朝鮮紀行(5)
[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。
第十二章「長安寺から元山へ」は、下山しつつ、途中の村で「トラ騒動」があったとの記述から始まる。途中、化川で科挙の合格祝いを行っている場面に遭遇している。
中台里で「朝鮮の人々の極端な大食ぶり」を目撃し、次のように記している。
彼らは飢えを満たすためではなく、飽食感を味わうために食べる。この楽しみを得るための訓練はごく幼いことからはじまり、何度かわたしはそのようすを観察する機会に恵まれた。母親が幼い子供にごはんを食べさせる場合、子供が体を起こした状態ではもうおなかに入りきらなくなると、ひざの上に寝かせて食べさせる。そしてときおり平たいスプーンでおなかをたたき、まだすきまがあるかどうかを確かめさせるのである。
きわめて貧しい階層は一日二食であるが、ゆとりのある人々は三食か四食とる。
大食ということに関しては、どの階層も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのご飯を食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生の目標のひとつなのである。
『朝鮮紀行』-第十二章「長安寺から元山へ」-
これ以降も、「とにかく食べる」という記述が続く。それだけ食料が豊富であったということかな。「朝鮮の人々はなんでも食べる」が「料理法は必ずしも重要でない」とも記している。
海辺での優雅な休息を夢見つつ、11時間の強行軍を敢行している。62歳とは思えない体力。しかし到着した海辺の村は、今まで体験した中で最も恐ろしい宿であったと記している。今までも何度となく不潔な宿について言及していたが、ここでの描写は生々しくて読んでいても少々気持ち悪く感じる。
温度計は華氏八七度〔摂氏三一度〕を示していた。そのあと人間と馬の食事の支度で床暖房は一〇七度〔四二度〕まで上がり、この温度が朝までつづいて、熱気の大好きな無数のゴキブリやら南京虫ならがぞっとするような行動をはじめた。ネズミがいるのは言うまでもなく、ベッドの上を走りまわるわ、ろうそくを食べるわ、わたしの肩ひもをかじるわで、…(略)
『朝鮮紀行』-第十二章「長安寺から元山へ」-
細かく先々の宿や部屋の温度を記しているが、たいてい摂氏30度前後と室温が高い。夜はトラを恐れて、なかなか扉を開けての温度調節も出来ない様子。やたらと室温が高いのは、オンドルは細かな温度調節ができない為なのか、単に寒がりなだけなのか、なぜなんでしょうね。
その後、海岸線沿いに進み、漁業について言及している。あまり活発でないとしているが、その理由を両班たち貴族による搾取のためであるとしている。著者は、漁業に限らず全ての商業活動が活発でない理由の根源は両班たちとみている。過剰な利益を得ると、両班がやって来て「借金」という名目で取り上げられ、それは決して返済されることがないとある。また、商売をし利益を得るという行為自体が卑しい行為であると捉えられているともある。このようなことがあり、必要以上に働こうとするものがいないと記している。儒教思想の影響もあるだろうが、著者は誰も必要以上に働かないために、自然は非常に豊かで穏やかであるにも関わらず、(西洋人から見て)貧しい生活に甘んじていると捉えていたようです。しかし実際に東学党の乱が勃発し一気に広がったということを考え合わせると、社会的に相当両班に対して不満が溜まっている状況だったことがわかる。
以下、農業や音楽についての詳細な記述が続く。音楽の下りでは「アリラン」を「食べ物における米と同じ位置」であると紹介している。途中、釈王寺に寄りつつ、元山に達する。ここで食牛の屠殺方法が紹介されている。
朝鮮人は牛の喉を切り、開いた切り口に栓をしてしまう。そうしておいてから手斧を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。これには一時間ほどかかり、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にさいなまれる。このやり方だと放血はほんの少量で、牛肉には血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売り手には徳というわけである。
『朝鮮紀行』-第十二章「長安寺から元山へ」-
上記のような理由により外国人が肉を求める際には、日本人の肉屋から購入すると記している。
元山は、1880年に釜山に続き2番目に日本に対して開港し、1883年には諸外国にも解放されている。日本人の入植が進んでおり、日本人街が形成されていた。元山の1897年1月の外国人の人口は次の通り。
国名 | 人数 |
日本 | 1,299 |
清 | 39 |
アメリカ | 8 |
ドイツ | 3 |
イギリス | 2 |
フランス | 2 |
ロシア | 2 |
デンマーク | 1 |
ノルウェー | 1 |
合計 | 1,357 |
朝鮮人 | 推定15,000 |
日本人が圧倒的に多く清国人はじめ諸外国人が少ないのは、この統計が日清戦争(1894年)以後の数字であるというのが影響しているのかもしれませんが、西洋人は少なく、海外貿易は主に日本人が行っていると記されており、元々日本人以外は多くなかったのかもしれません。
このとき著者は、1894年6月17日まで元山に滞在しているので、7月25日に始まる日清戦争のつい直前ということになる。すでに日本軍は、6月12日に済物浦に1個旅団を上陸させていたりします。
12日間の元山滞在中、直前に戦争が迫っているという切迫感はあまりなく、著者はジャンクに乗って港を周遊している。イギリス国内での興味が、ロシアの南下政策にあるとわかる記述がある。当時は、世界中でイギリスはロシアの南下政策と戦っていた。
イギリス人読者にとってこのすばらしい湾で最大の関心事は、湾の北側にありわたしの船旅の目的地でもある入江ラザレフ港こそ、ロシアがシベリア横断鉄道の最終地としてほしがっていると喧伝される港であるという点にあるのではなかろうか。
『朝鮮紀行』-第十二章「長安寺から元山へ」-
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