http://www.green.dti.ne.jp/seiun-dousoukai2/panpan-monogatari.html
特殊慰安施設協会(RAA)
函館にもいた夜の女たち
― 国策で誕生し捨てられたパンパン物語 ―
昨年2008年8月、「母校と同窓会と私」シリーズで小西康雄・関東青雲同窓会相談役にインタビューし、「母校があったから、仲間があった」を発表した。そのインタビューの中で小西氏は「当時、制服もなくて、古着屋に行って、“安くて出来るだけ高校生に合ったもの”を手に入れ着ていたよ。古着屋なんか知っているかね。(函館駅前の)棒二森屋の向かい側辺りにあったなあ。そこでイカ釣りのアルバイトで買った、軍隊のズボンをはいていたよ」と語る中、その古着屋の当りには「夜の女」がいたと述懐した。
戦後、函館にも5,120人の進駐軍が上陸した。「夜の女」とは、主にその進駐軍を相手に特殊サービスをする女性のことである。差別用語で言えば「パンパン」(言葉についてはリンク先参照)だ。
共同通信社「記者ハンドブッグ」の「書き方の基本、俗語、隠語、不快用語」の項には次のように記されている。「読者に不快感を与える言葉、品位の落ちる言葉や隠語類は、その記事で特に必要とする以外は使わない」 「淫売(いんばい)、娼婦(しょうふ)→使用不適切」 しかし、私は「その記事で特に必要とする」からあえて使うことを決意した。
2年以上かけて函館東高の歴史を調べを綴ってきた。函館東高の歴史は、函館という地方都市の一高校のものだけではなく、戦後の教育そのものの歴史であると考えている。その頃の歴史背景も拾おうと努めてきた。
ここに函館東高資料集の歴史特別編として、「函館にもいた夜の女 ― 国策で誕生し国に捨てられたパンパン物語」を記し、その知られざる女性たちの物語を紹介する。
パンパンこそ、戦後の混乱の中、世界に例を見ないような悲しい経済戦士だった。
2009.8.15 敗戦の日を記念して 管理人
本編の背景を私的に紹介した記事・・・ブログ
*文中の色文字をクリックすると参考のリンク先に飛ぶ。
■ 世界に例をみない国策売春
山田盟子著「占領軍慰安婦 国策売春の女たちの悲劇」の序章には次のように書かれている。
『本土決戦が叫ばれた昭和20年(1945年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女子青年団埼玉第一中隊の103人は、終戦の日には帰してもらえなかった。
「絶えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき・・・」
とお上が手早につくった「特殊慰安施設協会RAA(占領軍慰安所)のうち、都内の4ヶ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
そのことは埼玉ならず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍需工場など、他地区にも多く見られた。
当時―天皇のために捧げたてまつると、血の誓紙を捧げてあった娘たちは、
「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたのであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」
と逆手の賺(すか)しにあったのだった。
占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の8月21日、RAAの誕生とともに26日には慰安婦の徴募がなされ、28日はRAAが皇居前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に小町園が開所した。(注:原本によれば、横浜の小町園とあるが、ドウス昌代著「敗者の贈物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面」によれば、大森海岸にあったという)
RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和20年11月まで2万人、最盛期7万人、閉鎖時の昭和21年(1946年.3月27日、5万5千人であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。
――日本帝国の歴史に、千歳に残る烈婦・・・だけを、なぐさめに、RAAから追い出された慰安婦たちは、巷にほうり出されて街のバンバンになった』。
■ RAAの実態とは、戦後の電撃作戦
「RAA」は、レクレエイション・アンド・アミューズメント・アソシエイションの頭文字をとった略称となり、日本名を「特殊慰安施設協会」といった。
1945年のその歴史は国体を護持するための正に電撃作戦だった。
● 8月15日 敗戦。ポツダム宣言の受諾。
● 8月18日 橋本内務省警保局長の名で各府県長官に対し、「外国軍駐屯地における慰安施設について」の無電が発送される。坂総監の案に沿ったものである。
「・・・但し、外部に漏れないように内々で密かに準備すること。実際に慰安所が開設される時は、その目的が日本女性を護ることにある点をよく人々に理解させること」
<別記> 外国駐屯軍慰安施設等整備要領
一、(省略)
ニ、前項の区域は警察署長に於いて之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす
三、警察署長は左の営業に付ては指導を行ひ設備の急速充実を図るものとす
性的慰安施設 飲食施設 娯楽場
● 8月19日 東久邇内閣の国務相近衛文麿氏が警察総監に日本女性の操を占領軍の毒牙から守るよう正式要請。
● 8月26日 RAA設立
● 8月27日 RAA最初の施設「小町園」を開設、38名の進駐軍慰安婦が集められる。戦時中、軍需工場に徴用された若い女性たちは、女子挺身隊員(左写真図)(You Tube「女子挺身隊と学徒動員」参照)と呼ばれた。そして、今、当局は小町園の娼妓たちを「特別挺身隊員」と呼んだ。
「この慰安施設で働く女性のことを、RAAでは<駐軍慰安婦>と呼んでいた。一方、進駐軍サイドでは「Serving Ladies」いわゆる慰安婦ともいったが、それよりも彼女たちを、その後街に溢れるようになった<パンパン>と区別するべく、「Organized Prostitutes」ずばり組織された売春婦と呼んでいる」 岩永文夫著「フーゾク進化論」
● 8月28日 進駐軍先遣(せんけん)部隊、沖縄から厚木飛行場に到着。「新日本再建の発足と、全日本女性の純血を護るための礎石事業たることを自覚し、滅私奉公の決意を固める」というRAA設立宣言式が皇居前で行われ、「天皇皇陛下万歳」三唱された。米兵が「小町園」にジープで乗りつけ、第一号の客となる。
● 8月29日 早朝から米兵が殺到したため、31日には急遽慰安婦の数を100名に増員した。
● 9月4日 RAAが「毎日新聞」に次のような広告を掲載。「急告―特別女子従業員募集、衣食住及高級支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座七ノ一 特殊慰安施設協会」
「看板や、新聞の募集広告を見て集まってきたのは、なんらかの水商売の経験者で、ダンサー志望がほんとんどである。辻たちが驚くほど女性は集まってきた。第1回の募集で、1,350名もの応募している。その後も毎日、看板を見て事務所の幸楽にやって来る女性は引きも切らなかった。
ズブの素人女性がまざり出すのは9月末からである。学業途中で挺身隊として徴用され、軍需工業で働いていた若い女性が多かった。終戦と同時に国は彼女たちを解放した。が、家を焼かれ肉親を失った多くの女性は、帰りたくとも帰る家がない。解放と同時に直面したのは餓えである。
働きたくとも職のない時代だ。衣食住が保証されるRAAの評判を聞いて、彼女たちはダンサーやウェイトレスを志望してきた。多くは中流のごく普通の娘たちである」。ドウス昌代著「敗者の贈物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面」
「つい10数日前までは『鬼だ畜生だ』」と呼んでいた敵国の兵隊に向けて、“大和撫子”の肉体を平然と提供する組織を戦争に負けるや間髪を入れぬ手際で作りあげてしまう作業に参画したのは、時の内務省をはじめ外務省、大蔵省、運輸省、さらに東京都、警視庁などの錚々たる面々である」。「いわゆる飲食業と花柳界の組合による、大政翼賛的(?)な大連合によるスタッフたちであった。
彼等組合員が一口1万円ずつを拠出して5000万円の資金を集め、さらに不足分の5000万円を大蔵省の保証のもと当時の勧業銀行(現みずほ銀行)が融資をして、RAA設立の資金1億円を調達した
その他の事業資金も政府からの助成金で成り立っている。まさに至り尽くせりのスタートなのである。そして慰安施設として必要な物資の面でも、建設資材や布団や衣服、さらにはテープルから茶碗などの生活什器なども、東京都と警視庁が現物を提供している。ご丁寧なことに、約100万ダースに及ぶコンドームまでもが用意されていた』 岩永文夫著「フーゾク進化論」
*写真は1945年、共同通信社撮影。東京のRAA(特殊慰安施設協会)のキャバレーで米兵と踊る女性たち。「ゲイシャガールが相手をしてくれる」と人気が高かった。
■ パンパンの出現とその経済効果
下記写真は半世紀以上前1953年10月、毎日新聞社が撮影したパンパンの写真である。資料本からそのままに引用することにする。
「占領が始まって1ヶ月もたたない1945年の9月には、GHQ司令部のお膝元である日比谷公園の周辺で、すでに米兵を誘う娼婦の姿が認められるようになっていた。そのも夜陰にまぎれることもなく白昼堂々と営業活動をする“闇の女”たちである。
いつしか彼女たちのことを世間では<パンパン>と呼ぶようになっていた。<パンパン>と名前のいわれを、インドネシアとか南洋諸島の現地語に求めることもあるようだが、戦勝国アメリカのスポーツの試合で応援をするチアガールが手に持つ房々した“ポンポン”と同じルーツを米語とする説もある。ポンポンには擬音語から発しての自動機関銃の意味もあるし、対空速射砲のことをいう場合もある。同時にスラングで“性交”を意味することもある。つまりポンポンガールがパンパンガールになったのではないだろうか」。岩永文夫著「フーゾク進化論」
「1946年8月、『顚落(てんらく)するまで』」という告白を毎日新聞の投稿欄に寄せた街娼がいる。彼女は満州から引き揚げ者だった。上野の地下道を寝所に就職口を捜すが、2日も食べない日が続き、握り飯をくれた男に誘われて、『闇の女として人からさげすまれる商売に落ちた』」。
後の研究によると、街娼に共通する性格は、虚栄心が強く自制心に乏しいとか、好奇心から身を持ちくずしたものも多いといわれた。だが、占領3年を経た1948年(それ以前の調査結果は無い)頃でも、警視庁保安課調べによると、街娼の77.5パーセントが生活苦からだ。好奇心、虚栄、怠惰からは23パーセントにも満たさない。街娼に長女が目立って多いのも、家庭の経済的重圧が長女への負担となった証明といえるはずだ。
同じように肉親のために身を売った零細極貧農村出のかつての娼妓と異なり、街娼の学歴は高い。高等女学校中退や卒業が多くいた。年齢は18歳から23歳が69.7パーセントを占めている。多くの男子が戦死した結果、女が男より3百数万人も多いという異常な人口分布で、結婚適齢期の女性の相手不足を生んだことも一因である。結婚によって生活を支えてくれるはずの男性はいなかった』。
ドウス昌代著「敗者の贈物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』
「その頃の料金は、ショートいう15分単位のプレイ時間で米兵相手に1000円から2000円が相場」
「パンパンの人数は、アバウトなものしか当時も今もわからないが、1946年頃で都内で5,000人、全国で7万~8万人はいたといわれている。そこに、そこにRAAが閉鎖されて、一挙に4,000人もの慰安婦たちがパンパンの群れの中に流れこんでくる。
そして1950年6月に勃発した朝鮮戦争によって、国内の朝鮮特需が沸き起こるなかで、パンパンの需要がさらに喚起される。そこでパンパンの最盛期といわれた1952年頃には全国で10万人以上の街娼が存在していたといわれる。
伝わるところによると、その頃、海軍基地のある神奈川県横須賀では、この町だけで年間に2億~3億円の外貨を、洋パンと街娼たちで稼ぎ出していたということである』。
『かつて小説家の坂口安吾は、パンパンを、概して個人的な存在として遊牧ボヘミヤン型といっている。そこには多分に、個人主義的な考え方とインテリジェンスをそれなりに持っている的な含みを持たせた物言いをしているのだ。一方の遊郭に属して定着型の存在である公娼を保守農民型としている。いかにも安吾ならではの比喩の仕方であって、両者の違いを言い得ているといえるだろう。
散娼(さんしょ)と集娼(しゅうしょう)の形態には2種ある。その散娼の代表格ともいえるパンパンは、単に職業的な存在としてではなく、戦後の一時代の大衆文化を担う側面をも待っていた。
まず組織の在り方が特徴的である。多くは数人から十数単位の小さなグループに分かれていて、ボスは女性である。この辺の有り様は、万葉の時代の娼婦集団の遊行女婦(うかれめ)に似ていると思える。それまでの遊郭の業者による力と金による支配とは若干違う組織論を持っていた。
もちろん小説「肉体の門」(田村泰次郎著)のなかに出てくるような凄絶なリンチなどもあるけれど、それは支配のための力の誇示ではなく、組織の維持のための厳しい規制なのだ。その意味では、女同士による横のつながりの集団といえる。それに加えてヤクザに代表される男の支配を受けていない」。
岩永文夫著『フーゾク進化論』より
■ 今も偏見と辱めを受け続けるパンパンたち
「昭和20年(1945年、RAAの総指揮者として、近衛文麿からタクトを渡された警視総監坂信弥はこういった。
『「RAAの女など、いまさらそんなことをなんできくんかね。次元の低い問題だよ。本質的な問題じゃないし、将来の参考にもならんよ。
あれ(RAA)はね、必要のものとして設けたんだ。近衛は支那事変で、日本兵が支那女たちをやったことに覚えがあるから、ヤマトナデシコを救おうという気持ちで、坂ならやってくれると、総理官邸に私を呼んで頼んだんだ。私はさっそく署長会議を開いて、戦争に負けたといえども、アメリカ兵のために、南京のこと(強姦・惨殺を日本がやった)のようなことが、あってはたまらんから、“しかっりやってくれ”と指示したわけだ。
それだけのことであれ(RAA)は国の運命を作用する問題でなしに、アウツブみたいな問題に過ぎん。応募した女性をイケニエのように言う人がいるが、そんなのは火事場の野次馬論議であって、観念論だよ。あれはあれで、日本女性の貞操の危機を救ったんだよ』」。 国策売春の大ラッパを、全国各都県の警察に吹きならした坂の、戦後30年目の言葉であった」。 山田盟子著「占領軍慰安婦、国策売春の女たちの悲劇」より
果してRAAがヤマトナデシコを救ったかどうかは、歴史が明らかにしている。
このように、パンパンこそ、戦後の混乱の中、世界に例を見ないような悲しい経済戦士だった。
☆編集注
* 冒頭の山田盟子さんの根拠となる資料が本文中に示されていない。「山田説の場合、ちょっとRAAの進行状況との関係がわかりにくいところがあります」との見解を当サイトの読者からいただている。その通りであろう。
「遊郭の遊女から芸者その他の水商売の“人材”層が厚い当時の日本」という指摘もいただいた。 しかし、『敗者の贈物』の中で、「けれども、プロたるその娼妓を集めるが容易ではなかった。『空襲でほとんどが田舎に帰っていて、そんな短期間に女を多数集めるのは大変だ』と成川敏たちはいった」という証言がある。新聞広告を出していることからもこの証言が裏付けられていると、管理人は考える。
* 「世界に例をみない国策策」の写真には「安浦ハウス」という文字が見られる。ドウス昌代著「敗者の贈物 特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面」には次のような記述が見られる。『横須賀で9月1日から開業した「安浦ハウス」がまず、9月14日、「性病のため」にオフ・リミット(立入禁止)となった。もっとも、市内の治安に不安を感じるという同市からの嘆願で、「性病防止を強化し、又将校用と下士官用に区別する」ならばと一条がついて、やがて再開を許可されている『横須賀終戦連絡事務局報告』1945年10月15日付』
*当時のGHQの権力>ついて読者から次のような説明をいただいた。
(1) RAAの閉鎖について、性病を理由とする米軍の「主張」とありますが、米国内で米軍兵士たちの“楽しみ方”が問題となり、困ったGHQが「命令」したものです。「主張」とあると、まるで当時の日本とGHQが対等であったかのような印象になります。
(2) RAAが設置した施設の中には、GHQの「命令」によるものもあったのですよ。そのことは、かつて読売新聞の社説にも書いたことがあります。
(3) 当時の日本のマスコミ(とは言っても、新聞とNHKラジオと雑誌しかありませんでしたが)は、GHQによる厳しい検閲下にありました。私信さえ検閲されていたのです。ですから、当時の新聞ほかを読む際には、そうした状況をも念頭に置くことを忘れてはなりません。
☆函館にもあった米兵の慰安施設、函館市史「女性たちの解放 公娼制度の変遷とその実情」等より抜粋
敗戦3日後の8月18日、日本政府は内務省警保局長名で全国の警察部長に「進駐軍関係特殊慰安施設の設営」を指示した。翌9月22日、函館市町会理事会が市役所で開かれ、「連合軍進駐について慰安所設置方促進に関し申告の件」等を協議した(昭和20年9月23日付け「道新」)。連合国軍の日本上陸にあたり政府は、日本軍が戦場や占領地でしたことと同じ扱いを受けるであろうと考えた。新聞には「誤解される厚化粧、愛嬌笑ひも禁物、服装、態度は端然たれ」(同20年10月2日付け「道新」)とアメリカ軍を迎える道民の心得を説き、そして″良家の子女の防波堤″として慰安婦を募集したのである。
進駐軍上陸前のことを登坂良作・函館市長は次のように語っている。
「もう覚悟はしていたものの、一番心配したのはアメリカ兵が進駐してくるときの混乱ということで、ことに女性の問題はだれがいうともなく恐怖の話題となっていたので、先ずその実例を知るべきだと考えて、函館より先に進駐された盛岡と仙台とへそれぞれ吏員を派遣して調査させたところ、盛岡は平穏だったが仙台はひどかったということがわかりました。それでさらにある牧師さんでアメリカにいたことのある人に来てもらって、アメリカの兵隊は本当にそんなことをするかどうか聞いてみると、この方もあまりアメリカ人をよく言わない、そんなことで結局、例の米兵が来たらこれを見せて下さいということで英語で″英語がわかりません、用事は七十五番(警察署)に電話して下さい″というビラを各戸に配布し、なお米兵と会った場合は視線を合せてはいけない、笑顔をしてはいけない、肌を見せてはいけない、といった工合の注意も発表せざるを得なかった。心配の余り遂には私の家まで市民諸君が訪ねて来て、若い二人の娘がいるが、どうしたらよいかなどといわれるので、その時は矢張り何処か田舎へでも逃がした方がよいかも知らんといったものでした」。
函館市長は当時を回顧して「ある時、(警察署長と二人、アメリカ軍将校に)売春婦のことで呼ばれました。一晩に八人のケガ人が出たというのです。……ケガというのは性病の伝染のことなんです……すったもんだの挙句、息抜きの場所を二か所作った。……将校用は湯川の……、下士官以下のは今の宝来町の……。行列を作っていました。婦人たちはどこから来たか分かりませんが……過去にそういう経験をもった人々でしょうね。函館の女の人は少なく、よそから来たのが多かったようです。それがあったために一般の市民にあまり被害がなかったとも言えます……」と語っているが(『終戦前後』豆本海峡4)、占領軍専用慰安施設設置に至る事情がうかがえる。
新聞の広告欄には占領軍の来函直後から、大森遊郭内の楼主のほかに湯川と宝来町の旅館や料理割烹店あるいは個人名で「接待婦」「芸妓及び接客婦」「慰安接客婦」を「急募」、または「至急募集」している広告が、繰り返し載っている。
市長は、函館の女の人は少なく、経験者であるように語っていたが、当時湯川でアメリカ軍相手の接客婦検査所に選ばれた病院の院長夫人は、「戦時中函館市内の見番は火の消えた様になり、芸者だけでは食べていけなくなり、いろんな仕事をしていたようです。接客婦になったのは芸者の他に、一六、七歳の娘さん、外地からの引揚者が多かったけれど、函館の女学校を出たばかりの娘さんや普通の家の娘さんもいました。期間は三ヵ月くらいだったかな……」と語っている(酒井嘉子「湯川・川又病院時代のこと-川又 靜さんに聞く-」『道南女性史研究』第10号)。
*写真は新聞に出た広告(昭和20年10月28日付け「道新」)
☆明治5年に、芸娼を解放し、廃娼令を交付
― 厚生施設の女紅場が全国に誕生 ―
横浜で起きたマリア・ルーズ号事件によって、明治5(1872)年10月、政府は抱え主との間の金銭貸借を一切無効として全国の芸妓・娼妓(遊女)などの年季奉公人の解放を命じる太政官布告第295号を布告した。
その年、横浜入港のペルー艦が載せていた百数十人の中国人奴隷をめぐって、日本とペルー側に論争がおきた。中国人一人が脱走し、イギリス軍艦に救助を求めたことから始まった。彼は賃金労働者という契約で船に乗ったが実際は奴隷としてペルーで売られるのだと訴え、その事実を確かめたイギリス代理公使ワットソンは、外務卿副島種臣へマリア・ルーズ号の船長を糾明するようにとの書簡をあてた。政府は外務省管下の裁判として対応し、マリア・ルーズ号は横浜港からの出航停止を命じられ、清国人全員を下船させ解放した。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は8月30日の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すように訴えた。たが、この裁判の中で、政府は大変な汚点を思わぬところから指摘されたのである。奴隷契約の約定書そのもが適法か否かを問う裁判の中で、マリア・ルーズ号側の弁護士ディッキンズは「奴隷契約は無効だというが、日本ではそれ以上にもっと酷い奴隷契約が実際有効に認められているではないか」と、遊女の契約の実情を指摘した。アメリカとの条約改正が失敗に終わり、最低欧米並の法体制が確立していることが条約改正の条件であるとされていた政府にとっては、日本国内で奴隷契約が行われているというこの指摘は大変な痛手であった。
とりあえずこの裁判は、1国が適法としても1国が禁ずる時はその契約は無効とするのが万国法であり、遊女に関しては国内限りの制度であって、その制度が存在する我が国でも奴隷の輸出入は厳禁しているとして、5年8月「契約は無効」という判決を下して終結、200余名の中国人たちは翌9月無事本国に引き渡された。
そんな背景で、日本側はひっこみがつかずに、いっとき娼妓を解放した。
その時、芸妓・娼妓の自立のための学校、女紅場が誕生している。
函館市史には次のように記されている。
女紅場の出現
「明治5(1872)年10月に出された人身売買を厳禁し、芸娼妓を解放しようという画期的な太政官布告によって、人身の自由を奪われ雇い主の虐使に泣いていた芸娼妓たちは″解放″の法的根拠を得た。しかし悲しいことにせっかく与えられた自由ではあったが、花柳界で生きてきた彼女たちの大半はその自由を自分たちのものとして自活していく方法を知らず、結局またもとの抱え主の戸をたたいたのである。このような悪循環を繰り返すことなく、芸娼妓たちが将来契約が切れて正業に転じた時、立派に自活することができるようにと、彼女らの自立のために必要な最低限度の知識や技術(女工)を身に付けさせるために設けられた施設が「女紅場」であった。女紅、すなわち「婦女子のなす仕事」を教えるための場所である。
遊里の女性のみを対象としたこの種の女紅場が我が国に初めて開設されたのは京都で、芸娼妓が解放された翌6年、貸座敷主たちが中心となって開設・運営した「婦女職工引立会社」に始まり、翌7年には、多少の読み・書き・算術指導をも加えて女紅場と改称した。こうして開設された芸娼妓のための女紅場は、各地の遊里へ徐々に広がっていった」。
*写真は函館にあった女紅場(「高田屋御殿と女紅場 幽霊も出た昔話」参照)
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