http://www.geocities.jp/takechan_mori/international/EU_ianfu.html
「『慰安婦』(アジアにおける第二次世界大戦の戦前・戦中の性奴隷)の扱いに公正を期すための2007年12月13日の欧州議会決議」をめぐって
欧州議会決議が突きつけるもの
日本でずっとないがしろにされてきた真の民主主義、人権について、「慰安婦」問題を契機として、世界中から問題提起がされ、特に今回の欧州議会決議は「慰安婦」を明確に性奴隷と規定し、その問題をのらりくらりと誤魔化してきた日本政府を糾弾している。
これは怠慢にも、その政権を打倒せずにきた、日本国民にとって、突きつけられた鋭い刃でもある。
「慰安婦」問題は、なかなか全貌が分らず、日本政府も解明する努力をさっぱりしてこなかったため、断片的ではあるが、よく知られたインドネシアのケースを以下に掲げる。
インドネシアでは、以下のように軍による市民の強制慰安婦化の事案があった。
(A)1943年3月、ジャワ島ブロラで20人のヨーロッパ人女性を日本軍が監禁・レイプしたケース
(B)1944年1月、抑留所からマゲランの慰安所に女性たちを暴力的に拉致したケース
(C)1944年2月、抑留所からスマランの慰安所に女性たちを暴力的に拉致したケース
(D)1944年4月、スマランで女性たちを逮捕し、スラバヤやフローレス島の慰安所に移送したケース
なかでも(C)のケースは「スマラン慰安所事件」として知られており、バタビア臨時軍法会議で、現地日本軍部隊が抑留所にいる若い女性を暴力的に拉致して慰安所に入れたとして、当事者に死刑判決が下されている。「スマラン慰安所事件」は「白馬事件」(「白馬」とは「白人の女に乗る」ことから強制的に慰安婦としたヨーロッパ人の意、現地人を慰安婦に仕立てたのを「黒馬」といった)ともいい、南方軍管轄の第一六軍幹部候補生隊が17才以上のオランダ人女性を連行して、少なくとも35名に売春を強制した事件。
これは娘を強制的に連行されたオランダ人の抑留者リーダーが、陸軍省から捕虜調査に派遣された小田島薫大佐に訴えて発覚、その二ヶ月後国際世論を恐れた軍当局によって慰安所は閉鎖された。その事件当時の第一六軍幹部候補生隊長は能崎清次(当時少将、陸士24期)であったが、軍の目こぼしでおとがめなく、1945年に中将となって第百五十二師団長にまでなっている。事件後、監禁されていた女性が解放されただけで、能崎以外の犯人についても、陸軍刑法に違反しているにも関わらず、軍法会議にかけられることもなかった。これは軍法会議にかけることによって、陸軍のエリート部隊が起した事件を日本国民に明らかにすれば、国軍の威信に関わるとの思惑が働いたためである。他国の非戦闘員に対して死ぬより辛い屈辱を与えておいて、事件が発覚すると世間体がまずいともみ消ししたのだから、官僚とか警察などによくある身内に甘い体質は戦時中から続いていたのである。
一般兵士が戦闘中に部隊から離脱した場合、敵前逃亡として平気で銃殺してきたくせに、軍幹部が強姦事件とかおこしてもお咎めなしとは、日本軍の体質がよく分かる。能崎清次は戦後オランダがおこなった軍事裁判で、売春強制罪、強姦罪などにより、求刑は死刑ながら12年の懲役刑に処せられている。
<民族衣装のインドネシア女性(本文とは関係ありません)>
欧州議会の決議文
以下は、今回の決議文を日本語に訳したものである。何分にも小生の知人で専門家でもない者が訳したため、間違いやおかしな表現もあるかもしれない。
だから、厳密には原文に目を通してほしい。以下のURLで原文を見ることが出来る。
http://www.europarl.europa.eu/sides/getDoc.do?type=MOTION&reference=P6-RC-2007-0525&language=EN
European Parliament resolution of 13 December 2007 on Justice for the 'Comfort Women' (sex slaves in Asia before and during World War II)
「『慰安婦』(アジアにおける第二次世界大戦の戦前・戦中の性奴隷)の扱いに公正を期すための2007年12月13日の欧州議会決議」 (和訳:針けんじ氏、一部補完、外来語の同じ意味の日本語への置換等は森兵男)
欧州議会は、
2007年に200周年を迎える、奴隷貿易禁止を尊重し(以下、9行省略)
・・・
A.1930年代から第二次世界大戦終了までのアジアと太平洋諸島の植民地及び戦時占領地といった、日本が支配したあらゆる場所において「ianfu」あるいは「慰安婦」として世界中に知られた、若い女性たちを大日本帝国の軍隊の性奴隷とするためだけに公式に徴用し、
B. 100,000人以上の女性が性奴隷にされたと歴史家は結論を下しているが、
C.「慰安婦」システムは輪姦、強制堕胎、侮辱、性暴力を含み、傷害、殺害や自殺をも招来せしめ、20世紀最大の人身売買のひとつのケースであり、
D. 日本の裁判所に持ち込まれた多数の「慰安婦」訴訟は、大日本帝国の軍隊の直接・間接の関与を認める、法廷判断および州?の責任にもかかわらず、原告による賠償要求は却下され、
E.「慰安婦」システムの犠牲者は殆ど他界しており、残りの生存者が80歳以上だが、
F.この数年の間に、多数の日本政府の高官や職員が「慰安婦」システムについての謝罪声明を行なったが、日本政府関係者の幾人かはそれらの声明を薄めようとしたり無効にさせようという遺憾な望みを最近になって示し、
G.性奴隷制システムの全貌は日本政府によって完全には示されておらず、日本の学校で使用される新しい教科書は、第二次世界大戦中に「慰安婦」およびその他の日本の戦争犯罪の悲劇を矮小化しようとしているが、
H.政府発動の民間財団であり、「慰安婦」の虐待と苦痛を償うためのプログラムやプロジェクトを実施する役割を担ったアジア女性基金の委任は、2007年3月31日に終了し、
1 複数政党制民主主義の相互に共有される価値に基づいた欧州連合および日本と法の支配および人権の尊重の優れた関係を歓迎し、
2 第二次世界大戦の期間を通じて「慰安婦」システムの犠牲者だった女性たちと結束することを表明し、
3 日本の議会の「慰安婦」システムの犠牲者を含む戦時犠牲者のための謝罪を表明した1995年および2005年の国会決議と同様に、「慰安婦」についての1993年の河野洋平内閣官房長官、および1994年の村山富市首相による声明を歓迎し、
4.日本政府によって1995年に設立され、今は解散している政府出資民間財団のアジア女性基金が、「補償金」を数百人の「慰安婦」に配ったことを歓迎するも、人道的措置は被害者の要求する法的な認知と、国際法上の賠償をみたさないという前述のゲイ・マクドゥーガルによる1998年の報告書、女性に対する暴力に関する国連特別報告書に述べられた内容を考慮し、
5.1930年代から第二次世界大戦終了までのアジアと太平洋諸島の植民地および戦時占領下で、世界に「慰安婦」として知られる、若い女性を強制的に性奴隷状態においた大日本帝国の軍隊の行為を、日本政府は明確に、公式に認め、謝罪し、そして歴史的、法的責任を受け入れるよう勧告し、
6.「慰安婦」システムの犠牲者で存命の者および既に死去した犠牲者の家族に対する賠償を行うために、日本政府が効果的な行政の仕組みを実現すべきことを勧告し、
7. 日本の国会は、日本の裁判所が賠償命令を下すのに立ち塞がる既存の障害を解消する法的措置をとることを勧告し、特に個人が政府へ賠償請求する権利は国内法において至急実現されるべきであり、国際法の元で犯罪である性奴隷状態の生存者に対する賠償請求裁判は、生存者の年齢を考慮して優先されねばならず、
8.「慰安婦」がかつて服従され、性奴隷化がなかったという、いかなるクレームにも公に反駁するように日本政府に要求し、
9.全ての国々の義務である、それぞれの国家の歴史を十分認識し、かつ「慰安婦」に関することを含む1930年代および1940年代にかけての日本の行動に対して注意を喚起、さらなるステップを踏むことを日本の人々および政府に奨励するとともに、
それらの出来事に関する現在と未来の世代を教育することを日本政府に勧告し、
10. 欧州議会議長に、この決議を評議会、委員会、加盟国の政府と議会、日本政府と国会、国連人権委員会、ASEAN諸国の政府、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、中華人民共和国、台湾、東ティモール民主共和国の各政府に送付することを命ずるものである。
。
<「軍慰安所従業婦等募集に関する件」という慰安婦募集関連の日本軍文書>
:1938年3月4日付け陸軍省兵務局兵務課起案(梅津陸軍次官押印)による、北支・中支軍参謀長宛の副官通達案
ある日本人慰安婦の戦後
もちろん、慰安婦には日本人慰安婦が多いのであるが、いつのまにか朝鮮人慰安婦やオランダ人で強制的に慰安婦にされた女性の話ばかりされ、あたかも国際問題の側面しかないようにいわれ勝ちである。日本人慰安婦もおり、そもそも慰安婦は日本の軍隊が産んだ歴史上の負の遺産である以上、これは本来国内問題である。元日本人慰安婦は芸者や娼妓出身者が多かったが、東北あたりから騙されて連れてこられた素人女性も大勢いた。軍部は自分が根源であるのに、写真のごとき通達をだし、P屋にあまり強引な手を使って慰安婦を集めるな(逆に言えば、もっと巧妙に集めろ)と言っている。日本人慰安婦の多くは、戦後日本で結婚し、家庭にはいるなどして、慰安婦であった経歴を身内にまで隠している場合が多い。そして、女性も含めて、こうした問題に余りにも無知、鈍感な国民が多すぎ、日本人慰安婦は名乗りだすのもはばかれ、口を閉ざしたまま、高齢となり死んでしまった人が多い。
「知られざる証言者たち」(新人物往来社)という本に「菊丸」という源氏名で、トラック島にいた元慰安婦の日本人女性の証言が載っていた。日本人慰安婦の証言は、取り上げられること自体珍しく、最近ではほとんど活字にもなっていない。しかし、戦後間もなくの頃は、BGや女子工員でも親を養うためなど、やむにやまれぬ事情から売春している女性は多かったし、慰安婦だったらしい玄人女性など珍しくもなかった。そうした人も多くは、足を洗い、普通に結婚して家庭に入った人が多い。元慰安婦という存在自体、戦後社会では「恥」であり、ありうべからざるものであったために、「恥」を忍んで証言する人は少なく、少なくとも家庭に入った人では皆無だろう。
その菊丸さんは、1942年(昭和17年)に19歳で御国のために芸者から志願して慰安婦になったという人で、将校専属の慰安婦。そして、菊丸さん自身が海軍軍属だったのだから、慰安婦では恵まれた部類である。「菊丸が急遽来た」という伝令に接し、慰安婦の菊丸さんが来たと思った軍司令官武田盛治海軍中将が、襟を正して身繕いしたのを見た伝令兵が「閣下、菊丸とは連絡船の菊丸であります」というと、武田海軍中将が「それを早く言え」と怒鳴ったという笑い話が書いてあった。
菊丸さんが百名ほどの女性とともに日本を離れ、船でトラック島へいく際に、横浜から出港した、その同じ船に釜山から乗り込んできた朝鮮人慰安婦たちは志願ではなく、「アイゴ、アイゴ」と泣いていたという。慰安婦でも、菊丸さんのように将校専属で「一日一人」と決まっていた慰安婦とは違い、一般の兵隊相手の慰安婦では、一晩に最多で六十五人もの男を相手にしたことがあったという。
しかし、いくら軍属慰安婦で戦時中も生活がある程度保障されていたとはいえ、慰安婦になったおかげで、彼女の戦後は狂ってしまった。浮き草稼業を続ける一方、美人ドロとして泥棒の首魁にもなった。それからは転落の人生であったが、上記書籍の取材時には、ある人の二号さんにおさまっていた。特攻を志願した生き残りの飛行兵が、その過酷な体験や価値観が百八十度かわった社会との不適合から、一部転落の人生を歩んだのと似ている。
戦後、トラック島でなじみ客だった元海軍士官からは冷たくされたり、情けない思いをしながら、バーやキャバレーなどにつとめて来た菊丸さんのような人は何万といた。
なお、「戦場の芸者」、元・軍属慰安婦菊丸さんは、1972年(昭和47年)4月、忽然とガス自殺を計り他界しています。よって、上記書籍に書かれているのは、彼女がまだ四十歳代であった生前の取材内容を元にした記事であります。
<チモール島で降伏する日本軍将兵(本文と関係ありません)>
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