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Sunday, July 8, 2012

History of Korean customs,the midnight tales 朝鮮風俗史夜話

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1852216795&owner_id=686116

朝鮮半島の売春婦、テキサス村
朝鮮風俗史夜話

Whores in Korean Peninsula,by Texas village
the history of Korean customs,the midnight story


http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/330.html


Han River is flowing through into the Seoul court
author; Im jong guk

ソウル城下に漢江は流るる
著:林鐘国 訳:朴海錫、姜徳相

原題は:韓国社会風俗風俗野史(1980年)

韓国に都合の悪い記述が多いので、胡散臭い書物だとチラシの裏の人達は思っている様ですが、作者の林鐘国は、詩人、文芸評論家で、 著者の林鐘国は、「親日文学論」や親日派名簿の原作者 (この名簿には、自分の父親や恩師の名前も入れたと言われている)で、所謂親日派研究家と言われていますが、かなり中立的なソースとして扱えると思います。野史と言うのは民衆の歴史の事です。要するに王族・両班の派手な歴史に隠れた闇の部分です。

現在、廃本になっており古本でしか入手出来ない。



http://japanese.joins.com/article/731/153731.html
a new actress committed suicide in S.Korea "the shock" in the entertainment industry.
韓国で新人女優が自殺…芸能界に“衝撃”
2012年06月14日14時30分


actress and actor has worked part-time prostitute job trade since ancient times.
especially in Korea, women were handled as dependents of men, treated as sexual slavery. they had customs that man held out his concubine or daughter and let lying with visiting dignitaries.

The following is the introduction of the books that detailed description for Kisaeng and prostitutes.




昔から女優や役者は売春業も兼業するものでした。
とくに朝鮮では、女性は男性の従属物、性奴隷扱い。賓客が訪れると娘や妾を差し出して添寝させる風習もあったのです。

以下、キーセンや売春婦に関する記述が詳しい本の紹介です。
レビュー

ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話
4.50点 ( 2人中)
1987
平凡社
林 鐘国, 朴 海錫, 姜 徳相


●客妾(ケクチョプ、객첩)Gaeckcehop
Gaeckcehop,there was the traditional custom that wife or daughter serves sexually service for house customer in Joseon korea peninsula.

찬비(饌婢) Chanbi
천민 賤婢 Cheonmin

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●朝鮮半島には『客妾』という、客に性的サービスをする風習があった。
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客人として地方の有力者の家で一夜を過ごす場合、泊る客人の身分にもよるが、たいてい食事の世話をするのは饌婢(せんぴ)と呼ばれる はしため である。接客する方も夜伽を差し出さねばすまないほどの高貴な客が来訪すると
―――むかし朝鮮では一時、賓客が訪れると娘や妾を差し出して添寝させる風習があって、これを客妾といった―――
どんな大監(正二品以上の高官)であっても、夫人とか娘を客に供し、かの女たちはそれぞれ独自の方法で相手を勤めたものである。 p16

酒幕は旅人が一夜を休んでいく、いうならば昔の旅館である。(略)これら大小の酒幕は元来酒を売るのが本業であった。周知のように都会地のそれは大体飲食専門であるが、田舎では旅人宿も兼ねていた。そこに立ち寄る客が両班でも常民(賤民を覗く農工商の一般民衆)でも、差別をしなかった。
酒幕のなかにかカルボと呼ばれる売春婦兼酌婦を置いたり、
場合によっては経営者である酒母がみずから客をとることもあった。P36
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●暴力沙汰になるので薪を傍に置けなかった。
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妓生の部屋でも牛肉や豚肉の料理を作ったが、肉の煮炊きには薪を使わないのが鉄則になっていた。(略)そのとき薪は絶好の武器になる。それで妓生たちが薪を用いないのは、危険な武器を身近に置かないという心遣いなのであった。P17

このように昔の妓生のくらしは、今日我々が想像するような華やかな世界とは全く異なるものだった。部屋には衣装箪笥、鏡台は勿論のこと、木枕も火鉢、便壺(携帯トイレ)すら置けなかった。部屋のなかで争いが起きるとそれらのものを抛り投げて毀す心配があるからである。
妓生の部屋にある家財道具といえば部屋の隅の方の天井に吊るされた竹籠があるだけで、籠の中に着替えの衣装が入っている。宴席の雰囲気が邪悪になると、妓生たちは何はさて置き、その竹籠を天井からはずして一目散に逃げ出すのである。
妓生の部屋でさえ家財道具がこんな有様であるから、商人宿である客主の雑居部屋は一層酷いものである。箪笥でも置いているのは二牌という二流の遊女の家である。かの女たちは妓生とは異なり、こっそりと隠れて売春をしていた。
これらのほかに旅人が休息する場所は、餅屋通りの屋台の餅屋、峠の露天、雪濃湯(牛の肉汁)を売る店、安酒を売る小屋がある程度で、旧韓国時代(李氏朝鮮末期の別称)には料亭も食堂もなく、せいぜい酒幕と客主があるだけであった。P18
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●汚い宿泊所
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道ばたの空家ともみえるものだが、軒下に馬の飼葉桶と棒杭が立っているので、辛うじて旅館だとわかる。(略)
酒幕では客がくれば主人はまず掃除をはじめる。しかし、掃除といっても大したことはしない。藁庭をはたいて埃を一方の隅に掃き集めるだけで、その間白っぽい埃がたち込める。したがって埃は結局掃除する前に比べ全く減っていないのである。この埃は無数の虱と南京虫の巣なのである(後略)P38
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●道路整備ができなかった
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(閔妃の時代)
朝鮮では道路行政という言葉すら聞けなかった時代である。山の樹木すら削って食べるような時代に街路樹など誰も植えなかった。棒杭一本でも打ち込もうものなら、その日のうちに牛馬が繋がれるか背負子(チゲ)用の棒に変わってしまう。P56

李朝500年の間、道路の区画は大むね整然としていたことは、「経国大典」(7代王世祖の時作った国家の法典)とか、前に引用した「六典条例」の規定を見てもわかる。p59

仮家が占拠した道路の敷地は、いつの間にか私有地のように転売されるようになり、数多くの紛争を起こしたりした。p61

厳格な意味で、車両の通行できる道というのは極めて少ない。p64

こんな事情なので、日清戦争に敗れたとき、清国の将軍たちは口を揃えて、道路や橋梁が悪かったので、敗れたのだと言ったものである。p65
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●路上でウンコしてた
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「路上に脱糞するなかれ」というのは1910年代に盛んに書かれた社説の重要な論題であった。
そのうちの一つ、
1911年6月8日付『毎日申報』社説「道路清潔の注意」にこう書かれている。
「商家などは一定の便所がないので、屋内に鉄筒あるいは木器を置いて放尿し、それを自家の門前の路上に棄てるので、通りがかりの警吏はそれをまた洗面した水だと信ずるという具合である。自分で自家の門前に汚物を棄てるとは、まことに恥ずべきことである。P59
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●犬に人糞を食べさせて、その犬を食べていた?
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また、ソウルの名物の一つは犬である。
便所の代わりにするために飼うのであるが、エミール・マーテルは、つぎの様に述べている。
『むかしの市街は非常に汚かった。犬は非常に多く、ほとんどどんな家庭でも飼っていたが、病犬が多いのには閉口した。びどうな話でいまどきの朝鮮人諸君は驚くかも知れないが、むかしは赤ん坊の用便はことごとく犬が掃除してくれるという、実に不潔きわまる有様であった。』『外国人のみた朝鮮外交秘話』P69
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●人間家畜の奴隷制度
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それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。P146

奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、 ひどい場合は打ち殺されることもあった。外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、 売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている 年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された 不幸な運命の主人公であった。P147

奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になっていた。
この制度は李朝になっても全く改善されることがなかった。
したがって、奴婢は李朝時代でも同じように売買・略奪・相続は勿論のこと、贈物として譲与されもした。
また貧窮した者は借金の担保として妻を婢に押さえられたり、借金の抵当に子供を奴婢として納めることもあった。
一方、主人の方は奴婢が生んだ子女を自由に売るばかりか、奴婢と同じようにその子供も遺産目録に記入した。これはいわゆる従母法というもので、婢女から生まれた者は当然婢女でなければならないという国法であった。李朝では、そのうえ従父法も同時に施行された。これはいうまでもなく奴婢の量産を目的として生まれたもので、奴僕から生まれた者は奴や婢にしてしまう法であった。
こうして一度奴婢に落ちたら最後、代々その身分から離脱することはできなかった。
彼らはただ主人のために存在する主人の財産であるために、主人が殴っても犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題にならなかった。また主人が罪を犯した場合、主人の代わりに棍杖で打たれることもあった。p151

とはいえ、奴婢の制度は支配階級のひどい虐待のもとで、ごく最近まで続いた。
1920年代においても朝鮮の家庭ではほとんど例外なく、聴直・床奴・上直・住込み女中などという奴婢を置いていた。p158



ところで、むかしの奴婢の値段をみてみよう。
壬辰の乱、丙子の胡乱〔1637~38年の清の侵入〕の時代には、牛や馬一頭で10人の奴婢と交換 することができた。
甲午農民戦争の当時は牛一頭で奴婢5人とされ、この場合5人のうちに少なくともひとりの美貌の婢が含まれていることが条件で交換された。
『独立新開』〔1896年創刊〕には女奴隷ひとりを100両で売ったという記事もあった。当時は米一斤が3両であったから、現在ならば一万円にもな らない安値であり、300両ならば完全に良人の身分を買うことができたので、たいへんな安さというべ きである。P159

わずかな金額のために一生を使役された奴婢たちは、牛の五分の一頭分の値であちこちに売られていく身分ではあったけれど、近代に入ると彼らが開花運動に与えた影響とその役割は大きいものがあった。
つまりその影響の一つというのは、奴婢たちが旧時代の富を没落させる要因になったということである。
王朝時代では富と権力が分化していなかったので、富裕階級は即権力階層であり伝統勢力である。前述のように、大家のところに溢れていた数十人の奴婢たちは主人に莫大な生活費の負担を強いた(以下略)p159

妓生は夫を持たないものであった。
最初に国家が官妓を設けたとき、妓生が夫を持つことを禁止した。
したがって李朝第11代中宗のころ、妓生に夫を持たせる制度を設するかどうかが論議されたとき、大臣の柳洵はそれを許さなかったものである。p223

妓生の抱え主の制がなくなると、次に妓生兄や妓生母が現れた。
しかし妓生たちの様態は変わらなかった。妓生兄や妓生母は自分の妹や娘のヒモになって、その収入で米櫃を作り、瓦葺きのぜいたくな家まで建てた。
妓生の方も手練手管によりをかけて客に接し、客の財産を搾り取って皮だけを残し、また新しい「かも」に乗り移ったものである。p226

ここで妓生の由来を探ねてみよう。
かつて中国春秋時代の越王勾践は、未亡人や淫行した女たちを山上に隔離し、軍士たちに戯れさせた。
漢の武帝は営妓を置いて独身の軍士たちを慰労し、唐代になると妓女はいっそう盛んになり、崔令欽は『 教坊記 』を著し、黄雪蓑は『 青楼集 』を著した。
また唐の玄宗は寒冬に官妓に身体を抱かせて、寒さをふせいだと記録されている。

朝鮮では天官女の説話がおそらく最も古いものであろう。
少年時代の金庚信〔 新羅の武将 〕は母親の切々たる訓戒に従って放蕩をやめた。
母にさとされた翌日、馬上で居眠りをしていると、馬は以前から通いなれた道をたどって天官寺にいきついた。天官女は泣いて金庚信にとりすがりながら、庚信の無情を訴えた。 そのとき庚信は剣を引き抜いて馬の首を切り落として帰った、というのが天官女の話である。
その後、高麗の太祖は国土を統一すると、百済の遣民である楊水尺( 漁撈の賤民 )を官妓・官婢とした。
そして、官婢のうちで容姿の秀れた者を選りすぐって歌舞を習わせた。それが高麗女楽のはじまりである。
第11代文宗は燃灯会〔 国儀として春に行なわれた仏教儀礼 〕に妓生を参加させた。
第24代忠烈王は各郡の郡妓を選上させて、教坊に置いて歌舞を習わせた。
また第32代辛示禺王は、高官の李種徳の妓妾を奪って宮中に入れたり、七点仙、燕双飛や小梅香のような寵妓を翁主〔 王后以外の婦人が生んだ国王の娘 〕に封じたりした。
李朝も高麗の制度を継承して女楽を置き、宮中での内宴に用いた。
つまり進豊宴とか進宴がそれである。
このほか、各郡の官庁でも官妓を置き庁舎を守るという、いわゆる守庁妓生を設けていた。
そのころ、監司〔 各道の長官 〕が中央から着任する日には4~5百人の官妓が総出で迎えるのが慣例であった。 緑衣紅裳を身にまとった妓生が、驢馬の背に乗って風楽を奏でながら声を揃えて祝賀を述べた。 その妓生の行列が、なんと10里〔 日本の1里に相当 〕に及んだという。
(中略)
しかし一方では、当時でも妓生廃止論はあった。
李朝第三代の太宗11年〔 1411年 〕に妓生廃止が問題になったことがあった。
そのとき重臣のほとんどが廃止論に賛成したところ、河崙ひとりがこれに反対した。
妓生を廃止すると良家の子女に禍が及ぶ、というのがその理由であった。 後世の人は、河崙は色狂いだからその問題に反対したと述べている。p228

一方、こんな逸話もある。
太祖〔 李成桂 〕が開国の功臣たちのために祝宴を催したとき、宴席で裵克廉が妓生の雪梅に向かって、
「 お前は東家食、西家宿〔 むかし中国である女性が、財産があって料理の美味しい東側の家で食事をし、美男のいる西側の家で泊ることを願ったという話がある 〕すると聞いているが、わたしにも枕を薦めてはどうか 」
と問いかけた。 すると雪梅はその言葉を受けて、
「 東家食、西家宿する賤妓は、王氏〔 高麗朝 〕に仕えたり、李氏〔 李王朝 〕に仕えたりする大臣と交われば格好の取り合わせになる 」
とやり返した。 一国の宰相裵克廉もかつて前王朝の官吏であったことから、そのことを妓生の雪梅から手ひどくやり込められたという話である。
後の燕山君は、泰平を運んでくるといって、妓生という呼び名を 「 運平 」 と改称させた。
そして奸臣任士洪に命じて、各郡の美人であれば人妻であろうと妾であろうと一切構わず強奪して選上させた。 そのときの任士洪の官名は 「 採紅使 」 といった。 こうして選上された運平たちのうち、大内〔 国王の居処 〕に置かれる者は継平とか続紅とか興清と呼ばれる各班に分けられた。
清らかな興を引き出すという意味の興清のなかでも、宮中の寝室に出入りする者を地科興清、国王の恩寵を受けた者は天科興清と呼んだ。
これらの興清を選上する官吏の名称を護花添香使とし、大臣の身でそのような任務を負うと紅駿体察使と呼んだ。
さらに燕山君は楊州、坡州、高陽の諸邑〔 いずれもソウルの北方に近接している 〕を廃して遊興の場に変え、好き放題の乱行に打ち興じた。
運平や興清たちの居所には耳并芳院、含芳院( 南致元の家 )、蕾陽院( 斉安大君の家 )、趁香院( 甄城君の家 )などの美名をつけた。
妓生専用の病院の名は欽清閣と名づけ、妓生用の食料の倉庫の名は護花庫、ここで給食を担当する官吏の名は典備司といった。
また、妓生の衣服は目出度いといって
?[ 辺の"刀"が"牙" ]祥〔 幸いを迎える 〕服と称し、
?[ 辺の"刀"が"牙" ]祥服を縫って納める官庁は布染司、そして年老いた運平を収容し保護する養老院を杜蕩護清司と名づけ、とくに寵愛を受けた者は会緑閣に置いて手厚く保護した。
燕山君時代の妓生の黄全期は中宗反正〔 中宗による悪政の改革 〕によって終幕を告げた。
燕山君の失政の後だったので、中宗の時代には妓生廃止論も最も盛んに行なわれた。
大きな打撃を受けて衰退した妓生は仁祖〔 在位1623~49年 〕のころを前後して復活し、近世になると、大院君〔 高宗の父として1863~73年国政を掌握 〕が容姿端麗な妓生を選りすぐって自分の済む雲峴宮に当直として入れた。
これがいわゆる雲峴宮待命妓生である。
また大院君は、自身が零落して放蕩した経験があるだけに妓生房の事情に通じていて、いろいろと妓生制度の改革を行なった。
三牌(サムペ)〔 三級の妓生 〕には眼鏡の使用、煖轎〔 暖かい乗物 〕や刺繍の履物の使用を禁じて旧式に戻したりした。
元来、官妓は網代(あじろ)の輿に乗り、絹の被衣(チャンオツ)で顔を覆ったものである。
ところが、風紀の乱れから、被衣を禁じられていた三牌すら官妓と間違えられる服装をしていたのが当時の現実であった。p229


*「芸は売れども身は売らず」 の妓生道

中居(高級酌婦)と芸妓が朝鮮に導入された経過については第一章「最初の料亭・井門楼」で述べた。(中略)
妓生たちは貞操を守ることを何物より大事にした。 客を取っても誰でもよいわけではなかった。 地位の低い者は千金を投じても妓生の門内に入ることはできなかった。 したがって 「 妓生宰相 」 という言葉には、妓生の誇りの高さは一国の宰相にも比肩するものがあったという意味が含まれているのかも知れない。
地位の低い者は二牌(イペ)や三牌(サムペ)の娼家に通ったので、「 二牌・三牌の遊客 」 と蔑視された。
一度かれらを受け入れると、妓生も格が落ちてしまう。
両班も二牌や三牌の遊客の称がつくと、二度と再び一牌を訪ねることはできなかった。p232


*隠君子、鼻頭、瓶持ち-売春の種々相

二牌というのは妓生とは異なる隠君子(ウングンチャ)のことである。 かの女たちは妓生から転落した者が多く、それで二牌妓生を略してイペと呼ぶのであるが、そのなかには没落士大夫の婦女や未亡人も混じっていた。 かの女たちは一般の住宅街のなかで暮らしながら隠れて売春をしたので、常連客か、または車夫などの案内がないと接することができなかった。 客は人力車で秘かに訪れ、秘かに情を交わし、秘かに引き上げるのである。
三牌は娼婦で「 タバンモリ 」 のことである。 漢字で塔仰謀利と表したもので、仰向けに寝て金を稼ぐという意味である。 かの女たちは雑歌を唱って客を遇して売淫した。 また妓生は紅傘を与えられるのに対し、三牌は青傘でその身分を示した。
旧韓末の警務使申楽休はかの女たちの居住地を南部の詩洞( 現在の中区笠井洞 )に制限し、その場所を 「 賞花室 」 と名づけた。
趙重応子爵〔 日韓合併のときの大臣のひとりで、合併後、日本の子爵号を受けた 〕は、これらの詩洞の三牌が妓生と称することを許したが、さらに1909年にそれらが新彰組合を結成するに及んで妓生との区別もなくなり、遂にはサムペの名称すら消滅した。

ところで、近代的な公娼は明らかに日本からの輸入である。
まずはじめにソウルの日本人料理店主11人が遊郭の設置を出願した。 そのとき日本の領事は、同族の醜業を朝鮮人に露呈するわけにはいかないといって、その申請を却下した。 すると日本人居留民団の有力者たちも業者に加担して領事排斥運動を起こしたのである。 こうして、1904年6月にはじまった 「 新町(しんまち)」 の売春市場は、開業の一時期は昼間は売春の料金を取らなかった。 また客によっては1ケ月間の料金をつけにすることも許していた。
1924年〔 日韓合併後14年 〕には、新町の遊郭には日本人340人、朝鮮人267人の女郎がいたが、在住日本人と朝鮮人の人口との比率でみると、日本人の方が圧倒的に多かったといえる。
当時、新町に出入りすることを 「 南極探検にいく 」 と称していたが、それは新町がソウルの南、現在の中区墨井洞一帯にあったからである。

これらのほか、旧韓国時代における売春婦の存在として、寺党(サダン)、色酒家(セクチユガ)、鼻頭(コモリ)、瓶持(トルビョン)ちや甘人(カミン)などの類があった。

寺党は某甲(モガビ)という頭目を中心に群れを作って、部落から部落へ、寺から寺へと渡り歩いて曲芸などの興行を兼ねて売色を事とした。
その群れには居士(コサ)と呼ぶ男が、寺党である女と夫婦の関係を結んで加わるのであるが、このような男女が数組ないし十数組集まって1つのグループになるのが普通であった。
そして居士は寺党を従えて、部落へ寺へと移動しながら女のために洗濯そのほかの一切の雑務をこなした。
また、居士は客がいない場合には寺党と同衾したが、客の要求があれば何時でも妻である寺党を提供する。
この場合、客から受け取る花代は居士のものになるのが慣行だが、その代わりに寺党の衣服や食事、化粧品など一切の経費については責任を負う。
村はずれの広場などで寺党たちが興行中に、客が寺党のなかのひとりを気に入ると、モガビに申し込んで指名する。
そして客が金を口にくわえて、 「 金だ、金だ 」 というと、寺党がきて、自分の口でその金を受け取った。

「 色酒家(セクチュガ) 」 というのは、市場や港、大道や鉱山などで酒を売り売色もした。 色酒家の女たちは猥談や雑歌などで客の相手をし、酒席でそのまま売淫に応じたものである。

「 鼻頭 (コモリ)」 とは一線から退いた退妓たちで、色酒家などの業をしたものが、髪型を鼻の頭のように結ったところからその名がつけられた。 かの女たちは他人に売春させる一方で自分でも客に応じた。

「 瓶持ち(トルビョンチ) 」 は現代的にいえば筵(むしろ)部隊である。 山間渓谷の遊園地に出没しながら酒肴を売り、酒客の相手をしたり売春にも応じた。 瓶持ちは、そのように各地を酒瓶を持ち歩きながら売春をしたので、そう呼ばれた。

「 花郎女 (ファランニョ)」 は、李朝第9代の成宗3年〔 1472年 〕のころ、京畿道の陽城の地から発祥したといわれる。 それ以後、朝鮮八道〔 全土 〕に拡がった。 春と夏は漁場と江港、院館や酒幕のある場所で、秋と冬には山間や僧房に、遊覧を兼ねながら僧・俗を問わずに客を取った。 世間で淫乱な女をファランニョンと呼ぶのは、この花郎女に由来している。

「 甘人(カミン) 」 は、一名白娼とも呼ばれる白人の娼婦たちのことである。 現在のソウルの太平路と退渓路の一帯、とくに日新国民学校が白娼たちの根拠地(ねじろ)で、白系ロシア人が多かった。 また、中国の上海を経て流れてくるユダヤ人の混血女もいた。 夕暮れになると、まだ陽の明るいうちから路端に椅子を持ち出して腰かけ、前を通りかかる人に向かって 「 カミン〔 Come In 〕を連発した。 甘人の表記はその音を写したものである。p235

http://koreandb.nate.com/life/seomin/imageview?sn=49&imageno=2


제목 :
신윤복 쌍검대무
설명 :
기녀와 한량들의 여흥을 표현한 신윤복의 [쌍검대무].
출처 :
한국학중앙연구원


기녀의 활동기간은 15~50세인데 어린 기녀를 동기(童妓), 나이 든 기녀를 노기(老妓), 노기보다 나이가 많아 퇴역한 기녀를 퇴기라고 불렀다. 기녀 중에서 체계적인 교육을 받고 활약하는 것은 한양에 거주하는 경기(京妓)였다. 이들은 어린 나이에 기녀 교육을 시작하기도 하지만 보통 15세가 되어 기적에 오른 뒤 장악원에 소속되어 본격적으로 배우기 시작한다. 교육과목은 글씨, 그림, 춤, 노래, 악기연주, 시, 책읽기, 대화법, 식사예절 등 타인을 대하거나 즐겁게 할 때 필요한 것이었다. 특히 이들이 상대하는 부류가 왕족과 고관이나 한학적 교양이 높은 유생이었으므로 예의범절은 물론 문장에도 능해야 했다. 기녀 한 명마다 담당선생이 지정되었으며 악기 하나는 전문적으로 배우게 하였다.

교육내용에 대해서는 수시로 점검하였으며 실력이 향상되지 못하면 벌을 서거나 심한 경우 내?기도 하였다. 따라서 한양에서 교육받은 기녀가 뛰어날 수 밖에 없었다. 그런데 재주는 중앙에서 가르치면 충분했으나 인물에 있어서는 지방출신도 필요하였다. 따라서 지방관청에 소속된 지방기(地方妓) 중에서도 미모와 재주가 출중하면 한양의 관청으로 발탁되었다. 조선시대의 미인은 옥같이 흰살결에 뚜렷한 이목구비를 갖춘 정갈한 얼굴로 대표되었는데, 이러한 미인은 각 지방에서도 선발해야만 수요를 채울 수 있었다. 교육을 마친 후에 이들은 용모와 재주에 따라 1패(牌), 2패, 3패의 3등급으로 나뉘었다. 1패는 왕과 고관이 도열한 어전(御前)에 나가 춤과 노래를 부르는 최상급 기녀이며, 2패는 각 관아와 고관집에 출입하는 기녀이고, 3패는 일반인과 상대하는 제일 하급 기녀이다.

특수한 기녀-의녀

기녀 중에는 양방(兩房)기생이라고 하는 내의원 혜민서 소속 의녀인 약방(藥房)기생과 상의원(尙衣院)의 침선비(針饍婢)인 상방(尙房)기생이 있다. 의녀제도는 내외법이 엄격한 조선사회에서 여자들의 진료를 남자 의원에게 맡길 수 없어서 마련되었다. 의녀제도는 태종 6년(1406)에 처음 생겼다. 당시 부인들이 병에 걸렸는데도 남자 의원에게 몸을 보이는 것이 부끄러워 치료를 회피하게 되어 죽기까지 하였다. 그러므로 관청에 소속된 어린 여자노비를 선발하여 의녀로 삼았다. 이것은 여성들의 인명을 소중히 여긴 것도 있지만 남성과의 접촉을 막으려는 의도에서였다. 세종대에는 지방에도 의녀를 두었는데 지방관청의 어린 여자노비를 제생원에 데려다 의술을 가르친 후 본래 고을로 돌려보내어 그 지역의 부녀환자를 돌보게 하였다.

의녀들은 의학서적과 약방문을 읽기 위해 한문교육을 받은 후 침술과 출산 등을 배웠다. 이외에도 유교적 소양을 갖추기 위해 논어, 맹자, 중용, 대학 등을 배워야했다. 그리고 이들은 의술을 배우더라도 주로 남자의원의 보조적 역할을 담당하였다. 의녀들이 부녀환자를 진료할 때는 방밖에 남자 의원이 동석하여 의녀가 말하는 환자의 증세를 듣고 치료방법을 처방해주었다. 약의 조제도 의원이 처방한 것을 만들어 주는 일을 하였다. 그렇지만 남자 의원이 여자환자를 볼수 없는 상태에서 의녀만이 환자의 환부를 만질 수 있었다. 따라서 부녀자들의 부스럼과 출산, 간호 등은 의녀가 아니면 할 수 없었다.

상의원에 소속된 침선비는 왕과 왕비의 의복을 짓는 일을 하는 기녀였다. 의녀와 침선비가 기녀로 분류되는 이유는 왕실과 관료들의 접대를 했기 때문이다. 그러므로 이들을 약방기생, 상방기생 또는 선상기라고도 불렸다. 특히 내의원의 의녀들은 약방기생이라 하여 예복으로 녹의홍삼을 입고 침통을 찰 수 있는 대우를 받았다. 또한 궁중이나 고관집 연회에서 첩이 되어 사대부계층에 들어갈 수도 있었으므로 신분상승을 위한 계기가 되었다.

의녀가 기녀와 같은 일을 하게 된 것은 연산조부터였다. 연산군은 궁중에서 비빈, 내인들의 진료에만 종사하던 의녀들에게 가무와 악기연주를 가르쳐 일반 관기와 함께 연회에 참석시켰다. 그리고 의녀들은 한문교양을 수학하였으므로 글도 쓰고 시를 지을 수 있어 일반 관기보다 품격이 높았다. 연산조에는 궁중연회를 많이 열어 의녀가 본직인 의술보다 기녀로서의 역할에 동원되는 경우가 많았다. 중종반정 이후 의녀의 연회 참석을 금지 시키고자 하였으나, 잘 시행되지 않아서 결국 의녀들은 한말까지 의료와 가무를 병행하는 애매한 직업을 가지게 된다.

종합 엔터테이너

기녀는 천인신분이지만 합법적으로 남성들의 접근이 허용된 미모와 재주가 뛰어난 엔터테이너로 자연히 남성사회의 관심 인물들이었다. 이들은 신분사회임에도 특별한 대우를 받아 ①양반 부녀자와 같이 비단옷에 노리개를 찰 수 있었고, ②직업적 특성에 따라 사대부와의 교제가 가능하였으며, ③벼슬아치의 후실로 들어가면 신분을 상승시킬 수도 있었다. 그러나 한평생 남자들의 노리개와 같은 인생을 살면서 가치가 없게되면 냉혹하게 버려지는 비운을 감수해야만 했다.

그렇지만 개인의 외모와 재주에 따라 일신의 부귀는 얼마든지 가능했으며 의식주에 대해서는 오히려 사치스러웠다. 기녀들은 화려한 옷차림새로 많은 사람의 시선을 끌었다. 기녀의 머리모양은 보통 얹은머리로 크고 화려하게 장식하였다. 그리고 기녀는 내외법을 적용받지 않았으므로 외출시 낯을 가리지 않아도 되었고 장옷이나 쓰개치마는 미적인 효과를 얻기 위해 사용하였다. 기녀의 저고리는 임진왜란 이후 점점 짧아지기 시작하여 조선후기에는 매우 짧아져서 겨드랑이가 보일 정도가 되었다. 저고리가 극단적으로 짧아지면서 저고리와 치마 사이의 살을 가리기 위해서 필수 불가결하게 생겨난 것이 바로 허리띠였다. 특히 기녀복에서는 넓은 허리띠가 나타나고 있는데, 이는 기녀의 저고리가 일반 부녀자의 것보다 매우 짧았기 때문이었다. 기녀들은 이 허리띠에 갖가지 화려한 수를 놓아 장식하였다.

기녀가 입는 비단옷의 색깔도 화려한 색상이었다. 특히 홍, 녹, 황, 감색 등의 원색을 많이 사용하였고, 동기(童妓)들은 홍색을 많이 입었다. 비단옷 뿐만 아니라, 가죽신과 금, 은, 주, 옥의 각종 장신구 치장도 상류계층과 같이 허용되었다. 기녀는 그들이 상대하는 남성의 신분이 주로 중?상류 계층이었기 때문에 그들의 권력을 배경으로 신분을 초월한 화려한 복식을 착용할 수 있었다. 따라서 기녀는 신분상으로는 천민이나, 다른 천민들의 복식과 달리 매우 화려하고 다양하였다.
기녀들은 얼굴에 두텁게 분을 바르는 짙은 화장을 해서 본래의 얼굴도 알아 볼수 없게 하지만 갸름하고 뚜렷한 얼굴의 윤곽은 조선인의 취향에 맞는 아름다움이었다. 이들이 추는 춤은 어떤 사실적인 일화나 이야기를 표현하는 무언극의 동작이거나 검무였는데 작은 키와 체격에 인형같은 얼굴은 극적인 효과를 높였다. 팔의 놀림이나 얼굴표정, 다리와 발의 움직임은 한시도 틀리지 않아 거의 완벽에 가까웠다. 어릴때부터 엄하게 기녀교육을 시켰기 때문이다.

지방에 배속된 기녀들은 감사와 수령이 도임하는 날 성장을 하고 길에서 영접하였다. 몇 리에 걸쳐 녹의홍장에 풍악을 울리며 지화자를 연발하는 기녀의 모습은 장관이었다. 기녀는 지역별로 특기가 있었는데 안동의 기녀는 유교의 유풍이 강하여 『대학』을 암송하였고, 관동기녀는 『관동별곡』을 잘했는데, 특히 영흥 출신은 태조 이성계의 고향이라고하여 『용비어천가』를 불렀다.

기녀가 지배층의 오락을 위해 시, 노래, 서예, 그림 등을 잘하였다고 해서 돈에 쉽게 넘어가는 값싼 행동을 하지는 않았다. 유명한 송도의 황진이를 비롯하여 임진왜란때 왜장을 죽이고 자신도 목숨을 끊은 평양의 계월향(桂月香)과 진주의 논개, 한말의 매국노인 이지용의 거금을 거절한 진주의 산홍(山紅) 등은 절개와 충정을 갖춘 기녀들이다.

조선시대 관청에서 기녀를 교육하는 제도는 한말 일본의 침략이후 바뀌게 된다. 일제는 기녀들의 조합을 만든 뒤 서울과 평양에 기생학교를 세워 기녀들을 양성했다. 기생조합에서는 화대를 대신 받아주고 세금을 징수하였다. 기생학교에는 15~20세의 처녀들이 입학하여 기녀로서의 소양을 배웠다. 기생학교에서는 주로 가곡, 춤, 서예, 회화 등을 가르쳐 교양인으로서의 자질을 길러주었다. 이들을 오늘날의 시각으로 보면 춤, 노래, 악기연주 등의 전수를 담당했던 예술가며 사람들을 즐겁게 해준 연예인이었다. 따라서 조선시대의 기녀들을 문화사적인 관점에서 본다면 한국의 전통문화를 후대에 전달해 준 인간문화재라고 해도 무방하겠다.

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