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朝鮮紀行(1)
[読書]
イギリス人旅行家、イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅したときの紀行。1894年当時、彼女は62歳。時代は日清戦争前後で、朝鮮が清から独立(1895年)した前後に当たる。それまで鎖国を貫いており、日本のペリー来航辺りと時代の雰囲気は似ているのかもしれない。100年以上前の朝鮮半島がありありと描写されている。数回に分けてまとめておく。以下に興味深かった点を引用し羅列する。
朝鮮人は隣邦の清国人とも日本人とも著しく異なっており、顔立ちには大変バラエティがあって、しかも衣服が画一的なのでいっそうそれが目につく。
(朝鮮人は)外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。
気候は疑問の余地なく世界で最もすばらしく、かつ健康のよい部類に入る。
ソウル、海岸、条約港、幹線道路の周辺のはげ山は非常に目につき、国土に関してとても幸先のよくない予想をいだかせやすい。朝鮮南部の大部分において、木立という名に値するものが残っているとすれば、それは唯一、墓地のあるおかげである。
手工業は不振である。
美術工芸はなにもない。
朝鮮軍兵士はソウルに四八〇〇人おり、ロシア人が訓練する。また地方には一二〇〇人いる。海軍は二隻の小型商船みたいなものである。
良質な日本円またはドルは現在全国で通用する。
条約港の釜山、元山、済物浦には一八九七年一月時点で一万一三一八人の外国人居住者がおり、二六六の外国商館があった。うち日本人は一万七一一人、日本商館は二三〇を数えた。
朝鮮在住のイギリス人は一八九七年一月時点で六五人を数え、長崎にあるイギリス企業が最近、済物浦に支店を開いている。朝鮮在住の清国人は同年同月時点で約二五〇〇人であり、おもにソウルと済物浦に住む。
道路状況は劣悪であり、幹線道路すら粗雑な馬車道でしかないものがほとんどである。
朝鮮の言語はニ言語が入り混じっている。知識階級は会話の中に漢語を極力まじえ、いささかでも重要な文書は漢語で記されている。とはいえそれは一〇〇〇年も昔の古い漢語であって、現在清で話されている言語とは発音がまるで異なっている。朝鮮文字である諺文(ハングル)は、教養とは漢籍からえられるもののみとする知識層から、まったく軽視されている。朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色である。もともと諺文は女性、子供、無学な者のみに用いられていたが、一八九五年一月、それまで数百年にわたって漢文で書かれていた官報に漢文と諺文のまじったものがあらわれ、新しい門出となった。
朝鮮に国教はない。儒教は公認の宗教であり、孔子の教えは朝鮮人道徳の原則である。
一種のシャーマニズムである鬼神信仰が国中いたるところに浸透し、無学な一般大衆およびあらゆる階層の女性をとりこにしている。
『朝鮮紀行』-序章-
序章で最も印象深かったのは、言語のくだりである。1895年に清国より独立し、それまで漢文一辺倒であった文字が、漢字と独自のハングルとの混じり形式へと改められた。勅令や外国代表への伝令は、この時点でも漢文であったようだが、それ以外の公式文書は、ハングルとの混じり文字と改められた。科挙から漢文試験が廃止されたり、清の影響から脱しようとしていたのがわかる。調べてみると日本主導で行われた改革のようですね(甲午改革)。
著者は、「日清戦争以降朝鮮人は清に援助を期待するのはやめたとはいえ、清に対しては好感をいだいており、崇高な理想や尊ぶべき伝統、道徳的な考えを清に求めている。」としている。地理的にも近く、数百年の間、清の影響下にあったのだから当然と言えば当然だと思う。また、「本家(清)には国をまとめる民族の強靭さがあるのに、それを持たない清のパロディたる国」と手厳しい評価。
朝鮮の開国は、日本の明治維新のように単に旧秩序からの脱皮だけでなく、清からの精神的自立をも伴っていたということなのでしょうかね。
第一章「朝鮮の第一印象」は、(おそらく1894年の)2月に長崎から釜山に上陸したところから始まる。長崎港から15時間の距離にあり、途中対馬の美しさに軽く触れている。
釜山の居留地はどの点から見ても日本である。五五〇八人という在留日本人の人口に加え、日本人漁師八〇〇〇人という水上生活者の人口がある。日本の総領事は瀟洒な西洋間に住んでいる。銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行われている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には無知の産業、たとえば機会による精米、捕鯨、酒造、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った。魚肥は臭いにおいを放つものの、日本へ大量輸出されている。
読者にしてみれば、「いったい朝鮮人はどこにいるのか。日本人のことなど読みたくもないのに!」とじれったくお思いのことだろう。わたしとしても日本人のことばかり書きたくはないが、事実はいかんともしがたく、日本人がいるのは釜山のれっきとした事実なのである。
清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかに立派である。平均身長は五フィート四.五インチであるものの、ゆったりした白服がそれよりも高く見せ、山の高い帽子をいつも忘れずにかぶっているのでさらに高く見える。くだんの男たちは、袖つきの白い綿の長衣にたっぷりしたズボン、そして靴下という冬の装束をしていた。すべて綿入れである。頭には両側がたれさがって黒い毛皮の縁のついた黒絹の綿入れ帽子をかぶり、さらにその上に黒い「クリノリン」つまり馬毛のゴーズ制のつば広帽子を載せて、クリノリンのひもをあごの下で結んでいる。
狭くて汚い通りを形づくるのは、骨組みに土を塗って建てた低いあばらである。窓がなく、屋根はわかぶきで軒が深く、どの壁にも地面から二フィートのところに黒い排煙用の穴がある。家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり、固体および液体の汚物やごみがたまっている。
売り手はそれぞれ穴あき銭〔葉銭〕の小山をわきに積み上げている。まんなかに四角い穴のあるこの代わった白銅貨は当時「公称」三二〇〇枚で一ドルに相当し、朝鮮の商業の大きな障害となっていた。
『朝鮮紀行』-第一章「朝鮮の第一印象」-
新市街(外国人居住区)と旧市街に明確に分けられていたようです。ソウル近くの済物浦の町では、日本人街に比べて清国人街の方が活気があり、商売のほとんどは清国人が独占していた様子。日本人街にも商店はあるが、主に日本人の需要を満たすのみである。朝鮮人は豊臣秀吉の朝鮮出兵以来3世紀に渡り、日本人が嫌いで主に清国人と商取引をしているとも記している。
しかし、日清戦争以前から朝鮮における日本の立場は影響力があったとある。
条約港とソウルとの間の「郵便施設」を設置し独占していた
ソウルと条約港に国立第一銀行の支店を開設(在留外国人はこの銀行に全幅の信頼を置いている)
1894年には綿布の輸入量の40%が日本からとなっている
1893年に朝鮮に入港した198隻の汽船のうち132隻が、325隻のうち232隻が日本のものである
著者がこのとき済物浦を訪れたのは1884年3月で、この年の8月には日清戦争が勃発している。この頃すでに済物浦では、日本が戦争の備蓄として米を大量に買い込んでおり、価格が高騰していたと記している。また、日清戦争についていは「当時朝鮮ではだれひとり起きるとは夢にも思わなかった戦争」と書いている。
済物浦での朝鮮人の描写はほとんどなく「あまり重要でなく、わたしもつい忘れてしまうところだった。」と記している。
第二章「首都の第一印象」は、済物浦からソウルまで輿で移動したところから始まる。道らしい道がなく、ぬかるんでいて、清国人所有の牛車がぬかるみにはまり込み往生している様子などを記している。不潔だの、みすぼらしいだの、粗末だの、言いたい放題。ソウル市内では、1883年の開国以来急速に外国人の存在が大きくなり、旧来の雰囲気を打ち壊しつつあると記している。以下にソウルの印象を引用して羅列しておく。
《隠者の都》にひそかに広がりつつある変化の一番顕著なしるしは、司祭館と共住館をあわせ持つ完成間近なローマカトリック聖堂のきわめて大きな建物が、ソウルの一等地を占めていることである。
わたしは昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、ことばにならないみすぼらしさ、色褪せた栄華、あてのない群集、野蛮な華麗さという点ではほかに比類ない中世風の行列、人で込んだ路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押しよせる外国からの影響に対し、古い大国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みを知っている。
城内でトラやヒョウが撃てると自慢できる首都
城門のひとつは《死者の門》で、これ以外の城門を遺骸が通るのは王家の場合をのぞいて許されない。
これほど安全な環境をもつ都会はほかにはない。わたし自身そうしたように、女性が西洋人のエスコートをつけずに城壁の外をどちらの方向に馬に乗って出かけても、何ら問題は起きないのである。
城内のソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へいくまではソウルこそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから!
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。
『朝鮮紀行』-第二章「首都の第一印象」-
日本人居留区と清国人居留区についても詳しく描写されている。当時(1884年)日本人の人口は約5000人で、「朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる」とある。朝鮮人の反日感情は高く、一定間隔で将校が警備していると記している。日本公使であった大鳥圭介を社交界で目撃している。
清国人居留区につていの記述では、袁世凱の邸宅に触れ、その権力の大きさを記している。
章の最後で興味深い慣習が紹介されている。昼間は下女以外の女性を町中で見ることがないが、夜8時に大釣鐘が鳴らされると男全員がが屋内に引き下がる。入れ替わるように女性が屋外へと出てきて、遊んだり友人を訪ねたりするという。12時になるともう一度大釣鐘が鳴らされ、女性と男性は再び入れ替わる。ある地位の高い女性曰く「昼間のソウルの通りを一度も見たことがない」と。
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