 대중화’ 정책을 추진하면서 골프장 건설을 위하여 가장 많은 산림이 훼손되었다. 골프장이 차지하는 면적은 1991년 현재 20,292ha에 달했는데 이 면적은 전국의 공장용지의 총면적과 비슷한 규모이다. 한강하구의 염하강변에도 새로이 김포골프장이 건설되었다.
숲 황폐화의 사회적원인중 최대의 결정적 요소였던 제국주의 침탈과 전쟁은 정부의 지속적인 노력으로 수십년만에 어쨌든 복구된 셈이다. 현재 남쪽 숲의 최대 위협요인은 산불과 병충해 같은 더 정밀한 재해방지체계를 필요로 하는 분야로 옮아가 있다.

사진13 녹색댐
사진글 아침 대기는 이슬을 머금고 숲은 물을 머금고 있다.-강화 두운리

한강하구 숲의 미래
녹색댐
한강하구와 한강유역의 숲을 분리해서 볼 수 없는 하나의 체계로 인식할 필요성에 대해 위에서 언급한 바 있다. 미래 한강하구환경순환체계의 바람직한 모습을 위해 우리는 70년대식 녹화사업을 넘어서는 새로운 전망과 개념을 요구받고 있다. 녹색댐은 향후 한강하구의 숲이 지향해야 할 중요한 개념으로 보인다. 현재 우리의 숲이 갖고 있는 물은 180억t으로 소양강댐 저수량의 10배이다. 1970년대 황폐했던 숲이 약 20년 이상 사방공사와 나무심기를 한 결과 이제 숲은 나무로 들어찼다. 그러나 1990년대 중반 지방 여러 마을에서 “산에 나무가 적었을 때는 개울에 물이 흘렀는데 나무가 꽉 들어찬 지금은 오히려 물이 안내려온다”는 민원이 제기되었다. 이는 1998년 국회의 국정감사장에서 뜨거운 주제로 떠올랐다. 당시까지 전문가는 물론 대부분 사람들이 녹색댐은 관리하지 않으면 오히려 나무들이 물을 지나치게 소비하여 개울에 물이 줄어든다는 사실을 알지 못했다. 촌로들도 피부로 느끼는 일을 산림전문가들 조차 외면하는 상황이었던 것이다. 이후 산림수자원연구팀은 다른 국가의 사례를 조사한 결과 호주, 남아공 및 일본 등도 같은 문제를 고민하고 있다는 사실을 알게 되었다. 산림수자원연구팀은 지속가능한 물 자원 확보는 이제까지처럼 콘크리트댐으로는 힘들고 인공댐을 지키고 있는 상류의 녹색댐이 잘 관리되어야 한다는 인식하에 녹색댐 관리기술 개발에 매진하였다. 1990년대 중반 들어 물 자원관리에 대한 패러다임이 인공구조물 위주에서 자연친화적 방식으로 전환되면서 국민들 사이에 녹색댐에 대한 이야기가 회자되기 시작하였다. 하지만 건설교통부나 한국수자원공사는 녹색댐관리를 비롯한 다양한 방식이 제시되면서 자기들의 밥줄인 인공댐 건설에 차질이 생기자 녹색댐무용론을 주장하였다. 하지만 2000년대 들어서 녹색댐은 정부와 국민들 사이에 물 환경을 보전하면 지속적으로 물 자원을 확보하기 위해 제대로 관리해야 할 대상으로 각인되었다. 녹색댐은 물 자원뿐만 아니라 지속가능한 발전의 초석인 생물다양성을 높이고 기후변화의 주범인 탄소를 흡수하는 원천으로서 그 중요성이 높아지고 있다. 우리나라의 산림 1ha(100m*100m)는 연평균 약7.3톤의 이산화탄소를 흡수한다. 이는 일반주택 4가구의 연간 이산화탄소배출량이며 일반승용차 1대의 연간이산화탄소 배출량이다. 우리나라 연간1인당 총이산화탄소배출량은 평균 약3000kg으로 가정용등유 1048리터를 연소할 경우 발생하는 이산화탄소량이다. 이를 위해서는 845평(농구장6개의 면적)에 840그루를 심어야 한다. (국립산림연구원홈페이지http://www.kfri.go.kr)
녹색댐 관측은 미국의 경우 1919년부터 시작하였으며 유럽과 일본도 1920년대 시작하였다. 이러한 녹색댐 기능은 숲가꾸기를 통해 향상시킬 수 있는데 이때까지 숲가꾸기와 녹색댐 기능에 대한 연구는 전혀 이루어지지 않고 있었다. 숲가꾸기의 중요성을 인식한 연구팀은 1996년부터 침엽수 인공림을 중심으로 솎아베기와 가지치기 등 숲가꾸기를 실시하고 녹색댐기능의 변화를 관측하기 시작하였다. 숲가꾸기 후 녹색댐 기능의 변화를 분석하기 위해서는 강수량과 유출량뿐만 아니라 차단손실량, 증산량, 토양함수량, 토양수분장력, 지하수위 변화 그리고 수질 등 다양한 항목을 관측해야 한다. 녹색댐저수량은 산림이 건강해질수록 증가함은 물론이다. 그 증가추이를 보면 다음과 같다. 산림청통계에 따르면 1998년 180억톤, 2002년 188억톤으로 증가해왔고, 2007년 196억톤, 2020년 215억톤, 2040년 244억톤, 2050년 252억톤으로 증가 될 것이 예상된다. 현재 우리나라 산림의 대부분은 숲의 수령이 20-30년생이므로 수원함양기능을 높이기 위한 손질이 본격적으로 필요한 시기에 와 있다. 우리나라의 인공림 약300만ha에 대해 간벌과 가지치기등 관리를 잘해주면 강수량의 5%에 해당하는 약57억톤의 물을 머금을 수 있게 되는 것으로 유효저수량이 4억톤인 다목적댐 임하댐 14개를 새로 만드는 것과 같은 효과가 있다.(산림과 임업기술.산림청산림청홈페이지.p489) 산림청에 따르면 우리나라는 2011년에 약18억톤, 2020년에 약26억톤의 물부족이 예상되므로 5대강 수원함양림 116만ha를 중점관리, 수원함양림을 확대지정하고 연차별로 국가에서 매수할 계획에 있다. 물이용부담금등으로 조성되는 수계관리기금의 일부를 녹색댐기능증진을 위한 산림투자재원으로 활용하는 방안을 적극추진하고 있다. 4대강수계관리기금 5,300억원(03년기준)의 10%를 산림투자재원으로 활용할 경우 약500억원 규모의 안정적 재원확보가 가능하며, ‘한강수계상수원개선및주민지원등에관한법률’등의 개정도 추진하고 있다. 참고로 5대강유역산림관리는 97년까지 330천ha를, 2002년까지는 1012천ha를 추진하였다. 3공화국시절까지는 숲의 황폐지를 없애기 위한 녹화사업자체에 치중했다면, 지금은 숲의 질적관리를 위한 방향으로 구조화, 체계화할 것이 요구되고 있다.
현재의 치산시설들이 수자원을 양적, 질적으로 보전하기 위해서는 시설물을 보다 다양화하여야하고 설치장소는 산허리, 계류를 망라한 산지 전체를 대상으로 하되 복구차원의 시공성격이 강한 현재의 공사개념을 산각고정을 목표로 하는 예방차원으로 실시할 필요가 있다.
(산림과 임업기술.산림청홈페이지.p490) 이를 위해 정부는 2003년까지 사방댐200개소, 야계사방90km, 산지사방64ha를 시행하고, 2012년까지는 사방댐5000개소, 야계사방7,000km, 산지사방1500ha를 시행할 계획에 있다.
산림의 수원함양 수질보전과 더불어, 재해예방기능을 효과적으로 수행하기 위해서는 수계를 중심으로 산림사업을 통합하는 산림유역관리사업을 추진함으로써 사업효과를 배가 할 필요가 있다. 이를 위해서는 전국 산림내 수계유역에 대한 DB구축 및 수계별완충지역설정범위등 영향권역산림설정,관리와 수계산림관리를 위해 상류의 수원공급지역과 하류이용지역 지자체간의 협의회를 구성하는 것도 필요하다. 미국 뉴욕주의 경우 상수원유역 산림관리비는 뉴욕시가 수도료에 반영하여 부담하고, 상수원지역산림을 뉴욕시에서 매입하여 관리하고 있다.
숲의 공적소유화
숲은 목재 공급처일 뿐만 아니라 휴양 및 교육공간이자 삶의 터전이다. 산악국가에 있어서 산은 민족문화의 요람이다. 산림의 가치 중 목재가 3∼4조원이라면 문화, 환경, 휴양, 교육등의 가치는 60조원으로 추정되고 있다. 우리의 숲은 수령 30년 미만의 나무가 73%이다. 경영의 측면에서 볼 때 50년생은 되어야 경제적가치가 있는 나무가 되는데 30년생을 50년생으로 만들기 위한 과감하고 지속적인 투자가 미비한 실정이다. 경제가치로서의 숲에 대한 투자가 부진을 면치 못함으로써 숲을 노는 땅으로 보고 투기와 개발의 대상으로 전환시킬 가능성 역시 현실의 문제로 다가서고 있다. 국내산림산업재의 수익성이 저하하고 있고, 임업의 성장동력이 부족하며, 안전한 소득망 역시 부족하다. 그 결과 임산물의 수출이 정체되고, 목재자급률은 99년 이후 6%대를 겨우 유지하고 있다. 숲의 경제적 가치를 여러 측면에서 조명하고 사적으로 소유하고 있는 숲이라도 나무를 잘 심고 관리하면 더 이문이 남는다는 희망을 갖게 할 필요가 있다. 그러나 숲의 역사를 돌아보면 숲이 개인소유등으로 국가적 통제를 벗어날 때 무자비하게 황폐화된다는 것을 깨닫게 된다. 프랑스혁명후의 혁명법보다도 루이14세의 콜베르칙령이 숲을 보호하는데는 더 기여하였다. 이는 자유주의, 분권주의 보다도 봉건적일지라도 국가주의가 친환경적이었다는 역설을 보여준다. 그러나 국가주의자들이 숲의 보호를 옹호했던 가장 큰 명분은 전쟁이었다. 키케로는 숲의 보호를 위해 반대파들에게 전함을 만들고 전쟁에 대비하기 위해서라고 답했지만 반대파들로부터 돌아온 대답은 정복을 통해 해결하면 된다는 것이었다. 반대파들의 논리 앞에 키케로는 속수무책이었다. 전쟁이나 군사적인 이유로 숲과 환경이 보존되어야 한다는 논리는 정복과 제국주의 같은 논리를 극복할 수 없음을 역사는 보여준다. 전쟁과의 위험한 동거를 포기하고 평화만이 환경의 동지라는 사고가 필요하다.
숲 정책에 있어서 안정된 행정력과, 평화력은 가장 중요한 전제이다. 숲의 황폐화와 사막화가 급속도로 진행되고 있는 국가들은 공통으로 최근에 급변하는 세계정치변화의 중심에 있다. 그렇기 때문에 정치경제 상황이 불안하고 사회가 안정되어 있지 않은 관계로 해서 중앙부서의 행정명령이 지방까지 미치지 못하는 경우가 많다. 이로 인해서 이들 국가에서는 현재 산림의 면적이 줄어들고 무절제한 벌채가 규제되지 않고 있다. 또한 산림의 벌채를 위해서 인위적으로 산불을 만들어서 벌채허가를 얻어내고자 하는 활동으로 인해서 산림이 극도로 황폐화되고 있다. 최근 이들 국가의 예는 많은 한계에도 불구하고 강력한 금벌정책을 폈던 조선시대와 비교된다.
현재 우리나라의 숲도 개인소유가 대다수를 차지한다는데 임정의 근본적 한계가 있다. 사유림경영여건이 악화되고, 지자체의 산림이 갈수록 축소되며, 부재산주가 증가하고, 농촌과 마찬가지로 산촌의 인력이 공동화된지 오래인 현상황을 타개하기 위해서는 국립공원과 환경보존지역내의 사유림만이라도 서서히 국가가 매입하여 국유림화하는 과정이 필요할 것이다. 특히 한강하구는 통일과정에서 육지의 비무장지대 인근 민통선지역이 겪고 있는 투기개발붐을 피해가기 어려울 것이 이미 예상되어온 바이다. 18세기 광산지역을 중심으로 급속한 사유화가 불러온 가공할만한 숲 파괴의 교훈에서 보듯 한강하구의 숲 역시 급속한 사유화, 지방분권화는 숲을 투기대상으로 만들 가능성이 농후하다. 사적소유영역에서는 측량할 수 없는 숲의 가치를 국가와 인류차원에서 평가하고 보존유지하려는 노력이 필요하다.
또한 숲, 강, 나무, 물, 갯벌등 자연환경을 통합적으로 보는 시각과 정책이 필요하다. 강원도 양구 해안면은 화강암의 풍화토인 마사토지역으로 유명하다. 그러나 고랭지농업을 위해 산중턱까지 개간이 확산되자 왠만한 홍수에도 밭의 반 이상이 붕괴되는 일이 잦아졌다. 이런 현상은 양구, 화천등에서 몇 년째 반복되고 있으며 북한강수계에 엄청난 토사를 쏟아놓았고 소양강댐은 흙탕물로 몸살을 앓고 있다. 댐은 점차 퇴적토로 하상고가 급속히 상승하고 있다. 한강개발계획으로 폭파시켜 없애버린 섬인 저자도와 밤섬이 다시 퇴적토가 늘어나면서 자라나고 있다. 저자도는 매년 엄청난 비용을 들여 홍수위조절이란 이유로 준설작업을 계속하고 있다. 한강하구와 멀지 않은 곳인 김포 고촌면의 한강 한가운데 제주초란 섬이 있었다. ‘초’란 섬이라기보다는 강한가운데 있는 모래펄을 의미한다. 1989년 하천정비기본계획 수립 시 홍수위를 저하시키기 위한 목적으로 길이4km의 제주초를 1997년까지 준설하여 없애버렸다. 퇴적량에 대한 조사보고에 의하면 1989년 대비 1994년은 240㎡. 1994년 대비 2000년은 140만㎡ 퇴적증가로, 매년 평균 약40만㎡ 퇴적증가가 조사되었다. 1994년과 비교하여 2000년도에는 김포신곡수중보에서 전류리구간중 약10km구간인 홍도평의 한강최심하상고가 5m나 급격히 상승하였고, 저수로폭원은 넓어진 것으로 나타났다. 그러나 이 모든 원인은 제주초 때문이 아니라 자유로를 건설하면서 전류리지점 하류부의 하폭이 축소된데 따른 것으로, 자유로 건설은 전류리하류부와 이산포IC지점의 하상고를 상승시켰다. 그러나 일단 제주초 상류부 470만㎡를 부분적으로 준설하였다. 1994년 신곡수중보 홍수위가 11,63m로 상승하자 제주초는 물속에 잠겼고, 이산포IC와 장항IC 하상도 상승했다. 이에 홍수피해예방을 명분으로 제주초를 완전히 제거하기에 이르렀다. 그러나 이산포와 장항갯벌 사이의 구간은 퇴적이 계속되고 있어 다시 홍수위가 상승하고 있다. 한편 김포대교와 일산대교의 교각공사로 인하여 한강의 유속이 떨어지고 그 결과 퇴적이 증가하고 있는 것도 홍수위를 높이는 원인이 되고 있다. 2001년 국토관리청의 현장실사를 거쳐, 한국건설기술연구원의 용역발주로 “한강하류부하상변동분석연구”가 이루어지고 2002년말까지 조사분석되어 제시된 대책에 의하면 ‘계획홍수위를 낮추기 위하여 대대적인 준설이 불가피하며, 평균 준설깊이 약2m, 준설량 약2100만㎡ 정기적인 준설이 가장 합리적이다’라고 제시하고 있다.
수도권의 1년치 모래수요가 5천만㎥이므로 이는 거의 절반에 이르는 량이다. 준설업자와 세수가 늘어나는 김포시등 건설관계분야로서는 환영하지 않을 수 없는 속보이는 대책임은 말할 필요도 없다. 그러나 이같은 준설은 홍수를 막지도 못하고 강의 오염을 가속화할 뿐이라는 것이 환경전문가들의 견해이다. 홍수 때면 강바닥 모래가 시시각각 모양을 바꾼다. 잔물결 모양이던 강바닥은 어느새 모래 둔덕이 되는가 하면 또 어느 순간 평탄해진다. 마치 물과 모래가 힘을 겨루는 결투와도 같다. 이 과정에서 홍수의 사나운 에너지가 많이 다스려지는 것이다. 움직이는 모래톱이나 여울이 사라지고 흐르는 물만 남게 되면 강바닥은 녹조로 오염되고 악취를 풍기게 된다. 물과 모래가 얽혀 자유롭게 흘러다니게 해야 하천에 백사장과 모래여울이 만들어진다. 하천관리는 자연성을 유지하고 회복하는 데 역점을 두어야 한다는 것이다. 이철재 서울환경연합 운영국장도 “콘크리트 구조물을 걷어내고 물을 담아둘 수 있는 배후습지를 확보한다면 치수나 자연형 하천 복원 양쪽에서 모두 효과를 거둘 수 있다”고 주장한다.(한겨레신문2006-04-26) 현행 정책의 많은 시행착오와 갈등이 부처간 갈등으로부터 발생하고 있는 점을 감안하면 이들을 통합하여 자연자원부 같은 통합부서를 만들자는 제안은 숙고할 필요가 있다.(동아일보2002.08.02) 한편 국유림이나 공유림의 운영이 인근지역주민을 소외시켜 숲에 대한 애정보다 불만과 증오를 키워온 과정이 되풀이 되지 않게 해야 할 것이다. 산림청이 소개하고 있는 2005년 인제군 국유림에서의 ‘산더덕재배성공사례’는 주민참여형 국유림관리의 새로운 가능성을 보여준다. 국유림근처의 산촌주민들에게 고로쇠나무와 산더덕재배를 장려하고 성공시켜 주민들이 숲가꾸기나 산불예방에만 동원되는 것에 대한 피해의식을 털고 숲을 가까이 하고, 숲을 가꿈으로서 이익을 볼 수 있다는 희망을 만들어 준 것이다.

사진14 개성극락봉
사진글 판문점근처 비무장지대너머 개성 극락봉

한강하구 통일의 숲 가꾸기
우리나라는 제3공화국 시절에 재식목을 해서 민둥산들을 녹화하는데 성공했지만 그러나 아직도 산림밀도가 일본의 1/3, 독일의 1/5정도에 지나지 않는다. 북은 아직도 많은 산에 식목을 필요로 하고 있다. 북쪽도 남쪽과 마찬가지로 일제시대와 한국전쟁을 통하면서 많은 산림이 파괴되었다. 북의 산림면적은 산림복구노력이 결실을 거두면서 1972년까지 계속해서 증가하는 추세에 있었다. (동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영p29-30) 그리고 백두산 일대의 원시림이 남아 있고 이곳의 산림자원을 잘 관리해오고 있었기 때문에 산림의 감소가 주춤했다. 그러나 새땅찾기운동의 일환으로 숲이 다락밭으로 전용되기 시작했고, 그 면적은 1970년부터 1987년까지 17년간 379,000ha에 달한다. 이것은 제주도 면적(184,536ha)의 2배에 해당된다. 더욱이 1990년에서 1997년 사이에 전용된 면적은 1,863,000ha이다. 이것은 제주도 면적의 약 10배에 해당하는 면적이다.(위논문p30) 때문에 북의 숲 면적은 1972년을 고비로 계속해서 감소하는 추세에 있다. 남쪽에서의 숲이 골프장이나 건물등을 위해서 전용되는 것과는 대조적인 현상이라고 할 수 있다. 한강하구와 비무장지대주변의 북측 숲은 군사적 이유로 진행되는 사계청소로 인하여 나무한그루 볼 수 없는 민둥산으로 유지되어 온지 오래다.
최근 북쪽지역의 큰 홍수피해는 이러한 산림이 없어지고 수원함량지가 없어지는 것과 무관치 않다. 북에서는 현재 산림의 10%정도가 황폐화되어 있다.(동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영p23) 1910년대의 산림자료를 종합해서 사진을 합성하여 만든 것과 1993년에 그동안 소련이 군사용으로 사용했던 인공위성 사진을 합성하여 만든 것을 이용하여 산림의 파괴 현상을 비교한 연구가 있다. 특히 인구밀도가 높은 대동강유역의 평양과 두만강유역이면서 중국과의 접경지역인 혜산지역을 비교하였다. 이 사진을 보면 혜산지역은 일제시대 이전에는 성림이 있었다는 것을 알 수 있는데 1993년에는 성림이 없어지고 농경지나 조림이 이루어지지 않은 곳으로 남아있는 곳이 대부분이다. 혜산지역은 최근의 여러 보고에 의하면 황폐지가 증가하고 있는 것으로 나타나고 있다. 대동강 유역인 평양도 과거에 성숙림이 있던 곳으로 유명한데 현재는 도시화가 진행되면서 산림이 줄어들고 대신 도심의 면적이 늘어났다. 이 지역 또한 혜산 지역과 마찬가지로 산림의 많은 부분이 다락밭으로 전용되어 산림의 황폐화 현상이 가속화되는 것을 알 수 있다. 이와 같이 북의 산림자원을 인공위성사진을 토대로 비교하면 과거 약80년 동안의 산림파괴는 상당부분 현실인 것 같다.(동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영p29)
북은 1998년 5월28일-29일 유엔개발계획(UNDP)과 북정부 공동주관으로 스위스 제네바에서 개최된 ‘북농업의 회복과 환경보호에 관한 주제별 원탁회의’에 제출한 보고서에서 전체 토지면적 1,228만 정보중 산림은 754만 정보, 이중 조림면적이 129만 정보, 천연림이 633만 정보라고 밝힌바 있다.
북의 환경문제가 사회 전반적인 문제로 인식되기 시작한 것은 1986년 ‘환경보호법’이 채택되면서 부터이다. 북은 이어 1992년 헌법을 수정, 환경관련조항을 신설하고 외국기업의 투자와 기업활동에 의한 환경오염을 방지하기 위한 법규정을 마련하였다. 북은 2000년 봄철 나무심기 기간(3-5월)에도 전역에 수억, 수천만 그루의 나무를 심었다고 보도하였다. 북에서 나무심기의 중요성은 2000년 산림조성10년계획에 대한 내각결정을 채택하면서 발표된 다음과 같은 성명서를 통해서 느낄 수 있다. “산림은 나라의 만년재부이며 조국의 부강발전과 후손만대를 위한 귀중한 밑천이다. 산림을 전망성 있게 조성하는 것은 인민경제를 발전시키고, 인민생활을 높이며 토지를 보호하고 나라의 풍치를 아름답게 하기 위하여 나서는 중요한 과업의 하나이다. 이에 내각은 2001년부터 2010년까지를 산림조성 10년 계획기간으로 설정한다.”(남북환경분야협력에 관한통일부토론회2001.10.9,평화의숲대표김진수발제문,p2)
90년대 말부터 북은 접붙이기 방법을 통해 소나무림을 잣나무림으로 바꾸는 작업을 추진하고 있다. 이는 소나무가 생산성이 낮고 벌레가 많이 끼므로 사용가치가 별로 없음에도 산림면적 중 많은 비중을 차지하고 있다는 인식에 바탕한 것으로 소나무 대신, 곧게 자랄 뿐 아니라 짧은 기간에 많은 수확을 거둘 수 있는 잣나무로 대체함으로써 경제적 효용의 극대화를 추구하고 있는 것으로 보인다. 이미 평안북도 운산군과 북창군, 벽성군 그리고 송남, 용문, 남전탄광지역에서는 소나무림을 쓸모 있는 나무수종들로 교체하여 커다란 성과를 보고 있다고 보고하고 있다.

소나무림에 상수리, 아카시 나무와 같은 활엽수를 심어 혼성림을 만드는 방법으로 소나무림을 차츰 개조할 수 있다. 특히 땅이 메말라 당장 좋은 수종의 나무를 심을 수 없는 곳에는 아카시, 오리나무를 심어 몇 해 동안 땅을 기름지게 한 다음 잣나무나 창성이깔나무와 같은 나무들을 심는 방법으로 소나무림을 교체할 수 있다.(노동신문,1999.6.13).

전김일성주석의 교시를 이어받아 김정일 위원장이 다시 제기하고 있는 새로운 산림개조 방법은 실천 가능성이 높고 과학적 근거를 가지고 있어 주목하고 있다. (노동신문,1999.07.22)
북은 과거 산림국유화 조치를 단행하는 과정에서 산림을 크게 국가림과 지방림으로 구분하여 관리하고 있다. 국가림은 임업성이 관리하는 목재생산 위주의 임산공업림과 사회안전성국토총국이 관리하는 남쪽의 보안림 성격의 국토보호림으로 구분된다. 지방림은 농업성이 관리하는 협동조합림(공동이용림), 각 군의 인민위원회가 관리하는 기관, 기업, 부대, 학교 등의 담당림으로 구분하여 관리되고 있다. 남과 달리 숲의 사유화문제는 없으므로 국가정책의 조정과 초기정책시행을 위한 재정과 제반조건이 지원된다면 머지않아 1970년대 이전 수준으로 숲이 복원될 것으로 기대된다.
현재 남측은 산림청을 중심으로 북의 숲복원전략수립의 자문을 제공하기 위한 장기생태연구를 수행하고 있다. 북은 현재 산림지역에 수목이 거의 없는 상황이므로 수목의 식재도 중요하지만 조림이전에 사방사업을 통해서 토사의 유출을 먼저 막아야 할 필요가 있는 것으로 분석되고 있다. 산림청은 황폐지에 대한 사방사업과 조림대책추진차원에서 사방사업경험자를 중심으로 북산림복구사업단을 조직하려는 계획을 가지고 있다. 경사16°이상의 다락밭이 현재 177,450ha 정도 되는데 이 지역은 봄철의 해빙기에 붕괴의 위험성이 있고, 여름철 장마기간에 토사유출이 심각하게 일어나 붕괴의 가능성이 있는 곳이기 때문에 사방사업을 먼저 실행해야 할 것으로 산림청은 판단하고 있다. 최근 민간단체를 중심으로 개성공단에 나무심어주기 행사등이 이어짐으로서 차단된 정부의 통일임정의 물고를 트는 역할을 하고 있다. 그러나 체계적인 황폐지 복구사업이 되기 위해서는 나무심기와 더불어 사방공사도 같이 고민되어야 할 것이다. 또한 현재 산림이 없는 산지와 경사 16°이상의 다락 과수원 지역 2,061,550ha에 대해서는 빠른 시일 안에 조림수종을 선택하여 식재하도록 해야 한다.(동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영p37)는 것이 전문가들의 견해이다.
북의 산림 황폐로 우려되고 있는 사막화현상을 지연시키기 위해서는 궁극적으로 나무를 심어야 하며 핵심문제는 수종의 선택이다. 그것은 현재의 적응력, 미래의 가능성도 중요하지만 역사적으로 과거에 분포하던 수종을 조사하여 조림하는 것도 중요하다. 또한 사막화가 진행되는 곳에 방사림을 조성하여 바람에 모래가 날리는 것을 방지할 필요가 있으며 어느 정도 초지나 관목이 있는 곳은 관정을 통해서 관수하는 시설을 설치하는 것이 좋을 것이다. 또한 이것이 어려운 곳은 하천이나 강 주변의 지역부터 조림하여 산림지역으로 확대해 나가는 것이 필요하다.(동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영 p36)
따라서 한강하구지역 역시 정전협정상의 문제해결과 더불어 북의 숲을 복원하는 사업에 고민을 모을 필요가 있다.
한강하구지역의 홍수피해예방을 위한 임진강유역황폐산림복구사업등, 일명 임진강치수사업은 김대중정부에서 공들여 합의 한 사항이지만 합의가 추진되고 있지 못한 실정이다. 산림청은 연간 묘목 약5-10백만본, 양묘장시설자재등을 지원하며 이와 더불어 농산촌 대체연료공급대책수립을 함께 추진하려는 계획도 가지고 있는 것으로 알려졌다.
북이 한강하구인근지역을 중심으로 펼치고 있는 숲 정책으로는 개풍군 용산리에서 땔나무림을 조성하고 있으며 나무모생산을 계획적으로 펼치기 위해 개성시 산림경영소 박연양묘작업반에서 나무모를 적극 생산하고 있다. 국토환경보호성의 이만식 부상은 최근 ‘노동신문’과의 회견에서 ‘푸른 숲은 양묘장을 떠나서 생각할 수 없으며 양묘장 건설에 중심을 두고 가을철 국토관리사업을 진행하고 있다’면서 ‘모든 시․군들에서 양묘장을 20-60정보씩 조성해야 한다’고 촉구하고 양묘장은 땅이 비옥하고 물 공급이 충분한 곳에 지정해야 하며 땅이 얼기 전에 기본적인 공사를 완료해야 한다’고 설명하였다. 한편 솔잎혹파리 피해확산을 막기 위한 공동방제사업이 진행되고 있는데 남측정부는 99년 봄부터 두 차례에 걸쳐 수목보호연구회라는 민간단체를 통해 대행 방식으로 북을 지원하였다. 그러나 수목보호연구회는 독자적으로 재원을 확보해 사업을 추진할 의사가 없었고, 통일부와 농림부(산림청)등 정부부처간 예산부담에 대한 이견 때문에 이 사업은 일시 중단되었다. 다행히 남북정상회담 이후 지방자치단체인 강원도가 이 사업을 다시 받아 시작하게 되었다. 북은 솔잎혹파리가 극심한 금강산지역 3천㏊에 대한 방제사업을 요구했으나 강원도는 인력과 예산등의 이유로 우선 2001년 1천㏊에 대해서만 방제사업을 하고, 2002년부터 연차적으로 방제면적을 늘리기로 북측과 합의한 바 있다. 푸른 숲 만들기는 종합적이고 체계적인 접근에 의해서만 그 성공을 보장 받을 수 있다. 대규모의 산림황폐지역을 복원하는데는 임업의 특성상 오랜 기간과 대규모의 인력과 경비가 소요될 것이다. 북의 산림황폐지를 복구하는데는 약17년이라는 오랜 기간이 소요되며, 약13조원이 엄청난 경비가 소요될 것이라는 산림청연구결과에 기초해 볼 때, 북의 산림자원 복구는 차후에 해야 할 과제가 아니라, 지금부터라도 남북협력의 차원에서 추진되어야 할 과제임에 틀림없다. 한강하구와 관련해서는 개성과 개풍, 한강하구를 연결하는 푸른숲가꾸기사업을 펼치기 위한 관심이 요구된다.
유엔사와 한강하구 숲
환경단체들을 중심으로 한 DMZ보전과 남북환경교류사업에 적신호가 켜진지 오래다. 그리고 10년이상 켜져 있던 경고등은 이젠 체념으로 전화되는 듯한 인상까지 준다.

당분간 남북 당국간의 사업은 상호 환경분야 협력을 강화하자는 원론적인 합의 수준에 머무를 가능성이 크다고 생각한다. 그동안 많은 사람들이 실현되기를 기대하고 있던 임진강유역 공동관리사업, 비무장지대 생태계공동조사․연구사업 등은 북의 입장에 큰 변화가 있지 않는 한 성사되기 어렵다고 볼 수 있을 것이다. 결국 앞으로의 북과의 환경협력은 북이 당장 필요로 하면서도 물질적 이익이 되는 분야를 중심으로 이루어질 수밖에 없을 것으로 전망된다.(남북환경분야협력에관한통일부토론회2001.10.9,평화의숲대표김진수발제문.p6)

비무장지대를 중심으로 한 남북환경교류사업에서 환경단체와 전문가들이 근본적으로 간과하고 있던 문제를 호주의 국제법전문가 마이클제프리는 지적하고 있다.

평화조약의 부재는 사실상 보호지역을 생성하는 지역내에서 개발과 간섭을 막았지만 국제환경법의 측면에서 그리고 남이나 북의 국내법 영역너머에 있기 때문에 법의 적용을 받지 않게 되었다. 양쪽 어느 쪽도 스스로 DMZ를 보호구역으로 지정하거나 규제 또는 관리할 수 없다.(DMZ내생물다양성보전을위한국제법개관.마이클제프리.2005생태도시국제심포지엄자료집.p55)

비무장지대의 환경문제는 환경문제 이전에 정전협정문제이며 남북의 문제가 아닌 유엔사와 인민군간의 문제라는 인식을 확인하는 것이 중요하다. 그러나 제프리가 예리하게 지적하였듯이 한강하구는 비무장지대가 아니므로 한강하구로부터 환경협력을 시도한다면 가장 실현가능한 계획을 수립할 수 있을 것이다. 정전협정 1조 5항에서 한강하구사용의 주체를 ‘쌍방민간선박’으로 하고 있으나 ‘한강하구선박항행규칙’에서는 ‘민간선박’에서 ‘민간인’으로 바뀌어 있는 것에 주목할 필요가 있다. 여기서의 쌍방은 남과 북이 아니라 유엔사16개국 군대와 중공군, 인민군이다. 즉 18개국이 쌍방의 범주에 속하며 18개국의 민간인이 한강하구사용의 주체인 것이다. 한강하구에 유엔사의 관리권이 없는 대신 18개국의 ‘민간인’에게 관리권이 부여되어 있는 것이다. 한강하구의 국제적 성격을 감안할 때 한강하구 숲의 문제 또한 국제적 성격을 띄고 있음을 인식할 필요가 있다.
우리나라는 70년대를 고비로 국내의 목재는 벌채행위를 강력하게 규제하고 외국의 목재를 수입해서 사용하고 있다. 인도네시아, 솔로몬군도 같은 국가에서 산림을 임차하여 산림을 벌채하고 있고 국내의 목재 수입을 이에 의존하고 있는 것이다. 국내의 목재 수입률이 97%정도에 달하고 있는 것을 볼 때 후진국가의 산림이 얼마나 많이 벌채되고 있는가를 알 수 있다. 예를들어 폐지를 이용하여 종이를 만들면 처녀목재를 써서 종이를 만들 때보다 70%의 에너지와 60%의 물이 절약되고 폐기물 생산량이 60%, 수질오염물질45%, 대기오염물질 79%가 줄어든다. 그러나 폐지재활용보다 제3세계에서의 펄프 수입이 더 저렴하다면 개인이나 기업이 이 같은 재활용을 선호하지 않을 것이다.
일본, 미국 그리고 대다수의 유럽국가도 외국의 목재를 수입해 사용하고 있는 실정이다. 그 덕분에 유럽의 산림면적은 오히려 증가하였고, 미국과 캐나다등은 자국의 산림자원을 보호하여 사막화를 방지하며 산림생태계를 유지하겠다는 제국주의적인 모습을 여실히 보여주고 있다.(동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영,p9)
산림면적의 감소는 단순한 면적의 감소뿐만이 아니고 전지구상의 종 다양성(Biodiversity)의 감소라는 재산손실을 가져오게 될 것이다. 이로 인해서 없어지는 생물 종은 다시는 복원할 수 없게 되는 것이다. (동북아시아 국가의 사막화 현상이 북한 산림생태계 파괴에 미치는 영향과 통일 후 복구계획,우수영p10)
한강하구푸른숲가꾸기사업은 통일조국의 미래를 준비하는 일이며 산림제국주의화에 대한 반성과 실천이다. 그리고 유엔사를 디딤돌로 한강하구의 유라시아지정학에 바탕한 평화체제를 지향할 수 있는 환경의제이다.




































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녹화사업

Contents
1. 푸른 숲 만들기
1.1. 대한민국의 산림녹화사업
1.2. 논란?
1.3. 기타
2. 전두환 정권의 흑역사
[edit]
1. 푸른 숲 만들기 ¶

민둥산 등에 나무를 심어 푸른 산을 만드는 사업. 녹화(錄畵)사업이 아니라 녹화(綠化)사업이다.
숲을 만드는 사업인 조림사업과 의미상 유사하며 혼용되기도 하나, 녹화사업은 필요한 경우 사방공사를 시행하여 조림사업에 적합한 환경을 인위적으로 구성하는 것을 포함한다는 것에서 구분된다.

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1.1. 대한민국의 산림녹화사업 ¶

백선엽 장군의 회고에 따르면 이승만 전 대통령 시절부터 기획되고 시행되었다고 한다. #

해방 당시만 해도 나무를 연료로 쓰던 오랜 습관 때문에 한국의 산은 우리 강산 누렇게 누렇게(…) 운동이라도 벌인 것마냥 흙이 벌겋게 드러난 상태였다.[1] 조선시대의 기록을 보면 이 원인으로 뜻밖에 "온돌"을 지목한다. 온돌이 대중화되면서 나무의 수요가 기하 급수적으로 올라가면서 산림이 파괴되었다는 한탄이 당시의 기록에 많이 보인다.이런 상태를 해결하기 위해 이승만 전 대통령은 당시 연료를 연탄으로 대체하는 사업을 벌이고 석탄개발공사를 세웠으며, 국군이 미군의 기술적 지원을 받아 석탄 수송로 철로를 깔게 하는 등 한국 산림녹화의 기반을 다졌다.

이후 정권이 바뀌고 박정희가 대통령이 되면서 사업은 본격적으로 진행되어, 1962년에는 제1차 경제개발계획에 민수용 석탄 공급계획을 포함시켰고, 64년에는 35개 도시에 민수용 석탄을 공급하면서 땔감 사용을 막았다. 이 해 12월에 서독을 방문한 박정희는 서독의 푸른 산림에 충격을 받아 산림녹화사업을 적극 시행하게 되었고, 65년부터 정부 차원의 대대적인 산림녹화 사업이 시작됐다. 화전(火田)을 정리하고 식목일마다 대통령부터 나무심기 행사에 앞장섰다. 전국 공직자와 학생들은 물론 일반 직장인들도 산으로 나무를 심으러 갔다. 73년엔 산림청을 내무부로 이관, 새마을운동과 산림녹화를 연결했다. 그렇게 범국민적 역사((役事)로 추진된 치산녹화 10개년 계획은 6년 만에 달성됐다. (<김수학 자서전 ‘이팝나무 꽃그늘’ 참고>) 이후에도 녹화사업은 지속적으로 이루어져 1970년대 말에는 해풍(海風)+돌산크리로 나무가 자랄 수 없을 것으로 여겨지던 포항시까지 녹화사업이 완료될 정도였다. 이 역사는 다른 개도국이 배우러 찾아올 정도의 모범사례.

당시 포항 영일지구는 토양이 모두 침식된 채 암반층만 남아 노출된 상태로 나무는 커녕 풀한 포기 없었던 지역. 이 암반층에 도랑을 파고 물을 부어 퇴적암반이 풍화되게 한뒤 풀을 베어 만든 퇴비를 날라다가 나무를 심고 가물면 물을 길어다 주고 매년 비료를 주는 노력 끝에 산림이 복원되었다. 관련기록은 국가기록원에서 살펴볼 수 있다.[2]

여기에 그린벨트 제도를 도입해 과도한 도시화에 의한 산림파괴를 막아내기까지 하는 등 박정희 전 대통령이 한국의 산림녹화사업에 끼친 영향은 절대적이다. 이 때문에 그의 이름은 국립수목원의 '숲의 명예전당'에 헌정되어 있다. 여담으로 이 명예전당에는 총 5인만이 수록되어 있는 정도이다.

박정희 전 대통령과 함께 한국산림녹화에 큰 공헌을 한 사람들을 아래에 추가로 소개한다.

현신규 박사 : 척박한 땅에서도 빨리 잘 자랄 수 있는 조림수종 개발에 평생을 바친 세계적인 육종학자. 1953년부터 40여년 동안 임학교육과 함께 소나무와 포플러 육종에 쏟은 그의 순수한 열정은 임업과학기술 발달의 견인차였으며 그가 개량한 조림수종은 국토녹화 사업에 큰 기여를 하였다. 과학동아에도 실렸다.
김이만 나무 할아버지 : 이 땅에 자라는 나무 종자를 수집 하고저 백두산에서 한라산까지 국토의 구석구석을 누빈 나무 할아버지. 1922년부터 64년 동안 수목표본 수집과 종자 시험에 바친 그의 헌신적인 노력으로 주요 조림수종의 종자품질기준이 정해졌고 각 지역에 알맞은 나무를 골라 심을 수 있는 길이 열렸다.
이 땅과 나무를 사랑한 민병갈(Carl Ferris Miller) : 1979년 한국인으로 귀화하기 전 1962년부터 40년 동안 한결같은 마음으로 충남 태안의 헐벗은 산림을 10.300여종의 식물종이 살고 있는 세계적인 수목원으로 바꾸어 놓았다. 아시아 처음이자 세계 12번째로 국제수목학회로부터 ‘세계의 아름다운 수목원’으로 인증받은 천리포수목원을 조성하였다.
조림왕 임종국 : 1950년대 후반부터 1970년대 중반까지 역경을 무릅쓰고 황무지와 다름없던 전남 장성의 543ha에 이르는 임야를 제일가는 조림성공지로 만들었다. 이 공로로 66년 식산포장(殖産褒章), 70년 철탑산업훈장, 72년 5·16 민족상을 수상했다.
이후 80년대에는 유한킴벌리의 우리 강산 푸르게 푸르게 캠페인(1984)의 주도로 민간단체의 녹화사업이 활발해졌으며, 1998년 생명의숲 국민운동, 1999년 평화의숲, 동북아산림포럼, 2000년 한국내셔널트러스트, 2003년 서울그린트러스트 등 다양한 운동이 전개되어 오늘에 이른다.

[edit]
1.2. 논란? ¶

다만 대한민국 근대화 과정 특유의 스피디한 전개 때문에 이 녹화사업에도 몇 가지 부작용이 생겼고 그에 따른 비판 역시 무시할 수 없다.
아까시나무, 리기다소나무, 리기테다소나무 등으로 대표되는 외래 속성종의 도입.
그린벨트의 부작용으로 대두되는 재산권 행사 권리의 방해.
소나무 중심의 사업으로 인한 생태계 문란.[3]
때문에 최근엔 외래종을 대신해 국내종으로 바꾸는 사업을 추진중이다. 대개 (외래)소나무->(자생)소나무로 바뀌는거라 일반인은 체감하지 못하겠지만.

다만 여기서 아까시나무 같은 수종은 근본적으로 수명이 짧은 나무이기 때문에, 단시간내에 산림 환경이 조성된 이후 자연적으로 말라죽으면서 다른 나무에게 자리를 내주고 있고, 소나무 역시 남부지방에서는 떡갈나무류 등 활엽수와의 경쟁에 밀려나서 천천히 활엽수로 대체되고 있는 중이다. 최초 심은 수종이 무엇이건 간에 결과적으로 산림이 자연적으로 성장, 천이할 수 있는 조건이 마련된 것이 생태학적으로 녹화사업이 가진 가치였다고 할 수 있다.

외국의 환경운동가중에는 한국의 사례를 들면서 " 전 세계의 산림도 이렇게 구원될 수 있다~" 라고 주장하는데.. 정작 산림이 파괴된 후진국 국민들 의견은 "그럼 밥지을 나무 어디서 구하는데 ? " 대한민국의 성공은 석탄, 석유등이 장작을 대체하면서 가능했던것이다.

다만 이러한 비판은 건설적인 경우도 있지만 그저 까고 싶어서 까는 케이스도 있으니 각자 당시 역사적, 문화적 상황을 잘 살펴서 생각해야 할 것이다.[4][5]
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1.3. 기타 ¶

http://media.treehugger.com/assets/images/2011/10/green-mountain-paint-china.jpg
[JPG external image]

대륙의 기상. 돌산에 녹색칠을 하는 녹화(錄化)사업이다(…).

이후 한국에서도 F1이 벌어지는 영암 서킷 공사에서 잔디밭에 녹색 페인트칠을 하는 사진이 돌아다녔으나 사실 그건 복합비료, 잔디 씨앗, 피복양생제, 침식방지 안정제, 착색제 등을 섞어 만든 시드 스프레이다. 즉, 앞의 '대륙의 돌산'은 그냥 녹색으로만 보이게 하는 거고 이쪽은 녹색으로 보이게 함과 동시에 진짜로 잔디를 심는 거다. 참고로 북한에서도 녹화사업이 시행되고 있으나 경제난과 겨울철 연료부족으로 효과가 별로 없다고 한다.[6]

실제로 탈북자들이 대한민국에 입국할때에 가장 놀라는 것 중 하나가 바로 어딜가나 산림이 우거져 있는 모습이라고 한다. 그도 그럴것이, 도시에서 조금만 벗어나도 온갖 나무가 빽빽히 들어선 산과 언덕들이 여기저기 있으니... 모 탈북자의 증언에 따르면, 이런 모습을 보고 '남조선이 잘 살긴 잘 사는가보다' 라면서 조금은 안심이 되었다고 한다.[7] 참고로 북한은 평양만 조금 벗어나면 죄다 민둥산


[edit]
2. 전두환 정권의 흑역사 ¶

한자는 1과 같다(…)
이게 나무 심는다는 이야기가 아니라, 대학생들 머리의 붉은 물을 푸르게 만든다는 이야기. 즉 공산주의적 사상을 없앤다는 이야기이다. 물론 말이 그렇다는거지 실제론 학생들이 대부분이었으므로, 이 시기 남자 대학생이었다면 누구나 이 사업의 대상자가 될 수 있었다. 당시 전땅크 5공화국 정권 차원에서 대학생 시위를 뿌리뽑기위해 보안사령부(현 국군기무사령부)가 실행한 비밀 공작이다.

녹화사업 대상자로 지정되면 일단 강제휴학&입대처분이 내려졌다. 참고로 당시엔 학생운동을 통제하기 위해 대학 학칙에 '지도교수가 학생을 휴학시킬 수 있다'는 항목이 있었다.(...) 이를 빌미로 수사관들이 지도교수들을 찾아와서 반강제로 대상 학생을 휴학시킨 뒤, 제멋대로 입대영장을 뽑아와서 바로 입대시켜버리는 것. 절차적으로는 문제가 없지만, 실제로는 바로 잡아가서 입대영장 뽑아서 훈련소에 처넣으므로 가족이나 친구들 입장에선 어리둥절하게된다. 심지어 신검도 안하고 무조건 현역으로 처넣었다.[8] 그리고 반대로 대학생 출신 입대자를 찾아서 녹화사업 대상자로 지정하기도 했다.

녹화사업으로 강제입대할 경우, 육군은 전방 철책 경계부대로, 해군은 역시 전방 고속정 등에 배치토록 했는데, 문어대갈씨의 탄압에 염증을 느낀 데다 주체사상에 오염되기까지 한 몇몇 입대자들이 철책을 넘어가는 일이 종종 발생했다. 정장 살해하고 참수리 몰고 월북한 놈이 안 나온게 신기하다. 하지만 실제로 녹화사업으로 강제입영된 병사가 아군을 여럿 죽이고 월북한 사건이 일어난 적이 있었다. 내부의 적이 될 가능성이 있는 인원을 후방 부대에 보내 감시케 하기는 커녕 넘어가기 쉬우라고 전방에 보내주기까지 한 것은 보안사령관에 중앙정보부장 서리까지 했던 문어대갈의 머리에서 나온 것이라고는 믿을 수가 없을 만큼 한심한 조치이며, 대놓고 이적 행위를 한 것이나 마찬가지였다. 역시 기초적인 군사상식조차 없던 똥별천국 하나회. 사실은 당시 군사정권에게 눈엣가시인 청년들을 후방 기행부대에서 꿀 빨게 할 수 없고, 대신에 전방 전투부대에서 온갖 고생하라는 것이 그들의 의도였을 것이다.

그리고 이렇게 녹화사업 대상자로 지정된 병사들 중 일부에게 대학 내 학생운동을 감시하고 방해하는 프락치가 될 것을 강요하고, 그들이 얻어온 정보에 따라 새로 잡아들인 학생들을 취조하는 과정에서 가혹한 수단이 사용되어 많은 학생들이 희생되었다. 잡혀온 학생이야 데모했으니까 당연히 고초를 겪겠지만, 녹화사업 대상자로 지정된 학생들도 프락치가 되라고 강요하는 과정에서 구타나 고문을 겪기도 했으며, 결국 이 구타를 견디지 못하고 죽거나 혹은 친구들을 배신하지 않기 위해 자살하기도 했다. 이 시기 군 의문사 사건의 많은 피해자들이 이 녹화사업의 대상자였던 경우가 많다.

현재 유명인사가 된 486세대 정치인들 중에도 이 사업에 의해 피해를 입은 이들이 제법 있다.(ex:유시민)

이렇게 입대한 이들은 제대한 이후 학교에 의해 보호받아야 할 학생들을 강제적으로 휴학시킨 것에 대한 보상 차원으로 이후 남은 학기를 전액 장학금을 받았다. 그리고 그렇게 모은 돈으로 군 입대 중 의문사한 6명의 학생들(이윤성, 김두황, 정성희, 최온순, 한영현, 한희철)을 위로하는 위령비를 고려대학교 민주광장에 건립하였으며, 이 비석은 아직도 남아 있다.[9]

당연히 6명의 학생만이 녹화사업의 희생자였던 것이 아니고, 당시 군 내부, 특히 정보기관인 보안사에서 추진한 일이었기 때문에 피해자가 얼마나되는지 정확히 알 도리가 없다. 애초에 강제입대 자체가 워낙 학부모들과 사회의 반발이 심했으므로 1984년 9월에 폐지되었다. 그리고 이때 녹화사업도 공식 중단되었다고 발표했지만, 실제로는 강제입대를 안시켜서 그렇지 대학생 입대자에게 프락치짓을 할 것을 강요하는 행위는 그 뒤로도 꽤 오랫동안 군 내부에서 공공연히 행해졌다.[10] 심지어 다음정권인 노태우 정권까지도 계속되었다고 한다.[11]

드라마 제5공화국에서 이 녹화 사업에 대한 이야기가 잘 묘사되어 있다.
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[1] 당장 50이 넘으신 아저씨/ 어르신들께 여쭤보면 배고픔을 참지 못하고 다들 산에서 나무껍질을 벗겨 삶아먹느라 산의 나무가 다 말라죽었던 것을 기억하고 계신다. '똥구멍이 찢어지게 가난하다'는 섬유질과 수지 때문에 단단해진 변이 나오면서 항문이 찢어지는 경우가 많아 생긴말. 이 정도가 아니더라도 연료로 쓰려고 가지나 작은 나무 등을 베어냈기 때문에 지금과는 다르게 상당히 황랑한 상태였다.
[2] http://forest.or.kr/intro/intro_42_02.php?bcfg_idx=42&board_idx=1512&cmdProc=viewform&search_field[]=&search_value=
[3] 분명히 온대지방인데 눈에 보이는 건 타이가인 셈.
[4] 예를 들어 아까시나무의 경우 당시 척박한 토질 환경때문에 불가피한 선택이었다는 의견도 나오고 있다. 당시의 황무지에서 잘 자라는 큰키나무는 리기다소나무, 사방오리, 아까시나무 정도밖에 없었다. 참나무나 단풍나무 등은 어느정도 토양이 비옥해져야 잘 자라기 때문에 무턱대고 심을 수는 없었다. 전부 다 외래수종이지만 선택의 여지가 없었다. 그나마 리기다소나무가 토종 소나무로 대체 가능했으나 당시는 솔잎혹파리가 기승을 부렸기 때문에 불가능했다.
[5] 어쨌거나 지금은 녹화사업으로 녹화된 산림의 대다수가 천이과정을 거쳐 안정적인 음수림이 되어가고 있는 상황으로, 아까시나무는 수명이 다해가고 있고 소나무는 남부지방에서 활엽수와의 경쟁에 천천히 밀려나고 있다.
[6] 실제로 한국의 녹화사업도 민수용 석탄을 비롯한 연료공급사업을 병행했기에 성공할수 있었다.
[7] 실제로 수목이 우거진 산림의 모습은 민둥산보다 훨씬 심리적 안정효과를 준다
[8] 참고로 박정희 정권 시절에도 운동권 대학생들을 대상으로 한 단순한 강제입대는 있었다. 문재인의 경우 대표적인 강제입대 피해자. 그런데 특전사의 해당항목을 보면 알겠지만, 문재인은 강제입대로 특전사에 들어갔는데도 군생활을 잘했다.(...)
[9] 학생회관 맞은편, 홍보관 앞 편의점 계단 아래에 위치해 있다.
[10] 노골적이지 않아서 이슈가 안되었을 뿐이지 21세기 군대에서도 훈련소에서 신병들을 모아놓고 데모에 참여해보거나 참여한 적이 있는, 혹은 그런 사람을 아는 이는 잠깐 면담할테니 나와라 하는 식의 행위는 이뤄졌다.담배 줄게 다만 이쯤되면 운동권이란 존재 자체가 이미 학교에서도 배척받고 씨가 마른터라 대부분의 신병들은 본 적이 없어서(...)
[11] 오늘날까지 알게모르게 행해지고 있는 운동권출신 또는 데모에 참여한 적이 있는 육군훈련소 입대자의 전투경찰 전환복무도 어찌보면 녹화사업의 연장선상이라고 볼 수도 있다.
최종 확인 버전: 2014-06-28 23:21:03

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