蘭雪軒
許蘭雪軒(きょ らんせつけん、ホ・ナンソロン、허난설헌、1563年-1589年)は李氏朝鮮時代の女流詩人。本名は許楚姫(きょ そき、ホ・チョヒ、허초희)
http://blogs.yahoo.co.jp/roshunante/62163912.html
”蘭雪軒”朝鮮王朝時代の女性たち
当時の朝鮮半島の女性について伝わる事柄は資料も乏しく、その上、正確を欠くものが多いようだ。
偶然、それも遠く英国の女性が見聞したことを克明に記録した資料に接する機会があったので、今回お伝えしている蘭雪軒のような立場の女性のことについて記しておこう。
その出典を詳らかにしたうえで、いくつかの項目をまとめてみた。
Isabella L Bishop女史が1894年から97年にかけて朝鮮半島を調査したときの資料で、「Korea and her neighbours」 と題が付されている。
長い間、時が停滞してしまっていた彼の国故、儒教の慣習も500年前と然程変わらずに継続してきたために、蘭雪軒の頃を識る手掛かりとしては貴重な資料と言える。
記録した写真から模写したという特権階級の貴婦人の姿は、既述の挿絵と変わった様子はなく、服装も昔日と同じだったことをうかがわせる。
大長今に始まり朝鮮王朝時代のテレビ劇などが紹介されたこともあって、少なからず既成概念のようなものを享受してしまったため、如何にもそれらが事実であるかのように感じているが、ドラマ故の作りものも多々ありそうで懐疑的であったので、この度読んだ紀行資料には、思いがけぬ新鮮さを感じている。
今回は、そこに記載されている各階層のうちから、以下に、蘭雪軒のような特権階級の女性にまつわる慣習とか日常生活などのほんの一端を要約してみた。
1 裕福な家柄の女性が嫁ぐまで
七歳ごろになると、父方の家の内庭から外界との接触を断たれた生活が始ま り、さらに、十七歳ころになると父方の姻戚に送られ蟄居生活を強いられる「し きたり」が待っていた。
むろん、本人の意志などに関係なく、婚姻は親同士によって決められた。
2 婚儀が終わった後の住まいや名前
嫁ぎ先と実家との間を数回往復したのち、嫁ぎ先では女たちの住まいの片隅 に、所謂「洞房」を宛がわれ、その時を期してそれまでの姓名は消滅し、「某の 奥さん」とか、「誰のお母さん」としか呼ばれなくなる。
今までお伝えしてきた中でもこのことには申師任堂のときにも触れたが、詩人としての名が残っていても生来の俗人としての姓名が不明であったということはこの様な理由からなのである。
3 夫と妻との間柄
先ず、妻から夫へ言葉を発することは極めて稀なことであって、妻がまともに 夫の顔を注視することなどはまずない。
婚儀の後の夫は、三、四日新婦と過ごすと、無関心を装いかなり長期間妻か
らは遠ざかるが、これとてある種の作法となっていて、妻を今様の伴侶として遇
すると嘲笑されたそうだ。
4 妻と姑との関係
両班だけではなく庶民階級の女性たちでも、姑の言付けや慣習には従順であ り、要するに、女たちは自らの宿命に忍従していて、普段の生活の中で接する 人といえば、姑とか下働きのものだけであった。
そんな状況であったので、蘭雪軒にしても訪問者と接することなど皆無に近く、まして庶民階級ともなると教育を授かることもなかったために、文字を解する女性はほとんどいなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/roshunante/62357300.html
”許蘭雪軒”が詠んだ詩から「閨怨」
ひろく知られた王昌齢とか江総が詠んだ詩の閨怨ではありません。
既にご紹介した朝鮮の漢詩の中で、蘭雪軒の作品に「春怨」がありました。 春の侘しさを詠い、今度は閨(ねや)の寂しさを詠ったりと忙しいのですが、とにもかくにも、当時としては妻を放ったらかすのが両班の甲斐性でしたから、止むを得ないことではありました。
「春怨」にしろ「江南曲」、さらには「閨怨」にしても、三様の詩それぞれがバカ亭主といえども帰らぬ夫を待ち続け、歳を経ていく侘しさを詠みこんでいるのです。
ですから、これらの詩に接するたびに、哀れを感じずにはいられないのです。
ただ、この詩からは、貧女吟とはまた打って変わった両班の優雅な寝室の佇まいを垣間見せていますので、二つの詩を対比させてみるのも一興ではないかと思います。
暫らくぶりの蘭雪軒の詩です。 今回の詩の季節は、秋も深まり辺りに寂寥感が漂い始める頃のようです。
ですから、詩全体を醸す深まりゆく晩秋の感じが詩情と相俟って、なおさら蘭雪軒の世界へと引き込まれてしまうのです。
挿絵に使った蘭雪軒の姿と伝わる絵ですが適当なものが見当たらずに以前のものを使っています。 朝鮮戦役を掻い潜ったのでしょうか、生家といわれる立派な屋敷の写真がありますが、あまりの保存の良さにかえって違和感を覚えご紹介を止めました。
閨 怨 許蘭雪軒
月樓秋盡玉屏空 月樓の秋は盡んとし玉屏空しく
霜打蘆洲下暮鴻 霜打つ蘆洲に暮鴻は下る
瑶琴一弾人不見 瑶琴を一弾し人を見ず
藕花零落野塘中 藕花は零れ落つ野塘の中に
晩秋の月夜の楼、綺麗な屏風の閨は空いたまま、
霜の降りる芦の洲(しま)に、夕べには鴻が下りてゆく。
珠玉の音の琴で一曲弾いてみたが、誰の姿も見えず
蓮の花が堀の中に零れ落ちただけだった。
相変わらずの拙い読下しと訳文でご紹介しました。ご参考までに。
誰のために、なんのために琴を弾いたのか分らね~じゃね~か、この~。 などとはしたないことを言う訳はないのですが、この詩の中で不思議と言いましょうか、これは、といった箇所があります。
自然観察などは論外なのですが、蓮の花って、秋の終り頃まで咲いているものでしょうか。 蓮の実の甘納豆などを美味しく頂戴することはあっても気が付きませんでした。
もっとも、季節が過ぎて枯れ残った花が落ちたってことかもしれませんが。
http://world.kbs.co.kr/japanese/program/program_koreanstory_detail.htm?No=19585
許蘭雪軒
2010-08-13
詩人として天稟の才能を備えていたにもかかわらず、
朝鮮時代に生まれたがために、
その才能を十分に開花できなかった
朝鮮時代中期の女流詩人、許蘭雪軒(ホ・ナンソルホン)。
1563年生まれの彼女は、父のホ・ヨプをはじめ
ホ・ソン、ホ・ボンの二人の兄、
そして後に「洪吉童(ホン・ギルドン)伝」を書く弟のホ・ギュンというように、
文学的な才能に恵まれた家族の中で育ちます。
特にニ番目の兄 ホ・ボンは妹の才能に気付き、
友人で詩人のイ・ダルに妹の教育を頼んだほどでした。
幼いころからこのような文化的な環境で育った彼女は
8歳の時に「広寒殿 白玉楼上樑文」という漢詩を書き、神童と呼ばれました。
しかしそんな彼女の人生も15歳で結婚してからは
悲劇に包まれます。
名門・安東金氏の家に嫁入りした彼女は、
保守的で厳格な家風の中で詩作に励むこともままなりませんでした。
さらに実家の父や兄が相次いで亡くなり、
二人のわが子も伝染病で亡くします。
この当時の辛い心情を彼女は
こんな詩に残しています。
去年 亡くした娘と 今年 失った息子
泣きながら盛った土が 二つの土饅頭となり向かい合う
太陽の林には松風が吹き 松楸には鬼火も明るい
紙銭でお前たちの魂を呼び出し 墓の前に酒をまこう
その名のとおりに、蘭の高潔さと雪の純白さを備えた彼女は
わずか27歳でその短い生涯に幕を閉じます。
彼女の詩は後に、弟のホ・ギュンの手によってまとめられ、
「蘭雪軒集」として世に発表されます。
そしてこの詩集はその後、中国、日本にも伝わり、
彼女は朝鮮時代を代表する女流詩人として歴史にその名を残すことになるのです。
http://digital.library.mcgill.ca/mingqing/search/details-poem.php?poemID=38662
詩詞 [蘭雪齋詩集小引]
文﹕引
: 朱之蕃 Zhu Zhifan
: 蘭雪軒詩(Nansŏrhŏn si) (朝鮮許蘭雪撰)
(PRINT FRIENDLY VERSION)
蘭雪軒詩(Nansŏrhŏn si) (朝鮮許蘭雪撰)。朝鮮(1608?)刻本。
: 小引.2a 蘭雪軒詩(Nansŏrhŏn si) (朝鮮許蘭雪撰)。朝鮮(1608?)刻本。
: 小引.1b 蘭雪軒詩(Nansŏrhŏn si) (朝鮮許蘭雪撰)。朝鮮(1608?)刻本。
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