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Thursday, September 22, 2011

Korea and her Neighbors by Isabella L. Bird イザベラ・バードの朝鮮紀行

http://www.tamanegiya.com/gaikokujinnobunnkenn.html


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to Seoul, innumerable bulls carrying panniers laden with the contents of the city ditches.
The houses abutting on these ditches are generally hovels with deep eaves and thatched roofs, presenting nothing to the street but a mud wall, with occasionally a small paper window just under the roof, indicating the men's quarters, and invariably, at a height varying from 2 to 3 feet above the ditch, a blackened smoke-hole, the vent for the smoke and heated air, which have done their duty in warming the floor of the house. All day long bulls laden with brushwood to a great height are entering the city, and at six o'clock this pine brush, preparing to do the cooking and warming for the population, fills every lane in Seoul with aromatic smoke, which hangs over it with remarkable punctuality. Even the superior houses, which have curved and tiled roofs, present nothing better to the street than this debased appearance.
The shops partake of the general meanness. Shops with a stock-in-trade which may be worth six dollars abound. It is easy to walk in Seoul without molestation, but any one standing to look at anything attracts a great crowd, so that it is as well that there is nothing to look at. The shops have literally not a noteworthy feature. Their one characteristic is that they have none! The best shops are near the Great Bell, beside which formerly stood a stone with an inscription calling on all Koreans to put intruding foreigners to death. So small are they that all goods are within reach of the hand. In one of the three broad streets there are double rows of removable booths, in which now and then a small box of Korean niello work, iron inlaid with silver, may be picked up. In these and others the principal commodities are white cottons, straw shoes, bamboo hats, coarse pottery, candle-sticks with draught screens, combs, glass beads, pipes, tobacco-pouches, spittoons, horn-rimmed goggles, much worn by officials, paper of many kinds, wooden pillow-ends, decorated pillow-cases, fans, ink-cases, huge wooden saddles with green leather flaps bossed with silver, laundry sticks, dried persimmons, loathsome candies dyed magenta, scarlet, and green, masses of dried seaweed and fungi, and ill-chosen collections of the most trumpery of foreign trash, such as sixpenny kerosene lamps, hand mirrors, tinsel vases, etc., the genius of bad taste presiding over all.

Korea and Her Neighbors 朝鮮紀行 (講談社学術文庫) 

<併合前の半島>
イサベラ・バード著、朴尚得訳「朝鮮奥地紀行一」平凡社東洋文庫五七二より(同じイサベラ・バードの著書は、時岡敬子訳「朝鮮紀行」として講談社学術文庫として出されていますが、手許にあるより「朝鮮奥地紀行一」の引用です。イザベラ・バードと表記されている本もありますが、ここでは手許にある本よりイサベラ・バードと書くことといたします。結婚後ビショップと改姓したそうで、「朝鮮奥地紀行一」にもビショップ夫人という表記もみられます。

イサベラ・L・ビショップによるこの著書の序言として<私は1894年一月から一八九七年三月までの間に四度、朝鮮を訪問した>と書いてあるように、我が国が併合する前の朝鮮の姿が描かれています。(訳書ではソウルと表記されていますが、当時は漢城)


AUTHOR'S ; PREFATORY NOTE
MY four visits to Korea, between January 1894 and March 1897, formed part of a plan of study of the leading characteristics of the Mongolian races. My first journey produced the impression that Korea is the most uninteresting country I ever travelled in, but during and since the war, its political perturbations, rapid changes, and possible destinies, have given me an intense interest in it; while Korean character and industry, as I saw both under Russian rule in Siberia, have enlightened me as to the better possibilities which may await the nation in the future. Korea takes a similarly strong grip on all who reside in it sufficiently long to overcome the feeling of distaste which at first it undoubtedly inspires.


<ソウル近郊の木が伐られて裸にされた丘、海岸、条約港、そして主要幹線道路などは印象的ではあるが、この国に大変好ましくない感じを与えている。南部朝鮮の多くの地域に在る材木貯蔵所は閑散としている。しかし、北部と東部地方の山々には、特に豆満江、鴨緑江、大同江、漢江の水源地を囲み地方には、まったくのところかなりの原始林がある>
P三六~三七

INTRODUCTORY CHAPTER
The denudation of the hills in the neighbourhood of Seoul, the coasts, the treaty ports, and the main roads, is impressive, and helps to give a very unfavourable idea of the country. It is to the dead alone that the preservation of anything deserving the name of timber in much of southern Korea is owing. But in the mountains of the northern and eastern provinces, and specially among those which enclose the sources of the Tu-men, the Am-nok, the Tai-dong, and the Han, there are very considerable forests, on which up to this time the woodcutter has made little apparent impression, though a good deal of timber is annually rafted down these rivers.


ソウルの海港済物浦(仁川の旧地名)において日本人、支那人などが幅をきかせているとして
<読者は、済物浦のどこに朝鮮人が居るのか、と疑問に思うであろう。事実私はほとんど朝鮮人のことを忘れていた。というのは、ここでは朝鮮人はとるに足らない存在だからである。増えて大きくなっている朝鮮人の町は、ソウル街道の日本人居留地の外側に在る。イギリス教会が建っている丘の麓を巡って密集し、匍い登っている。どこの岩棚にも置かれている泥のあばら家には、不潔な路地を通って行ける。無口できたない子どもたちが群がっている。その父親の無為を真似て大道で傍観している。朝鮮人は丘の頂上の政府の衙門にも居る。朝鮮人の処罰方法である衙門の使い走りによる残忍な鞭打ち、犯人を死なせる打ちのめしによる苦悶の呻き声の中に朝鮮人は居る。その呻き声は、隣接しているイギリス教会のいく室もの部屋を貫通している。朝鮮人はまた、殆ど全ての衙門を不正の巣窟にしている。賄賂と汚職のなかにも見られる。二重になった屋根のある通用門と出入口の上の太鼓状の館が、よそものに首都と済物浦の活力は外国人のものであるけれども、政府は土着人のものである事を思い出させている。>
P六二~六三

ソウルについては
<私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また 紹興の悪臭に出会うまではもっとも悪習のひどい都市と考えていた。
大都市、 首都にしては、そのみすぼらしさは名状できないほどひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられた人々が「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしかない。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い緑によっていっそう狭められている。そのどぶは半裸の子供たちやどろどろしたへどろのなかを転げ回るか、日なたで目をぱちくりさせている汚物で汚れた大きな、毛の抜けたかすみ目の犬が大好きでよく行く所である。そこにはまた「小間物」やアニリン染料でけばけばしく色付けされたキャンディーの行商人も居る。その行商人はどぶに厚板を二、三枚渡して店を常設している。その品物は多分一ドルかそこらの値うちしかない。
略)
これらのどぶと隣接している家屋は一般に、深い庇と藁葺き屋根のあばら屋である。 その家は、泥壁の他には通りに何も見せていないが、時折屋根のすぐ下に見られる小さなかみの窓で人の住むところであると示している。
いつも変わらずに、どぶの上の二フィートから三フィートの高さの所に黒くなった煙の穴、煙と熱せられた空気の抜け口がある。 これは家屋の床を暖める役目を果たしている。
略)
反り返った瓦屋根のある上等な家屋も、この下品な外観以上のものを通りに見せてはいない。>
P七一~七四

<ソウルの「風物」の一つは小川、廃水渠または水路であり、塀で囲まれた、覆いのない広い導水管である。それに沿って、黒ずんだ色の爛れたような流れが、かって砂利だらけの川床であったところを覆っている肥やしや廃物の山の間の、悪臭がする長い広がりをのろのろと進んでいる。そこで、男たちだけの群集に疲れた人は、最下層の女たちの光景で活気づけられるかもしれない。ある女の人は、おたまで手桶に水として通用する混合物を汲んでいる。他の女性は、流れとして通用する悪臭を放つ水溜まりで衣類を洗っている。>
P八十二

<最下層の女性に就いて述べてきた。日中着物を洗い、水を汲む。多くの女性は家事の奴隷になっている。みんな最下層階級の者たちである。朝鮮の女性は非常に厳しく隔離されている。恐らく他のどこの国の女性よりももっと完全に隔離されていることであろう。>
P八十五~八十六

<朝鮮人にとってソウルは、そこでのみ人生を生きるに価する場所なのである。
それにも拘らず、ソウルには美術の対象になるものは何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の希有な一件を除けば見せものも無い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃虚も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルには寺院無しの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルには墓がないままにされている!
孔子廟とそして中国同様朝鮮で孔子の銘板に対して公的に表明される敬意を除いて、ソウルには公の神殿は一つも無い。違反したら死の処罰を受けるという条件があるので、僧侶はソウルの門内に立ち入らない。その結果ソウルは、中国または日本のもっとも惨めな都市にさえ見られる、宗教上の建物が与えている崇高な感銘を欠いている。>
p一〇六~一〇七

そして、同時期にソウル(当時は漢城)にあった日本人居留地についてイザベラ・バードは下記のように記しています。
<南山の斜面に、日本公使館の簡素で控え目な白い木造建築があった。その下に在る約五千人の日本人居留地には茶屋、劇場と、そして日本人の安寧に欠かせないいろんな設備が整っていた。そこにはその全てで朝鮮人のものとは鋭い対象をなしている商店や、家屋のある通りが見られた。清潔、上品そして倹約がこの上なく行き渡っている。被りものをしていない女たちや帯びで締めた化粧着を着て、下駄を履いている男たちが、日本に居るのと同じ様に自由に動き回っている。そこにはまた極めて小さな兵隊たちや憲兵、さらにきちんとしている、佩刀した将校たちが見られる。彼らは適当な間隔で見張りを交替している。そのような警戒が必要なのである。>
P八十

また、同じく長崎より出航した船上より見た対馬と釜山について
<肥後丸が寄港した対馬島は、私が日本を最後に見た所である。対馬の紅葉している楓と花咲く西洋李、神殿が建っている高台、森の中の神社へと通じている荘厳な石段、青々とした松林と金の羽のような竹の葉が、釜山の木が伐られて裸にされた褐色の丘が生み出す印象の、夏には心地良かろうが陽の差さない二月の日中には厳めしいその不気味さを強調していた。>
P四六

後書きによりますと、この著書を訳している朴尚得氏は一九二七年朝鮮生まれで、一九三五年に我が国に父親を尋ねて母親と来たそうで、東京大学文学部を卒業しています。そして中学校に入学した時に、学校に提出するために戸籍を取り寄せたところ、新井尚得に父親も関知しないのに変えられていて、「創氏改名を強制されたのである。一九四五年の日本帝国主義支配からの朝鮮解放、民族解放によって本来の朴尚得に戻せた。」と書いています。そして「つまり私は社会の下層で成長した人間なのである」とも書いています。
創氏改名については朝鮮人らしいウソを平気でついています。
あと、社会の下層で成長した人間でも国立大学に入れる日本はすばらしいと思うのですが。
文章中の注約のところでも、朝鮮という国名について、二つの候補を挙げ明朝廷の裁決を乞うたという事実を隠して書いている。(p三一~三二)両班については「一九四五年の民族解放とともにはじめて一掃された」P八四、などとウソを書いています。
まあ、何と言っても後書きにはお約束の「豊臣秀吉の侵略をうけ、四百年の永い年月が経ってもすっかり拭い切れない程の大災難を祖国朝鮮に、朝鮮民族、朝鮮人民にもたらしたのであった。更に朝鮮と日本、朝鮮人と日本人の間に計り知れない程の不和、難問、増悪、忌避などの不幸な事態をきたし、本来一衣帯水で親善、連帯を強められる筈の間柄を極度に悪化させたのである」
P三六九
と書かれています。
四百年前の朝鮮征伐(この言葉も使うなと書いております)による影響がまだある朝鮮って何でしょう。じゃあ、いったい四百年間朝鮮人は何をしてきたのでしょう。四百年間も残る拭い切れない大災難ってどんなのでしょう。我が国がアメリカより受けた被害よりすごいのでしょうか。そんな凄い被害を朝鮮征伐軍は朝鮮に与えてることができて、どうして撤退したのでしょう。あほらしい話です。つまるところ、朝鮮人にとってはいつまでも我が国が加害者で自分達は被害者でなければ、いろいろと困るということでしょう。まあ、「(朝鮮侵略と)史実を正確に言って欲しいものである」P三六八と書きながらこんなアホな事をつぎつぎと平気で書くこの朴尚得氏という在日朝鮮人。何とも分かりやすいお人としか言い様がありません。


http://resistance333.web.fc2.com/html/japan_korea_merger1.htm


「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897 年
(時岡敬子訳 1998 年 講談社学術文庫)
イザベラ・バード

(1831/10/15~1904/10/7)
世界的に有名な旅行家。23~72歳まで、通算30年に渡って世界各地を旅行する。

北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。

商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい。
(中略)
道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、ならしてない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、7 月はじめの雨で流されてしまう。そして10 月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。首都に中心をおく《六大道路》ですら、橋はふつう渡るまえにまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の川床に丸石をばらまいたもの以外のなにものでもなく、最良の場合でも、冬場のソウル・済物浦(ソウルの外港)間のように、ぬかるみの深さが1 フィートから3 フィートにおよぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、わたしも広くたどったが、朝鮮の発展の大きな障害のひとつである。
(中略)
道路が広くなると、その中央には固まった泥の山がつづき、両側には同じく固まった泥がうねになっている。道路が狭まれば、これはたんなる田んぼの畦道にすぎない。橋はとりわけ劣悪である。あまりに老朽化しているので、馬夫たちが馬を歩かせたがらず、どの川もじかに渡ったほどである。それでもこの道路は、わたしの踏破した三ヵ所がすべて悪路だったにもかかわらず、東海岸と西海岸からの貨物が行き来する第一級の幹線道路なのである。


A KOREAN MARKET
A miserable place I thought it, but later experience showed that it was neither more nor less miserable than the general run of Korean towns. Its narrow dirty streets consist of low hovels built of mud-smeared wattle without windows, straw roofs, and deep eaves, a black smoke-hole in every wall 2 feet from the ground, and outside most are irregular ditches containing solid and liquid refuse. Mangy dogs and blear-eyed children, half or wholly naked, and scaly with dirt, roll in the deep dust or slime, or pant and blink in the sun, apparently unaffected by the stenches which abound. But market day hid much that is repulsive. Along the whole length of the narrow, dusty, crooked street, the wares were laid out on mats on the ground, a man or an old woman, bundled up in dirty white cotton, guarding each. And the sound of bargaining rose high, and much breath was spent on beating down prices,which did not amount originally to the tenth part of a farthing.

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