http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu32.htm
http://www2.ocn.ne.jp/~ricky.mv/private_room/koyasu/koyasu_memo10.html
http://www.geocities.jp/biruma1945/3situtanngawa.htm
私は、渡河できた人からの話しか聞いていない。渡河できなくて流された人、即ち死んだ人の話を聞くことはできないが、その人たちは下流へ流されている時どんな目に遭い、どんなに悲痛な思いをしたことか。そのことを忘れるわけにはいかない。
急流に流され渦に巻き込まれ死んでいった戦友たち。元気な時には、二百メートルや三百メートル泳げる人も、水泳の選手でいくらでも泳げた人も、今は痩せ衰え極度の栄養失調で半病人、体が駄目になっているからこの流れを泳ぎ通すことは到底困難なことである。
次から次に「助けてくれー」「助けてくれー」と叫びながら流されていく声。「軍旗を持っているのだ、助けてくれー」と絶叫しながら流される、元気な旗手が腹に巻きつけて泳いだのであろうか、何分重い旗でありしかも水に濡れれば重く体の自由がきかなくなったのかと想像する。
後になって聞いたのだが、幸いにこの軍旗は渡河に成功し、終戦まで大切に守られてきた由である。「助けてくれー」という声は聞こえても暗黒の闇、どこを流されているのか分からない。
よしんば声の所在が分かっても、長い棒やロープや浮き輪があるわけではなく、せいぜい「頑張れ・・」と声援するだけで、なすべき手段がない。 その人自身の努力と運しかないのだ。流れの表面に沿って岸に近づくのを待つだけである。
熱帯地方とはいえ夜の水の中、兵隊たち は次第に手も足もしびれ、筏から離れ沈んてゆくのだ。心臓麻痩で死ぬ人もあろうし、流れて行くうちに夜が明け敵に撃たれた兵士もあっただろう。
私は後日、他の河の橋桁に白骨を乗せた筏が引っ掛かっていたのを見た。、
体は本人がロープで筏に括りつけたのだろうか、 そのまま息が絶え、朽ち果てて骨のみが筏の上に残されているのだ。まことに哀れというより言葉がなかった。
筏につかまり流され、息絶えるまでの相当の時間、この戦友たちは何を思い、何を願っていたであろうか。故国を思い、父母妻子を懐かしみ、どんなに残念無念の思いをしながら死の時を待っただろうか流れる間に放心した者もあるかも知れない。また理性的に自決を覚悟した人もあっただろうが、装具の中から手榴弾を取り出すことも、流れる水の中ではままならず流れに身を任すだけとなり、死ぬに死ねず、最期を待ったのだろうか。
こんなに酷いことがこの世にあるだろうか。不利な戦とはこんなものである。歓呼の声に送られ、勇ましく征途についた将兵がおびただしい数、こうしてシッタン河の藻屑となってしまったのである。
終戦後の抑留期間中に、他の師団で当時ンッタン河の下流に陣していた兵士から聞いた「毎日毎日おびただしい屍が筏と共に流れてきて、禿鷹が舞い降りて屍の肉を食べ、その惨状は実に目を覆うものがあった」「河口付近は満潮で筏か海に流れず溜まり、死者の腐臭が一帯に充満していた」と聞いたが、悲惨の極みというほかはない。
シッタン河に流された確かな人数を把握していないか、英印軍の集計によると、六千の遺体が流されたいたと記録されている。
しかし沈みながら流れているものや、岸に引っ掛かった屍などを合わせるとー万にも達するのではなかろうか。
これも後日聞いた話で、一例であるが、岡山の歩兵連隊では、渡河前千人いたものが渡河直後五百人に半減していたとのことで、各連隊ともに似たような惨状であったことが想像される。このおびただしい死体を河は飲み込み、大部分は流れて海に行ったのだろう。
しかし途中に引っ掛かった屍の処理を現地人はどのようにしたのだろうか。
大変な作業だったことと思われる。全世界の戦いのどこにこんな河があるだろうか。
世界の戦争史の中で稀に見る悲劇である。永遠に流れる、シツタンの流れよ、この河に散っていった日本兵士をいつまでも弔ってくれ。私たちは、シッタンの悲劇を永久に忘れてはならない。私の命ある限り亡き戦友に哀悼の誠を捧げなければならない 。
べグー山系の餓死、シッタン河での水死、ここに数万人もの犠牲者をだしながら、撤退作戦はさらに続けられた。
http://plaza.rakuten.co.jp/zenshinnomi/diary/200907030001/
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210022_00000
太平洋戦争で、激しい戦闘が繰り広げられたかつてのビルマ。
太平洋戦争終盤、攻勢に転じた連合軍を前に、日本軍は苦しい闘いを余儀なくされ、戦死者は16万人にのぼった。
その中でも、過酷な退却戦を強いられた徳島県の郷土部隊、歩兵第143連隊。
武器も食糧も補給されず、四方を連合軍に囲まれる中、決死の覚悟で、連合軍の包囲網を突破しようとした。
「もう少しで味方の部隊に合流できる。」そこに立ちふさがったのが、川幅が200メートルを超えるシッタン河。
雨季で増水した濁流に、多くの兵士たちが飲み込まれていった。
部隊が孤立したのは、いち早く撤退した日本軍司令部によって、前線に置き去りにされたからである。
退路を断たれたうえに、追い討ちをかける事態も進む。日本に味方していたビルマ軍が、連合軍側に寝返ったのだ。
第143連隊の将兵の証言から崩壊していくビルマ戦線の実態に迫る。
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