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Sunday, February 12, 2012

Korea and her Neighbors part4 from inside Kotatsu

http://glabel.s56.xrea.com/kotatu/archives/200505/13-2114.php

朝鮮紀行(4)

[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。

第九章「婚礼にまつわる朝鮮の風習」は、船口尾で偶然結婚式が行われるという情報を得たところから始まる。以後、例により詳細な記述が始まる。中流階級以上の場合。めぼしい物を羅列しておく。

結婚することにより、一人前、成人とみなされる。
結婚を期に男性は、頭のてっぺんを剃り、網巾(マンゴン)と呼ばれるヘアバンドを付け、以後この網巾を人前で外すことはない。
男性の適齢期は17~8歳であるが、10歳前後での結婚も珍しくない。
女性は16歳を越えるまで結婚できないが、より若いうちでの結婚も珍しくない。
婚期を逃した女性は尼寺に追いやられる。
女性は7歳の時から外界との接触を絶たれ、結婚すると義父の家の奥に場所を移し蟄居する(著者は牢獄と表現している)。
相手は父親同士で決める。
婚礼のお祝いを運ぶ途中で新郎側と新婦側とで本気の殴り合いの喧嘩が起こる。共に負けた側が凶兆であるとされているので、死者が出るぐらい本気の喧嘩である。
新郎は、馬に乗り新婦宅へ向かう。この時だけは、平民であっても両班に出会っても下馬しなくてよい。
新婦の化粧は「白粉を塗った顔に赤い丸をつけ、まぶたが糊でくっつけてある。」とある。
沈黙は妻の第一の務めとされ、婚礼の間無言である。
朝鮮では他の一部の東洋の国でも見られるように、上流階級より下層階級のほうがしあわせな結婚ができる。
『朝鮮紀行』-第九章「婚礼にまつわる朝鮮の風習」-
当然、部外者からの視線であり、当人達はどう思っているかなど今となっては全くわからないが、言い得て妙だと思った。

第十章「朝鮮馬/朝鮮の道と宿」は、金剛山までの陸路での旅の出発準備から始まる。現在の北朝鮮の領域にあたる。朝鮮馬による旅。朝鮮馬は、非常に気性の荒い馬のようです。以下、詳細は朝鮮馬についての記述が続く。

宿には、正規のものともぐりのものの2種類があり、いずれも不衛生であると記し、続けて、その不衛生より我慢できなかったことに、女性達の不作法であるとしている。1876年まで鎖国をし、開国して20年余り経過しているが、地方ではまだ西洋人は珍しい存在であったようです。幕末日本に滞在したイギリス人外交官のアーネスト・サトウも日本赴任当初は、同じように奇異の視線を浴びたと記しているが、イザベラ・バードの場合は更に過剰で面白い。その様子を引用しておく。

わたしの部屋には紙をはった格子戸が三枚あった。壁のない空間はあっという間に男や女や子供でぎっしり埋まった。戸の紙は引きちぎられ、汚れた蒙古人種の顔がいっぱいその破れ目からのぞく。キャンプリックのカーテンをたらしたが、そのカーテンも長い棒で部屋のまん中でつつかれてしまった。人々は戸のこちらになだれこみ、狭い部屋は人でぎっしりいっぱいになった。女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰かけ、わたしの服を調べ、ヘヤピンをを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじまでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわづかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォン(従僕)に三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。…(略)
(略)…騒々しいおしゃべり、そして汚れた衣服の臭い。こういったものを室温華氏八十度〔摂氏二八度〕の部屋で展開されたのでは耐えられなかった。
『朝鮮紀行』-第十章「朝鮮馬/朝鮮の道と宿」-
その後、彼女はベッドの上で拳銃を磨くという行為で、これらを撃退したと記している。

ダニや南京虫の多さに辟易しながらも、その完璧な撃退方法を清、朝鮮と20ヶ月過ごした経験から自信満々に、次のように紹介している。

二枚の厚い油紙、もしくは熱い亜麻仁油を塗った綿の大きなシーツを床に広げ、その上にわたしの簡易ベッドと椅子と荷物を置いて…(略)
『朝鮮紀行』-第十章「朝鮮馬/朝鮮の道と宿」-
第十一章「金剛山の仏刹」は、断髪嶺を見事乗馬で越えたという自慢から始まる。続いて金剛山最古刹である長安寺についての記述が始まる。相変わらず詳細な記録である。

彼女は、金剛山の仏刹を巡る5日間の旅に出ている。正陽寺のある山の「万二千峰」からの眺めは、日本や清国で見たどの眺望よりも素晴らしいと記している。それにしても62歳の女性として、その行動力と体力、好奇心には驚かされる。

金剛山にいる僧侶たちは、非常に親切で身なりもよく愉快で、禁欲を自認するにしては裕福なようすであると記している。しかし仏教そのものは、長い弾圧のせいか、その存在に疑問を呈しいている。

この深山に隠遁してしまった瀕死の仏教は、鬼神信仰を上塗りされ、清国の仏教と同じようになかば神格化されたおおぜいの聖者の下で窒息しかけている。たとえば門徒のような日本の大きな仏教改革派の特色である、正義を求める崇高な目的や向上心はなにもみられない。
修行僧たちはひどく無学で迷信深い。みずから信仰している宗教の歴史や教義についてほとんどなにも知らない。経文の意味についてもそれは同じで、彼らの大半にとってはお経もたんなる「文字」にすぎず、たえず繰り返せば「メリット」のあるものにすぎないのである。
『朝鮮紀行』-第十一章「金剛山の仏刹」-
彼女がどれだけ仏教についての知識があったのかわからないが、「彼らの大半にとってはお経もたんなる「文字」にすぎず、たえず繰り返せば「メリット」のあるものにすぎないのである。」とし即物的と断じるのは少々乱暴な気がする。そういう宗派なのではないでしょうか。当時の金剛山のお寺の宗派がどのようなものか全く知りませんが、日本の浄土宗も確か「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで極楽浄土へ行けるという教えだった気がする。僧なのに迷信深いのは、いかがなものかとは思うけど。

当時の国内での僧侶に対する扱いは下記のように記されている。

ほんのひと握りの例外をのぞき、修行僧全員が頭陀袋を下げ鉢を手に徒歩の旅に出て、ぬかるみと土ぼこりだらけの険しい道を歩き、不潔でむさ苦しい宿に泊まり、その坊主頭と信仰をさげすむ人々に物乞いし、最下層の人々からも「目下に対することば遣い」をされなければならないのである。
『朝鮮紀行』-第十一章「金剛山の仏刹」-

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