java

Sunday, July 8, 2012

Great Kanto Earthquake (Tokyo Memorial Hall )

http://tamutamu2011.kuronowish.com/kanntou.htm
☆関東大震災(東京都慰霊堂)☆








死者・行方不明者10万人あまりを出した関東大震災は政治的には間が悪い、というより最悪のときに起きた。1923(大正12)年8月末、(第21代)首相の加藤友三郎が急死、28日に山本権兵衛が後任に指名された(第2次山本権兵衛内閣)。ところがゴタゴタで組閣もできないうちに9月1日の大地震に見舞われたのだ(組閣は9月2日)。
▼つまり日本の首都が壊滅的打撃を受けたとき事実上内閣が不在だったのである。それでも発生から2時間後の午後2時、官邸で臨時閣議を開いている。翌2日には臨時救護費の即時支出を決定するなど、あわただしく救援や復興に乗り出す。
▼新閣僚の中でも出色の動きを見せたのが内務相の後藤新平(1857~1929。岩手の生まれ政治家。満鉄初代総裁となり、植民地経営に活躍。逓信・内務・外務各大臣、東京市長などを歴任。また、日ソ国交回復に尽力した)だった。何と地震の5日後には「帝都復興の議」を提案、帝都復興院を設置し、自ら兼任で総裁に就く。ここに内務省から優秀なスタッフを引き抜き、猛烈なスピードで復興案を練り上げる。
▼後藤は恐らく近代日本では最も優れた行政官だった。台湾総督府の民政長官として台湾統治を軌道に乗せ、初代の満鉄総裁となってその礎(いしずえ)を築いた。言うことが気宇壮大(きうそうだい=度量・構想などが並外れて大きいさま)で「大風呂敷」とのあだ名もあったが、国民からの人気は抜群だった。
▼その帝都復興案は100メートル道路など東京を欧米の最新都市のように造り変えるものだった。国家予算が15億円ほどの時代に40億円はかかるといわれ、議会の猛反発を受け、最後は大幅縮小される。だがその前向きな案は、後藤の人気とも合わせ被災者に大きな希望を与えた。
▼今回の大震災でも菅直人政権は、復興も視野に閣僚増や野党からの入閣を求めている。だがその前に17人もいる現閣僚の中に後藤のように「オレに任せろ」という人はいないのか。任せられる人材も乏しいとすればこれはまた悲劇だ。
11年3月20日配信『産経新聞』-「産経抄」」
象徴派詩人で「青い山脈」などの歌謡曲の作詞もした西条八十(さいじょう やそ=1892~1970。東京の生まれの詩人・フランス文学者。大学在学中から「早稲田文学」に作品を掲載。のち、「赤い鳥」に多数の童謡を発表。詩集「砂金」、童謡集「鸚鵡〈おうむ)と時計〉など)は関東大震災の日の夜、東京の上野の山で夜明かしをした。眼下に広がる市街は一面火の海で、避難してきた人々も夜がふけるとともに疲労と不安、飢えで口もきかなくなった
▲すると近くの少年がポケットからハーモニカを出した。詩人は驚いて吹くのを止めようとする。この悲痛な夜半にそんなことをすれば、周囲が怒り、殴られかねないと思ったからだ。だが止める間もなく、曲が奏でられた▲危惧は外れた。初めは黙って化石のように聞いていた人々は曲がほがらかになると「私語(ささやき)の声が起こった。緊張が和んだように、ある者は欠伸(あくび)をし、手足を伸ばし、ある者は身体の塵(ちり)を払ったり、歩き回ったりした」。荒冬の野に吹いた春風だったと詩人は回想する
▲11県で約41万人が避難生活を送る東日本大震災の被災地である。きのうから冬型の気圧配置が強まり、暖房のない避難所ではつらい一夜となったに違いない。寒さに加え、水、食料、医薬品の不足も依然解消されていない
▲被災地は広域に及び、交通途絶が続く。自治体機能も回復せず、ボランティアもなかなか入れない。そんな避難所での被災者同士の助け合い、いたわり合いを伝えるニュースには目頭が熱くなる。きっと上野のハーモニカ少年のように希望の春風を起こす人もいよう▲被災地で不足が目立つ輸送用燃料をめぐり政府は国民に買い占めの自制を呼びかけた。遠くの土地の不用意な行動も、いてつく避難所の人々と無縁でありえないこの列島の暮らしである。連帯の春風はそのどこからでも届けられるはずである。
11年3月17日配信『毎日新聞』-「余禄」

「正義の士をそんなふうに扱ったりすると、天変地異がおこりますぞ」=あらぬ嫌疑を受けた若い座員が警官をなぐったことから警察の取り調べを受けた新国劇の沢田正二郎(1892~1929。芸術座を経て1917年新国劇を創立。「月形半平太」「国定忠治」などの剣劇もので大衆劇に新境地を開き、「沢正【さわしよう】」の名で親しまれた俳優)が刑事にいった言葉。1923(大正12)年9月1日午前11時のことだった。その58分後に起きたのが関東大震災。
「東京という処(ところ)は不便な処だ……もし万一の自然の災害のために、電流の供給が中絶するような場合が起ったらどうだろう。吾々はあまりに脆弱(ぜいじゃく)な文明的設備に信頼し過ぎている……永続きする断水や停電の可能性は、いつも目前にある」(一部略)と関東大震災直前の9月1日朝書いたのが、「天災は忘れたころにやってくる」との言葉で有名な寺田寅彦(1878~1935。明治~昭和時代前期の物理学者・随筆家)である。
05年09月01日付『毎日新聞』-「余録」

一つの国の災害に、世界中が関心を寄せるようになるのは、1923(大正12)年9月に起きた関東大震災が始まりだといわれる。援助を送った国は30を超えた。なかでも、質、量ともに抜きんでていたのが米国だった。『関東大震災と日米外交』(波多野勝、飯森明子著、草思社)によると、クーリッジ大統領(John Calvin Coolidge。1872~1933。共和党選出の第30代大統領。在任1923~1929。経済の自由放任・行政簡素化・低税率などの政策を実施。対外的にも経済進出と協調外交を推進、米国に「黄金の20年代」とよばれる繁栄をもたらした)は、震災翌日には天皇に見舞い電を打った。陸海軍に出動命令を出し、赤十字には援助活動を呼びかけ、義援金1060万ドルを集めた。現在では600億円以上になる。それまで良好とはいえなかった日米関係が一変する。大量に持ち込まれた毛布やベッドを前に、被災者たちは親米一色に染まった。2カ月後に一時帰国した駐日米国大使を、沿道を埋めつくした群衆が、万歳を叫んで見送ったという。…結局震災から18年後、日本と米国は全面戦争に突入する。
08年05月30日付『産経新聞』-「産経抄」


1923(大正12)年の9月1日、午前11時58分44秒。相模湾北部(東経139.3度、北緯35.2度)を震源とする関東を襲った大地震で、地震の強さは最大震度7、規模はM7.9。ちょうど昼食時であったため、地震による家屋の倒壊によって134か所から出火し、9月3日午後2時に鎮火するまで丸2日間燃え続けた。大火災のための気温の上昇で、東京の1日夜半の温度は46℃にも達し、初震以来5日午前6時までに人体に感じた余震は実に936回(地震当日だけでも114回)を数え、各地に津波が襲来した。



震災で破壊された東京・下町


その日はちょうど210日の前日であった。東京地方は午前3時頃、やや激しい風雨を催したので、農家の厄日(やくび=農家で、天候による災難が多く起こるとされる日)を気づかい始めたが、夜が明けてみるとカラリと晴れて、さわやかな初秋の朝日を見せた。人々、ホッと息をついた昼頃、どこでも午餐の支度を整え、あるいは食卓についている時分、不意にどこからともなく、異様の音響が起こったかと思うと、たちまち大地が波うちはじめて、振動は次第に激しく、やがて一大震動とともに、壁が崩れ、屋根が落ち、塀が倒れ、柱が折れ、家という家はことごとく大破し、あるいは倒れ、あるいは潰(つぶ)れた。土煙(つちけむり)が八方から上がったと見ると、早くもその中から紅蓮(ぐれん=盛んに燃え上がる炎の色にいう語)の舌がよろよろと上がり始めた。2度目の強震がきたときは、ほとんど屋内にいる者はなかった。逃げ遅れた者は悲鳴を上げて助けを呼ぶ。阿鼻叫喚(あびきょうかん=阿鼻地獄に落ちた亡者が責め苦に堪えられず、泣き叫ぶさま。非常にむごたらしいようす)の大地獄は、至る所に現出された。

1923(大正12)年9月(報知新聞付録)「大正大震災誌」


1926年の東京市役所編『東京震災録 前輯(ぜんしゅう)』によれば、被災者は約340万人(1府6県の人口の29%、うち横浜市は人口の93%、東京市は人口の75%)、死者9万1,344人(死因のほとんどは焼死)、行方不明1万3,275人、重傷1万6,514人、軽傷3万5,560人、全焼38万1,090世帯、全壊8万3,819世帯、半壊9万1,232世帯、損害額は推定約55億円余にも及んだ(1922年度の一般会計予算が約17億7,000万円)。東京では7割の家屋が焼失したのをはじめ、鉄道、市電、変電所等都市のインフラは大半が焼失、日本の心臓部である京浜地帯も壊滅的な打撃を受け、被害は東京府を中心に神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の1府6県に及んだ。


震災後の2日3日には、至る所に焼死体や溺死体や圧死体が横たわって、見る者の目を覆わしめた。なんと言っても一等多くの死体を扱ったのは管内に被服廠(しょうしゃ=屋根だけで壁のない仮の建物)跡を有する本所相生署で、8日までに4万1,990人を収容した。大川筋から東京湾へ流れ出た死体で遠く千葉県へ漂着した者も多数あった。現場に火葬場を設けて、次から次へと煙にしたが、焼いても焼いても焼き切れない。

1923(大正12)年9月(報知新聞付録)「大正大震災誌」


震災直後の大混乱で、民衆の不満の矛先が権力側に向けられることを最も恐れた震災当時の治安担当部署であった内務大臣・水野錬太郎(1919年の「3・1人民蜂起」当時の朝鮮総督府政務総監)、内務省警保局長・後藤文夫、警視総監・赤池濃(「3・1独立運動」当時の朝鮮総督府警務局長)の3人は、戒厳令を発令による治安を掌握の口実として、朝鮮人暴動なるものを作り出して、軍隊動員を前提とする戒厳令を発布したのである。

そのため、流言飛語(流言蜚語=りゅうげんひご=世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。根拠のない扇動的な宣伝。デマ。虚偽情報)を意図的に流すところとなる。すなわち、地震災発生3時間後の1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞(ふてい)鮮人暴動」「3・1独立運動」を朝鮮総督府に弾圧された朝鮮人が、日本人を恨み、震災の混乱に乗じて暴動を起こそうとしている」「鮮人が一斉に蜂起して、町に火を放ち井戸に毒を投げ、日本を乗っ取ろうとしている」などの全くのデマが警察や軍隊の中から流されえる。

震災で恐怖におののく民衆は何の根拠もない悪質なデマに惑わされた。各地で警察の指導のもとに東京都内で562、関東全域で3,686の自警団が組織され、警察を初めとする官憲らと共謀して多数の朝鮮人や中国人を虐殺するところとなる(約600人が起訴されたが実刑は少なかった)。



竹槍や銃剣で武装して朝鮮人狩りに備える自警団

吉野作造(1878〔明治11〕年~1933〔昭和8〕年。宮城県生まれの政治学者〔東大教授〕・思想家。民本主義を唱え、普通選挙・政党内閣制を主張していわゆる大正デモクラシーを指導した)が伝える朝鮮罹災(りさい)同胞(どうほう)慰問班の同年10月末までの調査では死者は2,613名(内務省警保局の調べによる犯人の判明している被害死者数は、朝鮮人231名、中国人3名、日本人59名)を報告されているが、実際には6,000人から1万人の朝鮮人が虐殺されたと推定されている(中国公使館の調査によれば、中国人の行方不明者は約160~170名)。

こうした事件の背景には、朝鮮民族への蔑視、差別、排外意識があり、他民族侵略思想があった。悪意に満ちた情報操作と情報の遮断、そして差別と蔑視意識を権力によって植え付けられていた民衆の正常な判断能力の欠如が世紀の惨劇を生んだのである。

しかし、この歴史の暗部(恥部)に対する責任追及と批判の声は余りにも少なかったばかりか、日本の権力は、「虐殺者は民衆。軍はそれを鎮圧した側だ」としてその一切の責任を「自警団」に転嫁した。そのため後の裁判でも、軍の責任者は1人も処罰されていないのである。そのうえ、事件の記録さえ未だに整理されていない。

さらに陸軍と警察は、混乱に乗じて社会主義者や先進的労働者の撲滅を企て、9月3日夜から4日未明かけて、平沢計七・川合義虎(かわいよしとら)ら10人の労働者が軍隊に虐殺されたいわゆる「亀戸事件」が、同月16日には、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝夫妻らが甘粕正彦(あまかすまさひこ)憲兵大尉らに殺害された、いわゆる「甘粕事件」が引き起こされた。

白色テロ(権力者や支配者が反政府運動ないし革命運動に対して行う激しい弾圧。なお、白色はフランス王権の象徴であった白百合に由来する。この対極が、革命遂行のために、無政府主義者などが行う反権力的暴力行為を意味する「赤色テロ」)である。

なお震災当時、大正天皇は病弱で皇太子裕仁(昭和天皇)が摂政(せっしょう=天皇が未成年であったり、病気・事故により国事行為を行えない場合、天皇の名で国事行為を行う者。皇室典範に定める順序により、成年の皇族が任じられる)を務めていた。





東京都慰霊堂

関東大震災の身元不明の遺骨を納め、犠牲者の霊を祀る震災記念堂として東京都により創建された東京都墨田区の横網町公園内にある慰霊施設。1948(昭和23)年より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、犠牲者の霊を合祀して、1951(昭和26)年に現在の姿となった。








http://tamutamu2011.kuronowish.com/ireidou.htm


☆ 東京都慰霊堂 ☆

関東大震災の身元不明の遺骨を納め、犠牲者の霊を祀る震災記念堂として東京都により創建された東京都墨田区の横網(よこあみ)町公園内にある慰霊施設。
1948(昭和23)年より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、犠牲者の霊を合祀(ごうし=2柱以上の神や霊を一神社に合わせ祀【まつ】ること。また、ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。合祭)して、1951(昭和26)年に現在の姿となった。
1943(昭和18)年に建築界ではじめて文化勲章を受章した伊東忠太氏の設計。












東京都慰霊堂がある横網(よこあみ)町公園は陸軍被服廠(ひふくしょう=軍服や軍靴【ぐんか】を製造する工場)跡。1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起き、被服廠の移転跡地で公園予定地として更地(さらち=建築物などがなく、宅地として使うことができる土地)とされていたこの場所は、多くの罹災者の避難場所になった。多数の群衆と人々が持ち込んだ家財道具で混乱を極めていたが、周囲からの火災がこの家財道具に燃え移り、また火災旋風(火事場風。火災現場で発生するものとしては、火の粉のほかに旋風【激しく渦巻状に吹く風】がある)のよる猛火で、この地だけで東京市全体の犠牲者の半数以上の3万8000人(推定)が犠牲になったといわれている。




震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記

顧れば1923(大正12)年9月1日突如として関東に起こった震災は東京市の大半を焦土と化し、5万8千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横綱町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに1930(昭和5)年9月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は135尺基部は納骨堂として5万8千の霊を奉祀し約200坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも1944(昭和19)、45(昭和20)年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った。戦禍の最も激じんをきわめたのは45(昭和20)年3月10日であった。江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約7万7千人を失った。当時殉難者は公園その他130ヶ所に仮埋葬されたが48(昭和23)年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、51(昭和26)年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
横綱公園敷地は約6000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。

1951(昭和26)年9月 東京都




東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑






関東大震災 朝鮮人犠牲者 追悼碑

この歴史
永遠に忘れず
在日朝鮮人と固く
手を握り
日朝親善
アジア平和を打ちたてん


1923年9月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
1973年9月
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会





横網町公園復興記念館(震災記念屋外ギャラリー)
YOKOAMI OPEN GALLERY
1923(大正12)年9月1日午前11時58に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。
当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を転じすることにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたものである。

鉄柱の熔塊
Mass of Melted Iron Pillar
大日本麦酒株式会社吾妻工場内の鉄柱が、猛火により熔解し、かたまりとなってしまったものである。


だだっ広い平地の真ん中からのぼる1本の煙。かたわらの立ち枯れた1本の木。後ろに、丸屋根の建物が一つ
▼一見、さびしくものどかな風景の写生と思うかもしれません。しかし実は、煙の火元は人の死体です。関東大震災から半月後。ところは東京・両国の国技館のすぐ近く。画家・竹久夢二のスケッチです
▼昔、ここに軍服や軍靴をつくる工場がありました。のちによそへ移り、広い空き地が残ります。1923年9月1日、関東大震災。跡地へ逃げ込んだ市民たちを炎が襲い、人も物も燃やし尽くしました
▼死者3万8千人とも4万4千人とも伝えられます。10万5千人という関東大震災の死亡・不明者の4割前後です。夢二はあくる2日、現場を訪れます。しかし、もがき苦しんだ人たちの形相をみると、どうしても描けません。半月後の写生は、最後の1人をだびに付す光景を描いています
▼夢二が「緑の楽土にして」と願った跡地は、やがて横網町公園へと姿を変えました。「慰霊堂」や、震災時に虐殺された朝鮮人を追悼する碑がたちます。いま、一角の復興記念館で「竹久夢二 震災スケッチ展」が開かれています
▼「若いころから社会主義に共感し、弱いものに寄り添って絵を描いてきた夢二」。孫の竹久みなみさんのあいさつ文に導かれて入ると、人を思いやり、理不尽に怒り、権力を皮肉る絵が並びます。夢二は、絵にそえる文に書きました。「自然は…一揺りにして…太古を取返した」。“(防災へ)次の東京を緑の都に”(11年9月1日配信『しんぶん赤旗』-「きょうの潮流」)。

注;竹下夢二―=1884~1934。岡山の生まれの画家・詩人。本名、茂次郎。大きな瞳に愁いをたたえた、夢二式美人は一世を風靡(ふうび)し、多数の詩画集を世に送った。「宵待草」の作詩者としても有名。

No comments:

Post a Comment