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Wednesday, July 4, 2012

Compilation of genre painting materials and painting argument in Joseon Dynasty by KIM Jeong Ah


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http://www.himoji.jp/jp/popup/publication/seika_010302.html



Title 11 解題と考察 朝鮮時代の風俗画資料と絵引編纂
Author(s) 金, 貞我; KIM, Jeong Ah Citation
研究成果報告書『東アジア生活絵引』朝鮮風俗画編: 122132
Date 2008-02-20
Type Research Paper
Rights publisher

KANAGAWA University Repository


朝鮮時代の風俗画資料と絵引編纂


金貞我
1
朝鮮時代の図像資料

日本常民文化研究所による『絵巻物による日本常民生活絵引』(以下、『常民生活絵引』と略す)の編纂は、絵画資料に描かれた事物や人物から生活文化に関わる情報を引き出すという斬新な発想の編纂方式で民俗学や文化史、歴史学の分野で高く評価されている。その「斬新な発想」が具体化できたのは、日本中世に制作された絵巻物という膨大な数の図像資料があったからに他ならない。そこには時世粧が生き生きと描かれており、民衆の生活の息吹が読み取れる。
『東アジア生活絵引』朝鮮風俗画編(以下、『朝鮮生活絵引』と称する)の編纂に際して、まず、その資料として利用できる朝鮮時代の図像資料を博捜することから始めた。しかし、日本と朝鮮では図像資料のあり方が異なる。日本の絵巻物のような情報量の豊富な絵画資料は、朝鮮には意外と少ない。生活の実態を図像で表した資料は非常に少なく、絵で記録する絵日記や挿図をともなう旅日記類も見当たらない。図像で出来事を記録する習慣や、図で分かりやすく解説する農書、技術書などは、朝鮮時代には一般的でなかった。特に両班官僚を中心とした知識層では、文字に執着する傾向が強く、両班知識層による絵日記類は一点も存在しない。朝鮮王朝の身分社会では、世俗雑事を絵で表すのは、身分の卑しい絵描きか職人の業として認識され、両班士大夫が余技として制作していた文人画の他には、図像で出来事や物事を記録することはほとんど行われなかった。農書、技術書などに挿図をともなう場合においても、挿図のほとんどは農具の図解に近いもので、農作業の具体的様子を絵で描いた日本の絵農書や記録性の強い旅日記、絵日記などにみる写実表現とはその表現内容が異なる。例えば、挿図をともなう数少ない朝鮮時代の農書である『農事直説』(1429)や『海東農書』(18世紀末)の場合も、そのほとんどは農具を簡略に図示したもので、農作業や農民の生活、歳時風俗などを描いたものではない。また朝鮮時代の造船技術書である『各船図本』(ソウル大学校・奎章閣蔵)にも、挿図は描かれているが、図解の域を超えない。他に記録画と呼ばれるものとして、王朝の儀礼や官衙の公的行事を記録した儀軌図、または士大夫の行事と関連した契会図、宴会図、雅集図などが挙げられる。しかし、これらの記録画は儒教の理想に従い宮廷の儀礼の内容を記した規範書の挿図であり、また士大夫の公的・私的な行事を図で示し鑑賞する目的の絵画であった。実際の庶民の生活を主題とし、農工商の生活の営みや市井の町並みを描いた図像資料は、朝鮮時代に「俗画」と呼ばれた風俗画である。朝鮮時代の図像資料の実態を考慮すると、『常民生活絵引』の編纂資料として取り上げられた日本の絵巻物の風俗表現に匹敵しうる朝鮮時代の絵引編纂資料としては、風俗画がもっとも注目されるべきものであることがわかった。

2
『朝鮮生活絵引』の編纂資料と朝鮮時代の風俗画

そこで、筆者は『朝鮮生活絵引』の編纂資料として、以下の絵画資料を取り上げることにした。

①筆者未詳「耕織風俗図屏風」4曲1双(各47.0× 105.0cm)絹本淡彩 漢陽大学校博物館蔵
②金弘道筆「檀園風俗画帖」25葉(各27.0×22.7cm)紙本淡彩 国立中央博物館蔵
③筆者未詳「平壌監司饗宴図」3幅(各71.2×196.6cm)紙本着色 国立中央博物館蔵
④申潤福筆「.園傳神帖」30葉(各35.6 ×28.2cm)紙本着色 澗松美術館蔵
⑤筆者未詳「平生図」8曲1隻(各53.9×35.2cm)絹本着色 国立中央博物館蔵
⑥筆者未詳「四季風俗図屏風」8幅(各76.0×39.0cm)絹本着色 国立中央博物館蔵
これら6点の絵画資料のなかには、日本の絵巻物のような巻物形式の資料は一点もなく、すべては屏風絵と画帖、そして3幅からなる額縁装である。これらの風俗画は、18世紀半ばから19世紀半ば頃の間に制作され、時代はそれほど隔たっていないが、風俗表現において時代の変化がはっきりと読み取れるなど、いずれも朝鮮時代の生活を仔細に、写実性豊かに描いている。特に、金弘道筆「檀園風俗画帖」および申潤福筆「園傳神帖」は、朝鮮時代の生活文化や時世粧をもっとも豊かに表現した風俗画として評価され、『朝鮮生活絵引』の中心をなしている。漢陽大学校博物館蔵「耕織風俗図屏風」は、生業を画題としてとりあげた絵画資料が少ないなかで、朝鮮時代の農作業の場面や女性の労働する姿を描いている点において貴重な資料である。国立中央博物館蔵「平生図」は、士大夫の一生の通過儀礼を物語的に描いたもので、生活と密着している場面が多く、儀礼の様子がうかがえる。「平壌監司饗宴図」は、平壌に赴任する監司を迎える饗宴の様子を絵画化したもので、特定の地方都市を主題とした点で注目される。「四季風俗図屏風」は、季節の移り変わりを背景に、季節に沿った風俗を描いたもので、必ずしも歳時風俗と密接に結びついているとは思われないが、日本の月次風俗図を連想させる。これらの作品はいずれも、朝鮮時代の生活そのものを画題とする風俗画であり、実際の景観や庶民の生活を表した図像資料が乏しい朝鮮時代において、当時の生活文化を伝える貴重な資料になる。

解題と考察

人間の世俗を描く意味での風俗画は、朝鮮時代の中期にいたるまで、独立した主題として制作されることは少なかった。朝鮮時代が両班官僚の男性中心の社会であるが故に、宮廷および両班官僚の儀式や饗宴、そして士大夫の詩会の場面や肖像画など、おおむね記録画に近い絵の制作が重んじられたのである。17世紀後半から浮上した実際の世相を描く風俗的表現は、宮廷の行事の詳細を描く儀軌図や両班知識人の文化活動を描く契会図や雅集図などの点景として表れはじめた。

金弘道(1745~1806以降)や金得臣(1754~1822)に代表される画院画家の記録画の背景には、行事を見物する庶民の姿や生業に勤しむ場面がかなり詳細に描きこまれるなど、表現の内容がより豊かになる。金弘道筆として伝わる「平壌監司饗宴図」や、金得臣のほか複数の画院画家が制作した「華城陵幸図屏風」がその例になろう。

「平壌監司饗宴図」は平壌監司の赴任を祝う宴会を描いたものである。

「華城陵幸図屏風」は、正祖が父親の思悼世子(1735~1762)の墓である顯隆園に行幸した有様を描いた儀軌図であるが、背景には行列を見物する人々や市井の様子がリアルに描写されており、宮廷や官僚の行事に関する記録画でありながら風俗的な素材が数多く盛り込まれている。

実際の庶民の生活が絵の主題になり、生活の営みをより豊かに表現した多様な風俗画が登場するのは、英祖年間の18世紀半ば以降のことである。この時期を境に宮廷の画院画家による風俗表現は、従来の点景のみで描く記録画ではなく、庶民の喜怒哀楽と世相そのものを画題として取り上げるようになり、朝鮮時代における風俗画の制作は全盛期を迎える。朝鮮時代の風俗画はこれらの画院画家の主導の下で新しいジャンルとして花開く。

たとえば、金弘道の「檀園風俗画帖」、「行旅風俗図屏風」(韓国、国立中央博物館蔵)や金得臣の「風俗図屏風」(韓国、湖巌美術館蔵)、「兢斎傳神画帖」(韓国、澗松美術館蔵)などは従来の朝鮮時代の画壇では作例の少ない、庶民の日常生活を実写した風俗画として評価されるだけではなく、農工商の生業が主題として取り 上げられた点で画期的な作例として注目されよう。このように、朝鮮時代の風俗画は、中期を境に徐々に多様な画題へと発展していくが、主題の選択においては、完全に画家の創意に委ねられていたわけではなかった。

朝鮮時代の絵画制作は、基本的に両班士大夫を中心としたいわゆる余技画家および宮廷に属した画員を中心とした職業画家という二元構造で行われていたが、宮廷や国の運営に必要な図画の活動を担当した画員の絵画制作は主題の選択において自ずと宮廷制度の枠組みの制限を受けざるを得なかった。朝鮮時代の中期、風俗画の制作は画院である図画署の画員が担っていた。礼 に属した図画署の画員はごく限られた主題の風俗画や人物画を制作していたが、主題の選択は図画署を管轄していた官僚の統制下にあった。その傾向は、正祖(1752~1800)が1783年に昌徳宮の奎章閣に差備待令画員と呼ばれる新たな宮廷画院の職制を設け、図画署の絵画制作を吸収した後も続いた。奎章閣の差備待令画員に関する資料は『内閣日暦』の記録として伝わるが、それによると正祖は人物画を好み、当時の風俗を描いた、いわゆる「俗画」を画題としてたびたび画員に絵を制作させた。風俗画の制作が画院画家の主導で行われていた点こそ、民間の町絵師による日本の近世における風俗画制作とは、内容や表現が大きく異なる理由になる。


しかしながら、18世紀における風俗画の流行はその内容において前代とはまったく異なる様相を示していた。絵画史の流れでは、画壇に蓄積された写実主義の力量が大きく作用していた。現実世界を絵画化する傾向は、西洋画の立体画法や遠近法の伝来によっても大きな刺激を受けた。実用主義を唱える実学の台頭は、朝鮮時代のルネサンスと呼ばれる英祖・正祖時代(18世紀末~19世紀初)の新たな風潮を生み出した。山水画においては中国の観念的山水画から真景の表現を求める真景山水画へと流行が変わり、そして実生活に根ざした多様な風俗表現が実現した。以上のような、制作背景を持つ朝鮮時代の風俗画が『朝鮮生活絵引』の主な資料となっている。それでは、順次、作例を概観していく。

3
風俗画資料の概要

(1)
「耕織風俗図屏風」

「耕織風俗図屏風」は、4曲1双、紙本淡彩で、現在、漢陽大学校博物館に所蔵される
(以下、「漢陽大学本」と称する)。各扇は横47.0 cm 、縦105.0cm、といった4尺ほどの小型の屏風絵である。各扇には、自然景を背景に農家での農作業の場面が描かれる。向かって左隻第1扇には、上部から桑の葉を採る女性と少年たちが、その次の段に室内で糸車を繰り、糸をつむぐ女性たちが描かれ、庭では少年たちがゴヌ遊びに夢中である。画面の下には碓を搗く女性を描く。第2扇は、近景には中央に臼搗き、右側に摺臼での脱穀、そして画面左には唐竿での脱穀作業が描かれ、室内には綿打ちの女性を配置する。画面の中央に立つ樹木や背景の山は紅葉したかのように濃い褐色で彩られ、場面の設定が収穫後の秋であることを表している。奥に消えていく山々は、米点や披麻皴など南宗画画法で描かれており、画院画家か、その周辺の技量のある絵師の作であることが窺える。第3扇と第4扇は、それぞれ犂と鋤(カレー)による耕作の場面を描く。3扇の上部には種蒔きの女性も描かれており、3月から4月までの春の農作業の様子である。向かって右隻の第1扇は、前庭で機織の女性と筵編みの男性を、室内では勉強に励む少年たちを、第2扇には稲束を脱穀台にたたき付けて脱穀する場面を描いている。やはり庭の木は紅葉しており、秋の季節感が表れている。第3扇は、草むしりの男性たちと食事と酒を運ぶ女性と少年を描く。6月の農作業を表現したのであろう。第4扇は、小正月に穀物いれを吊り下げた竿を高く立てて豊年を祈願する習俗を描く。屏風絵全体を概観すると、季節の順に必ずしも一致しておらず、現状の屏風に仕立てられた際に錯綜したとみられる。絹本に淡彩で描かれ、色あせはしているものの、小画面でありながら広々と展開する朝鮮時代の風俗画資料と絵引編纂125 山水の表現や流麗な線描による人物の描写は特に注目される。右隻の左から第1扇の上段には金弘道の落款と印章を有することから、金弘道筆とされるが、断定はできない。

「漢陽大学本」にみる風俗表現で特に注目に値するのは、農作業や朝鮮の風俗を描く多くの場面に耕織図系統と思わせる図柄が存在することである。生業に携わる庶民の姿を描く風俗画が、支配層文化中の絵画の主題となった背景には、儒教の思想が重要な役割を果たしていた。庶民の生活の様相、特に生業の場面を画題とすることが少なかった朝鮮時代には、中国から流入した「耕織図」や「風七月図」などが風俗表現に多大な影響を及ぼした。朝鮮に伝来した耕織図は、本来は鑑戒図として宮中での鑑賞用として重宝されたが、18世紀以降、風俗画の制作が活発になると、庶民の日常生活や農作業を表す図様として風俗画に援用されることとなった。生業の場面や庶民の生活そのものを画題としなかった朝鮮時代の絵画制作において、耕織図は風俗の表現の手本として重要な役割を果たした。「漢陽大学本」の場合も、「佩文斎耕織図」に倣った図柄が少なくない。例えば、糸紡ぎの女性、唐竿での脱穀、機織の場面は耕織図の構成を思わせる。

しかし、人物表現、服装そして農具などが朝鮮のものに変容され、耕作の重要な労働力である牛も朝鮮の黄牛が描かれるなど、朝鮮的要素が豊富に取り入れられている。それとともに、「漢陽大学本」において特記すべきことは、小正月の月迎え、洗濯、碓搗き、摺臼、食事を頭上運搬する女性、筵編み、鋤(カレー)を引いて田を耕す場面、そして子供のゴヌ遊びなどのように、その風俗表現は「漢陽大学本」以前の風俗画には類例のないほど、耕織図の図柄からの脱皮が認められる。耕織図の需要が高まり、宮廷の鑑戒図から世俗画としての鑑賞画に移っていく過程で、朝鮮の実生活が吸収され、ますます風俗表現の素材が豊かになっていくが、「漢陽大学本」はその典型的作例として次の時代の風俗画に多大な影響を及ぼすことになる。

(2)「檀園風俗画帖」

檀園は18 世紀に活躍した画院画家・金弘道(1745~1810頃)の号である。金弘道は、朝鮮時代の文化のルネサンス期と呼ばれる英祖・正祖年間にわたって活躍した図画署画員であり、「檀園風俗画帖」は金弘道の30代後半に制作されたと推定される朝鮮時代風俗画の最高傑作の一つとして従来から多くの美術家より高く評価されている。

画院画家としての金弘道は、肖像画、王朝の記録画、故事人物画、道釈画、真景山水画など幅白い画題の作品制作に携わり、正祖にその技量を認められ、従六品東班職の官僚にまでその地位が上った画員である。1773年に英祖と王世子だった正祖の肖像画を制作し、司圃署の監牧官に任命された後、1781年と1791年に正祖の肖像画制作に同参画師として参与し、忠清道の延豊県監という官吏職にまであがった。県監は従六品の地方行政職であったが、絵師は身分の卑しい絵描きか職人としてしか認識されなかった朝鮮時代の身分社会では、類例のないほど身分上昇を実現した画院画家である。

1791年、正祖の肖像画の制作以降、明末の文人画家・李流芳(1575~1629)に倣い、住まいに庭園を構えて李流芳の号である「檀園」を名乗った。「檀園風俗画帖」は、25葉からなる画帖である。紙本淡彩で、背景を省略した小画面に日常生活が素描風に描き出されている。25葉には、後代に名づけられたと思われる次のような小題が付されている。

(1)書堂(2)耕田(3)射弓(4)相撲(5)行商(6)舞楽(7)葺瓦(8)鍛冶(9)行旅(10)施主(11)渡津(12)酒幕(13)樵夫(14)漂母(15)井辺(16)葉煙草調製(17)編蓆(18)打作(19)審観(20)織造(21)蹄鉄(22)漁場(23)奠雁(24)野飯(25)騎驢行列

いずれも庶民の生活に根ざした親しみやすい生業の現場や市井の多様な生活像が画題であり、風俗画における主題が18世紀以降拡大されていた様子が窺える。25葉の小画面を画帖に仕立てる形式は、文人画家・趙栄 (1681~1761)による「俗画帖移模本」から始まるとされる。「俗画帖移模本」は作品が現存しないが、李徳懋(1741~1793)の『青荘館全書』によると、小画面の70葉からなる画帖形式の風俗画であるという。25葉もしくは30葉や70葉を一つの画帖として仕立てる風俗画帖は、18世紀以降、風俗画の画面形式として流行したようである。後述する申潤福筆「園傳神帖」も30葉からなる小画面の風俗画帖である。

金弘道による画帖形式の風俗画は、そのテーマにおいて従来に類をみない斬新な表現であり、しばしば見逃しやすい日常生活の一瞬や人物の心理を絶妙に表出した。金弘道の風俗画は続く世代の画家にも受け継がれ、絶大な影響力をもつようになった。金弘道風の風俗画や模本が数多く作られ、町絵師による稚拙な風俗画や模写本にも金弘道の落款・印章が容易に借用されるなど、風俗画家としての名声は真贋を紛らわす要因にもなっている。「檀園風俗画帖」は、当時、俗画と呼ばれ蔑視された風俗表現の絵画的水準を高めた傑作として、金弘道の時代のみではなく、次の時代にもその評価が続き、現在、もっとも広く知られている朝鮮時代の風俗画として親しまれている。

(3)「平壌監司饗宴図」韓国国立中央博物館が所蔵する「平壌監司饗宴図」は全3幅で、それぞれ「月夜船遊」「練光亭宴会」「浮碧楼宴会」という小題が付されている。「平壌監司饗宴図」は英祖50年(1774)に、申光洙が平壌監司に赴任する親友の蔡済恭に向けて、遊興の町として名高い平壌で享楽に陥ることなく政事に専念するように戒めるべく著した『関西楽府』の絵画化であるとされる。第1幅「月夜船遊」は、月夜の大同門前の大同江で夜の宴会が繰り広げられる。第2幅「練光亭宴会」は、平壌城内から大同江に視線が向かっている。大同門から城内に入った付近の賑わう町の様子は「清明上河図」系統の中国の都市図を連想させる。浮碧楼での宴会の模様を描く第3幅「浮碧楼宴会」も、「練光亭宴会」のように楼閣から大同江を眺める視点で描かれており、右端の永明寺の向かい側には大同江に浮かぶ綾羅島がみえる。朝鮮時代の初期に制作された木版本「平壌官府図」(ソウル大学校・奎章閣蔵)をみると、平壌官府のほぼ正面に描かれる大同門から平壌城の城壁にそって練光亭が続き、さらに北へ進むと綾羅島の向かい側に浮碧楼が位置するが、「平壌監司饗宴図」は平壌の名所として名高い大同江や永明寺をクローズアップしながら、平壌城とその周辺の景観をまとまりよく取り入れている。紙本彩色、法量は各71.2×196.6cm、横に長い巻物の一部分のような形状であるが、現在は額縁装である。「檀園写」との落款・印章が第3幅「浮碧楼宴会」の右端に記されているが、金弘道の真筆とされる「檀園風俗画帖」の運筆にみる肥痩に富む線描は見られない。現存する平壌図は、平壌内外を俯瞰的に捉えた多色刷りの絵地図か、木版刷りと肉筆彩色を併用した作例が多い。その理由は、朝鮮時代の18世紀半ばごろから平壌図を求める一般の人々の需要が増え、版画の平壌図が多量に制作されるようになり、朝鮮時代末期まで広く流布して親しまれたことによる。平壌は、古くより名勝地としても名高い場所であった。平安道文人の詩話書である『西京詩話』にもその美しい景観が多数詠まれている。また、明の使臣の詩文集である『皇華集』の中にも平壌の景勝と遺跡を賞賛した詩が圧倒的に多く、その中でも練光亭、楼、浮碧楼、牡丹峰などの名所は数多く引用されている。平壌の景勝地は、詩文のみならず、絵画化もされていることが『李朝実録』で確認できる。『朝鮮画論集成』によると、15世紀頃には平壌の名勝十景を絵にした「題 城十景図」が制作されたことが知られ、その後も『李朝実録』にはしばしば平壌の楼閣や景勝を描いた屏風絵が制作された記事が記録されている。他にも「関西名勝帖」「西京名勝帖」といった題目の作例が確認されることから、画帖形式の平壌図も制作されたようである。しかし、平壌城は壬辰倭乱(文禄・慶長の役 1592~1598)と丙子の胡乱(1637~1638)のあと、修127 朝鮮時代の風俗画資料と絵引編纂 復が100年ほど行われず、町は荒廃したまま放置された。私撰邑誌『平壌誌』および『平壌続誌』に記載される平壌城や名所の建造物の修復は、英祖(1724~1776)・正祖(1776~1800)の頃である。それは、おおよそ北城が築城されて平壌城の規模が拡大された1714 年以降であるが、特に英祖9 年(1732)に修復が本格化され、その後、浮碧楼、正陽門、普通門、待月楼など、各名勝地の建造物が順次重修復された。平壌図が再び流行した時期は、平壌城とその周辺の景勝地の楼閣などが再建される時期とほぼ一致する。18世紀半ば頃からは、平壌城や町並みの景勝地が多く絵画化され、『正祖実録』が伝えるところによれば、平壌図の制作は宮廷でも盛んに行われた。その需要は宮廷や支配階級のみならず民間にまで拡大され、画院画家が制作した原画をもとに木版刷りの平壌図が多量に複製され、消費された。「平壌監司饗宴図」の筆づかいを詳細にみると、描線はほとんど変化のない一律的な幅で、建造物を描く際によく用いられる界画手法を連想させるが、木版刷りと彩色を併用した現存する平壌図の作例をみると、「平壌監司饗宴図」はこのような木版刷りの平壌図を肉筆で模写したもののように見受けられる。3幅の絵には、赴任に伴う随行人、宴会に参列する地方官衙の両班の他、官衙の下級官吏、宴のための樂工、官妓、そして見物に訪れた様々な身分の人が大勢描かれている。人物それぞれの服飾には、両班や庶民、小児と冠礼を済ませた少年などといった異なる身分ごとの特徴がはっきりと描かれており、さらに官吏の服装に関しては、多様な官職の人物表現から地方官衙の服飾風俗の宝庫ともいえる。

(4)「園傳神帖」澗松美術館が所蔵する申潤福筆「園傳神帖」は18世紀末、朝鮮時代の絵画史においては突然ともいうべき特異な画題をもって制作された作品である。描かれたほとんどは都市(漢陽)の人間像で、すべての場面に女性が登場する。ところが「園傳神帖」の画家、申潤福については、図画署の画院画家であったが、卑俗な絵を数多く描いたことで図画署から追い出されたという伝承のほかは、画歴の多くが不明のままである。作品に関する基本的なデータ、すなわち制作年代と背景、注文主などを窺える文献資料がほとんど残されておらず、現在伝わる「園傳神帖」の題字と所蔵印までも20世紀初頭に呉世昌(1864~1953) が申潤福の号を借りて付けたものに過ぎないというから、作品そのもの以外は不明な点が多い。30葉すべてが申潤福の真作であるかどうかも検証されていないばかりか、「園傳神帖」が当初から揃った一式の画帖であったのか、その形態を推測する手がかりもない。ただ各料紙には中心を横切る折り目や装丁のために糸を通した痕跡などが確認できることから、おそらく一時は冊子の形態として仕立てられていたと考えられる。法量は縦約28.2cm、横35.6cmで、30葉の料紙の大きさはほぼ揃っている。料紙絵の中には「園」の落款と印章をもつ作例が16葉、印章のみが捺されている図が2葉、そして落款や印章のない絵が12葉ある。11葉の絵には画題に合う漢詩を有するが、その書風は画家の落款の筆致と共通する特色から判断して、申潤福自らの筆跡と見受けられる。色彩はすべての料紙絵において淡彩を基調とするが、時には発色のいい鮮やかな顔料が加わり、全体としては装飾的ともいえる趣を呈する。画帖形式に関しては、同時代の画院画家・金弘道の「檀園風俗画帖」を意識した痕跡が見受けられるが、題材においては共通する場面は少ない。背景の空間の扱いにも、「檀園風俗画帖」が図様のみを取り上げ、背景をほとんど省略しているのに対して、「園傳神帖」の場合は、街の一角、裏庭、渓谷、川、そして山寺周辺といった一種の舞台を設定し、視野を広くとった背景の中に人物が収められている。「園傳神帖」の筆者や制作背景などについては多くのことが不明であるにもかかわらず、「園傳神帖」が韓国の国宝に指定され、朝鮮時代の代表的な風俗画として賞賛される理由は、類のない表現の斬新さと特異な主題の選択にあろう。各葉には次のような小題が付されている。(1)春意満園(2)少年剪紅(3)婦貪春(4)井 辺夜話(5)紅楼待酒(6)酒肆挙盃(7)賞春野興(8)年少踏青(9)巫女神舞(10)双剣対舞(11)路上托鉢(12)納涼漫興(13)尼僧迎妓(14)聴琴賞蓮(15)舟遊清江(16)聞鐘尋寺(17)端午風情(18)渓辺佳話(19)月夜密会(20)携妓踏楓(21)双六三昧(22)三秋佳緑(23)路中相逢(24)妓房無事(25)漂母逢辱(26)青楼消日(27)月下情人(28)夜禁冒行(29)林下投壺(30)遊郭争雄小題からもわかるように、「園傳神帖」が描く人物のなかには両班および良民階層のみではなく、社会から疎外された最下層である妓女、巫女、下女、下僕などといった、いわゆる賎民を描いている点が注目される。このように社会の最下層の人々が独立した画題として取り上げられた作例は、申潤福の以前には皆無である。そして、画帖の30葉すべてに女性が登場することも特筆しなければならない。両班、庶民の女性、寡婦、老婆、巫女、妓女などが主に都市の一角を背景に描かれているが、これほど多くの女性が朝鮮時代の絵画の主体として登場するのは革新的なことである。朝鮮時代における風俗画の制作の担い手は、図画署の画員および差備待令画員であるが、画院画家が制作した当時の俗画に登場する世俗表現には、良民が主体になる場合はあっても、賎民が画題として描かれたものはない。最下層の人々が描かれる場合も、宮廷や支配階級の記録画に副次的に描き添えられるのが一般的であった。その意味でも「園傳神帖」は、画題においてひときわ異彩を放った風俗画なのである。

(5)「平生図」
国立中央博物館が所蔵する「平生図」は絹本彩色画の8曲屏風絵で、各扇の法量が53.9cm×35.2cmで、屏風絵としては2尺もないかなり小さい作品である。そもそも「平生図」は、士大夫の一生の出来事を描く画題で、出生から結婚、そして回婚(結婚60年の祝い)にいたるまでの重要な通過儀礼と立身出世の過程を8曲屏風に仕立てるのがもっとも一般的であった。流行のはじめは、尊ばれる実在の功臣や両班官僚の一生が取り上げられた「平生図」が画院画家によって盛んに制作されたが、理想的で富貴に満ちた人生を表すという画題が好まれ、不特定の主人公の一生も「平生図」として描かれた。そして、既存の構成にヴァリエーションが加えられた形式として発展し、その後画面様式も8曲屏風を始め、10曲屏風、12曲屏風と多様化した。特に18世紀後半以降には、その需要が拡大し、20世紀の朝鮮時代末期まで数多くの模本類や類似作が量産された。「平生図」は、立身と出生を願う人々の要求に応えて制作された、いわば朝鮮時代の人々が理想とする人生観や出世観が表出されている絵として幅広い階層の人々から好まれた。本書の資料として取り上げた国立中央博物館本の各扇には、主題に応じて次のように命名されている。右から第1扇「初度弧筵」、第2扇「婚姻式」、第3扇「三日遊街」、第4扇「翰林兼修撰時」と並び、第5扇「観察使赴任」、第6扇「判書行次」、第7扇「政丞行次」、第8扇「回婚礼」と続く。第1扇「初度弧筵」は、初誕生を祝い、家族が見守る中で子供に祝いの膳に並べられた筆、糸、本、銭、弓などから一つを掴ませ、初めて手にしたものが何かによって子供の将来を占うという、初誕生の場面を描く。第2扇「婚姻式」は、成長した子供の婚姻儀礼を描く。国立中央博物館本には、結婚の儀に向かう「親迎」の場面が取り上げられている。すなわち、初誕生から、成長した子供が結婚式をあげることによって冠礼し、続く第3扇「三日遊街」では科挙に及第した主人公が官帽に御賜花をさして3日間挨拶に回る儀礼を描き、両班官僚としての出世の道に入る出来事を象徴的に表す。次の第4扇「翰林兼修撰時」は、初任官職のなかでもっとも嘱望される修撰に就いた場面を、続く第5扇「観察使赴任」、第6扇「判書行次」、第7扇「政丞行次」には、観察使として任地に向かう場面、そして官位が判書から政丞へと上がり、両班士大夫として名誉ある官職に順次就いたことを表す。最後の第8扇「回婚礼」で、老夫婦が結婚60周年の祝いの儀礼で結婚式を再現し、子孫から祝福を受ける場面で締めくくる。作品の中には落款・印章はなく、賛や題箋なども129 朝鮮時代の風俗画資料と絵引編纂 書かれていないことから、制作年代や作者、そして図のモデルになった人物を知る手がかりはない。現存する平生図のなかに、実存人物をモデルとした作例は画院画家・金弘道による「淡窩洪啓禧平生図」と「慕堂洪履祥平生図」の2点であるが、国立中央博物館本は「慕堂洪履祥平生図」と細部まで酷似しており、「慕堂洪履祥平生図」の模本であると思われる。第1扇「初度弧筵」に一人の人物が省略されていること、そして第4扇「翰林兼修撰時」が左右反対の構図であることの他は、全体の構図や人物表現、建築表現などにおいて「慕堂洪履祥平生図」とほぼ一致している。内容においても、「慕堂洪履祥平生図」の各扇の右端上部には題箋が貼られおり、各場面の内容が国立中央博物館本と一致している。「慕堂洪履祥平生図」の第8扇「回婚式」の上段には「辛丑九月士能画于瓦署直中」の落款と金弘道の印章がおされており、それは金弘道が1781年に檀園と称する以前の号である士能であることから金弘道の37歳の作品であることが知られているが、本図は、当時、流布していた画院画家・金弘道の平生図「慕堂洪履祥平生図」を模写した18世紀後半もしくは19世紀初めの作例とみて差し支えないであろう。各場面には、初誕生の祝いの場面や結婚などの行事、身分・官職の違いによる異なる服装、乗り物、そして家屋や橋、道具などが細密に描きこまれており、生活文化に関する豊富な情報を伝える図像資料として注目される。(6)「四季風俗図屏風」国立中央博物館に所蔵される「四季風俗図屏風」は、各季節に沿った内容を2扇ずつ描いた、8曲1隻の屏風絵である。各扇は76.0cm×39.0cm、筆者未詳の絹本着色絵である。本来は屏風絵として制作されたが、現在は8幅の掛軸装である。各扇にはそれぞれ副題が付されており、第1扇「寺党演戯」、第2 扇「花柳遊戯」、第3 扇「妓房風情」、第4扇「弾琴風流」、第5扇「酔中判決」、第6扇「拾綿村娥」、第7扇「道中逢妓」、第8扇「雪中暖炉」となる。「四季風俗図屏風」のように、四季の風俗を8曲の屏風絵に仕立てることは、朝鮮時代の18世紀後半から流行した形式である。フランスのギメ美術館が所蔵する金弘道筆「四季風俗図屏風」(以下、「ギメ美術館本」と略称)がその流行の始まりとされるが、国立中央博物館本は、金弘道の作品に倣い、同様の形式に従った模本の一つであると思われる。第2幅「花柳遊戯」と第4幅「弾琴風流」以外の6幅は、テーマや画面構成および人物表現において「ギメ美術館本」を踏襲している、いわゆる翻案本である。「ギメ美術館本」に比べると、やや色彩が粗野で、筆使いにも緊張感が落ちており、「ギメ美術館本」に範を求めた後代の作例であろう。模倣のやり方や形状からみると、19世紀初め頃の模本であると推定される。第5幅に「檀園」と書かれた落款と「金弘道」の朱印が捺されているのは、金弘道の風俗画のもつ権威と名声を意識したからであろう。特に長身の人物表現は、金弘道が活躍していた同時代の画院画家による風俗画の画風とは趣をかなり異にしており、金弘道の作例に倣った町絵師による模作とみるべきである。内容においては、現実的趣向がつよく反映され、8幅の絵には、街の芸能から官僚の行列、両班家の女性から畑仕事の女性や妓女まで、身分の異なる人々の様子や行事が季節の表現とともに描かれ、身分や季節による服装の違いや食文化、そして庶民の芸能など、豊かな生活文化の情報を読み取ることができる。絵の主題と季節の関連については、必ずしも歳時風俗などと関連があるとは思われないが、図柄において金弘道筆の「ギメ美術館本」の形式が受け継がれていると言えよう。絵引資料として、第1扇「寺党演戯」、第5扇「酔中判決」、第7扇「道中逢妓」、第8扇「雪中暖炉」を取り上げたが、模本でありながらも、原本を忠実に写している点や模本の制作時期を考えあわせると、18世紀半ばから19世紀初頭における生活文化を伝える作例として注目される。4 絵引編纂と朝鮮風俗画の資料化図像資料が発信する豊かな情報に注目したのが絵 引編纂である。「絵引」は、字引に対する概念としき出されている事物や行為のテーマを重視し、背景て、描かれた図像から情報を引き出し、資料化するとの関連性を重視しながら場面の切り取りを行っという編纂方式の図像資料集である。た。選ばれた場面は主題により景観、衣食住、社会、本書『朝鮮生活絵引』は、同様の方式で朝鮮時代生業、信仰、年中行事、通過儀礼などに分類し、描の図像を資料化することを目指し、朝鮮時代に制作かれた事物に名称を与えて、場面全体を読み取ってされた風俗画を素材に、当時の生活文化を読み取ろ解説を付した。行為や事物に名称を与える際には、うとしたものである。すなわち、日本常民文化研究朝鮮時代の生活文化における基本的な情報まで詳細所が編纂した『絵巻物による日本常民生活絵引』のに伝える方法として、可能な限り細密な部分まで名意義を継承し、その方式を朝鮮時代の絵画資料で編称を与えた。そして、異文化固有の事物をできるか纂を試みた朝鮮時代編である。ぎり正確に表す方法として、名称には原語の表記も編纂にあたっては、まず朝鮮時代の様々な図像資併記した。料を博捜することから始めた。度重なる試行錯誤をしかしながら、編纂者の共同研究によるたび重な経て、もっとも忠実に世俗を表現した図像資料としる議論や検討にもかかわらず、本書にはまだ検討をて、一連の風俗画を絵引編纂資料として選んだ。特要する課題が数多く残されている。その課題は、今に、描写においては世相を的確に表現したと思われ後さらなる考察で補われるべきである。本書は、多る作品群に、そして近現代の模本類にはきわめて細くの課題が残されているにもかかわらず、朝鮮時代心の注意を払った。選び抜かれた風俗画のなかでも、に制作された風俗画が、「絵引」として初めて「図事実性を反映する度合いだけではなく、伝える情報像資料化」されたことに大きな意味があるだろう。の量も考慮して前述した6 点に絞った。画帖形式の風俗画資料が発するメッセージを読み取り、朝鮮時「檀園風俗画帖」や「園傳神帖」は、ほぼ一葉の代の歴史や文化を理解するための新たな資料として図柄をそのまま絵引資料に用いたが、「平壌監司饗活用されることを期待し、それを『東アジア生活絵宴図」のような横に長い画面の作品や「耕織風俗図」引』朝鮮風俗画編の編纂が歩みだした第一歩の意義「四季風俗図」「平生図」などの屏風絵は、各場面に描としたい。(キム・ジョンア)

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