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Tuesday, July 10, 2012
the history of red pepper and anti-plague in Korea
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唐辛史
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目次
第1回‐問題提起‐
第6回-問題提起2-
第11回‐陰陽五行説‐
第2回‐胡椒‐
第7回-胡椒代用品説-
第12回‐鬼神と伝染病‐
第3回‐唐辛子発見‐
第8回-塩分節約説-
第13回‐疫病の歴史‐
第4回‐日本伝来‐
第9回-民俗信仰説-
第14回
第5回-朝鮮伝来-
第10回-先行研究批判-
第15回
第1回‐問題提起‐
それは何気ない食卓の会話から始まった。
暑い夏の正午過ぎ。素麺を食べていたように記憶している。
なぜ突然唐辛子の話題になったのかは覚えていない。
しかし母が私に尋ね、私は深く考え込んだ。
そしてそこから、私の唐辛子との長い長い対話が始まったのだ。
当時私はどこにでもいる大学2年生だった。
現在私はどこにでもいるとはちょっと言い難い大学7年生である。
某大学で食文化を学んでおり、唐辛子をテーマに卒論を書こうとしている。
この「雑文」は卒論の進行と密接にかかわっていくと思われ、
雑文の「完結」は、私の「卒業」を意味するのであろう。
せっかく与えていただいた表現の場であるから、
私にとっても読者の方のためにも、有意義な場であるようにしたい。
読者の方の知的好奇心を満たしつつ、私の研究も整理されていくというのが理想だ。
がんばって書いていきたいと思う。
前置きが長くなった。
問題提起に移ろう。母が私に投げかけた疑問のことである。
「朝鮮半島に唐辛子はどこから来たのか?」
母の言い分はこうだった。
朝鮮料理は辛く赤い。唐辛子を非常にたくさん使うという印象がある。
だがその周辺諸国には唐辛子をたくさん使う国がない。
なぜ朝鮮料理だけが際立って辛く赤いのか。
考えてみると確かにそうだ。
日本ではせいぜいうどんに七味唐辛子を振るくらい。
ロシア料理が辛いと聞いたことはない。
中国には唐辛子をたくさん使う料理があるが、それは四川のほうでかなり南に位置する。
一方唐辛子をたくさん使う国を連想してみる。
まず朝鮮半島にインド、東南アジア、メキシコ……。
調べたところ西アフリカやハンガリーも唐辛子消費量が多いらしい。
ざっと考えたところではなんの共通点もない。
地域はバラバラ。世界各地に点在して生えていた植物だったのだろうか。
でなければ一体どんな経路で伝わっていったのだろうか。
これはレポートのネタになるかもしれない。
私はそう考えて唐辛子問題を調べ始めた。
ところが、その結果は実に意外なものであった。
唐辛子は歴史を舞台に世界中を駆け巡り、
信じられないほどドラマティックな過去を抱えていたのである。
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唐辛史
第2回‐胡椒‐
唐辛子を語るためにはまずどうしても胡椒について述べておく必要がある。
勿体つけているように感じられるかもしれないが、少しの間お付き合い頂きたい。
時はさかのぼって15世紀。舞台はヨーロッパ。十字軍の失敗による教皇権の失墜、封建社会の安定による商業の発達、そして大航海時代を目前とする、まさに激動の時代である。当時、胡椒は大変な貴重品であり「コショウ一粒は黄金一粒」とまでいわれた。ヨーロッパは肉食の文化であり、まだ冷蔵庫のない時代、それひとつで防腐、消臭、調味の役を果す胡椒は、まさに魔法の香辛料であったのである。
ところが、その胡椒は熱帯地方のみで栽培される香辛料であり、温帯、亜寒帯に属するヨーロッパでは栽培が不可能。非常に高価だったのもこのためで、胡椒の入手はヨーロッパとインドを行き来するジェノバ商人たちによる東方貿易によってまかなわれているに過ぎなかったのである。
そして15世紀中葉。この東方貿易が致命的な打撃を負う。
1453年、7代スルタン、メフメト2世率いるオスマントルコ帝国が、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥れる。これにより東ローマ帝国は滅亡。コンスタンティノープルはイスタンブルと改称され、オスマントルコ帝国はこの地を新たな首都とし、ヨーロッパとインドの間に広大な領土を築いたのである。このため、東方貿易は通行の手段を失い事実上不可能となり、同時に胡椒の道も閉ざされしまったのである。
道を失われたジェノバ商人達は他のルートに目を向けざるを得なかった。このときジェノバ商人たちが接近したのが、イベリア半島でイスラム勢力を駆逐し、国土回復を達成したポルトガル・スペイン両王国である。国土を回復し領地獲得の野望に燃えていた両国にとってもジェノバ商人の持ちかける話は魅力的なものであった。
この時代は特に羅針盤の改良、造船技術の発達、地理・天文学の向上により遠洋航海が可能になりはじめだ時代でもあった。地中海経由の東方貿易が不可能であるのならば、アフリカ経由でアジアに行けないか。商人たちはこう考えたのだ。世に言う大航海時代の幕開けである。
いち早く国土回復を成し遂げたポルトガル王国が大西洋に飛び出す。1445年航海王子エンリケの派遣船がアフリカの最西端ヴェルデ岬に到着、アゾレス諸島を中心に植民を繰り返し、1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達。1498年にはバスコ・ダ・ガマがアフリカ経由でインド洋に入りインド西岸カリカットにたどり着いたのであった。
国土回復にもたつき、一歩出遅れたスペイン王国も女王イザベル1世のもと大航海時代に乗り出す。このイザベル1世から、胡椒を持ちかえることを条件に資金援助を受けた、イタリアはジェノバ生まれの航海者がいる。トスカネリの地球球体説を信じ、大西洋を西へ向かった人物。1492年、ヨーロッパ人にとって未知の大陸を発見した人物。そう、かの有名なコロンブスである。
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唐辛史
第3回‐唐辛子発見‐
コロンブスの航海はけして楽なものではなかった。当時の常識で言えば地球は平面であり海には果てがあるのだ。そしてその果てから落ちてしまえば悪魔に食べられてしまう。地球球体説を信じるコロンブスはまだしも、船員達にとっては、いつ奈落の底に落ちるかわからない、恐怖にかられながらの航海だった。
船長コロンブスを信じて西へ西へ進むが、2ヶ月たってもまだ陸地は見えてこない。やがて起こる船員達の反乱。コロンブスは船員達を必死になだめた。
「もう少し。もう少しだけ待ってほしい。」
そして迎えた72日目。コロンブス一行はついに陸地を発見する。喜びにあふれかえるコロンブスは到着地をスペイン語で「聖なる救世主」、「サン・サルバドール島」と命名した。長い航海の末やっと見えた陸地はまさに救世主の顔に見えたことだろう。
インドに到着したと確信したコロンブスは後に「ガンジスの香りがした」と語ったそうだが、残念ながらここはわれわれがよく知るように、中米カリブ海に浮かぶ島のひとつでしかない。コロンブスは生涯4度の航海でこの地を訪れたが、最後までこの地をインドと信じて疑わなかった。現在に至るまで、この地の原住民をインディアン、この地を西インド諸島と呼ぶ所以はここにある。
コロンブスは早速胡椒を探しにとりかかった。ここがインドであったならば胡椒は難なく探し得ただろうが、インドではなく西インド諸島。ガンジス川の香りはすれど、胡椒の香りを嗅ぐことはなかった。同じ熱帯に位置する場所であっても胡椒は自生しておらず、いくら探しても黄金の実は見つからなかったのである。
とはいえこの地には今までヨーロッパに存在しなかった数々の品があり、胡椒こそ持ちかえれなかったものの、コロンブスは多くの戦利品をヨーロッパにもたらした。それが今日のトウモロコシであり、サトウキビ、バナナ、タバコ、そして唐辛子であった。
1493年。唐辛子がついに世界史に登場した瞬間である。
唐辛子自体の歴史は古い。原産地はまだ特定されておらず、植物学者達の研究の成果が待たれるところであるが、だいたいのところではボリビアかペルーのあたりとなるそうだ。そこでは古くから現地民によって調味料、また胃腸薬などとして栽培、利用されてきた。
さて、ヨーロッパに渡った唐辛子は世界史の流れに乗りさらに大移動を繰り返す。
唐辛子は大航海時代の波に乗ってアフリカまわりでインドに到達し、また一方で1526年、モハーチの戦いにより、オスマントルコ軍の手でハンガリーに持ち込まれた。インドでは胡椒に変わる新種のスパイスとしてカレーの中に投入され、ハンガリーでは現在世界的に有名な、辛味のない唐辛子パプリカとなった。
そして中米で発見された新種のスパイスはやがて地球を1周し、大航海時代の東の果て。黄金の国ジパングに到着したのである。1542年、ポルトガル人宣教師バイタザール・ガコが豊後(現在の大分県)の国守である大友義鎮に唐辛子の種を献上したという記録が残されている。
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唐辛史
第4回‐日本伝来‐
九州地方に伝来した唐辛子は即一般化とはならなかった。それまでの日本の食文化体系にはなかった猛烈な辛さのため食物としては受け入れられず、主に南蛮渡来の珍しい観賞用の植物として捉えられてしまったようだ。むしろ毒草のひとつとして考えられたという話すらある。ヨーロッパでは胡椒の代用品として広まったが、日本では当時仏教によって肉食が禁じられていたため、胡椒の使用も一般的ではなく、よって新種のスパイスである唐辛子が受け入れられる下地がなかったとも言えるのだ。
日本は島国であり、縦に長い国土を持つ。16世紀の交通事情を考えれば、九州地方の片田舎に伝来した唐辛子が即座に都である京都まで伝えられていったとは考えにくい。文化的に需要のない珍しいだけの唐辛子は人の手を渡って各地に伝えられることもなく、九州地方を出ることはなかったのである。
このことをきちんと踏まえた上で、実は唐辛子の日本伝来は諸説あることを明かそう。唐辛子の日本伝来時期は現在まで大きく分けて4つの説が唱えられてきた。
1、1542年の南蛮渡来船。
2、1552年のポルトガル人宣教師。
3、1605年に朝鮮から。
4、1592~98年の文禄・慶長の役の時に朝鮮から。
大事なのは年代だけでなく伝来した場所である。1、2は九州地方への伝来の記録で、3、4は京都への伝来を指している。その上で年代に注目すると1、2は16世紀中盤、3、4は16世紀末から17世紀初と見事に分かれているのがわかる。さらに入ってきたルートがポルトガルルートと朝鮮ルートに分かれることから、この2つは説としてバッティングしないのではないかという結論が導き出される。
つまり唐辛子はポルトガル人の手によって九州地方にもたらされ、いったんそこに留まり、その後何らかのルートで朝鮮半島に持ちこまれ、さらに朝鮮経由で京都に渡ったと考えられるのだ。このため日本伝来の史料は2つに割れ、現代まで混乱を持ち越すことになったのではないだろうか。
その問題を解くカギはやはり朝鮮にあるだろう。唐辛子が朝鮮の文献に始めて記載されるのは1613年。イ・スグァンの書いた「芝峰類説」がそうである。「芝峰類説」はいわば当時の百科辞典のようなもので、西洋、南方の国々を紹介した上で、キリスト教の事を初めて伝えた書として非常に貴重なものである。この書の食物部のところに次のような記述が現れる。
――南蛮椒には強い毒があり、最初倭国から入って来た。それで俗称を倭芥子(ウェギョジャ)という。時にこれを植えている酒屋でその猛烈な味を利用し焼酎に入れて売っているがこれを飲んで死んだものもいる。――
南蛮椒とは唐辛子のこと。倭国は日本である。倭芥子と呼んでいること、毒があると書いていることから考えても、九州地方から入ったとみてまず間違いない。では一体どのようにしてで朝鮮半島に入っていったのだろうか。
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唐辛史
第5回‐朝鮮伝来‐
まず韓国の学者、李盛雨によれば、唐辛子は豊臣秀吉朝鮮侵略の際、倭兵が朝鮮民族を毒殺しようと運び込んできたのもので、韓民族の体質が倭人と違って強靭であったため、かえってこれを愛用するようになったという話が伝えられているそうだ。
毒物としての唐辛子は、大量に風上で焼かれ唐辛子交じりの煙を敵陣まで飛ばすことによって、目潰しの役を果したり、セキが止まらない状態にして混乱させるというように使われたらしい。のみならず、奇襲作戦として粉末唐辛子を敵の顔にぶつけるといった戦法まであったという。
現実に唐辛子が毒物として使われたかどうかはわからないが、話としては非常に面白い。辛いものを日常に食する文化がなかった日本で唐辛子は毒物の一種として捉えられ、戦略武器として朝鮮半島に渡る。一方の朝鮮半島ではニンニクや生姜、蓼、胡椒などの香辛料を使う文化的素地があり、辛い唐辛子を食べることができた。それを体質が日本人よりも強靭であるから毒に負けないのであると解釈し、かえって愛用するようになったというのだ。これほど愉快な歴史はない。
では朝鮮半島への唐辛子伝来は秀吉の朝鮮侵略時と結論付けてよいか。じつはこれにも異論がある。1709年に書かれた「大和本草」には「昔は日本に無く、秀吉公朝鮮を伐つ時彼国より種子を取来る。故に高麗胡椒という」との記述があり、高麗胡椒とは当時の唐辛子の呼び名である。また1775年の「物類呼称」には「番椒、たうがらし、京にてかうらいごせうと云ふ。太閤秀吉朝鮮を伐給ふ時種取来る」とある。どうも日本でも朝鮮でも秀吉の朝鮮侵略時に唐辛子が来たとしているようだ。
実際、文禄の役は1592年、慶長の役は1597年といくらかの時代差があるので、文禄の役のときに朝鮮に入り慶長の役のときに持ちかえったと考えればつじつまが合わないことも無いが、やはり少し無理がありそうだ。
実はもうひとつ秀吉以前に倭寇が持ちこんだという説がある。当時朝鮮沿岸で猛威を振るっていた海賊、倭寇が九州で唐辛子を手にいれ朝鮮半島に持ちこんだという説だ。これならば時代的につじつまが合うのだが、残念なことに今もってこれを証明する史料は何も無い。
総合的に判断してしまうとこれはもう、わからないという結論しかない。とにかく九州地方に伝来した唐辛子は、何らかの手段で朝鮮半島に入り、再度日本に持ち込まれたということだけは確かであるようだが、その経路は今もって謎なのである。
さてともかく16世紀後半に朝鮮半島に唐辛子が伝わった。この瞬間から朝鮮料理が真っ赤になったと考えてしまいたいところだが、実際に唐辛子が料理に使われ出すまでには、なんとさらに100年以上のブランクがある。17世紀後半から18世紀にかけて突然唐辛子が大量に投入され始め、料理が真っ赤に染まっていくのだ。
その理由は一体なんだったのか。真の「唐辛史」はここから始まる。
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唐辛史
第6回‐問題提起2‐
朝鮮半島に唐辛子はどこから来たのか。この問題はとりあえずこれで一応の解決としたい。中米からヨーロッパ、日本を経由して朝鮮半島。もともと自生していた植物ではなく人の手を介在して運ばれたため、世界各地において局地的に唐辛子文化が発達していったのである。そこで新たなる問題提起だ。
なぜ朝鮮料理には唐辛子を多用するのか?
同時期に伝えられた日本では唐辛子を多用する食文化は無い。使用したとしてもせいぜいうどんやそばに少量振り掛けるだけに過ぎず、一般的な香辛料のひとつではあるが、無くてもさほど困らないというのが現状である。その反面、現在韓国においては1人当たりの1日の唐辛子消費量が5~7グラムに至り(韓国農村経済研究院発行「食品需給表」より算出)、料理を作る上でまさに欠かす事のできない香辛料となっている。実際5~7グラムというのは驚異的な数字で、理想的な塩分摂取量とさして変わらないという量なのである。
食文化のスタイルからみても、味噌や醤油などの発酵系調味料を使用し、米を主食とするなど共通点は多い。にもかかわらずこの唐辛子使用量の違いは一体どこから生まれたのだろうか。
この疑問を解くカギは唐辛子が使われだした年代にあるのではないかと考える。
まず唐辛子が使われ始めた年代を特定しよう。朝鮮で初めてハングルで書かれた料理書というものがあり、これが1670年頃に書かれた「飲食知味方」という本である。この本は慶尚北道の英陽郡というところに住む両班家庭の夫人によって書かれた本で、女性によって書かれた料理書としてはアジアで最も古い。当時の食文化を知る上で非常に貴重な文献であるが、この本には日常家庭で作っていた料理146種が紹介されているにもかかわらず、唐辛子がまったく登場しない。つまり16世紀後半に伝来した唐辛子が、約70年後のこの時期にはまだ一般化されていなかったことを意味するのだ。
では唐辛子が料理書に初めて登場するのは一体いつか。
唐辛子を使用した料理の記録は柳重臨が1766年に書いた「増補山林経済」が初めてである。「増補山林経済」では唐辛子が入ったキムチ6種が紹介されており、粉末唐辛子のみならず唐辛子の葉や茎まで利用されている。これによれば1766年当時には唐辛子が一般的に使われていたということがわかる。
ややおおまかではあるが唐辛子が一般化した年代は1670年から1766年までの約100年間に絞られた。この100年間に何があったのか。これについては今までさまざまな学者が学説を展開してきた。話しをわかりやすくするにも、まずはその先行研究から吟味していくこととしよう。
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唐辛史
第7回‐胡椒代用品説‐
やはり先行研究の中でも最も重要なのは胡椒の存在である。唐辛子発見の歴史的経緯から見ても、唐辛子は胡椒の代用品であった。唐辛子はレッドペッパーであり、つまり赤い胡椒。そういった認識であったのだから、唐辛子の普及を胡椒と関連付けて語るのはいかにも自然なことであるように見える。
江戸時代の日本ではうどんに胡椒をかけて食べたとの記録もあり、現在我々が一味や七味唐辛子をうどんにふりかけて食べることから考えても、唐辛子がちょっと色の違う胡椒の様に認識されていたということはまず間違いない。
滋賀県立大学教授、鄭大聲は朝鮮半島において唐辛子は胡椒に代わる香辛料だったとし、胡椒や山椒、蓼、ニンニク、生姜などの香辛料が唐辛子を受け入れる素地になったとしている。
朝鮮半島に胡椒が知られるようになったのは高麗時代の中期、中国が元になってからのことである。1231年から元は朝鮮半島に侵入を繰り返し、1258年に高麗政府が交戦を断念。以後高麗王朝はその影響下で生活するようになり、結果として様々な物産が流入するようになった。またこの時期には焼酎、葡萄酒、砂糖なども同時に伝来している。
この後1392年に高麗王朝が滅び、李成桂によって李氏朝鮮が建国されると胡椒の輸入は日本へと移り変わった。胡椒は南蛮渡来の交易品であり、多くの場合オランダ船を通じ九州、もしくは対馬を経由して朝鮮に渡っていった。日本の中心地にはほとんど運ばれることなく、素通りするように朝鮮に渡っていったのだが、それには理由がある。
日本では当時仏教の影響によって肉食が禁じられており、胡椒への欲求はほとんどなかった。朝鮮でも同様に538年に肉食が禁じられたが、元の影響を受け肉食が復活し、李氏朝鮮では仏教にかえ儒教を受け入れる政策をとったため公式的にも肉食を禁止する理由がなくなった。肉食が始まると当然もっとおいしく食べる為の香辛料を要求するようになるのはヨーロッパの例を見てもよくわかる。
金柄夏によれば朝鮮は胡椒の種子を求める要請を1481年から87年までの6年間だけでも日本に対し11回、明に対し1回の計12回も行ったそうだ。また、1483年には対馬と共同で胡椒の種子を得るために南蛮大航海の計画も立てている。結局この計画は費用の関係で頓挫してしまったが、当時の胡椒にかける熱意が良く表れている。この熱意はコロンブスがアメリカ大陸で唐辛子を発見するに至ったその過程と非常に良く似ているではないか。
歴史に「もし」はありえないが、日本にも1274年、1281年の2回元が攻めこんできている。この時日本には神風が吹いて元の支配を免れたが、もしこの時に神風が吹かず元の影響下に置かれたとしたら、日本にも肉食の文化が根付き胡椒の要求が高まっていったとも推測される。そうすると当然南蛮からの交易品は日本で消費され朝鮮には行き渡らなかったことになる。唐辛子が胡椒の代用品として発達したのであれば、むしろ唐辛子を多用する真っ赤な料理は日本で生まれていたかもしれない。
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唐辛史
第8回‐塩分節約説‐
胡椒の次に興味深いのは塩の存在である。
日本の食品学者である木村修一は辛味を出す唐辛子のカプサイシンが塩の摂取を減らす機能をするという仮説を立て次のような実験をした。唐辛子の辛い成分であるカプサイシンをAのネズミ群に多量に注入した。Bのネズミ群にはカプサイシンを注入しなかった。その後塩が入ったえさを少しずつ摂取させた結果、Aのネズミ群は塩の入ったえさをあまり食べず、Bのネズミ群はAのネズミ群に比べたくさんの量のえさを食べたのである。
木村はこの実験を通じ唐辛子には食塩節約効果があることを発見した。また同時に唐辛子のカプサイシンは食欲を増進させるということを明らかにし、韓国で寒い冬の間、塩を求めにくかった庶民達は塩の摂取に変わって唐辛子を用いる方法を探し求め、これが韓国料理で唐辛子がたくさん使われる背景になったのではないだろうかと述べている。
この木村の実験結果を元に韓国の学者、周永河は李朝後期の歴史を検証した。
周永河によるとこの時代は経済制度の過渡期であり、階級制度に大きな変動が起こった時期である。2度にわたった大きな戦争(壬申倭乱、丙子胡乱)のため多くの両班階級の力が衰えていった時代でもある。
それまでは科挙制度が唯一の支配階級への編入方法であったが、この時代になって農業技術が向上したことによって商人階級、農民階級が多大な財産を得て、家名を金で購入するなどの方法で両班階級にあがっていった。その数や莫大なもので、ある地方の戸籍資料に寄れば17世紀末にわずか10%程度だった両班戸は19世紀半ばまでに70%まで増えてしまったところもあった。
両班階級にあがった人々はやがて生活様式も変えていった。すなわちその時まで行わなかった祖先祭祀を行うようになったのである。このような変化は両班階級にあがった商人のみならず、常民にまでも影響を与えたのだった。
ここで述べなければならないことは祖先祭祀を行うためには、欠かすことのできないいくつかの食べ物があるという点である。その中のひとつが魚であり、祖先祭祀を行う者が多くなるに従い、魚の需要が高まっていった。しかしこの時代に新鮮な魚を運搬する技術があろうはずもなく、腐敗を避け長距離輸送をするには魚を塩漬にする方法以外なかった。
整理をすると、階級制度が崩壊したために祭祀を行う人が増え、その結果魚の需要が急増し、同時に魚を保存するための塩の消費が増加したということである。
朝鮮半島は3方を海に囲まれており、一見塩には不自由しないように見える。しかし塩は人間が生きていくのに不可欠な食品であり、朝鮮半島でも昔から専売制がとられてきた。李朝後期のこの時代も塩は国家が直接生産、流通を管理しており、このように突発的な塩の過剰消費が起こり、結果的に不足した塩を補うために唐辛子が使われるようになったというのが周永河の説である。
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi9.htm
唐辛史
第9回‐民俗信仰説‐
最後は唐辛子の色に着目し、朝鮮の民俗信仰と関連して述べた説である。
朝鮮総督府の嘱託であった村山智順(1891‐1968)は民俗的な側面から当時の朝鮮人の生活、鬼神や風水にかかわる民俗宗教などを調査した。その著書の中のひとつに「朝鮮の鬼神」があり、この中で村山智順は病気をつかさどる鬼神と唐辛子の関係性について述べている。
村山智順が分析した人々の鬼神概念よれば、病気の鬼神は汚敗した空気や新鮮ならざる飲食物を通じ、口を主たる入口として人間の体内に侵入してくるという。鬼神が入りこむことによって人は病気になるので、当然これを防ぐ手立てを考えなければならない。この場合の手立てとは鬼神の好む食べ物を遠ざけること、そして鬼神の嫌うものを摂取することの2点であった。
以下は「朝鮮の鬼神」からの引用である。
「鬼神は口から飲食物に依って入るものであると云ふのが一般の信仰である。而して鬼神は飯、味噌、醤油、肉類等の日常缺くべからざる常用食物を好む。だから之等を飲食する時其処は悪鬼が群って居て、何時之に乗じて入らないとも限らぬ。この不時の侵入を遮け、又假令進入しても居たたまらなくするには、彼等の嫌忌するもの以って加味するか、又は嫌忌するものを共に食する事である。そこで退鬼法防鬼法は日常食事へと発展した。」
「唐辛子、葱、蒜等の辛きもの、臭きものが朝鮮料理にはなくてならぬものであるが、悪鬼の好物である飯にも防鬼の調味をなすものがある。飯には辛きもの臭きものの如く味覚嗅覚に訴えるものを以てする。それは赤色である。(中略)朝鮮料理は唐辛子料理評しえるが如く他の香料よりも多量に使用し、或いは之を刻み、或いは粉にし、汁にして、あらゆる食物に調味加味するが、これは他の辛味に比し、赤くして辛いという色と味と両者に於いて悪鬼の嫌忌するものであるが為で、単に味が好いとか沢山収穫し得るからでは決してない。」
鬼神は日常的に食べる飯、味噌、醤油、肉類を好み、唐辛子、葱、ニンニクのように辛く匂いのあるものを嫌う。コチュジャンのように味噌に唐辛子を加えたり、醤油の甕に赤唐辛子を浮かべておいたりするのは鬼神を近づけない工夫でもあったのだ。
さらに鬼神は陰陽の考え方では「陰」の気を持ち「陽」の色が濃いもの。つまり赤いものを非常に嫌う性質を持っている。家に病気の人間が出たときは、家の門に赤い字で呪文を書いた符籍という紙を張って鬼神を追い出したといわれ、また宣祖10年(1577年)には疫病が流行したため、牛を殺しその生き血を門に塗ったという記録がある。
この点で唐辛子は圧倒的な辛さに加え、鮮やかな赤色をしており、鬼神の嫌う2種類の要素を兼ね備えた稀有な食物であったと言える。
まだまだ科学的な医療知識が発達していなかった時代、人々が頼ったのはこういた民間の信仰であっただろう。ひとびとの口伝えに鬼神を防ぐ万能調味料として唐辛子が急速に発展していったということは充分にありうる話である。
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唐辛史
第10回‐先行研究批判‐
さて、いくつかの先行研究を見てきた。どれもそれなりの説得力をもってはいるが、疑問点もまた多い。第7回で書いた鄭大聲の「唐辛子=胡椒代用品」については、佐々木道雄が以下に引用する4点の理由を挙げ批判している。
①当時の胡椒は非常に高価で、肉も高級品。つまり、一握りの支配層の嗜好がトウガラシの使用を決定づけたことになるが本当か。
②古い料理書では、肉ではなく、野菜や魚にトウガラシを使っている。
③肉料理の香辛料は、トウガラシ導入以前は山椒と胡椒であり、今日でもトウガラシより胡椒のほうが多く使われる。
④朝鮮への胡椒の流入が止まったのは秀吉の朝鮮侵略のあった十六世紀末以降のことなのに、トウガラシの使用が盛んになるのは十八世紀中頃以降である。
唐辛子が原産地である南米からヨーロッパに持ち込まれた過程などから見ても、胡椒の影響を受けていたと考えるのが最も自然であるかもしれない。しかし、唐辛子の受容まではそうだったかもしれないが、その後の料理への使われかた、食文化への浸透具合などを見ると、胡椒の使われ方を踏襲しているようには見えない。そもそも朝鮮には胡椒を多用する食文化があるわけではなく、唐辛子の普及に関しては胡椒はほぼ無関係であったと考えられる。
次に第8回で書いた周永河の「塩分節約説」であるが、これは唐辛子を使用するに至った直接的な理由にはなりえない。当時、唐辛子の食塩節約効果を科学的に分析できたはずもなく、経験的にそういう働きがあることを知ることはあっても、それは相当後の話である。同時にビタミンの補給であるとか、キムチの発酵を促進させる効果があるなどの、唐辛子の持つ成分に焦点をあてた説はすべて朝鮮料理を赤くした理由には当てはまらない。すべては朝鮮料理が唐辛子によって赤くなったために起こった現象であり、結果論なのだ。
そうしてみると、最後に述べた村山智順の「民俗信仰説」は実に興味深い。病気の鬼神を遠ざける為に、赤く辛い唐辛子を料理に投じるようになったというのなら、充分に朝鮮料理を赤くした直接的な原因たりえる。陰陽五行の考え方、病気は鬼神が人間にとり憑いたことによっておこるという民間信仰自体は古くからあり、また現在まで脈々と受け継がれている。よって唐辛史ではこの民俗信仰説を論の中心に据え、さらに歴史的な考察も含んで検証していく。
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唐辛史
第11回‐陰陽五行説‐
まず始めに陰陽五行説とは何か。そこから整理していくとしよう。
陰陽五行説とは陰陽説と五行説というふたつの哲学的な思想が結びついたもので、もともとは古代中国で生まれたものである。宇宙の万物は全て陰と陽に分かれており、相反する性質を持ちながらも単一では存在しえず、お互いがあってこそ存在しうるという考えである。
陰と陽の区別は、万物の中で能動的・昂進的状態であるものを陽、受動的・沈静的状態であるものを陰と大別する。それらが和合・循環することで万物の生成・消滅といった変化が発生すると考えられるのだ。
韓国の国旗、太極旗はまさにこの陰陽説をモチーフに作られたもので、中央の円が宇宙の根元とされる太極を表し、その中で上下に巴型に入り組んだ上半分の赤い部分が陽、下半分の青い部分が陰をそれぞれ表している。四方の黒い卦は、左上が乾、右下が坤、左下が離、右上が坎で、順に天・地・日(あるいは火)・月(あるいは水)を表す。(余談ではあるが、北朝鮮の国旗は1948年の建国時に作られ、左中央の赤い星は共産主義に向かう未来を、中央赤の帯は人民の熱血を、上下の青は国際連帯ないし平和を、白い円と細い白線は光明や清浄を尊ぶ朝鮮民族の特質をそれぞれ表している。)
これに対し五行説とは、自然界や人間社会の諸現象など森羅万象の生成・変化を、木・火・土・金・水という五つの要素で説明するものである。木から火が、火から土が、土から金が、金から水が、水から木が生じたと考え、これを相生といい、また木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に剋つとされ、これを相剋という。この世に存在するもの全てがこの五気に還元され、木・火・土・金・水の五気がこの順序で回りつつ相互に影響しあうという考え方である。
実際に様々なものが五つに分類して考えられており、代表的なところでは、色が木・火・土・金・水の順に青・赤・黄・白・黒と割り当てられる。朝鮮の料理においては特にこの5色というのが重んじられており、宮廷料理や重要な客をもてなす時には必ずこの5色を基本として料理を作る。
代表的な宮廷料理である九節板(八角形の器に八種の具を入れ、中央に配置したチョンピョンと呼ばれる、溶いた小麦粉を薄焼きにしたもので巻いて食べる料理)には白2種、茶2種を縦横に同色が向かい合う形で配置した上で、その間に挟まる位置に青(緑)、赤、黄、黒の食材を配置することになっている。
また朝鮮料理にはコミョンといって、料理の上に装飾用として載せられる食材がある。宮廷料理に限らず、家庭料理や一般の食堂でもコミョンを用いるが、これも正式には5色の食材を配置することが基本とされている。第2代朝鮮王朝宮廷料理技能保有者である黄慧性はコミョンについてこう説明している。「コミョンは五つの色を考えるといいます。五つの色というのは五行説の考えからきています。(中略)五行説の五つの色は自然色で、イワタケが黒、緑はネギとかセリなど、黄色は卵の黄身、白は白ネギもつかうし、卵の白身も。赤い色はトウガラシを糸状にしたものをつかいます。」
迷信や俗信が軽んじられる現代においても、こうした考え方は無意識のうちにあちこちに根付いている。現在、考えなしに行っている我々の行動、習慣などにも現れており、掘り返して調べてみると面白いことがわかるものなのである。
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi12.htm
唐辛史
第12回‐鬼神と伝染病‐
朝鮮文化に根付く陰陽五行の思想と、病気を司る鬼神の関係はどのように繋がっていくのだろう。陰陽五行において、陰の気を持ち人々の健康を蝕む鬼神とはいかなる存在であったのか。李朝時代の人々は鬼神をどのように解釈していたのか。これらについて説明をしておきたい。
まず当時の時代背景であるが、李朝後期は頻発する伝染病被害に苦しめられた時代であった。鬼神が憑くことによって病気が発生するのであれば、鬼神が猛威を振るった時代だったとも言える。真性コレラや腸チフス、天然痘などの伝染病が朝鮮半島を断続的に襲い、夥しい数の死者を出した。記録によれば、比較的規模の大きい伝染病だけでも平均2.6年に1回発生しているという。
李朝後期の約200年間、伝染病によって1万人以上の死亡者が出た年だけでも15回に上り、そのうちの6回は10万人を越す死亡者を出している。1699年に発生した伝染病は25万5千人という莫大な病死者を出し、1742年にも死亡者数が数十万人を超える被害が出ている。また1749年には全国で50万名以上が伝染病で死亡し、1750年にも23万名の死亡者が発生したのである〔姜萬吉、1984、『韓国近代史』、創作と批評社〕。
このとき朝鮮半島の人口がわずか5~700万人程度であったことから考えると、その数字がどれほど大きいものだったのかよくわかる。1回の伝染病で人口の約7~10%を失うという甚大な被害だ。
これら伝染病の悲劇はなにも朝鮮半島に限ったことではない。人類の歴史をさかのぼれば、あちこちに伝染病の悪魔が潜んでいるのを発見できる。中世ヨーロッパを恐怖に陥れ、全人口の3分の1を死に至らしめたペスト。エドワード・ジェンナーがワクチンを開発するまで恐怖の対象であり続けた天然痘。江戸時代の日本でも猛威を奮ったコレラ。その他にも赤痢、チフス、マラリア、結核など、死に至る病がごくありふれて身の回りに転がっていた時代だ。
世界各地で医学と伝染病が戦い、また一般大衆は迷信や俗信、民間信仰などをもって伝染病に立ち向かった。神に祈る。悪魔払いをする。デマや流言の類も飛び交ったであろう。
世界で初めて病原菌が発見されたのが1876年。ロベルト・コッホがハツカネズミを用いた実験で炭疽菌を見つけた年である。伝染病医学はその後、急速な発展を遂げ、数々の難病を克服していくが、それはまだずいぶんと先のことである。
黒死病とも呼ばれたペストは中世のヨーロッパを大混乱に落し入れ、人々は目を覆わんばかりの惨状にただ怯えるだけであった。ネズミやノミを媒介してペスト菌が広まっていくという感染経路や、予防法、治療法についての正確な知識があろうはずもない。頭痛、発熱、全身のけだるさ。やがて身体中に浮き出る黒色の斑点。大量の死者が出る中で人々は口々に「悪魔の呪い」や「魔女の仕業」を叫ぶしかなかった。教会の権威は地に落ち、無実の女性が次々と処刑された。世に言う魔女狩りである。
それと同様、朝鮮において悪魔や魔女の役割を果したのが鬼神である。
<続く>
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi13.htm
唐辛史
第13回‐疫病の歴史‐
朝鮮において最も古い疫病の記録は『三国史記(百済本紀)』に登場する。百済の始祖温祚王(在位、前18~後28年)の時代である。『三国史記(百済本紀)』には「百済温祚4年(紀元前15年)春に旱魃、水害、飢饉などの理由で疫病が発生した」と記述されている。
また日本での最も古い疫病の記録は、現存する日本最古の歴史書『古事記』に見える。崇神天皇(第10代天皇)の時代に疫病が発生したという記録がそうだ。崇神天皇の夢枕に立った大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は疫病が自らの祟りであることを伝え、子孫である意富多多泥古(おおたたねこ)に自分を祭らせるように言った。崇神天皇が意富多多泥古を探し出し神主として三輪山に大物主大神を祭ると、疫病の被害は収まり国は平安を取り戻したという。
はるか昔の歴史書にも記されているように、人類の歴史とは、すなわち疫病の歴史と言っても過言ではない。人類は常に疫病の恐怖に怯え、闘ってきた。医学の発達した現在においても根絶できない病気は数多く、人類と疫病の闘いはまだ終わっていない。
伝染病に対し、我々が近代的な医学知識を武器に、まともに対峙できるようになったのはごく最近のことだ。伝染病学、免疫学、解剖学、疫学などの発展とともに、克服できるようになった病気も出始めてきている。中世に猛威をふるった天然痘は1977年ソマリアの天然痘患者を最後に根絶され、1980年にWHOが天然痘根絶を宣言している。しかし、その反面エイズやエボラ出血熱など未知の伝染病も発見されており、伝染病との闘いは終わりが見えないことを表している。
そんな近代的な医学知識すらなかった時代。李朝時代の医学書を見ると、そこには医学的な手法と民間信仰的な治療とが入り混じって紹介されているのがわかる。時の政府も疫病の被害が広まると同時に、厲祭という鬼神の怒りを鎮める儀礼を頻繁に行い疫病の被害を鎮めようとしていた。政府によって厲祭が行われたということは、疫病の被害に対し鬼神の存在を前提とした対策をたてているということであり、当時疫病が鬼神の影響であると広く考えられていたことを証明している。
もっとも厲祭が唯一の方策だったという訳ではない。政府は鬼神説を確信していたのではなく、厲祭を行うことによって疫病に苦しむ民衆の慰労、民心の安定などを求めたとも言われている。
実際に政府は現実的な手段をもって様々な救療施策を展開しており、例えば物価調節と飢民救済を目的とした賑恤庁をおいたり、伝染病の被害が広まった時には還穀(中央地方の官庁が貯蔵穀物を春に貸し出し、秋に利子をつけて返納させた制度)を免除したりもした。また治療用の薬剤を配布したり、その地域でとれる郷薬を採取するよう通達したりもしている。伝染病患者の隔離も行われており、むしろ救療施策は積極的に行われていたとみられる。
しかし、多くは伝染病が流行した後の事後措置に終わっており、予防を目的とした措置としては不充分であった。人口の約7~10%を失うという甚大な被害を受けつつも、政府は万全の対策を講じることができず、死者は増える一方であった。政府をあてにできない民間では独自の予防法、治療法をもって対処していくよりほかなく、それはまさに民間信仰に依拠した手段だったのである。
その手段の中には唐辛子の使用も含まれる。唐辛子が鬼神を追い払う力を持つという信仰は現代まで伝えられているが、それは唐辛子が伝えられたこの時代に端を発する。歴史の浅い新種の香辛料である唐辛子は何故鬼神を追い払うものとして広く受容されてきたのだろうか。
<続く>
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