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Tuesday, July 31, 2012

Japan after World War II,UN occupation forces brothels;comfort stations, and R.A.A;Recreation and Amusement Association

http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/cat5900875/

Japan after World War II,UN occupation forces brothels;comfort stations, and R.A.A;Recreation and Amusement Association


according to the book from "secret History in defeat, brothels to occupation forces, brothels made by state" by Inoue Setsuko (published by Shinhyoron),
in the time of aftermath in defeat, "devil U.S. and British" that like imperial japan force had whammed up the people's fear in anxiety, the enemy occupation forces would come shore up immediately after the military,
it was said that there were occurred evacuations  commotions in Tokyo and Kanagawa area, descend into chaos.
in Yokohama,it is said that the number of number of evacuee in defeat was more than in war time.


戦後日本の占領軍慰安所とR・A・A
「敗戦秘史 占領軍慰安所 国家による売春施設」いのうえせつこ(新評論)によると、敗戦直後、軍部があおり立てていた「鬼畜米英」敵占領軍が上陸してくる、という不安と恐怖で、東京・神奈川方面では疎開騒ぎが発生し、混乱したという。横浜市では戦時中より敗戦後の疎開者の数の方が多かったと言われているそうである。
そんな中、8月18日、各府県長官宛てに「外国軍駐屯地における慰安施設について」という内務省警保局の通牒が発せられ、警察署長が性的慰安施設、飲食施設、娯楽場等の設置を働きかけるよう要請されている(下記、資料1)。どこに占領軍が駐屯するかは予想できなので、いまから内々にその手筈をしておくように、また、慰安所の設立は、日本女性を護る目的であることを理解させるように、というのである。

また、同じ8月18日か19日のいずれかに「警察庁の高乗保安課長は、東京都の料理飲食業組合長・宮沢浜次郎と総務部長の渡辺政治氏を呼びつけ、占領軍に女を用意する仕事を申しつけた」という。さらに8月21日には、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京待合業組合連合会、東京都貸座敷組合(吉原、州崎などの公娼系)、東京都接待業組合(向島、小岩などの産業戦士慰安所)、東京都慰安所連合会、東京連技場組合連盟(麻雀)、東京都料飲食業組合の7団体を集め、高乗保安課長が「資金面では十分援助するから、皆さんの立場でやってほしいと話した」と明らかにしている。そして、8月23日には、上記7団体と警視庁から高乗保安課長他3名が参加し、後に「R・A・A」(Recreation Amusement Association)と改称される「特殊慰安施設協会」が結成されたのである。占領軍上陸以前に、戦地における軍慰安所設置の経験を生かし、政府と関係者によって、着々と占領軍のための慰安施設設置が進められていたということであろう。まさに「国家による売春施設」の設置である。

「特殊慰安施設協会」の理事長は、宮沢浜次郎。副理事長には、料亭嵯峨の主人、野本源治郎と、成川敏(貸座敷連合会)、高松八百吉(芸者屋組合)の3氏。常任理事は15人であったという。資料2はその「設立趣意書」である。
同書によると「R・A・A協会沿革誌」には

「海に陸に赫々たる武勲をたてた進駐軍将兵にとって、なにより慰安すべき面はセックスの満足であった。そこでともあれ京浜地区で、”小町園”を皮切りに慰安所を設け、楽々、花月、仙楽、見晴、波満川、いく穂、やなぎ、乙女、清楽、日の家等
を逐次開業する運びとなった。
さてフタをあけてみると気の荒い面々、砂漠にオアシスをみつけたごとく欣々然と行列を作り彼女等に肉薄していったのは、けだし天下の壮観であった。…」

等と書かれているという。

同書に掲載されているRAAの施設一覧表(鏑木清一著『秘録進駐軍慰安作戦』より)を見ると、キャバレーやダンスホール、ビヤホール、レストランとともに、「慰安所」と記されたものがあり、慰安婦の数も示されている。それを抜き出すと、

成増慰安所(50名)、小町園(40名)、見晴し(44名)、やなぎ(20名)、波満川(54名)、悟空林(慰安婦45名・ダンサー6名)、乙女(22名)、楽々(20名)、調布園(54名)、福生(57名)、ニュー・キャッスル(慰安婦100名・ダンサー150名)、楽々ハウス(慰安婦65名・ダンサー25名)、立川パラダイス(慰安婦14名・ダンサー50名)、小町(慰安婦10名・ダンサー10名)、上官クラブ(将校用慰安所 慰安婦随時派遣)、キャバレー「東光園」(ダンサー30名・慰安婦10名)である。

また、RAAは東京が中心であるが、横浜市や横須賀市における営業状況一覧表にも、その組合名と接客婦数が出ている。それを抜き出すと、

横浜市内
真金町貸座敷42(86)、神奈川貸座敷2(11)、大丸谷チャプ屋10(35)、曙町私娼町42(114)、新天地私娼町19(30)、楽天地私娼町5(14)、本牧チャプ屋12(15)、日本橋芸妓組合14(20)入船私娼町28(30)
営業者数計174、接客婦数355。

横須賀市内
安浦保健組合88(190)、皆ヶ作保健組合45(97)、芸妓組合31(71)
営業者数計164、接客婦数358、である。

「このほか、藤沢、平塚、高津、小田原、秦野、厚木方面にあっては、従来の施設を利用させて営業させたほか、一定地域を指定して新規営業も許可した」とあるので、大変な数であることが分かる。

その「特殊慰安施設協会」改めRAAは、GHQの「廃娼」の指示(昭和21年1月7日)により、間もなく占領軍用慰安所をすべて閉鎖し、解散された。RAA等に組織された55,000人の売春婦(最盛時には7万人という)は、街娼や赤線に散り、また基地周辺のパンパンと呼ばれる女性に姿を変えたという。

資料3は、内務省警保局から全都府県知事に「廃娼実行に必要な準備手続きを5日以内に終えるように」という指示が出されたのを受けて、1月21日、GHQが発した「日本に於ける公娼廃止に関する件」の覚書である。

資料1-------------------------------
外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒

外国軍駐屯地における慰安施設に於ては別記要領に依り之が慰安施設等設備の要あるも本件取扱に付ては極めて慎重を要するに付特に左記事項留意の上遺憾なきを期せられ度。

1 外国軍の駐屯地区及時季は目下全く予想し得ざるところなれば必ず貴県に駐
屯するが如き感を懐き一般に動揺を来さしむ如きことなかるべきこと。
2 駐屯せる場合は急速に開設を要するものなるに付内部的には予め手筈を定め
置くこととし外部には絶対に之を漏洩せざること
3 本件実施に当りて日本人の保護を趣旨とするものなることを理解せしめ地方民
をして誤解を生ぜしめざること。
(別記)
外国駐屯軍慰安施設等整備要領
1 外国駐屯軍に対する営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準にか
かわらず之を許可するものとす。
2 前項の区域は警察署長に於て之を設定するものとし日本人の施設利用は之を
禁ずるものとす。
3 警察署長は左の営業に付ては積極的に指導を行い設備の急速充実を図るも
のとする。
性的慰安施設
飲食施設
娯楽場
4 営業に必要なる婦女は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優
先的に之を充足するものとす
(1945年8月18日)
資料2------------------------------
特殊慰安施設協会設立趣意書

畏しくも聖断を拝し、茲に連合軍の進駐を見るに至りました。一億の純血を護り以て国体護持の大精神に則り、先に当局の命令をうけ東京料理飲食業組合、東京待合業組合連合会、東京都接待業組合連合会、全国芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京都貸座敷組合、東京慰安所連合会、東京連技場組合連盟の所属組員を以て特殊慰安施設協会を構成致し、関東地区駐屯部隊将士の慰安施設を完備するため計画を進めて参りました。本協会を通じて彼我両国民の意思の疎通を図り、併せて国民外交の円滑なる発展に寄与致しますと共に平和世界建設の一
助ともなれば本協会の本懐とするところであります。
本協会は、右の趣旨に基き、直に運営を開始致します所存で御座居ます故、何卒御賛同の上大いに御出資を賜り、如上の使命達成に万全のご支援を御願い致します。
(特殊慰安施設協会)
資料3------------------------------
GHQ覚書
日本に於ける公娼廃止に関する件
連合国最高司令官総本部(昭21・1・21)
1 日本に於ける公娼の存続はデモクラシーの理想に反し、かつ全国民間に於け
る個人の自由発達に相反するものなり。
2 日本政府は直ちに国内に於ける公娼の存続を直接乃至間接に認め、若くは許
容せる一切の法律・法令及び其の他の法規を廃止し、かつ無効ならしめ、かつ
該当法令の主旨の下に如何なる婦人も直接乃間接に売淫業務に契約し、若く
は拘束せる一切の契約並びに合意を無効ならしむべし。
3 当覚書を遵守するために発令せらるる法規の最終準備完了と同時並びに其の
公布前に諸法規の英訳2通を当司令部に提出すべし。

日本に於ける公娼廃止に関する覚書実施に就て指示の件
1 前記覚書に関し、これが関係者すべてに対し左記の通り指示の通達を与える。
2 前記指令の根本趣旨は売淫に於いて婦人を奴隷扱いすることを近似(禁じ)、
かつ防止する点にある。また同指令は単に売春婦と認められる婦女子のみに
限らず、給仕女、芸妓、あるいはダンサー其の他本人の意志に反して売淫を強
制されることのある婦女子に対し同様に適用される。
3 売淫は日本に置いては合法的な仕事乃至は商売とは認められない。また政府
当局の許可を得てその活動を認められるということは許されない。但し本指令
は生計の資を得る目的をもって個人が自発的に売淫行為に従事するということ
を禁ずるものではない。
4 如何なる婦女子も本人の意志に反し、また其の自由に表明したる承諾を得な
いで売淫を強制されることはない。承諾をいったん与えた場合も、何時如何な
る理由によっても撤回することが出来、また承諾を撤回したという廉でそのため
に如何なる種類の刑罰も科せられることはない。
5 すべての現存する契約並びにその結果生じた負債にして、婦女子に売淫を強
制するものは一切無効である。この点に関して今後に於いて結ばれる契約負
債の一切は無効となる。
6 金銭支払いの義務若くは勤めをなす義務はすべて解消し、かつ完全に果たされ
たものと見做す。すべての債務は最初の負債であると、あるいは最初の負債
後に衣料・食料・住宅の如き事物に対して生じた負債であるとの別なく、本条項
により完全に支払われたものと見做す。右の根本の趣旨は負債の原因の如何
を問わず、如何なる婦女子も売淫により負債を返却する義務がないということ
である。
7 各部隊司令官は、本覚書の条項実施に際し、右の諸点を考慮の上指導に当た
り、かつ左記の処置をとること
イ 本覚書の内容を関係者一切に通達するため、適当なる措置を講ずる。
ロ 右に従って地方警察官を指導すること。
ハ 本指令に違反する者を起訴すること。

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投稿日 2012/07/20 国際・政治 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (0)
2012/07/11
「従軍慰安婦」問題 陸軍中尉「オハラ・セイダイ」ノ陳述書
下記は、「東京裁判ー性暴力関係資料」吉見義明監修(現代史料出版)に収められている資料30、『陸軍中尉「オハラ・セイダイ」の陳述書(S・オハラ(日本軍中尉)陳述モア島における原住民殺戮および原住民婦人の強制売淫)Ex.1794』の全文である。
現地女性を連行し、慰安所に入れて性交渉を強いた理由を「モア」島ノ指揮官であった陸軍中尉「オハラ・セイダイ」は「彼等ハ憲兵隊ヲ攻撃シタ者ノ娘達デアリマシタ」と語っている。
当時は女性の人権そのものが否定されがちだったが、現地女性、特に敵方の女性の人権はこれを全く認めない、こうした考え方が、当時の日本軍にはあったということであろう。
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資料30 陸軍中尉「オハラ・セイダイ」の陳述書
(S・オハラ(日本軍中尉)陳述モア島における原住民殺戮および
原住民婦人の強制売淫)Ex.1794

問 貴方ノ氏名ハ?
答 氏名ハ「オハラ・セイダイ」年齢27才
問 貴方ノ所属部隊ハ?
答 「タナカ」部隊「ハヤシ」隊
問 貴方ノ住所ハ?
答 熊本県「カモト」郡「イワノ」村2191
問 貴方ノ軍隊勤務ノ概要ヲ述ベナサイ
答 1940年/昭和15年/12月台湾歩兵第2聯隊
1941年/昭和16年/10月久留米士官学校
1942年/昭和17年/1月 瓜哇
1942年/昭和17年/12月「チモール」
1944年/昭和19年/6月「モア」島
問 1944年9月ニ於ケル「モア」島ノ指揮官ハ誰デシタカ
答 私デアリマシタ
問 1944年9月中ニ、「モア」島デ、土民ガ殺サレタコトガアリマスカ、又ソノ人数
ハ?
答 「セルマタ」島及「ロエアン」島デ約40名ノ土民ガ捕虜トナリ且殺サレマシタ
問 何故ニ殺サレタノデスカ
答 土民達ガ「セルマタ」及「ロエアン」島ノ憲兵隊ヲ攻撃シタカラデス
問 誰ガソノ殺スコトヲ命令シタノデスカ
答 「タナカ」将軍ハ土民達ヲ司令部ヘ送ルヤウ命ジマシタ、然シ土民達ガ「モア」
ヲ出発スル前ニ右命令ハ変更サレ、私ガ「モア」デ彼等ヲ殺シ、土民ノ指導者
3、4名ヲ「タナカ」部隊ニ送ルヤウニト命ゼラレマシタ
問 貴方ガ自分デソノ土民達ヲ殺シマシタカ
答 イエ、私ハ唯ソノ殺スノヲ監督シタノデス
問 誰ガ貴方ヲ手助ヲシタノデスカ
答 「ウド」曹長、「トヨシゲ」軍曹、「マツザキ」軍曹及21名ノ他ノ兵卒達デス
問 ソレ等ノ者ハ、今何処ニ居リマスカ
答 「ウド」曹長及「マツザキ」軍曹ハ、台湾第2歩兵聯隊ト共ニ、「ロボク」ニ居リマ
ス。「トヨシゲ」軍曹ハ1945年/昭和20年/7月中「ラウテム」ニ向ヒマシタガ、
荷船ガ着イタ時ニハ空デシタ、ソレ故彼ハ溺死シタモノト推定サレマシタ
問 ドンナ風ニシテ土民達ハ殺サレタノデスカ
答 彼等ハ、三人宛テ途上縦隊ヲ作ツテ整列サセラレマシタ、ソレカラ前ニ述ベタ   21人ノ兵達ハ銃剣デ彼等ヲ突刺シ一度ニ、3人ヲ殺シマシタ。
問 或ル証人ハ貴方ガ婦女達ヲ強姦シ、ソノ婦人達ハ兵営ヘ連レテ行カレ、日本
人達ノ用ニ供セラレタト言ヒマシタガソレハ本当デスカ
答 私ハ、兵隊達ノ為ニ娼家ヲ一軒設ケ私自身モ之ヲ利用シマシタ
問 婦女達ハソノ娼家ニ行クコトヲ快諾シマシタカ
答 或者ハ快諾シ或ル者ハ快諾シマセンデシタ
問 幾人女ガソコニ居リマシタカ
答 6人デス
問 ソノ女達ノ中、幾人ガ娼家ニ入ル様ニ強ヒラレマシタカ
答 5人デス
問 ドウシテ、ソレ等ノ婦女達ハ娼家ニ入ル様強ヒラレタノデスカ
答 彼等ハ憲兵隊ヲ攻撃シタ者ノ娘達デアリマシタ
問 デハ、ソノ婦女達ハ父親達ノシタ事ノ罰トシテ娼家ニ入ル様強ヒラレタノデスネ
答 左様デス
問 如何程ノ期間ソノ女達ハ娼家ニ入レラレテヰマシタカ
答 8ヶ月間デス
問 何人位コノ娼家ヲ利用シマシタカ
答 25人デス
問 土人ヲ殴ツタコトガアリマスカ
答 アリマス、私ハ自分達ニ協力シテヰタ土民兵達ヲ殴リマシタ
問 何故デスカ
答 「ダマル」島生マレノ土人デ、日本兵達ヲ殺シタ者ノ一人ガ「モア」ヘ逃ゲマシタ
彼ハ日本人ノ為メノ「スパイ」デアッタ一土民ノ家ニ隠レマシタ、ソコカラ又彼
ハ逃亡シマシタガ、私ハ彼ガ何処ヘ行ツタノカ分カリマセンデシタ 彼ノ逃亡
後、彼ガ、右ノ「スパイ」ノ 家ニ隠レテヰタコトガ分カリマシタ、ソコデ私ハ、ソ
ノ「スパイ」ガ私ニ知ラセナカツタト言フ理由カラ拳固デソノ頭ヤ肩ノ辺ヲ殴リ
マシタ。
問 ソノ土民ハ非道ク傷ヲ受ケマシタカ
答 イイエ

「オハラ・セイダイ」(署名) 
証人 「ジェイ・レンニー」陸軍大尉
1946年/昭和21年/1月13日
以上ノ応答ハ、日本語ニテ「オハラ」ニ読ミ聞カセラレ「オハラ」ハ、右ガ彼ノ為シタ報告ノ真実ニシテ正確ナル記録ナル旨陳述セリ

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投稿日 2012/07/11 国際・政治 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (2)
2012/07/07
「従軍慰安婦」問題 オランダ軍大尉検事の報告書
下記は、「東京裁判ー性暴力関係資料」吉見義明監修(現代史料出版)に収められている資料24「書類番号5330 日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオニ於ケル強制売淫行為ニ関スル報告(J・N・ヘイブロツク[オランダ軍大尉検事]の報告書、日本軍常習的戦争犯罪の概略)Ex1702」の全文である。慰安婦がまさに「性奴隷」であったことを示す内容とともに、「海軍職員用ノ性慰安所ハ守備隊ガ経営シマシタ」というような記述もみられる。

最近、従軍慰安婦をテーマにした写真展の開催を巡り、韓国人写真家の安世鴻(アン・セホン)さんが、突然施設の使用中止を通告した会場運営者のニコンに、施設の使用を求める仮処分を申請、東京地裁(伊丹恭裁判長)がこれを認める決定を下した、というような内容のニュースが流れた。
ニコン側は「政治活動の一環であると判明したため中止を通告した」と主張したようであるが、決定は「政治活動との一定の関わりを否定できないが、写真文化はテーマによっては政治性を帯びつつも、独立の価値を認められながら発展してきている。ニコン側も内容を分かった上で会場の使用を承諾した」と指摘したという。
写真展当日、右翼団体の会員がデモを行い、「日本軍慰安婦自体がねつ造だ」と主張、写真展の中止を要求したとのことであるが、悲しむべき出来事だと思う。

敗戦前後の大がかりな軍関係公文書の焼却処分に象徴される日本の隠蔽体質は、戦後もいろいろなところで引き継がれ、今なお日本にとって不都合な事実の多くが隠蔽され続けているために、「日本軍慰安婦自体がねつ造だ」というような主張がなされるのであろう。

こうしたニュースが流れるたびに、日本は世界世論の非難の的になり、その徳性を疑われ、信用を落としているのであり、信頼回復のためにも、国連人権委員会やILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会、国際法律家委員会(ICJ)などの日本政府に対する謝罪や補償、関係者の処罰その他の勧告を受け入れ、一日も早く対応するべきであると思う。
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日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオニ於ケル
強制売淫行為ニ関スル報告

1943年ノ前半ニ「ポンチァナツク」(Pontianak、日本語表記は、ポンチャナックとも)海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ/UESUGI KEIMEI/、(同人ハ1943年8月頃日本ニ帰国シタリ抑留ヲ要求シ置ケリ)ハ、日本人ハ、インドネシア或ハ中国ノ婦人ト親密ナル関係ヲ結ブベカラズ、トイフ命令ヲ発シマシタ。当時、全テノ欧州婦人ト、事実上全テノ印度系欧羅巴婦人ハ、抑留サレテ居マシタ。彼ハ同時ニ公立性慰安所ヲ設立スルヤウ命令ヲ出シマシタ。是等ノ性慰安所ハ、2種ニ分類スルコトニナツテ居マシタ。即チ3ヶ所ハ海軍職員専用5,6ヶ所ハ一般人用デ其ノ中ノ1ヶ所ハ海軍民政部ノ高等官用ニ当テラレマシタ。

海軍職員用ノ性慰安所ハ守備隊ガ経営シマシタ。司令ノ下ニ通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリ/SUGASAWA AKINORI/ガ主任トシテ置カレ、日常ノ事務ハ当直兵曹長ワタナベショウシ/WATANABESHOJI/、ガ執ツテ居マシタ。日本人ト以前カラ関係ノアツタ婦人達ハ鉄条網ノ張リ廻ラサレタ是等ノ性慰安所ニ強制収容サレマシタ。彼女等ハ、特別ナ許可ヲ得タ場合ニ限リ、街ニ出ルコトガデキタノデシタ。慰安婦ヲヤメル許可ハ、守備隊司令カラ貰ハネバナリマセンデシタ。海軍特別警察(特警隊)ガ、其等ノ性慰安所ニ慰安婦ヲ絶エズ補充スルヤウニ命令ヲ受ケテヰマシタ。此ノ目的ノ為ニ特警隊員ハ街デ婦人ヲ捕ヘ強制的ニ医者ノ診察ヲ受ケサセタ後、彼等ヲ性慰安所ニ入レマシタ。是等ノ逮捕ハ主トシテ、ミヤジマ・ジュンキチ/MIYAZIMA ZYUNKIKTI/、コジマ・ゴイチ/KOJIMA GOICHI/、クセ・カズオ/KUSEKAZUO/、イトウ・ヤスタロウ/ITO YASUTARO/、各兵曹長ニヨツテ行ハレマシタ。

一般人用ノ性慰安所ハ、南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズ/NAWATA HISAKAZU/、ガ経営シマシタ。守備隊司令ハ民政部ニ命ジテ、之ヲ監理サセマシタ。民政部ハ此ノ経営ヲ報国会(日本人実業家ノ協会)ニ依嘱シ、ナワタ/NAWATA/、ガ報国会ノ厚生部ノ主任デアツタノデ、是等一般人用ノ性慰安所ノ主任ニ任ゼラレマシタ。彼ハ帳簿ヲツケタリスルヤウナ事務的仕事ニハ、彼ノ会社ノ使用人ヲ使用シマシタ。毎朝夜間ノ収入ハ南洋興発会社ノ出納係キタダ・カゲタカ/KITADAKAGETAKA/、ニ引渡サレマシタ。是等ノ慰安所ニ対スル婦人達モ亦、特警隊ノ尽力ニヨツテ集メラレマシタ。其等性慰安所ニ充テラレタ家屋ハ、敵産管理人カラ手ニ入レ、家具ハ海軍用慰安所ニアツテハ海軍ガ支給シマシタ。遊客ハ原住民デアル傭人ニ(海軍ノ場合ニハ其ノ階級ニ従ツテ)金ヲ支払ハネバナリマセンデシタ。又ソノ傭人ハ、其ノ金ヲ毎日当直兵曹長、又ハ南洋興発ノ出納係ニ引渡シマシタ。両者ノ場合共三分ノ一ハ諸経費、家具、食物等ヲ支弁スル為保留サレ、三分ノ二ガ当該婦人ノ受取勘定ニ繰リ入レラレマシタ。此ノ中カラ婦人達ハ随時彼等各自ノ用ニ充テル為、其ノ一部ヲ引出スコトガ出来マシタ。毎月ノ計算書ハ、民政部ノ第一課ニ提出セネバナリマセンデシタ。

特警隊ハ、婦女ヲ捜スニ当リ、民政部及日本人商社ノ全婦人職員ニ特警隊ニ出頭スルヨウニ命ジ、ソノ婦人達ノ何人カヲ真裸ニシ、日本人ト関係シテヰタトナジリマシタ。次イデ、医師ガ検診ヲシマシタガ、数人ハ処女デアツタコトガ判リマシタ。是等ノ不幸ナ婦人達ノ中何人ガ性慰安所ニ強制的ニ送ラレタカ確実ニハ判リマセン。婦人達ハ性慰安所カラ敢テ逃ゲ出サウトハ致シマセンデシタ、ト言フノハ、彼女等ノ家族ガ特警隊ニ依ツテ直チニ逮捕サレテ非道ク虐メラレルカラデシタ、/例トシテ此ノ様ナ事ノ為、当ノ少女ノ母親ガ死ンダ事ガアリマス。幸ニモ占領期間中引続キ診療ニ従事スルコトヲ許サレタ在ケタパン/KETAPANG/、ノインドネシア人軍医ルフリア/LUHULIMA/、博士ハ特警職員ノ命令デ、彼ノ行ツタ是等婦人ノ検診ニ関係シ、宣誓陳述ヲスル事ガ出来マシタ、
彼ノ証言ニ依ルト婦人達ハ強制的ニ売淫サセラレタノデアリマス。
上記ノ報告ハ日本人戦犯者ノ訊問カラ得タ報告ト、本件関係者ノ宣誓陳述トカラ輯録サレタモノデアリマス、
私ハ、上記事実ハ真実ニ上述ノ報告書ニ相違スル点ノナイ事ヲ、情報将校及日本語通訳トシテ誓ツテ断言致シマス、
バタビア 1946年7月5日
/署名/ジェー・エヌ・ヘイゲブロエク陸軍大尉/署名/J・N・HEIJBROEK capt/
蘭印軍情報部
(T・N・on the 'certificate is written J・N・HEYBROEK)

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投稿日 2012/07/07 国際・政治 | リンク用URL | コメント (0) | トラックバック (1)
2012/06/14
「従軍慰安婦」問題 秦郁彦教授の論述に対する疑問
「直言! 日本よ、のびやかなれ」櫻井よしこ(世界文化社)の中で、櫻井氏は吉田清治氏(『わたしの戦争犯罪ー朝鮮人強制連行』の著者)を長々と批判し、「吉田氏の著書に較べて、私が秦氏らの著書や疑問提起に同感していることを読者の皆さんは気付いたと思います」と書いていた。また、「秦氏の現地で集めた情報が何より真実を告げている」と、自らの主張が秦氏に依拠していることを明らかにしつつ、「昭和史の謎を追う」秦郁彦(文藝春秋)の記述を引いていた。
そこで、「昭和史の謎を追う」秦郁彦(文藝春秋)の「従軍慰安婦たちの春秋」(上・下)を通読した後、「現代史の争点」秦郁彦(文藝春秋)を手に取った。でも、「現代史の争点」の「従軍慰安婦」問題に関する記述には、いくつか疑問を感ずるとともに、これが教授の文章なのか、と意外に思われた。政治家や運動団体の活動家のような文章に感じられたからである。

ここでは、『Ⅰ 南京事件と慰安婦問題』の、「壮大な茶番劇」としての慰安婦論争』の中の『「奴隷」を安直に使うな』を抜粋し、疑問に思ったことをいくつ指摘したい。

まず、秦教授は、「慰安婦」を「性奴隷」などと表現するのは間違いで、「慰安婦」は、「合法的存在だった公娼制の慣行にならったものだった」と指摘されている。そして、「慰安婦」には「相手を拒否する自由」「廃業の自由」「外出の自由」があった証拠資料として、「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」を挙げておられる。秦教授はこの資料について、「第3者の立場で観察した唯一の公文書であるだけに、その資料的価値は高く…」と述べておられるが、「えっ?」と驚くと共に、「従軍慰安婦」の存在を否定し、「従軍慰安婦問題など存在しない。売春婦が戦地で商行為を行っていたのだ。」などと主張する面々が、この資料を持ち出す「震源地」はここではないか、と直感せざるを得なかった。

この資料は、多くの元「従軍慰安婦」の証言と食い違う内容の資料である。にもかかわらず、「吉見氏がいうほど慰安婦たちの生活は悲惨だったのだろうか」と言って、この資料を持ち出す秦教授は、十分検証されたのであろうか、と疑問に思われたのである。あるいは、事実を百も承知で、立場上やむを得ずこういう論述をされているのかも知れないとも考えた。この資料についてはすでに、<「従軍慰安婦」と「 日本人捕虜尋問報告 第49号」の問題点>で論じたが、少々付け加えをしながら、再確認したい。

まず第1に、この尋問報告の大き問題は、記述されている報告の内容が「朝鮮人慰安婦」の証言に基づくものか、それとも日本の民間人(業者)の証言に基づくものかが分からないことである。報告のすべての項目が「情報源」不明なのである。したがって、その「資料的価値」が疑われる。なぜなら、「朝鮮人慰安婦」の生活や労働条件等について、日本の民間人(業者)が、詳しく正確なことを話すとは考えにくい。軍の監督下にあり従属的であったとはいえ、「朝鮮人慰安婦」の立場からみれば、民間人業者も加害者の側面を持つ。性交渉を強要された「朝鮮人慰安婦」の証言の中には、軍人はもちろん、「経営者にぶたれるのではないかといつも身をちぢこませて」いなければならなかった(李容洙)というような証言もあるのである(「従軍慰安婦」吉見義明<岩波新書>)。さらに、人身売買により、女性を「慰安婦」として拘束し、「相手を拒否する自由」「廃業の自由」「外出の自由」などを認めないことは、国際法違反で罰せられる行為である。日本の民間人(業者)が、そうした事実を自ら認めることは考えにくいのである。したがって、報告の内容が「朝鮮人慰安婦」の証言に基づくものか、それとも日本の民間人(業者)の証言に基づくものかが分からないこの資料を、「朝鮮人慰安婦」の証言に基づくものと勝手に判断し、「第3者の立場で観察した唯一の公文書であるだけに、その資料的価値は高く…」など言って利用することが許されるのかどうか、疑問なのである。

「日本人捕虜尋問報告 第49号」の次に『従軍慰安婦資料集』に収められているアメリカ陸軍歩兵大佐アレンダー・スウィフトの「心理戦尋問報告 第2号」では「それぞれの項目に対して付された整理番号は情報提供者を示す」とある。だれが話したことか明らかにされているのである。また「正確を期すために十全の努力が払われているが、この報告のなかの情報は、他の諸情報によって確証されるまでは控え目に評価されるべきである」とも書かれている。それに比して、この第49号の報告は、そうした配慮や慎重さがまるでないのである。

次に、「性向」の項目では、「朝鮮人慰安婦」が、「無教育、幼稚、気まぐれ、わがままで、美人ではなく、自己中心的である」と書かれている。また、「見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、女の手練手管を心得ている」ともある。20人の「朝鮮人慰安婦」について、20日余りの尋問期間で、こんなことが尋問官に分かるとは思えない。また、見知らぬ尋問官の前で、捕虜となった「朝鮮人慰安婦」がそうした性格を丸出しにすることは考えられない。当然のことながら、そういう判断の根拠は全く示されていない。

それに、朝鮮人「慰安婦」の尋問が、どのようなかたちで、何語でなされたのか、通訳はいたのか、なども分からない。報告者は「アレックス・ヨリチ」という日系アメリカ人のようであるが、朝鮮人「慰安婦」が日本語や英語を話せたとは考えにくい。また、報告者「アレックス・ヨリチ」氏が朝鮮語を話せたかどうかも分からない。したがって、この尋問報告書の大部分は、日本の民間人(業者)が語ったことの記録ではないか、と疑われるのである。

さらには、「慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている」とあるが、なぜそのような証言をしたのか不思議である。どのような問いかけに対しての、誰の証言であるかを明らかにしないと、報告としては価値がないだろうと思う。教授は「第3者の立場で観察した唯一の公文書であるだけに、その資料的価値は高く…」と述べておられるが、理解できない。 

「生活および労働の状況」の項目には、「教科書から慰安婦問題の記述を削除せよ」という活動を展開する人たちが、しばしば引用する文章が書かれている。秦教授も「吉見氏がいうほど慰安婦たちの生活は悲惨だったのだろうか」として引用されている部分である。「朝鮮人慰安婦」たちが、いかに厚遇されていたかということばかりが書かれている。困ったことや悔しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、腹立たしかったことなどは全く書かれていない。したがって、誰に、どんな問いかけをして得た証言なのか、を明らかにしないと、「朝鮮人慰安婦」の「生活および労働の状況」の報告としては、ほとんど価値がないと言わざるを得ない。逆に日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のために証言したと考えれば、いろいろな点で納得できる。

「利用割り当て表」の項目には、唐突に「慰安婦は接客を断る権利を認められていた」と出てくる。「朝鮮人慰安婦」が進んでこのようなことを言い出すとは考えにくい。また、彼女たちを「売春婦」と捉えている尋問官が、そのことを問い質したとも思えない。性交渉を拒否したために暴行を受け、傷つけられたという多くの証言あることを考えると、やはり日本の民間人(業者)が、自らの責任回避のためにした証言ではないかと疑われる。

「兵士たちの反応」の項目には慰問袋の話がでてくるが<彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした>というのである。戦地の兵士に「小さな人形、下駄」も不思議であるが、「口紅」などあり得ない話ではないかと思う。にもかかわらず、それをそのまま報告しているのである。

「軍事情勢に対する反応」の項目では、「ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである」とある。しかしながら、「兵士たちの反応」の項目には「彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった。慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか…」とある。したがって、これも「朝鮮人慰安婦」の証言とは考えにくい。日本の民間人(業者)の証言だろうと思われる。

「宣伝」の項目の記述<ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べた>というのも、報告書全体からを考えると「朝鮮人慰安婦」の証言ではないであろう。

唯一、最後の「要望」の項目にある、<「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである>という記述は、ほんとうにそういう証言をしたかどうかは不明であるが、「朝鮮人慰安婦」の立場を語るものとして受け取ることができる。

また、秦教授は「慰安婦」は、当時合法的存在だった公娼制の慣行にならったものだったと指摘されているが、当時「醜業婦ノ取締ニ関スル国際条約」(1910年5月4日)がすでにあり、その第1条には

何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス 

と定められていた。そしてそれは「婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約」の「1921年条約」第5条で

1910年ノ条約ノ最終議定書(ロ)項ノ「満20歳」ナル語ハ之ヲ「満21歳」ニ改ムヘシ

と改められているのである。それをふまえて「日本人捕虜尋問報告 第49号」を読むと

”1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地——シンガポール——における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。”

とあり、満21歳に満たない慰安婦4名が記録されている事実から 教授の主張に反し、この資料からでさえ、明らかに国際法違反が認められる。にもかかわらず、教授はそういう点には触れられず、「慰安婦」は「当時合法的存在だった公娼制の慣行にならったものだった」というのである。
したがって、私には、秦教授がこの資料を十分検証することなく、都合のよい部分だけを抜き出して利用されているように思われてならないのである。下記は、「慰安婦」にかかわる教授の文章の一部を「現 代史の争点」秦郁彦(文藝春秋)から抜粋したものであるが、”最近では欧米ばかりでなくわが国でも、売春婦は数ある職業の一種として認知される傾向があり、「オカネがたまったら普通の結婚をして……」と語るソープランドや援助交際の女性も出てきた。フェミニストたちが主張するコンプレックスやトラウマの後遺症は薄らいでいるようだ。”というような記述があることにも、正直驚いた。 
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Ⅰ 南京事件と慰安婦問題

「壮大な茶番劇」としての慰安婦論争

「奴隷」を安直に使うな

文部省食堂論で、 ウェイトレスの労働条件に言及したが、それは吉見氏の言う「軍用性奴隷」なる定義と関わってくる。
くり返すようになるが、彼女たちの労働条件は、当時は合法的存在だった公娼制の慣行にならったものだった。吉見氏は国内の公娼制も「事実上の性奴隷制度だった」(41ページ)と書いているから、必ずしも慰安婦=公娼論に異議を唱えているわけではなさそうだ。
しかし「相手を拒否する自由」「廃業の自由」「外出の自由」などの諸点で保護条件が劣悪だったと強調している。同じ「奴隷」でも国内の公娼なら国の法的責任は問えないが、慰安婦は条件がより過酷だったから責任が生じるとの主張かともとれる

だが、彼女たちを、一律に「性奴隷」ときめつけるのは失礼ではあるまいか。最近では欧米ばかりでなくわが国でも、売春婦は数ある職業の一種として認知される傾向があり、「オカネがたまったら普通の結婚をして……」と語るソープランドや援助交際の女性も出てきた。フェミニストたちが主張するコンプレックスやトラウマの後遺症は薄らいでいるようだ。
それはさておき、吉見氏が言うほど慰安婦たちの生活は悲惨だったのだろうか。

米戦時情報局心理作戦班が1944年夏、北ビルマのミチナで逃げおくれて捕虜になった20人の朝鮮人慰安婦と日本人の業者夫婦に尋問した記録がある。珍しいケースだったので、尋問は微に入り細にわたり、米本国の陸軍省などで争って廻し読みされたという。
第3者の立場で観察した唯一の公文書であるだけに、その資料的価値は高く、吉見編『従軍慰安婦資料集』(1992)に、439ページから464ページまで26ページを使って全訳が掲載されているのも、それゆえであろうが、彼女たちが前線にしては優雅とも見える生活に満足していたようすが窺える。

将軍よりも多い高収入で、前借金を1年間で返済して帰国した者もいたし、現在の物価に換算して一千万円以上の大金を家族に送金したり、休日には町へ買い物に出かけたりもしている。「接客を断る権利」も認められていた。

先に吉見氏が挙げた3つの自由はすべて満たされていて、条件は国内の公娼となんら変わらない。ところが吉見論文は、「都会以外での外出は許されず。都会での外出は許可制」だったとか、この米軍記録を「尋問担当者たちの奴隷状態をつかめなかったことを示すもの」(41ページ)と強弁する。都合の悪い資料は受けつけないか、曲解する手法と言われても、しかたがないだろう。

つでに書けば、ミチナは都会といっても人口数千の規模、周辺は虎の出るジャングルだが、そんなことより忘れてはならぬ一事がある。より悲惨だったのが、激戦場の下級兵士だったことだ。太平洋戦争で生じた200万に近い戦死者の約7割が広義の「餓死」だったとされる。
日本国内の公娼が「事実上の性奴隷」、慰安婦が「軍用性奴隷」なら、赤紙1枚で妻子を残し動員された日本軍兵士には、どんな形容詞が適切か。「奴隷」という毒々しい用語を、安直に使うべきではあるまい。

太平洋の戦場は、地球の三分の一に達するほど広大であった。そこへ進出した慰安婦や業者の動機は、戦場であるがゆえの高リスク、高収入であったろうが、彼らが出会った運命は兵士たちがそうであったように多種多様である。本人の証言こそ大切、とは言っても、韓国挺対協がまとめたもっとも信頼度の高い証言集でさえ、吉見氏が「一部疑問に思うところもあるが、相当信頼性の高い記録」(44ページ)と留保せざるをえないレベルだ。

半世紀以上を経て、個別の事情を確認するすべはないが、そのうえ彼女たちの母国政府も概して冷淡で、「真相究明」に取り組む気配がない。韓国やインドネシア政府のように、個人に対する国家補償の給付はやらないでくれ、と要請するところもある。既存の社会保障体系を乱されたくないからであろう。こうした客観情勢のなかで、説得性に欠ける国家補償論にこだわり、女性基金による慰安婦への給付を妨害したり、いじめを加える支援組織や運動団体とは何なのか。
どうやら、慰安婦狂騒曲は、戦後50年をめぐる壮大な茶番劇として終末を迎えそうな気配である。

一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略、または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
「……」は、文の一部省略を示します。


特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい)

第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本政府によって作られた同軍兵士の相手をする売春婦(慰安婦)がいた、東京都京橋区銀座七の一(現在の中央区南部)に設置された慰安所である。
英語では Recreation and Amusement Association

The Recreation and Amusement Association (特殊慰安施設協会 Tokushu Ian Shisetsu Kyōkai (Special Comfort Facility Association)?) (RAA) was the largest of the organizations established by the Japanese to provide organized prostitution and other leisure facilities for occupying Allied troops immediately following World War II. The system that incorporated the RAA was short-lived, lasting just over four months before it was eliminated in January 1946.

from wiki


The U.S. Forces Had a Comfort Women System in Japan (1945) 
アメリカによる日本占領時の慰安婦施設



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