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朝鮮紀行(2)
[読書]
イギリス人旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』についての続き。
第三章「コドゥン」は、ソウルで朝鮮を旅するための朝鮮人従者を探すところから始まる。これが難航し、ソウルで足止めを食らった為に「コドゥン」と呼ばれる王の行幸を見ることができた。約15万人の見物人を集めた行幸を本当に詳細に描写している。この行幸の費用は、2万5千ドルと推定している。
第四章「ソウルの種々」は、更に問題が発生し国内旅行が延期になりソウルを散策するというところから始まる。朝鮮ではソウル志向が非常に強く、地方の官吏や地主もソウルに別邸を設けて、ほとんどをソウルで過ごすとある。庶民もソウルまでの旅費を捻出できる者はソウルを目指し、許される限り滞在するとも記している。しかし、朝鮮の人々にとって魅力的なソウルを著者は下記のように描写している。
ソウルには美術品はまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ、コドゥンというまれな例外をのぞいて、見るべき催し物も劇場もない。他の都市にならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心だっために寺院もないし、いまだに迷信が影響力をふるっているため墓地もない!
『朝鮮紀行』-第四章「ソウルの種々」-
続いて仏教が300年前に禁止になったエピソードを紹介している。300年前に秀吉の侵攻の際に、日本兵が僧侶に変装してソウルに侵入した為であると記している。著者自身、真偽不明としているが外国人の彼女の耳に入るぐらい広く喧伝され、信じられていたエピソードなのでしょう。反日感情が高かったことを証明する話ですね。
実際はどうだったのか少し調べてみました。秀吉の朝鮮出兵は、1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)の2度行われている。ソウルまで迫ったのは、1592年の文禄の役のときのみ。李朝は、初代王の李成桂(在位1392~98)の頃から崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとっている。しかし、李成桂自身が晩年に仏門に帰依したため、この政策は一時中断していたりする。しかし代を重ねるごとに仏教への規制は厳しくなった模様。
4代目の国王の世宗(在位1418~50)は、仏教は2宗に統合し、18寺院だけを残して、他の寺を廃す。9代目の成宗(在位1469~94)は、出家することを全面的に禁じた。11代目の中宗(在位1506~44)は、全国の仏像を没収して、溶かしたうえで武器に鋳造した。この中宗の時期に、僧侶はソウルの出入りを禁じられたらしい。つまり秀吉の朝鮮出兵を契機に出入りを禁じられたというのは事実ではないということになる。
宗教については、先祖崇拝と鬼神信仰が行われていると記している。続けて、葬式を目撃し、その様子と仕組みを詳細に記述している。この本の表紙に描かれているおじいさんの挿絵は「喪服」の絵である。別の挿絵にすればいいのにね。なぜ喪服の絵を選んだのかな。
第五章「旅支度/朝鮮の舟」は、通訳が見つからず朝鮮旅行を諦めかけていたときに、若い宣教師から従僕を連れていってもよいならお供しましょうという申し出を受けたところから始まる。
旅行する上での最大の問題は、通貨に関するものであると記している。日本の円や銭は、ソウルと条約港でしか通用しない。旅先には、銀行や両替商は存在しない。つまりソウルで必要な費用を全て両替しないといけないということである。その両替は、1ドルが葉銭3,200枚になり、100円分(10ポンド)を両替すると、葉銭を運ぶだけで6人の男か馬1頭が必要になるぐらいの量となるとある。
このような不便を解消するためのシステムがあったとも記している。このシステムは、ソウルで必要な旅費を全て払い込み、「関子」と呼ばれる書状を手に入れる。この「関子」を地方の役人に見せれば、食べ物、交通、金銭の面倒を見てもらえるというもの。しかし、このシステムは政府が地方官吏に経費の支払いを行っていない為に機能していないとある。意味ないですね。結局、著者は、舟の錘になるぐらい大量に葉銭に両替しつつ日本の銀貨をかばんに詰め込んで旅に出ている。
旅支度も詳細に記録されている。以下に示す。
鞍
寝具一式(蚊帳と簡易ベッド)
モスリンのカーテン
折りたたみ椅子
着替え(2組)
わらじ
防水時計
食料(緑茶・カレー粉・小麦粉20ポンド)
調理器具(日本製七輪・日本製浅鍋・フライパン・小さなヤカン・炭バサミ・調理用のナイフ、フォーク、スプーン1組)
食器(マグカップ1個・皿2枚・スープ皿1枚・折りたたみ式ナイフ・フォーク、スプーン1組)
三脚カメラ(重量16ポンド)
ハンドカメラ(重量4ポンド)
以上の荷物に大量の葉銭と日本の銀貨を携えて、雇った舟の狭さと船頭のぐうたらぶりに不満を示すつつも、1894年4月14日にソウルを出発している。
第六章「漢江とそのほとり」は、5週間を舟の上で過ごし、その間に見た風景の美しさを描写しているところから始まる。その描写は詳細で、植物や生物の種類や地理、鉱物資源、生活風習にまで至る。
幕末から日本に滞在したイギリス人外交官のアーネスト・サトウの日記『一外交官が見た明治維新』を読んだことがあるが、彼の日記は外交官らしく、時事についての記述が多く、日本の自然や生活についての記述は多くない。これに対してイザベラ・バードの『朝鮮紀行』は、自然や生活、地理や風習についての描写が実に細かい。この本の次には彼女の『日本奥地紀行』や『中国奥地紀行』も是非読んでみたい。
アーネスト・サトウとイザベラ・バードは、実際に面識があった。同時代の同じイギリス人なので不思議ではない。朝鮮旅行の際にサトウに日本製の地図が精巧なのでお薦めと言われたと記している。
朝鮮人の食事についての記述がある。女性はあったもので済ませ、主の残り物をいただくとある。男性の食事については、挿絵つきで下記のように記している。
毎回男たちの食事は高さ数インチの暗色した木製の小さな円い膳でひとりひとり別々に供される。ごはんは主食で、大きなボウルに盛って出されるが、それ以外に陶器の器がふつう最低五つか六つはならべられ、そのなかに風味のある、つまりおいしい薬味が入っている。食べる際には箸と角製または卑金属製のやや平たい小さなスプーンを使う。
『朝鮮紀行』-第六章「漢江とそのほとり」-
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