java

Monday, July 23, 2012

comfort bag for imperial soldier 慰問袋

위안 자루
comfort bag for imperial japanese soldier 

http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/folder/1498271.html


http://www7b.biglobe.ne.jp/kuusyu1945-7-12/kushu/ihin1.html

慰問袋(いもんぶくろ) Imon-bukuro comfort sack for soldier

the comfort sacks were sent to soldiers in WW2.
there had been entered encouragement letter or painting from elementary school.
it was luxury content such as food at the first, tended to lack the domestic goods following with destined course to be bad, even content would become to be poor. the sacks were cotton or jute, became to replacing to be poor rayon.

● 戦地に赴任している兵士らに送られた。小学生らの激励の作文や、絵なども入っていた。最初は食料など中身も豪華だったが、戦局が悪い方向に向かうと国内の物資も不足しがちになり、内容も粗末になっていった。また袋も木綿や麻袋だったものが、粗末な人絹(スフ)に替わっていった。




Valuables bag (Kichohin Bukuro)
● What the soldier wore, something of precious for him such as family photo had been entered.

(mochi;to ready for memorial Relic to his family,for example a Japan flag with group efforts)
日の丸の寄せ書き
a Japanese flag on which signatures and good wishes from the neighbors of a young man headed off for war were scribbled (from ALC)


貴重品袋(きちょうひんぶくろ)
● 兵士らが身に着けていたもの、家族の写真などその人にとって大切なものが入っていた。


Sen'ninbari, needles of a thousand people  (wish stitching)

● a family of soldier goes to battlefield asked to a thousand women, to make sewing ending ball in a red thread for praying for his safe return.
"The tiger can go a thousand miles, also back home"
following to the ancient events,favored with tiger pattern.
Woman only born in year of the tiger was able to sew any number.

千人針
● 赴く兵士らの家族が、無事帰還を祈って千人の女性らに赤糸で一人一個の縫い玉つくりを依頼した。「虎は千里行って千里帰る」の故事にならい虎の図柄が好んで使用された。寅年の女性だけは一人で何個でも縫うことができた。



http://d.hatena.ne.jp/tadanorih/20070319


戦争とお菓子(2) 慰問袋にお菓子ドッサリ
血相変えた編集長の絶叫が、グラビアページでは一転、にこやかな“お菓子屋さん”風の笑顔で、菓子報国を謳歌するのだからたまらない。
皇軍兵士よ心安かれ 慰問袋にお菓子をドッサリ
……何だかなあ、である。コピーも秀逸で、
兵隊さんの楽しい憩ひのひととき お菓子の用意はよいか
と来たもんだ。ふーん、菓子報国とは、こうゆうことなのね。

慰問袋用として紹介されているお菓子は、甘納豆、ボーロ、牛皮飴、金華糖、金平糖、氷砂糖、缶詰ゆであづき、羊羹、懐中お汁粉などなど、昔懐かしい品目が並ぶ。現在では乳幼児用と思われているボーロを、兵隊さんも食べていたとは知らなかった。
ちなみに、この「ボーロ」、銀座風月堂の門林彌太郎の証言によれば、語源はポルトガル語のboloだが、日露戦争では商品名も「亡露」にあらためられて、軍用携行食として採用されたそうだ。
それはさておき、こうした品目がいちいち紹介されているのは、各菓子店が独自の慰問袋セットをあつらえる際の参考用だろう。実際、同誌の記事によれば、明治製菓は慰問袋詰め合わせお菓子セットを開発・発売しており、


http://oka-do.net/sweets/swe/swe_19.html


少しやわらかい生地の中に、濃厚カスタードクリームがたっぷりと入ったシュークリーム。濃厚なそのクリームには添加物は一切使用しないというこだわりも。
明治初期から変わらないレシピで、大切にそして丁寧に作られているから、どこか懐かしく自然の味わいがします。(リヨ)



自由が丘 風月堂 

明治時代のシューアラケレーム

http://blog.golfdigest.co.jp/user/satota/archive/91







代表取締役 門林泰夫さん



アリメント(昭和10年発売の育児用ビスケットと呼ばれるお菓子)
一里玉(マーブルキャンディー。大変堅く、一里歩く間にも口の中にある……から一里玉)
ドロップ
ストロベリージャム(写真で見ると、どうやら缶入りのものであったようだ)
ゼリー飴
カルミン(今も売っている大正10年発売のロングセラーお菓子。カルシウム入りのミント錠菓)

――などが、一袋にまとめられていたようだ。

慰問袋は当時の菓子業界にとって大きな市場であったに違いない。そもそも慰問袋は、銃後の女性や子どもたちが手作りの品を詰めるものかと思っていたが、できあいの「慰問袋」セットを購入するむきも多かったらしく、各百貨店ではオリジナル慰問袋を作って売っていた。
ご丁寧なことに「製菓実験」誌では、全国の有名デパートで、どんなお菓子を慰問袋に詰めているのかのアンケートまでとっている。


●三越本店(東京日本橋)
氷砂糖/ゆであづき/ドロツプス
●松坂屋(東京上野)
松坂屋ドロツプス(缶入)/練羊羹
●伊勢丹(東京新宿)
黒飴/氷砂糖/あられ
●南海高島屋(大阪市南区難波)
缶入粟おこし/缶入フルーツドロツプ/缶入氷砂糖
●阪急百貨店(大阪梅田)
阪急ドロツプス/明治ドロツプス/缶入粟おこし
●玉屋デパート(福岡市東中州)
博多銘菓「玉錦」/チョコレート羊羹/森永ドロツプス/氷砂糖


……と、どこも似たようなものだが、ひと味違うのが北海道の老舗デパート五番館(現在は札幌西武)。特製昆布菓子「後志の香」/道産バター使用「バター飴」 など、
慰問用菓子には特に郷土兵士に親しみ深い郷土制作を主題に御奨め致し居候
というのだから泣かせる。
ともあれ、こんな慰問袋ばかりが届くとすっかり虫歯になってしまいそうであるが、実はこの慰問袋、ぬかりなく北支現地住民の宣撫工作用にも使用されていたようで、グラビアにはこんな写真も載っている。


文字通り飴と鞭の「飴」部分を見る思いがする。

http://www.galstown.com/6/aboutme/nickel/news/candy/cmcandy1.html

乳幼児の栄養ビスケット
■明治アリメント■
明治製菓株式会社
□■□
シンプルなのにバランスがいいのかとても可愛いイラストです。「前髪くるくる」+「点の目」+「丸顔」はこのころの広告でメーカーを問わずよく見られますが、この顔はほっぺがちょっと出ているところがなんとも♪
アリメントは昭和10年生まれの育児用ビスケットと呼ばれるお菓子で、「特殊栄養食品厚生省許可第34号」と添え書きしてあります。先輩に中央製菓の「カルケット(大正10年代)」、森永の「マンナ(昭和5年)」などがあります。



http://sweets.nifty.com/cs/catalog/sweets_report/catalog_101026250986_1.htm


http://blogs.yahoo.co.jp/happychimama/archive/2010/5/16



我が家で 静かなブームの ちゃいなマーブル
「ちゃいな」 は陶磁器  「マーブル」 は大理石
陶器のように硬くて 大理石のような艶をもつことから名づけられたらしい。。。
『1粒で4km歩ける?!長持ちキャンディ!』って 書いてあった 
確かに ハードキャンディーだけど。。。
硬くて溶けるのに  『1里(4km)歩く間口の中にある』 
という意味で   『1里玉』 とも言うそうな 

随分 昔からあったのねぇ~~~



http://paperballoon.net/2008/03/post_76.php

森永ドロップ 帽子型 紙風船 



■形状:丸型
■重さ:2.08g
■一辺:21㎝
■エンゼルマーク付きの帽子型の紙風船です。


明治32年に森永太一郎氏が設立した森永西洋菓子製造所ですが、
明治時代にはドロップで、
大正時代にはキャラメルで人気となりました。




http://www.nostalgic-heroes.com/product/3261






http://sun.ap.teacup.com/etsefut/1427.html


http://blogs.yahoo.co.jp/sktmg553/16693709.html


http://www.meidi-ya.co.jp/news/20110202_2.html



「MY印イチゴジャム」(1913年当時)



左から「MY印オレンジマーマレード」「MY印杏ジャム」「MY印イチゴジャム」



http://o.tabelog.com/otrdtlrvw/1666/




みすゞ飴(長野)
薄いオブラートに包まれたオレンジ色や黄色のゼリーから、ちょっと酸っぱい風味が口の中に広がる。アンズ、ブドウ、白桃など6種類。100年以上の歴史がある懐かしい味だ。(2010年02月18日)


http://www.j-wave.co.jp/skytree/around/machi-42.html


http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-88.html





http://www.hyogo-c.ed.jp/~kaibara-hs/gaiyo/100nen/06.htm





http://www.yasoki.com/weblog/archives/2009/06/calmin_1.html



軍靴の響き・銃後の青春(女学校編)

「男子は戦場へ、女子は銃後の守りを-」
これが当時の合言葉だった。
戦争末期ともなると授業らしい授業もなくなり、女生徒達も過酷な工場労働に、また、製炭作業へと駆り出された。
少女のか細い腕を借りなければならないほど、時代は急迫していた。
昭和20年(1945)8月、終戦。




銃剣をとる女学生

昭和9年(1943)3月10日。 陸軍記念日に柏原中学校の教官の下で軍事教練が行われた。







愛国処女団団旗

昭和14年(1937)7月、柏原高女愛国処女団結成。 その前年の3月、国家総動員法が成立した。 柏原高女も戦時体制に組み込まれてゆく。





慰問帖
女生徒たちは、出征兵士を激励するために慰問帖や慰問袋を贈った。


慰問袋の中身

http://www51.tok2.com/home/kimutoshi/






http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/0_militarypostcard_01/militarypostcard02.html


満洲事変(満州)

軍隊漫画絵葉書


the departure to the field in the cheers.

"good bye, i am going to the battlefield"
"i will do my best"
"Manchuria is  our lifeline,we leave our back to you"
"after leaving you, i will take on your family at all"
"Banzai,Banzai;Cheers"
"as your wife,i will keep our home behind the lines"

go far to 2720 km
back my country

"i feel nauseous..."
"he has already have shipsick"
"hei,Hamada!"
"if i will die,i ask you bring back my bones"
"finally goodbye my great country"
"how far from my imperial country here?"
"we will die for my majesty, do our best and fight"
"i will never forget forever everyone's cheers on the streets"

歓呼の聲に送られて出征


「デハ行ツテマヰリマス」
「ハツ大イニヤルデアリマス」
「満洲ハ我等ノ生命線  シツカリ頼ムゾ!」
「後ノコトハ萬事引受タ」
「バンザイバンザイ」
「私達ハ銃後ノ護リヲシツカリト」

道は六百八十里
故國を後に

「ウーイ… 胸ガムカムカシテキタンダ ウーイ」
「モウ船ニ酔ツテシマツタノカ」
「オイ浜田!」
「俺ガ死ンダラ骨ヲタノムゾ」
「イヨイヨ御國トモ オ別レカ」
「ココハ御國ヲ何百里」
「俺達ハ陛下ノタメ國ノタメニ命ヲステテガンバルンダ!」
「沿道至ルトコロデ受ケタ國民ノ熟誠ハ忘レラレナイヨ




可愛いイラスト入り『モンチャンの千人針』慰問袋





http://homepage2.nifty.com/okonomigaki/2007-07/j5.html
1940年9月、日中戦争時、手縫いの慰問袋を戦地の兵隊へ
送るためにトラックに積み込む女子生徒ら=石川県立金沢第一高等女学校同窓会編「創立百周年記念誌 済美」から。
井上満子さん提供



戦時中の日章旗寄せ書き

硫黄島の戦い 戦利品を見せびらかすアメリカ兵たち Battle of IWOJIMA 1945

硫黄島から帰国する米軍兵士達。日の丸の寄せ書きや日本刀を誇らしげに見せびらかすアメリカ兵たち。 アメリカ兵が戦利品として持ち帰った旧日本兵の日の丸が、軍ヲタの間で1枚200ドルで売買されている 1 : 電卓(愛知県) : 2009/12/08(火) 21:20:20.36 ID:25Lrwp4A BE:696476063-PLT(12000) ポイント特典 [1/2回発言]  12月8日放送のNHK「クローズアップ現代」で、太平洋戦争中に戦死した日本兵の遺品である日の丸が、 遺族に返還されることなく、アメリカと日本でさまよっている問題が取り上げられた。 番組では、アメリカのミリタリーオークションでは、寄せ書きされた日本兵の日の丸が1枚200ドルで 売られる様子が映し出された。
日の丸を買ったのは、日の丸コレクター。寄せ書きが書かれた日本兵の日の丸を芸術品、文化財として 扱い、決して素手では触らない。今まで集めたコレクションは200枚。 「自分のような者が日の丸を集めてこなかったら、こんなに綺麗に保存されない」と胸を張る。 一方で日の丸を遺族に返したいという元アメリカ兵もいるが、身元特定が困難で返還が難しい 現実がある、と番組は締めくくった。 日の丸返還の活動を行っているサイト。  旧日本軍人の遺留品  http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/iryuhin/ クローズアップ現代  放送記録12月8日(火)放送 さまよう 兵士たちの“日の丸” http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2009/0912-2.html#tue 出征する兵士の武運長久を祈って、家族や友人が寄せ書きした日章旗。  「これを持っていれば弾に当たらない」、多くの日本兵が体に身に付け戦い、戦死した。 その日章旗がいま、アメリカの武器オークションなどでさかんに売買されている。 大半はアメリカ兵が戦場から戦利品として持ち帰ったものだ。当事者や遺族が手放している。 戦後64年が経ち急速に「歴史」となろうとしている戦争の記憶。 だがその一方で、持ち帰ったことを後悔し、日章旗を遺族に返したいと強く願っている元アメリカ兵もいる。 戦争の記憶をどう語り継いでいけばいいのか。さまよう日章旗の姿を通して考える。(NO.2829)   http://blogs.yahoo.co.jp/japaneseweapons/60651897.html 売られる日の丸、ちょっと違うNHKさんの視点 2009/12/9(水) 午前 8:31無題軍事
昨夜の「クローズアップ現代」 おわりは半籐 利一さんがしめた。  「武運長久」は生きて帰れと言う回りの人たちの願いの言葉だと。? アメリカのガンショーで売られている、大戦中日本兵が身に付けていたと言う、寄せ書きの日の丸のことだ。 私が11年間、アメリカで日本軍のものを集め、研究した、「感じ」こととNHKの取り上げ方は少し違う。 多くのアメリカ人から、写真、アルバム、日の丸を日本の遺族に返してくれと依頼された。 全部、厚生省に送った。 「受け取った」と言う返事は来た。特にアルバムは軍事写真や記述はいっさい無くて、家族、職場、友人、剣道の写真ばかりの大判の厚いものだった。南方からだと、ハリス・オッファーがアリゾナに持って来た。 このアルバムに関しては厚生省はかなり詳細な返事をくれた。 北支の風景、九州の人だと。しかし手がかりはないが、何らかの方法で保存する、と言うものだった。 さて寄せ書きの日の丸に関してのコレクターが手袋をはめてひとつひとつ丁寧に出していたが、あれがアメリカのコレクターの態度だ。レスペクトしているのだ。 結局はアメリカのコレクターのもとにあるほうが丁寧に保存してくれる。他の装具や武器兵器も同じ。 遺族に返す、そういう考えの人もいること、そしてこういう貴重品扱いしてくれること、この点が抜けていた。 ちなみに武器兵器は日本に来れば全て破棄だ。 また寄せ書きの日の丸はあれだけの価格がつくと、日本人が偽物を作ることは予想される。 画像は我が伯父の遺品だ。汗のシミだらけでとても商品にはなりそうもないが、戦死したときには基地の 行李に入っていたようだ。 http://news.kanaloco.jp/common/user/news/photo/1/120127/9_134959.jpeg
寄せ書きが添えられた日章旗を示すリードさん=在日米海軍司令部 第2次大戦当時、出征を控えた旧日本軍の兵士たちに贈られたとみられる寄せ書きを添えた日章旗が、米軍人の遺品から見付かった。来日した家族が持ち主を捜している。 旗を保管しているのは、米ミネソタ州に住むマイケル・リードさん(40)。医療機器メーカーの会社員だが予備役の米海軍中尉でもあり、訓練のために在日米海軍司令部(横須賀市)に滞在している。現役時は航空機整備担当者として、厚木基地(大和、綾瀬市)に配属されていた。 日の丸は、第2次大戦時に海軍兵としてフィリピンやパラオに出征した祖父が保存していた。 2000年に77歳で亡くなり、遺品を整理していた祖母が、制服の間にたたんであった旗を発見した。  旗はほぼ正方形で、一辺が約70センチ。「武運長久」のメッセージに、数多くの名前が記されている。比較的大きく書かれた名前には「花田敏行」「藤野登」「能登達雄」などがある。 このうち「岡部元三郎」の名前については、「宇都宮の歩兵連隊にいた父では」との連絡があったが、生存者の存在は確認ができていない。 リードさんは「祖父はあまり戦争体験を語らなかったので、この旗を持っていた事情は分からないが、これは歴史の一部分。持ち主が分かればお返ししたい」と話している。  米海軍もツイッターで旗の写真を公開している。 情報は横須賀基地広報部ファクス046(816)7911。   ロイヤル・スコットランド連隊 (Royal Regiment of Scotland)
ビルマ戦線で戦利品(日本兵の日の丸寄せ書き)を広げてポーズを取るロイヤル・スコッツ兵士(1945年)   http://yodo4072.militaryblog.jp/e269572.html
貴重品袋 軍隊手帳等 私物を入れていた物  http://www.hlswilliwaw.com/Nishiha/sonota.htm M008  (貴重品袋) 




元の持ち主名 特記事項
谷村秀雄
1945年3月、硫黄島にて戦死

2004年5月、鹿児島県のご遺族に返還

No comments:

Post a Comment