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한강 漢江(ハンガン)
Han River is flowing through into the Seoul court
author; Im jong guk
ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話 [単行本]
林 鐘国 (著), 朴 海錫 (翻訳), 姜 徳相 (翻訳)
서울 미야시타에게 한강은 흐른다 -한국 풍속역사
밤에 하는 이야기
P16
「むかし朝鮮では一時、賓客が訪れると娘や妾を差し出して添寝させる風習があってこれを客妾といった-どんな大監〔正二品以上の高官〕であっても、夫人とか娘を客に供し、かの女たちはそれぞれ独自の方法で相手を勤めたものである。」
客が来ると娘を差し出すそうです。
P17
「妓生の部屋でも牛肉や豚肉の料理を作ったが、肉の煮炊きには薪を使わないのが鉄則になっていた。(略)そのとき薪は絶好の武器になる。それで妓生たちが薪を用いないのは、危険な武器を身近に置かないという心遣いなのであった。」
武器になって危ないので薪も使わせてもらえないらしいです。
P18
「このようにむかしの妓生のくらしは、今日われあれが想像するような華やかな世界とは全く異なるものだった。部屋には衣装箪笥、鏡台は勿論のこと、木枕も火鉢、便壺(携帯トイレ)すら置けなかった。部屋のなかで争いが起きるとそれらのものを抛り投げて毀す心配があるからである」
どうやら怒りっぽいのは昔からです。
P18
「そういうわけで、朝鮮に食堂なり料亭なりが生まれたのは外国人がソウルに居住するようになってからのことである。」
開国は19世紀末ですからそれまでに大衆食文化など有るわけもないですね。日本に比べると500年は遅れていたのが解ります。
P22-24
「西洋料理といえばソンタク・ホテルであった。(略)例のソンタク・ホテルに出入りした政客は李完用、徐載弼、尹致昊、閔商鍋、李範晋などである。そして国王および王世子(皇太子)が乱を避けてロシア公使館に移った(1895年、露館播遷)とき、その密謀を練ったのも前記の政客たちで、ソンタク・ホテルがその場所に使われたと思われる。」
韓国で、親日派(売国奴)と呼ばれている李完用は元々親日派ではなく反日親露派でした。
P25
「このように朝鮮の料亭の歴史は好色で知られる統監伊藤博文の赴任を機に発展期に入ったのである。」
朝鮮の高級食堂の歴史は伊藤博文無しには語れません。
P36
「酒幕は旅人が一夜を休んでいく、いうならばむかしの旅館である。(略)これら大小の酒幕は元来酒を売るのが本業であった。周知のように都会地のそれは大体飲食専門であるが、田舎では旅人宿も兼ねていた。そこに立ち寄る客が両班でも常民(賤民を覗く農工商の一般民衆)でも、差別をしなかった。酒幕のなかにかカルボと呼ばれる売春婦兼酌婦を置いたり、場合によっては経営者である酒母がみずから客をとることもあった。」
これとは他に役人用の駅と言う官営の宿舎が有ったそうですが、P16の記述を見ても朝鮮人は皆売春婦だったのでしょうか?
P38
「道ばたの空家ともみえるものだが、軒下に馬の飼葉桶と棒杭が立っているので、辛うじて旅館だとわかる。」
その旅館の実体はボロ屋
「酒幕では客がくれば主人はまず掃除をはじめる。『しかし、掃除といっても大したことはしない。藁庭をはたいて埃を一方の隅に掃き集めるだけで、その間白っぽい埃がたち込める。したがって埃は結局掃除する前に比べ全く減っていないのである。この埃は無数の虱と南京虫の巣なのである(後略)』」
しかも人が寝られる場所ではない。
P56
(閔妃の時代)「朝鮮では道路行政という言葉すら聞けなかった時代である。山の樹木すら削って食べるような時代に街路樹など誰も植えなかった。棒杭一本でも打ち込もうものなら、その日のうちに牛馬が繋がれるか背負子(チゲ)用の棒に変わってしまう。」
山ははげ山だらけで、街路に木でも植えたら根こそぎ持って行かれるという事ですね。
P58
大臣数氏が警務庁附近で惨殺されたと聞き、之を見る為に西大門通りより今日の道庁附近に至りしも、死体は既に錘路の四辻に運び去られし後なりしを以て更に錘路の四辻に至れば、群衆山の如く、その中に総理大臣金宏集、農商工大臣鄭秉夏両氏の屍体あり。死体は無惨にも両足を綱で縛り、恰も犬猫の如く引きずり来たりしものにして、多数の群衆は或は屍に唾し、或は口をかぎりに罵り、その残酷なる仕打は見るに忍びず。
死体に鞭打つ文化です。
P59
「「路上に脱糞するなかれれ」というのは1910年代に盛んに書かれた社説の重要な論題であった。」
1911年6月8日付『毎日申報』社説「商家などは一定の便所がないので、屋内に鉄筒あるいは木器を置いて放尿し、それを自家の門前の路上に棄てるので、通りがかりの警吏はそれをまた洗面した水だと信ずるという具合である。自分で自家の門前に汚物を棄てるとは、まことに恥ずべきことである。」
日帝が来るまでは路上で糞していました。
中世ヨーロッパでも路上に糞尿を投げ捨てていたのでそれをよけるために生まれたのがハイヒールと言われていますが
P78
橋について(高麗文化破壊の一端・・・。)
「広橋はもと土橋であったが、李朝のはじめごろの太宗10年(1410)に長雨のため流出した。そこで議政府(李朝の最高政策決定機関)は石橋に作り替えることを決めた。これに使用された石材というのが、貞陵の風土に配置されていた十二神将の石像であった。その石像は高さ八尺、幅三尺に冠をつけて合掌する神将を刻み、神将の背には積雲を配した陽刻で、高麗時代の石工になるまれにみる仏教美術の名品であった。」
国宝級の宝も平気で破壊します。これでは文化財など残る訳がありません。仏典などは薪にされて燃やされたのでしょうねぇ。
P60-61
日本人が手を入る前のソウル(1984年以前)と手が入った後のソウル(1910年)
一目瞭然ですねぇ。
P66 (それに対する解説)日本人たちが多く居住するようになるとかれらは泥峴から南大門に通ずる道を改修し、溝渠を掘って、共同便所、街路などを儲けることを計画した。▼1895年、この計画と前後して旧韓国政府も道路行政に関心を示すようになった。(略)この法令によって、日本人が前述のように南大門の道を改修するとき、容易に仮家(道路にでっぱっている小汚い小屋)を撤去することが出来た。
つまり日本人がソウルの道路を綺麗にした訳ですね。
P69 そのためソウルの道路は汚れていることと、この峠道が名物となっていたものである。
P69-70 また、ソウルの名物の一つは犬である。便所の代わりにするために飼うのであるが、エミール・マーテルは、つぎの様に述べている。『むかしの市街は非常に汚かった。犬は非常に多く、ほとんどどんな家庭でも飼っていたが、病犬が多いのには閉口した。びどうな話でいまどきの朝鮮人諸君は驚くかも知れないが、むかしは赤ん坊の用便はことごとく犬が掃除してくれるという、実に不潔きわまる有様であった。』(『外国人のみた朝鮮外交秘話』)
えー犬に人糞を食べさせて、その犬を食べていたようです。
P104-105 ところが第一〇代燕山君の蕩政のときから、質素だった風潮は姿を消しはじめた。それ以前の第七代世祖のときに、金国光が長輿洞に豪邸を築いて弾劾を受けたことがあった。権臣の金安老は第一一代中宗のとき、蒙著な別荘を築いて弾劾を受け、多くの人から非難された。燕山君は即位一〇年目に義兄の南致元の住居を徴発して、含芳院に変えてしまった。また叔父の斎安大君の家は蕾陽院に、宗族の甄城君の家は趣香院としたが、それらはすべて運平とか輿清とか続紅とか呼ばれた妓生たちの居宅となった。さらに燕山君は内都城(王宮の外塀?)を築いて、塀内の民家を取り壊した。そのうえ楊州・坡州・高陽の民家を取り払って遊猟場にし、広州・楊州・高陽・陽川の住民を逐い払って、内需司〔宮中用の米、布などを司る役所〕の奴婢を代わりに住まわせるようなことまでした。
そして第一四代宣祖〔在位一五六七~一六〇八〕 の代になると、著移な風潮は世間を覆うようになっていた。かつてあれほど非難を浴びた金安老の蒙奢な別荘の近くに、こんどは宰相鄭惟吉が亭閣を建てた。それは金安老の別荘をはるかにしのぐぜい沢なものであったが、それを非難する者はひとりもいなかった。
南山の北麓はそのころになると大臣たちの別荘地として大いに脚光を浴びた。現在の南倉洞には李恒福の亭閣、退渓路四街には李安訥の別荘、筆洞には柳成竜の別宅が建ち、大臣洪汝淳は東大門内に豪勢な家を築いた。庭園には数々の花鳥・樹木を集め、池を掘り、池に蓮の花を浮べるぜい沢を尽した。その洪汝淳の家は建築後、壬辰の乱による兵火によって失われてしまうと、乱の後に以前にも増していっそう豪奮なものを築こうとして人民に悪虐の限りを尽した。それを台諌〔司憲府(監察)、司諌院(諌諍)の総称〕が弾劾した。その結果、珍島に流されて一年後に死んだ。あとに残されたのは、哀れにもひとりの外孫だけであった。財産は配流中に費い果たしてしまい、幼い外孫は葬儀をだすこともできず、屍体を一枚の布切れで挙っだけという惨めな弔いを済ませたのであった。
秀吉以前の燕山君も中宗も宣祖も民衆への収奪を繰り返していました。そして秀吉以後も収奪を繰り返していました。この調子で王朝が後300年続くわけですから暴政ここに極まれりですな。
P137
科挙にはこれ以外に中人層に限って受けさせる雑科があった。雑科は訳科、医科、陰陽科、律科(法科)のように技能試験で、これにも初試と覆試の二段階の試験があった。訳科には漢学と蒙学(蒙古学)、倭学(日本学)、女真学があり、陰陽科もまた天文、地理、命課学〔運命吉凶に関する学問〕に分けられていた。
要するに、医者の地位は、中人に位置し、常民(一般市民)より上だが、両班階級より低いと言う事です。階級差があるこの社会では当然両班と中人の結婚はあり得ませんねぇ。
P139
替え玉試験は法によって厳禁されているが、破廉恥にも利のみを欲してそれを犯す者が絶たず、士風は極度乱れた。粗宗以来、謁聖した後、製述をもって人を採用することがしだいに頻繁になったが、紛擾の中で科挙が精密を期したとはいえない。替え玉試験で合格した者も少なくない。
カンニング、替え玉受験は伝統です。
P146
奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。
日本では奴婢制度は1000年頃に廃止されています。中国でも明代にはほぼ消滅しています。東北アジアで奴婢制度が20世紀まで存続したのは朝鮮だけの様です。
P147 奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、 ひどい場合は打ち殺されることもあった。外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、 売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている 年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れをさしこ まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された 不幸な運命の主人公であった。
残虐性が良く出ています。
P154
猫車7人バージョン
P159 ところで、むかしの奴婢の値段をみてみよう。 壬辰の乱、丙子の胡乱〔一六三七~三八年の清の侵入〕 の時代には、牛や馬一頭で一〇人の奴絶と交換 することができた。甲午農民戦争の当時は牛一頭で奴婢五人とされ、この場合五人のうちに少なくともひ とりの美貌の婢が含まれていることが条件で交換された。『独立新開』〔一八九六年創刊〕には女奴隷ひと りを一〇〇両で売ったという記事もあった。当時は米一斤が三両であったから、現在ならば一万円にもな らない安値であり、三〇〇両ならば完全に良人の身分を買うことができたので、たいへんな安さというべ きである。
1万で売買され、3万あれば自由になれるのにその金も貯められない奴隷制度。
P206-207 (民間信仰について) 信者が伝染病が流行した場合でも、薬を用いるよりは鬼神に供物をして厄払いをしたものであった。天然痘で死者がでても埋葬することはなかった。かますや藁筵でぐるぐるした死骸を背負子で運び、高い末の木の枝に縛り付ける。
伝染病がかえって蔓延しますね。
以下続く。
ソウルは藁葺き都市なのか?
1895年。違う。しかし、よく見ると日本人居住区と書いてあった。
1900年。違う。しかし、よく見ると六曹(官公庁街)と書いてあった。一歩はずれると藁葺き・・・。
1895年のソウル
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