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Sunday, September 25, 2011

Kisaeng? she was a speaking flower cultural magazine 妓生?もの言う花の文化誌

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川村湊「妓生?もの言う花の文化誌」


2009年3月、韓国の人気女優、チャン・ジャヨンさんが「性的接待」を苦にして自殺したというニュースは大きく取り上げられました。それを受けて2010年4月に韓国国家人権委員会が女性芸能人に対して行った調査の結果が公表されましたよね。結果は「性的接待」の提案を受けた方は6割、お尻や胸を触られる等のセクハラを実際に受けたのは31.5%、「性的接待」を迫られたのは21.5%、実際にレイプ被害を受けた方は6.5%にのぼるというものでした。KARAがあわや解散か、という事態になったときも、確かそうした接待を強要されたのではないか?という憶測も流れましたよね。こういったニュース等を耳にするにつけても、なぜこういうことが起こるのか、というのをアタクシは考えていたのですが、「男尊女卑?」とか「芸能人って、日本で昔言ったところの河原乞食にでもあたるという考えが残っているのだろうか?」とかくらいしか思いつかず、あるとき、どなたか男性の書かれているブログで「結局、韓国の芸能人って、まだキーセン(妓生)なんだよ」と書いてあり、「キーセンとはなんじゃいな」と気になっていたのでした。日本人男性による「キーセン・ハウス」というところへの観光が盛んだったことは何となく知っていて、そこでキーセンさん達はホステスのような役割をつとめるのだ、ということは分かりましたが、キーセンと呼ばれる女性達が歴史的に一体どういう存在だったのか、アタクシは寡聞にして何も知らず、wikiなど見まして、ふうん?と思い、この本を手に取ることになったのであります。「もの言う花」とは、「解語花」というキーセンを指す別称を和訳したものであります。あくまで「花」であって、美しくてもひとりの人格を持った人間として扱われなかった彼女達の悲哀をよく表しているような気がします。

キーセンというのは、もともと「官女」でありました。彼女達は詩歌や音曲に優れ、公式の宴に花をそえるため、外国からの使者や貴賓を歓待するために訓練を受けた存在で、従三位とかいった位を与えられることもありました。しかし、「歓待する」ことに「性的な歓待」ももちろん含まれていたのは確かです。しかし、妓生というのは「女楽」を演ずる者だけを指す言葉ではありません。たとえば、ドラマのチャングムで有名な医女は「薬房妓生」ですし、宮廷で用いられるさまざまな衣類、ファブリック類の一切を請け負っていたのは「尚房妓生」でしたし、古くは「妓」というのは、李氏朝鮮では、専門技術を持った女性のことを指す言葉であったようであります。そして、「女楽」担当の妓生の最盛期は、15世紀の賢王として知られた成宗、逆に暴君として知られた燕山君の治世のころだったようであります。この後、妓生の社会的地位は落下していき、最後は・・・・といった感じでしょうか。妓生は一牌、二牌、三牌と区分されていました。一牌は宮中に仕える妓生のエリートです。それから段々と相手や格式が下がって行きます。そしてこの時代、というか、朝鮮半島は歴史上、中国のなにがしかの王朝が宗主国であった時期がほとんどなのですから、中国側と穏便に外交が続けられるように妓生は重要な役割を持ちました。著者は「妓生外交」と呼んでいます。でも北朝鮮には今も「喜び組」ってあるみたいですよね。あれは現代に残る当初の意味を多少は残した「妓生」なのでしょう。

今、妓生を取り扱ったものとしては、ドラマや映画の「ファン・ジニ(黄真伊)」が有名ですね。この女性は今の韓国の芸能人の女性も尊敬する人物としてあげるほど伝説的な妓生です。また朝鮮半島の歴史上自作の詩歌が残っている数少ない女性詩人としても知られています。母親の玄琴も有名な妓生で、父親は科挙に合格したお役人だったそうですが、「奴婢随母法」によってファン・ジニは身分が低いままでした。あまりにも美しいために多くの男性を虜にし、彼女のために命を落とした若者まで出たために、彼女は、全ての男性の恋人である妓生として生きることにした、という伝説が残っています。妓名は「明月」。儒学者である徐敬徳や、仏教僧・知足禅師、碧渓守とのロマンスも有名ですが、真偽のほどは定かではありません。16世紀中期に活躍したそうであります。ひとつくらい彼女作の詩歌の和訳を紹介してみます。
「緑なす奥山の碧渓水よ 行きの早さを誇らざれ
ひとたび海に注ぎなば 返り来むことも難きを
しばしは憩え 名月の光 山に満つれば」

そして日本人にとってはちょっときついですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに見せたその愛国心から、今も朝鮮半島の人々の尊敬をうけている妓生がいます。「義妓・論介(ノンゲ)」です。加藤清正率いる日本軍を前に、晋州城がまさに陥落しそうになっていたとき、城の近くにある崖の上に絶世の美女が現れ、婉然と敵将に秋波を送った。その色香に迷った日本軍の将は彼女にふらふらと近づいていき、一緒に舞をまった、と思ったとき、彼女はその敵将を抱いて崖の下に身を投げた。この伝説の女性が「論介」と伝えられています。ところで、このスケベ心を抱いてしまった日本の武将とは誰でしょう。日本ではこんなエピソードすら知られていないのですが。朝鮮の言葉では「チョンジョン」とか「スギル」としてあります。しかしこれは、「清正」「秀吉」を当地の読みでよんだものです。どちらも朝鮮出兵で命を落とした史実はありません。さすがに朝鮮半島の方々も加藤清正や豊臣秀吉が、朝鮮出兵の際に死んだことにはできなかったらしく、その代わりのもうちょっとよく知られていない人物を、この論介に魅せられた敵将としています。その武将は「毛谷村六助」別名「貴田孫兵衛」です。一応この武将は加藤清正の家臣として出兵に参加していますが、そこで亡くなったかどうかはよく分かっていません。この人物は日本では、浄瑠璃「彦山権現誓助太刀」の中に登場し、師の仇討ちをする勇猛な忠義の心を持った武将として描かれるのですが、朝鮮半島の方々にとっては、ただの「スケベ男」であるようです・・・。

ところで、近年、朝鮮半島の人々は妓生はあくまでも芸事の道を極めた女性達であって、売春とは縁がない、と美化するむきもあるようであります。しかし、日本のかつての芸者の「水揚げ」と同じく「髪上げ」の日をむかえなければ、一人前の妓生にはなれなかったというのは、・・・つまりセックスを武器にしなければならないときもあったということです。また、朝鮮半島には妓生が春を売る行為をしていたことを描いた川柳のようなものも沢山残されています。日本には数多くの「春画」があり、描かれている男女は貴族から武家、庶民に至るまで様々ですが、朝鮮半島で描かれた春画のモデルはほとんど全て妓生とその客であったと言っても過言ではありません。独特のチョゴリやデスモリといった髪型でそれは分かります。長い間、「朝鮮半島には春画はない」とされていたのですが、ドイツのハンブルグ民族博物館に所蔵されています。ある意味儒教国家らしい、「道徳的な春画」ですね。

ところで、なぜ、朝鮮半島の人々は中世・近世に活躍した妓生を美化するのでしょう。原因は、実はアタクシ達の国、日本が妓生文化に大きく介入したから、でもあります。日韓併合(あるいは韓日合併、どっちでもいいですが←本当はよくないけど)の後、日本政府はこの妓生達をどう位置づけていいものか考えた結果、妓生は「芸者と女郎の間のようなもの」と捉えて、日本の遊郭のシステムを準用することにしました。妓生達を教育する場所は「妓生学校」として警察の監督を受けるものとし、学校を卒業して一人前の妓生達の仕事のために、日本の「置屋」のようなものを作ることにしました。これが「キーセン・ハウス」となっていったのでしょうね。学校には時間割もありました。ちょっと見てみましょう。

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こんな感じ。それでこの帝政下の妓生のあり方が、従軍慰安婦などにも影響を与えたのではないか、と著者は述べています。春を売っているもの、将来春を売るもの、そういう存在が居るようだ、じゃあそれを都合良く軍事的に利用しよう、という流れになったのではないかと。確かに慰安婦の女性の中には妓生学校出身の方もおり、これはキーセンとは何だったかを考えるときに重要かもしれません。元は官女で位まで与えられていたエンターテイナーと考えれば、妓生が侵略国の慰安婦(性的奴隷)になるのはとんでもなく屈辱的なことですが、もともと売春婦養成学校にいたのだから慰安婦になることに当人やその家族に何の異存があっただろう、と考える日本人は今も一部にはいます。従軍慰安婦については、何か書きたいこともありますが、この適当ちんなブログで書くにはあまりにも難しい問題なので、今日はやめておきます。日本の植民地政策の下で、とりまくシステムが大きく変化させられた妓生達。その解放の日は来たのでしょうか。日本の敗戦後、それまで適用されていた「遊郭業娼妓取締規則」は1947年「公娼制度廃止令」によって廃止されました。「本令は日政以来の悪政を排除し人道を彰明すべく男女平等の民主主義的見地から公娼制度を廃止しいっさいの売春行為を禁止することを目的とする」、つまりこの時点では妓生は芸事に専念する伝統的存在ではなく「日本政府によって作られた公娼」になっていたのです。ところが1961年、妙な状態になります。それは「淪落防止法」。この法律の7条以下には、淪落、つまり身をもちくずす可能性のある女性達のための「保護指導所」について規定されているのですが、この「保護指導所」が結局かつての「妓生学校」に相当するものだったのですね。あれ????あれ????2001年に出版されたこの本では妓生をとりまく政策についてはここまでで終わっていて、その後キーセンがどうなっていったかまではフォローされていません。なのでアタクシには知るよしもありません。2004年に韓国では売春禁止法が施行されたらしいですが、これがキーセンと何か関係があるのかよくわかりません。しかし、朝鮮半島の人々がキーセンという「もの言う花(というか、もの言えぬ花)」の存在を結局今も「どこかで」必要としていることは、冒頭のアンケートからも確かなようであります。ま、それは日本でも世界各国でも同じかな。日本の芸者や花魁について海外からジェンダー的に分析されれば、結構こちらがいたたまれなくなるような論述になるんじゃないかと思いますし。

そういうハナシをぼーっと考えていると、「春を売るとは果たしてどういうことなのだろう」と思います。過去、このブログで「娼婦が公的な職業と認められる日が来ない限り、男性は金銭と性的サービスは互換性があると真に主張できるはずがない」と書いたことがあります。それに対してある男性から非常に冷笑的なコメントがつきました。「そんな日がくるわけねえだろ。こっちはただプロのサービスが欲しいだけなんだからなw」みたいな。でも、このコメントおかしいと思いませんか?まずいっちょまえに風俗に通うような年齢らしいくせに、アタクシのような阿呆なものの言いたい単純なことすら読み取れていないし、返しの論点が見事にずれているというところが情けないですよね。もし、娼婦という職業が整体師やエステティシャンのように公に取り扱われる日が来ると仮定しましょう。仮定ですよ、何事も仮定から始まります。その仮定に基づいて想像してみましょう。そのときには男性が「うちの娘(あるいは妻、母)は娼婦です」と堂々と社会に言える状態になっているはずです(想像ですよ、ついてこれない人はちょっとどうかと思います、想像して下さい、そしてさらに踏み込んでみましょう)。そのような日が来る時には、我々が「性」と「人格」を現在と同様には結びつけて考えない状態になっているということが前提となるでしょう。そして現在「性」と強く結びついている「愛」や「家族」の形態も大きく変化してしまっていることでしょう。そのようなことが起こりうるならば、現在に至るまでの倫理観、人々の信仰する宗教も現在からしたら崩壊しているはずです。つまり、アタクシの結論は「そういう日は来ないか、来るとしてもかなり遠い未来であろうから、男性は性産業の現象面だけ捉えて、真の意味で性と金銭に互換性があるものと勘違いしないほうがいいのでは?(どうせそんなことどうでもいいのは承知してるけど)」と言っているのです。さてそのような未来がやってきた時に、果たして男性にとって買春行為が楽しいのかは謎であります。古い言葉でいう「悪所通い」だからこそ楽しい部分もあるんでしょうからね、少しは。昔から「一盗二婢三妾四妻」と言いますし。悪いことほど楽しいと。まあそういったことは置いておくとしても、この男性、「プロのサービス」が欲しいんですよね。ではプロとは?職業のことじゃないんですか?自分の快楽に関する瞬間のみ都合良く「プロ」、射精が終わってパンツはいて支払いを済ませたあと(?)には「娼婦にプロなどと言う観念は無い」などという言葉を使いわけるのは想像力や思考力があまりに低いと思いましたね。一部の男性は性的なサービスを受けるときには思考停止状態に陥るようであります。射精の瞬間のことについて、女性の人権とともに何か思考しろと言われても凡人には難しいかと思いますが。



まだ幼いキーセンの女性。

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