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Tuesday, August 21, 2012

cars for imperial japan army around 1930


ジオラマ、ミニチュア、情景模型に最適!
御料車 グロッサーメルセデス MERCEDES-BENZ TYP 770 W07 (1930-1938) :リコ 塗装済完成品 HO(1/87) 38375


Type 95 reconnaissance car


http://hirohito.tumblr.com/page/4



日本の昭和天皇が所有された1935年のグロッサー・メルセデス(Grosser Mercedes)も展示されていました。後部扉には金色に輝く紋が付けられています。 (via トピックス)

おお、乗りたい


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wiki

九五式小型乗用車(きゅうごしきこがたじょうようしゃ、九五式小型乘用車)は、大日本帝国陸軍の小型軍用乗用車。通称・愛称はくろがね四起(-よんき)。
日本初の国産実用四輪駆動車として日本内燃機(のちの東急くろがね工業、現日産工機の前身)が開発し、日中戦争(支那事変)・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力乗用車として使用された。「くろがね四起」の通称は、日本内燃機のオート三輪車ブランドとして当時著名だった「くろがね」と「四輪起動」にちなむ。


1938 June Yellow River1.gif



:Battle of Khalkhin Gol-Captured Type 95 scout car.jpg

日中戦争(黄河決壊事件)における九五式小型乗用車 (1938年)


ノモンハン事件で赤軍に鹵獲された九五式小型乗用車 (1939年)


http://kaigaiconsulren.blog.fc2.com/blog-entry-36.html
九五式小型乗用車
現在の日本は世界的な自動車王国ですが、今を去る70数年前に旧日本陸軍の要請で開発・生産された「九五式小型乗用車」がありました。この小型車は『くろがね四起』、つまり、「くろがね四輪起動車」を略した愛称で呼ばれていました。四輪起動車とは今日の四輪駆動車の意味です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E4%BA%94%E5%BC%8F%E5%B0%8F%E5%9E%8B%E4%B9%97%E7%94%A8%E8%BB%8A
ウィキペディアより転写:画像をクリックすれば拡大します。

上掲の写真は1939年の旧満州の関東軍と旧ソ連軍との国境紛争の時にソ連軍により鹵獲(ろかく)された九五式小型乗用車です。燃費・性能ともに大変扱いやすい車でしたのでソ連軍もそのまま使用したものと推測できます。そして、1937(昭和12)年から生産された型は3人乗りの車体に33馬力のV型2気筒1400cc空冷エンジンを搭載。前輪独立、後輪リーフリジッド式のサスペンションや大径タイヤを備えていました。不整地では大変優れた走行性能を発揮しました。1935~1944年、つまり、昭和10年から19年までに各型合わせて約4,800台が生産され、広域な戦線で偵察や連絡に使用されました。また一部は海軍にも納入されて航空部隊の士官専用車として使用されました。

九五式小型乗用車の開発責任者は日本内燃機の創業者でもあった蒔田鉄司技師ですが、彼の独創的な設計思想は後にアメリカ軍がジープを繰り出してくる数年前の独自のアイデアであり、1400cc程度の小型車が不整地路をスイスイと走行できる筈がないと冷笑されながらの開発でした。当時の日本の工業力は現在とは較べ物にならないくらいに貧弱なものでしたが、70数年前にこのような高性能車を産み出していた日本の技術力が現在の自動車王国としての日本の地位を築いた基(もとい)ともなっています。


http://blogs.yahoo.co.jp/daitouayokoyama/folder/193781.html



九七式側車付自動二輪車


今回は、バカモン殿のリクエストです。
今回は、世界初の二輪駆動式サイドカー「九七式側車付自動二輪車」についてです。
帝国陸軍で使用していた側車付自動二輪車は一輪駆動式でしたので、
整備されていない路面での走行性能に問題がありました。
そこで、陸軍省は1932年7月から関東地方各地で二輪駆動式車両の性能試験を行い、
そこで性能が認められたため、各種演習にて実用化試験を行いました。
その試験にて、二輪駆動式車両が軍用目的に価値ありと認められたため、制式採用されました。
「九七式側車付自動二輪車」は日華事変やノモンハン事件、
大東亜戦争などの戦線はもちろん、
演習時に、内地での伝令や偵察、輸送に幅広く使用されました。
そして生産された一部は海軍陸戦隊などに供与されています。
また近衛師団にも配備されて、陸海軍の大元帥であった昭和天皇が行幸などで
日本各地を移動する際は、 裕仁天皇陛下が乗車した3代目御料車の四方を
「九七式側車付自動二輪車」に乗車しました近衛兵が警護を行ないました。
ナイス!0

http://blogs.yahoo.co.jp/daitouayokoyama/6883839.html



(写真は、九四式六輪自動貨車)
今回は、バカモン殿のリクエストです。
今回は最前線の将兵から高評価を受けた「九七式炊事自動車」についてです。
シベリア出兵のとき、帝国陸軍は大量炊事をするために蒸気式の炊事車を投入しましたが、
酷寒のために作業に困難が多く、実用化には至りませんた。
このため本格的な軍用炊事車の開発が必要とされました。
そして自動車化部隊が整備され始めると、これに追随して食事を提供できる車輛が必要となり、
1934年8月、「九四式六輪自動貨車」に炊飯、沸水装置、給水装置、発電機を搭載し、
「九四式炊事自動車」を試作し、1935年2月には富士山麓で実用試験を行ない、結果は良好だった。
1935年4月の軍事演習にも「九四式炊事自動車」は帯同し、行軍間の炊事給養を行ないました。
細部に改修点が見つかり、1935年12月、改良を施した「九五式炊事自動車」を試作し、
1936年2月には歩兵第2連隊混成第1大隊に配属させて給養を実施しました。
1936年12月には北満州での試験に基づいて九六式炊事自動車を試作しました。
1937年5月には付属品を整理、沸水缶の位置を低める小改修を加え、
「九七式炊事自動車」として完成しました。
試験時、自動車化部隊にも帯同でき、適時に温かい食事を提供できた
「九七式炊事自動車」は実用価値が極めて大きいと評価されました。
本車は炊飯能力や副食の調理能力が大きく、
水の凍結するような寒季においてこの能力が非常に役立ちました。
炊飯に関しては成績良好であり、不満とする点は無いとされました。
なお、設備と食料がある程度整っている駐屯地や営内では、
軍隊調理法に記されているレシピを元に多種多様で贅沢な給食が調理され将兵に食されましたが、
演習地や戦地の最前線では簡易食である飯盒炊爨用の
米・乾パン・缶詰・食塩の携帯口糧使用されていました。


http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/bunnkanrikugun5syaryourui.html





http://blogs.yahoo.co.jp/ktgw314/5896638.html







http://gazoo.com/sp/G-blog/tam/300798/Article.aspx

「自動車販売店」の巻(その2) 大正~昭和期(戦前)の自動車販売店
2011年4月20日
13:57
今回は、大正から昭和期(戦前)にかけて日本の自動車市場育成の推進役となった外国車の輸入販売店の姿を見たいと思います。

今回は 大正から昭和期(戦前)にかけて、日本の自動車市場育成の推進役となった外国車の輸入販売店の姿を、五十嵐平達コレクション写真を通して見たいと思います。

大正期の半ば(1910年代後半)に入ると、クルマの性能も次第に良くなってきたこともあって、自動車産業が未だ確立していない日本社会の、クルマに対する意識も徐々に高まり、それに伴って外資系も含めた多くの商社や実業家が個々に欧米のメーカーと代理店契約を結んで輸入・販売を行うところが増えてきました。 特に1923年(大正12年)の関東大震災以降その伸びは顕著となり、昭和初期(1920年代後半)には自動車はハイヤーやタクシー、あるいは乗合自動車等の交通機関として欠かせないものとなりました。
当時 自動車の輸入・販売業者は約50社を数えました。それらが扱ったメーカーの国籍は欧米の主要各国に及んでおり、全体として数量的には多くはありませんが、海外のほとんどの主力車種が輸入されていました。 即ち、大正期は市場は小規模ながら外国車輸入・販売の花が開いた時代と言えるでしょう。

しかし、大正末期(1925年)、先ず米国フォード社が横浜に、その2年後(1927年=昭和2年)にはGM(ゼネラルモータース)が大阪に大規模な組立工場をつくってT型フォードやシボレーの大量生産を開始し、それを背景にした低価格政策や月賦販売等を導入すると同時に、日本各地に販売店網をつくりました。 これらの攻勢によって1930年代に入ると弱小な業者が次々と脱落し、その結果日産やトヨタの本格参入以前のわが国の自動車市場、特に乗用車はほとんどこの2社による独占状態となりました。


●昭和初期の販売店


写真1.昭和初期の販売店店舗内部(撮影:1929年頃)

写真1:店内に並ぶ3台の陳列車はいずれも米国製ハドソン(1929年型)です。 天井にはズラリと「ハドソン」の旗を飾っていることから、明らかにこの販売店は米国ハドソン社の特約店でしょう。 店内の規模や雰囲気等から見て、ここは当時の輸入販売店の中で最も古い歴史を持つ「日本自動車(株)」の、東京・赤坂にあった本社営業所であろうと思われます。 同社はサ―ビス工場を備えた複数の営業所を持ち、ハドソンの他にもダッジ(米)やメルセデス・ベンツ(独)、ロールスロイス(英)、ルノー(仏)、フィアット(伊)等、米欧の20以上のメーカーのクルマを扱った大手会社です。 この店の外観写真はありませんが、店内は大正期に花開いた外国車輸入販売店の雰囲気をよく伝えており、格式も感じられます。 当時 一般庶民にはほとんど縁遠かった高級な商品を扱っているという販売店の意識がただよっているようです。

●1930年代半ばの輸入車販売店


写真2.1930年代半ばのシボレー販売店(撮影:1936年頃)

写真2:1927(昭和2年)年 日本に進出したGM社が各地に展開した販売店網の中で、当時 日本最北端の樺太(現在はロシア領サハリン)にあったシボレーの特約販売店です。 店頭には2台のシボレー1936年型が並んでおり、恐らくタクシーかハイヤー会社に納入する新車の納車前の記念写真でしょう。 小さな店構えで店内の様子も見えませんが、恐らくGMの販売店規格に合った設備を備えていたものと思われます。


写真3.日本GM社系列の販売店(撮影:1937年頃)

写真3:これも日本GM社系列の特約販売店で、店頭のクルマは右がオールズモビル1937年型、左はポンティアック1936年型。 店の名前「南国自動車商会」から察すると九州方面にあった販売店でしょうか。

日本GM社は販売網作りと同時に商品の広報・宣伝活動にも力を入れました。





写真4.日本GM社1929年開催新型車発表会風景。 台上はシボレー1929年型

写真4:これは同社が1929年に催した新型車発表会の光景で、全国から集まった販売店代表者に新型車の内容詳細が披露されています。 恐らく顧客への訴求点や販売上の応酬話法等が伝授されたことでしょう。 期待の新型車を見る販売店代表者の熱気が伝わって来るようです。

上記のように、戦前の日本の自動車市場はほとんど外国車、特に米国のフォード、GMによって開拓されました。 この両社は巨大な資本力や欧米での豊富な経験をベースとして日本に進出し、積極的な生産・販売活動を展開してそれぞれ年間約1万台となるまでに市場を成長させましたが、この状況は1930年代後半、日産、トヨタを中心として日本の自動車産業が本格参入したことに加えて、当時の日本政府の政策によって外国資本企業の活動が抑制されたことで、 両社の活動はついに1930年代末に終止符が打たれました。 しかし、この2社が戦前の日本で展開した生産・販売のノウハウは、戦後 日本の自動車産業が大きく発展するに際して、多くの貴重なヒントを与えてくれたことは言うまでもありません。

2011/04/19記

http://blogs.yahoo.co.jp/dokidoki_puck/58756298.html



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