http://www.geocities.jp/toru0298/boti/boti.html
● 関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑
ここは横浜市西区の保山墓地の一角にある「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」です。 関東大震災合祀霊場の隣にあります。
これは、関東大震災(1923(大正12)年)の直後に行われた日本人による朝鮮人の虐殺により、 久保山の電柱に縛り付けられ死んでいる朝鮮人を目撃した当時小学二年生だった日本人が後に建立したものです。
当時、朝鮮人労働者の賃金が低かったため、日本の企業は、それまで働いていた日本人労働者を解雇し、朝鮮人労働者を雇用する という方策を採っていました。 そのため職を失った多くの日本人は、日ごろから朝鮮人に対して深い恨みを持っていました。 それに当時の日本人には「朝鮮人は不潔」というイメージが定着しており、日常的に朝鮮人を蔑視していました。
そこに関東大震災が起こり、その混乱にまぎれて、関東各地で朝鮮人が「暴動をおこしたり、放火したり、 強姦したり、井戸に毒を入れている」という噂が飛び交ったのです。後日、この噂はデマと分かりましたが、 震災直後ではそれをデマと見極めることができませんでした。また多くの日本人は日ごろから 朝鮮人に恨みがあったため、これを好機と捉え、一般民衆で組織する 自警団(青年団、在郷軍人会、消防組など)らが中心となって、大勢の朝鮮人を虐殺したのです。
とても残念なことです。
萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」
http://www.wombat.zaq.ne.jp/auamm705/shinsai.html
後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている。
この絵巻は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市内の家屋から発見された。
在日コリアンって何?
阿川は”在日コリアン(Corean/Korean)”という名称を使いますが、在日”朝鮮人”とか在日”韓国人”という言い方もあります。
1910年に”韓国併合”、韓国(これは南北分断前の朝鮮半島全域に渡る国の名称として使いますが)は正式に日本の殖民地となり、その植民地政策の結果として朝鮮半島から多くの出稼ぎ者を日本や中国(満州)へと送り出すことになります。英米と開戦してから(1939年から始まるといわれますが)は、いわゆる”強制連行”が繰り返し行われ、その数は論議の対象となっていますが、700万人と言う人もあれば、数万人という人もあれば、数千人と言う人もある―というようにはっきりしません。
戦後、強制連行でつれてこられた人(の生き残り)は、割とすぐに帰国したと言われます。これに対して、長期に出稼ぎに来ていた移住者たちは、日本で家をもったり家族をもったりしたこともあって帰国するわけにいかなかった。1952年のサンフランシスコ講和条約で、彼らは「外国人」ということになりました。そこで「帰化するか、国へ帰るか」という選択になるわけですが、当時の朝鮮半島は朝鮮戦争の真っ只中ですから、帰りたくても帰れない。1953年に戦争が終わってみたら、南北に分断されてしまった。自分の帰る場所が”北朝鮮”になってしまった人々は帰るのを躊躇した人もいた(喜んで帰った人もいた)。日本で生まれ育った子供たちは、コリアン語を充分に話せない。朝鮮に戻るとしたら資産もすべて持っていけない。・・・諸々の条件が重なって、日本に残る人々が多かった。その人たちが在日コリアンというアイデンティティの下に括られる人々になるわけです。
1945年の日本の敗戦と同時に、コリアンの人々は、自分たちの子供たちのために学校を作り始めます。初等教育541校(生徒数5万8千人)、中等学校7校(生徒数約2千8百人) と言われます(この数も論議の対象らしいですが・・・)。ところが1949年に、いわゆる「朝鮮人学校閉鎖令」が出て、朝鮮人も日本人だから日本人の学校へ行きなさいということになるんですね。これは日本の主権が回復して朝鮮人が「外国人」になる1952年の3年前のことでした。1965年の日韓条約締結(これは実質上の日本と韓国の平和条約ですが)後も、朝鮮人学校を各種学校としても認可しない方針を、日本の文部省は打ち出しています(1965年12月文部次官通達「朝鮮人のみを収容する教育施設の取り扱いについて」)。この方針は1967年には「認可を抑制」すると和らげられ、1968年に東京都が初めて朝鮮大学校を各種学校として認可します。これを突破口としてその後、朝鮮人学校の各種学校としての認可が進みます。現在の日本にある朝鮮人学校については、Wikipedia にラフなリストがありますので見てください。
http://www.tabunka-tanken.com/2002/report/report2.html
コリアンは、1952年に外国人となってから、帰化するか国に帰れ、という圧力に晒されてきました。日本にいるなら日本人になれ、日本人にならないのなら朝鮮に帰れ、という圧力です。彼らは、なぜ、両方とも拒否して、外国人として日本に居続けるのか?”両方とも拒否して”という言い方は、その選択が彼らの自由な選択であるかのように聞こえますが、これも、果たしてそうなのだろうか。
なぜ「デニズンシップ」が必要なのか? ⇒市民権・デニズンシップ
デニズンシップは、国籍をもたずに、しかし、市民権と永住権を持つ、そういう権利です。現在のところ、これが制度的に認められているのは北欧の一部の国だけのようですが、日本で「在日にデニズンシップを!」という運動があります。
帰化するということは、日本の教育を受けて日本人になることですね。戦前には強制的に日本人にさせられ、1952年には強制的に(選択の権利なしに)外国人にさせられた歴史を持つ人々にとって、帰化するという選択肢は簡単には受け入れられないと思います。しかも、在日一世にとっての”自分の出身国”は分断された状態にあります。日本に暮らしながら、国籍を拒否しながら(日本人の国民教育も拒否しながら)、市民として生きる権利を模索すること・・・それが一つの政治的な課題となっていると感じる人は少なくない。デニズンシップという概念が必要となるのは、このような経緯だろうと思います。
宿題は、こうした在日の人たちが今の日本で、具体的にどのような運動を(集団として、あるいは個人として)展開しているか、ということですね。調べられる範囲でOKですから、調べてきてください。
http://web.thu.edu.tw/mike/www/class/Tainichi/data/zainichi.html
2006年5月9日付記
在日コリアンの運動
教育
民族学校のことは、上に少し書きました。補足として『一条校』と『各種学校』の違いについて知っておいてください。『一条校』っていうのは「学校教育法第一条に定められた学校」の意味です。この条文は『第一条 この法律で、学校とは、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校及び幼稚園とする。』という簡潔なものですが、”日本国”が認めたものであることが条件であり、こうした一条校は”文部科学省が定めた学習指導要領に従った教育を行う”わけです。これに対して、『各種学校』とは一条校以外の学校の中で、”日本国”が『学校法人』であると認定したものを言います。『各種学校』では、”日本国”の定める学習指導要領に準拠する必要はなく、まあ、自由にその教育内容を決めて教育することができる。
先週問題にしたのは、朝鮮人学校は1949年に「閉鎖」され、それが『各種学校』として認可されるのは1968年以降だったということです。『各種学校』として認可されても、朝鮮人学校の高校卒業者が、例えば、日本の大学に進学したいというような場合、受験資格を認めないというようなことが長い間問題になり続けました。私立の大学では最初から朝鮮人学校の卒業生に受験資格を認めたところもありますが、国立大学の中には今現在でも朝鮮学校の卒業生に受験資格を認めないところがあるようです。
朝鮮人学校のような学校を、日本では「民族教育」(この言葉が妥当かどうか、実は問題がありますが)と言うようです。コリアンのほかにも、例えばブラジルから親が”出稼ぎ”に来ている子供たちがいずれブラジルの学校へ戻るために、日本に居ながらブラジルの学校教育に相当する内容を(例えば公文などがそういうサービスをしています)日本で学ぶ、などというのも民族教育という言葉で表現するようですね。アメリカン・スクールなんかもそうですし、中華学校もまた同じです。
”日本国”が民族教育を各種学校扱いする理由は、それが”日本の国民教育”ではないからです。教育基本法の第一条には、『教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。』と書かれています。重要な部分は『国民の育成』という部分ですね。いわゆる民族教育は、”日本国の国民”の育成を目標としていないのだから一条校とは当然区別されるのだ、という理屈です。
これは宿題の「国民と外国人とはなぜ不平等で当たり前なのか」という質問にも関係しますが、実はちょっと矛盾した現象を生み出してもいます。韓国で正規に高校まで卒業した人が国立大学も含めて日本の大学への受験を申請すれば、その申請は受理されます。でも、日本にある朝鮮学校の高校卒業者が同じことをしても、申請の資格がないとして受理されないことがあります。これは、よく問題にされることですが、矛盾というしかないのではないでしょうかね。
地方参政権
参政権というのは選挙に投票する権利、立候補する権利の両方を言いますが、在日コリアンの運動は、とりあえず選挙権の要求ということのようです。
選挙には、国政選挙と地方選挙、大きく分けて二種類あります。在日コリアンが運動をしてきたのは、地方選挙での選挙権です。デニズンシップの運動にも、この地方参政権要求は含まれています。
国政選挙は”国”としての政策、方向を決定する選挙なので、そこから”外国人”を排除したい/排除すべきだという意見が主流派の大多数を占めているのは”日本国”に限られた現象ではないようです。(無論、チリやニュージーランドのように永住権を持つ外国人に対しては国政選挙の参政権を認めている例外的な”国”もありますが。ついでに言えば、永住権のある外国人に地方参政権を付与する”国”はこれ以外にも、ヨーロッパですが、いくつかあります。)これに対して地方政治というのは、その地方・地域(県、市、町、村など)のコミュニティの暮らしに関わる政治なので、永住でなくとも長期間そこに暮らして税金を払い、子供を地域の学校に通わせるなどしていれば、選挙権を持ちたい、持つべきだと感じることは変なことではない(当然でしょう)。まして永住権を持つ外国人であれば地方政治への参加権について国籍保持者との間に差別される「正当な」理由は考えにくいと思います。しかし、現在の”日本”では、これが認められていないわけです。
国籍条項の撤廃
「国籍条項」という言葉は、特に公務員(これも国家公務員と地方公務員の二種類がありますが)になるときの資格の中に、日本国籍保持者に限るという条項が存在することを指します。・・・言い方が難しくてごめんなさい。つまり、公務員になりたいと思って試験を受けるでしょ?そしたら、あなたは”外国人”だから公務員にはなれない、と言われることがあるんです。
郵便局が民営化されるまでの郵便局員は公務員でした。在日コリアンが郵便局の正職員として勤務できるかどうかは、長年に渡って争われたことの一つです。また、一条校の職員(これも無論公務員)になれるかどうか、も同じでした。現在では、いくつかの判例は永住者に(地方)公務員資格を認めていますが、全体としてはまだ”外国人では公務員になれない”という風潮が強い。公務員法という法律では、公務員は「宗教や出生に関係無く平等に扱わなければならない」と規定されていて、実は「日本国籍を有していなければならない」とはどこにも書かれていないのですが、さっき言った”風潮”は、『国籍条項は当たり前だから書かれていないだけで、国籍が関係ないわけではない』と主張するわけです。
在日の運動は、こうした「書かれていない国籍条項」の撤廃を要求してきました。
指紋押捺の拒否運動
1955年に、”日本”では外国人は指紋を登録しなければならない、という「指紋押捺制度」を実施します。当時の「外国人」の90%以上がコリアンでしたから、この指紋制度は、コリアンを潜在的な犯罪者として差別する制度―そのように受け取った人々は多かった。この制度が廃止されたのは2000年ですから、45年間に渡って指紋押捺拒否⇒裁判⇒敗訴⇒拒否⇒裁判⇒敗訴ということが続いたわけです。『別にコリアンだけを差別しているわけではなく長期滞在する外国人全員から指紋を取るんだから、いいではないか』・・・どう思いますか?つまり、外国人は潜在的な犯罪者というわけですが・・・。
もしも”国民”全員の指紋を”国家”が収集するということになれば、”国民”の間から、そのような行為は人権の侵害だという抗議が起こるでしょう。しかし、外国人であれば、どうして「人権侵害」にならないのだろうか?・・・日本政府が2000年に指紋制度を廃止したのは人権侵害を認めたからですね。
(補足:この指紋制度については、実は復活が懸念されています。それは2001年9月11日のニューヨーク事件以後、アメリカ合衆国が外国人=潜在的犯罪者という図式―日本から学んだのだろうか?―を強化していって、2005年の初めには新規入国外国人の指紋登録を義務化します。日本もこれを受けて、入国時に指紋登録をする制度を作るべく2004年から動き始めています。これに対して「指紋押捺制度の復活を許すな」という市民運動などが反対しているけれど、今度は外国人だけでなく”国民”の指紋も登録する制度を作ろうという動きさえ”日本政府”には存在します。⇒指紋問題;阿川ニュース)
名前の問題(正名運動)
在日コリアンに対する長い差別の歴史があるので、在日コリアンの中には名前を「日本式」の名前に変えて生活する人が多かったといわれます。キムさん(金さん)なら、金田さんと変えるなんてことが一般的に行われきました。王貞治さんよりちょっと先輩の野球選手に金田正一さんという投手がいましたが、彼は在日で”本名”はキム(金)さんだったそうです。この話は、来週、みんながジョン・マーハさんの「コリアン・バイリンガリズム」を読んできてから、討論したいと思います。
帰化するか国へ帰れ、という圧力の妥当性
1910年~ ”韓国併合” コリアンは「日本人」にされた・・・
”本土”への出稼ぎ
1923年 関東大震災、朝鮮人虐殺事件
1939年~ ”強制連行”開始
1945年 第二次世界大戦の終結
1950年 朝鮮戦争開始
1952年 サンフランシスコ講和条約 コリアンは「外国人」にされた・・・
1953年 朝鮮戦争の終結 南北に分断された・・・
1965年 韓日条約締結 在日コリアンに特別永住権を・・・
ざっとですが、こんな歴史の中で”在日コリアン”というアイデンティティが作られてきました。1945年以降、”日本国”は、在日コリアンの取り扱いに頭を悩ませてきました(どう扱うのがいいのか分からない・・)。1910年代以降、コリアンは沖縄人と同じく日本の国家建設において底辺労働者となりました。沖縄人は大阪を中心に関西に、コリアンは全国に。1939年以降の強制連行被害者の多くは、炭鉱労働者として北海道、九州その他の炭鉱に送られたそうです。
クラスで話したように、阿川の記憶―無論戦後の記憶だけど―では、屑屋(くずや)さん(リヤカーを引いて『くずや~おはらい』と呼ばわりながら町を回る、昔のリサイクル屋さんですね)や、汚わい屋(おわいや)さんにコリアンの人がいた。後で聞いた話ですが、鋳物工場の多かった埼玉県川口市などは、戦後、この屑屋さんがいなかったら材料に事欠く状態だったということです。戦後、もっと後になってからは「パチンコ屋と焼肉屋」が在日コリアンの代表的な職業だと言われたこともあります。
1910年代から戦争にかけての時代の中で、コリアンが日本社会でいかに差別されていたか具体例をたくさん挙げられるほど阿川は調べていないのですが、1923年の関東大震災のときに、朝鮮人虐殺事件と呼ばれる事件が起きています。暴力事件としては228事件にも匹敵する大事件なのですが、228事件のように大きな議論を起こしていない。あるサイトから事件の概要を引用しておきます。
萱原白洞「東都大震災過眼録」(1924年)より 後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている。 この絵巻は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市内の家屋から発見された。
http://www.wombat.zaq.ne.jp/zenchokyo/shinsai.html
帝都東京が壊滅し大混乱におちいった9月1日の夜から、東京周辺では奇妙なうわさがささやかれはじめます。
「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」「朝鮮人が放火し、井戸に毒を投げ込んでいる」。
翌日、「戒厳令」が布かれ、陸海軍が出動して京浜一帯を制圧、不安にかられた人々は歓呼の声をあげてこれを迎えます。その中で、各所で「朝鮮人狩り」が始まり、警察・軍隊によるものの
ほか、民間の自警団によって合計約6000人の朝鮮人が捕らえられ、殺されました。ほかに、中国人留学生や、日本人の労働運動家河合義虎・平沢計七が殺され、また、無政府主義者として知られていた大杉栄と伊藤野枝、その六歳の甥の三人が憲兵隊に連行され殺害された出来事は、「甘粕事件」として有名です。(http://kangaerukai.net/sinsai.htm)
なぜ「朝鮮人が放火する・井戸に毒を入れる」などという噂が流れたのか?”国”の側が大きな災害にあたって、不満分子、騒乱を起こしそうな集団を、いい機会だということで殲滅しようとしたという説もあります(つまり、国がそういう噂を意図的に流した)。また、普段から差別し、苛めてきた朝鮮人が、この災害の混乱に乗じて自分たちに復讐するのではないかという一般の不安(罪悪感の裏返しですね)がこうした噂を作り出したのではないかという意見もあるようです。
富国強兵時代に日本の建設、底辺労働を支えた人たちが蔑視の対象になり、1923年には虐殺の対象になった・・・酷い歴史です。警察は、「朝鮮人を保護する」という名目で「朝鮮人狩り」をした―例えばバスの中に乗り込んできて乗客全員に『”15円50銭―じゅうごえんごじっせん”と言ってみろ!』と言うんですね。コリアン語を第一言語とする人たちが”15円50銭”を発音すると”ジュウ”のあたりが”日本人の発音”と違って”チュウ”のように聞こえるというんです。で、言わせてみて変だと警察官が思ったら「お前は朝鮮人だな」と言って検挙する。
検挙した後、保護された人(つまり単に留置所に置かれた人)もいるだろうけれど、自警団に引き渡されて殺された人もいるようです。警察と自警団は繋がっていたということですから。この”15円50銭”が「うまく」言えなくて検挙、惨殺された人の中には東北の人のように”東京語”ではない変種を話す人たちも混じっていたという話です。そのようにして6000人ほどの人たちが殺された。
こうした蔑視の中で、戦後1952年になってコリアンは全員が「外国人」にされます。”日本政府”は敢えて、コリアンの人たちに「あなたたちは日本人になりたいか、朝鮮、韓国人に戻りたい/なりたいか」とは聞かずに、一律に「外国人」としました。そして、『コリアンは日本に居たければ帰化しろ。そうでないなら朝鮮へ帰れ!』というのが日本の主流派の(同時に一般人の)意見になり、在日コリアンとして居続けたいと思う人たちにいろいろな圧力をかけ始めます。前述の「指紋押捺制度」を、こうした圧力の一つだと考える人もいます。
1965年の韓日条約締結以降、特別永住者(いわゆる協定永住)という形で、在日コリアンに永住権を与えざるを得なくなった”日本政府”ですが、こうした処置は韓国政府との関係”正常化”の代償として、せざるを得なかったという感じです。つまり、人権問題に配慮して自らの意思で永住権付与をしたわけではない。だから、その後も、帰化するか国へ帰れ、という圧力は続いていきます。
北朝鮮帰還事業
北朝鮮帰還事業は日本と北朝鮮の赤十字社間で交わされたカルカッタ協定に基づき、1959年12月14日に975人を万景峰号で新潟から北朝鮮に送還したことから始まった。帰還事業は1965年12月に韓日の国交が正常化し、韓国政府が強く抗議する中でも続いた。1967年11月12日のカルカッタ協定満了まで、合計155回にわたり8万8611人が北朝鮮に移った。さらに、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)がカルカッタ協定が終了する直前に約1万5000人の在日朝鮮人に帰還の届け出をさせていたことから、北朝鮮は日本と交渉を再開した。1971年2月5日に日朝の赤十字社間で合意書が結ばれ、1971年10月までに6回にわたり1081人が、同年末からは本人の費用負担で、翌年5月までの3回で740人が北朝鮮に渡った。帰還事業は1980年代初めまで続いたが、在日朝鮮人のほかに日本人の家族も少なくなかったという。http://bluemary.at.webry.info/200602/article_20.htmlより
1959年から1980年代初めまでに10万人ほどの在日コリアンが北朝鮮に”帰還”したことになります。これはまさに”日本政府”の「国へ帰れ」の声に則った行動ですね。韓国(南韓)が抗議したにも関わらず、この帰還事業を日本が押し進めたのは、そういう理由ですね。
よく考えれば、これは変なんです。”北朝鮮”は共産圏ですから、そこへ「祖国を救うために帰還する」という人たちを10万人も送り出したというのは、アメリカの属国である日本がとるべき措置であるかどうかには、当然議論があったはずです。しかし、日本政府はこの帰還事業を非常に積極的に推進したという印象がありますよ。在日の中には、むしろ日本に留まって、日本で金を稼いで北朝鮮に送金する、その方が祖国を助けることになると考えた人たちもいるようです。
ちょっと話題は逸れるかもしれないけれど、北朝鮮は朝鮮戦争後にできた共産主義国・・・その国を”祖国”と考える人々がなぜたくさんいたのか?”アメリカ帝国主義”と、その手下である日本帝国主義・・・こうした勢力と真っ向から戦いを挑んでいる北朝鮮に共感するというか、自分たちの解放を託そうとしたのだろうか?これはまた別の話題。
(補足:「キューポラのある町」という日本の映画に、帰還事業のことが少しだけ描かれています。いつか時間があったらみんなで見ましょう。)
2006年5月16日付記
さて、臨時ニュースですが、在日の人たちの運動によって2000年に日本の外国人登録に際しての「指紋押捺」強制が廃止されたというところまでは、先週の話ですね。で、今日の臨時ニュースは、この指紋押捺制度が(以前と同じ形では今のところないのですが)復活することが閣議決定されたというニュースです。この制度は、新たに入国する”外国人”には指紋を登録することを義務付ける(強制する)というもので、在日などの特別永住者はこの対象からははずされています(今のところ)。これはUSAの指紋登録制にならって2004年度から日本政府が導入を模索してきた制度で、「テロを防ぐためには・・」という論理の下に、今回、決定されたらしい。以前の指紋押捺制度が「外国人―在日コリアンを潜在的な犯罪者と看做す人権侵害である」という在日の主張が強力な原動力となって廃止されたにもかかわらず、「外国人は潜在的なテロリスト」という、USAの受け売りとは言え、以前と同じ論理を復活させている。「テロ」と言えば許される・・・「北朝鮮の脅威」と言えば許される・・・非常に残念なことになりました。
記事:外国人から指紋や顔写真採る入管法 参院法務委で可決 05/16
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5949.html
関東大震災の絵巻物「東都大震災過眼録絵巻」は、萱原白洞(かやはら・はくどう、日本画家)が被災地をかけずり回って描いたもの。犠牲者の9割以上を占めた隅田川東岸、本所・深川地区の惨事に絞って描いているのが特徴。震災発生直後から逃げ惑い、紅蓮(ぐれん)の炎に包まれる人々、見失った親子・兄弟の人捜し等々。これらの悲劇を描きながら、最後は本所被服廠(ひふくしょう)で営まれた49日の法要で終わりを告げている。
児童画は「震災風景スケッチ」と題して、震災復興記念館へ寄贈された小学校の児童の作品。
http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/annual_report_06/report_06_004.pdf
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