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Thursday, July 5, 2012

Japan at Meiji enlightenment period and Korea 9

http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi020.html

明治開化期の日本と朝鮮(9)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)


黒田全権らが上陸した江華島鎮海門から対岸の通津府側を望む。宮本外務大丞一行は通津の控海門に上陸し、陸路を京城に向かった。明治9年2月 河田紀一撮影
宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く

索 引

・ 宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く
・ 日本人が見た朝鮮国の風俗・風景
・ 再び医療を行う・東莱府で
・ 陸路、京城に行く
・ 京城に至る道路事情
・ 井戸、泉水について・宿泊、休憩施設
・ 糞と牛骨が散乱する王城市街
・ 建物について・風呂場と便所
・ 護衛朝鮮兵の様子・食事のことなど
・ 味付けについて・酒について
・ 膳台や食器など・米について
・ 茶らしいもの・菓子について
・ 夏でも氷がある・官妓の舞
・ 風景名物に乏しく見物を嫌う
・ 草木について・田園地帯
・ 市場、産物・一般民家
・ 庶民の姿・衣服について
・ 雨具など・家畜 馬、牛、豚など
・ 獣類・細工物・朝鮮国旗のルーツ
・ 製紙・気候と風土病
・ 国の腐敗・朝鮮政府の接待全般について
日本人が見た朝鮮国の風俗・風景

明治9年(1876)6月、日本政府は宮本小一外務大丞の朝鮮国京城(ソウル)への派遣を修信使に伝えた。日朝修好条規第十一款に基づき、条規付録ならびに通商章程を協議締結するためである。
宮本小一は、後に「朝鮮政府接遇記略及風俗概要」なるものを提出しているが、朝鮮国の衣食住や人々の風俗がよく描写されており、とても興味深い。ここでは、さらに日記録である「朝鮮理事日記」と同行した陸軍士官の報告である「朝鮮紀行」文をあわせて、その中から風俗に係る部分をまとめてみた。絵図写真貼り付けと解説、( )、見出しなどは筆者による。

以下、(宮本大丞朝鮮理事始末 朝鮮政府接遇記略及風俗概要、宮本大丞朝鮮理事始末 朝鮮理事日記、宮本大丞朝鮮理事始末 第九號 陸軍士官朝鮮紀行 作成者:陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦介)より。

軍艦浅間号にて7月15日釜山草梁着。

再び医療を行う

軍医が現地の人間に医療を施す。村民が陸続として来る。余りの多さに終には煩らわしさを覚えるぐらいであった。ある村民の夫人が病に困っているとのことで診察を乞うたが、婦人に対しては朝鮮官吏が拒んで許さない。聞くところによれば、婦人の場合は医者が直接触れるのを忌み、壁を隔てて患者の手首に糸を結んで脈を診て薬餌を与えるという。実に未開の奇異なる風習である。

東莱府で

同20日、東莱府使から宴饗の招待を受けていたが、京城行きを急ぐので辞退しようとするも、玄訓導が病(腫れ病)の中から手紙をよこして、「この宴禮は重大なので受けることを勧める」と言ってきたこともあって、宴饗を受けることにした。
(宮本小一大丞はじめ書記官や軍医など計8人が出席した。)

会場である宴廳は建物は立派だが塗画は剥がれ落ち門は傾き庭は荒れ、すでに荒廃してから久しいようだった。あらかじめ掃除をして幔幕を張ってあったがその粗末さを隠す苦心が思いやられた。

テーブルに椅子席で、甚だ粗末な文台のような盆に食事が盛られていた。蜜、酢醤油、鶏卵、鶏肉、生魚、乾し魚、牛肉、豚肉、餅、菓子、瓜、林檎、スモモなど計13品だった。酒は焼酎である。陶器の多くは日本製である。

その後、府使を浅間艦に招待して軍事調練を見せた。
また、宴席中に府使が日本の軍医の診察を乞うたので別室で診た。後に薬を贈ってその処方を伝えた。

29日、江華島の鎮海門と対岸斜めに位置する控海門に上陸する。

陸路、京城に向かう

日本側一行には、朝鮮側の迎接官や槍持ちや「令」の旗持ちと楽隊など総勢七十四人が同行する。
(乗り物は、宮本小一のみが「双駕馬」という2頭の馬が担ぐ物に乗った。)
この輿は正二品以上の身分のものしか使うことが許されないものであり、これをもって格別の優遇であると言う。しかし輿の塗りは剥げ落ち装飾は毀損していた。行進中は時々楽隊が歌い演奏をした。他の日本側随員は馬に跨って行く。
「双駕馬」で行く宮本一行の想像図。朝鮮側のメンバーを調べると修信使の時とよく似ているので、その絵を元に加工してみた。輿もその説明によれば下図のようなものであったようだ。

地方官が先行して、各家の戸を閉じさせて見物を禁じている。時おり官憲が、集まって見物している人々を鞭をもって追い払う。なんとも大変な喧騒である。
道が狭い上に輿を支える側人が多くて混雑するので、京城からの帰路はこの輿を辞退した。それで朝鮮政府は「手輿」を用意した。これは人間が担ぐものであったが、輿の中は狭くてやっと体が入れられるぐらいのものであった。

「手輿」 1900年頃
京城に至る道路事情

この間の道は1等の官道のようであるが、それでも道幅は2メートル前後に過ぎない。至るところが凸凹であり、車の往来が出来ない悪路である。

また、橋は土橋が多くまれに石橋がある。板橋は見ない。小川の橋が壊れている場合は両側の土手をせり出してそこを人馬とも飛び越して通っている。
しかし、処々で応急の修理がしてあり、行く先々の敷地や建物も洒掃補修してあるのが認められた。我々日本人一行を迎えるための苦労は大変だったようだ。

これは、清の官吏らしい一行が龍を画いた旗(清国旗と思われる)を立てて朝鮮の道を行っている写真である。宮本たち一行が行った道もこのような道だったろうか。写真はおそらく1900年より前の撮影と思われる。

井戸、泉水について

浅間艦が仁川府所轄の済物浦で給水を求めたが、干天のため水が乏しかった。こちらの水夫らが朝鮮人と共に井戸を掘ると、4尺(1.2メートル)あまりで清水が噴出した。

人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得る方法をする者が無い。かえって日本人によって良井戸を設けられるのは憫笑するところである。
全体に井戸、泉水が乏しい。井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない風俗であるから、枯れなければそれでこと足れりとするようだ。
水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。


宿泊、休憩施設

朝鮮国には旅宿というものがなく、公務ある者の旅は各府衙門(官庁のこと)に泊まり、平民は旅先での適当な民家を宿としている。
通津府の衙門(官庁のこと)にて休息をした。
府使が来て慰労する。彼は汗が衣を濡らすのも忘れて動き回り、膳部を出して饗応した。それは東莱府使の宴饗よりも一層丁寧なものであった。衙門も小さいとは言え、綺麗に洒掃してあり、床には新しい敷物を張り、外には燈を懸け、簾を垂らして宿泊の備えをしている。その心を用いた様子には実に感じ入った。


糞と牛骨が散乱する王城市街

京城は大河の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭隘であり、人家が密集している。およそ3万戸以上はあろう。
城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。方位から言う場合は南大門と称する。
門内に入れば西北に一大街路がある。幅は20メートル余りである。
市街は大抵瓦屋根の家である。しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に矮小の藁屋が列をなす。ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なこと名状し難い。


南大門(崇禮門)城外側 撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
ちょうどこの写真撮影年代の頃である明治21年2月、かつて朝鮮の漢城判尹(首都知事と警視総監を併せた役職)を勤めたことがある朴泳孝は、日本滞在中に朝鮮国王宛てに内政改革の建白書を著し、その中で京城市街について次のように述べている。
「王宮や後宮から街、道路、橋にいたるまで、塵芥が丘陵を成し、糞屎は金を塗るが如し。これ外国人が大いに恐れるところ、そして嘲笑するものなり。見るところ極めて美しからざるのみならず、その蒸発の気は必ず疫病を醸成するものなり。(アジ歴資料「韓国人朴泳孝建白書」p23)」
「糞尿は金を塗るが如し」とは凄まじい表現であるが、宮本小一外務大丞の時から10年以上経っても京城の様子は全く変わらなかったことを証するものであろう。それに朝鮮人自らが記録したものとしても貴重なものと思われる。

西大門(敦義門)撮影年代 明治21年(1888)~明治24年(1891) 林武一撮影
撮影者の林武一は当時外務省交際官試補であり、朝鮮の産業調査のために派遣されて朝鮮各道各地を巡回した。ところが明治25年4月、業務を終えて帰国途中に乗船していた出雲丸が全羅道所安島付近で座礁して沈没、帰らぬ人となった。時に35歳。林武一の著作には明治24年8月刊行の「朝鮮案内」がある。当時の朝鮮国の人口、気象、交通、貿易、物産、政府歳入、税関、通貨、都市状況などを網羅したものである。林はまた写真術を好む人であり(「日本写真会」創立時会員)多くの作品を残していた。後に同夫人の亀子氏が、亡き夫のそれら遺品の中から選んで写真集「朝鮮国真景」を出版した。朝鮮時代の風景写真として後に出版されたものの中には彼の作品によるものも少なくない。(参考、明治25年11月18日 林亀子出版「朝鮮国真景」より)

汚水が路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層臭気を覚える。
その他の道は、4、5メートル余り。凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。人家が道に出っ張っているのと、引っ込んでいるのとが並んでいて、頗る不整である。

王宮は壮大である。しかし庭には青草が生い茂っている。かつて掃除をしたことがないようだ。


建物について

京城での宿は、城郭外西にある盤松洞中軍営の清水館という所であった。(後に隣の天然亭と共に日本公使館となる。)
敷地はおよそ千坪。建物は百坪ぐらい。皆瓦屋根である。館の周囲には竹垣を設けてそれに幕を張って巡らせ、外からも内からも眺望できないようにしてある。館の前面には広さ千坪余りの池があって蓮の葉がまばらにあった。
敷地内に井戸はなく、門外の井戸を使う。ここでは水は良質多量であった。

室内の壁は新しく紙を貼り、柱や梁なども新しく青色や白色で画彩してある。
「花紋席」と称する薄い席(むしろ)を敷く。椅子、小さな屏風を置き、紅紗布で覆った行灯を2、3個置く。皆、朝鮮国においては善美をつくしたものと言う。
部屋は狭く、数人を収容して、テーブルと椅子3、4個を置けばもう余地は無い。
紙障子は高く吊り上げてあって夜も下ろすことがない。そのため夜雨や朝露を防ぐことが出来ない。
寝室は壁に竈の穴のような小窓をあけて光を入れ、それに竹の簾を垂らしてある。ゆえに蒸し暑いこと甚だしい。

ここ清水館の隣に「天然亭」と称する20坪ばかりの家がある。また奥にも小家がある。この二つが随員の寓所および厨房としている。この他2、3の長屋の如きものあり。皆瓦葺で庇が低く、柱は太くして、それらを「亭」と称し「閣」と呼ぶ。しかしいずれも矮小にして風雅の趣が無い。これでも京城にあっては上等の家屋である。平素は京畿道の官吏の邸宅と言う。

庭には、土木泉石の飾りは無い。邸内はわずかに柏の老樹が門のところにあるだけである。なんとも風雅の無い邸宅である。朝鮮全般いたる所でそのようなものであると言う。
館内は近頃補修をしたと見えて柱などは朱色に塗ってある。屋根は日本と同様な瓦で葺いてあるが粗雑品である。


風呂場と便所

途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新たに作ってあった。その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが、頗る爽快であった。

また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言う。しかし粗末な藁葺きで不潔であった。
途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。また、部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。

普通、朝鮮人民の家には便所がないとも言う。
そのためか、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蒼蝿が舞い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない位である。雨が降る日だけ臭気が治まった。
ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、夥しい蚊と蚤のために、ついに一睡も出来なかったと言う。

日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では奇なる風景だと言う。


護衛朝鮮兵の様子

清水館には、朝鮮兵が2、3百人ぐらいで護衛をしている。
事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵を敷いて座ったり、あるいは樹木の下に居たりして、それで苦にしてる感じではない。ほとんどまるで犬や羊の扱いである。しかし雨の日は甚だ困難であろう。また、糞尿をそこらあたりにするので、臭気不潔この上ない。しばしば督促して掃除をさせた。

日本人のために朝鮮の守兵の中から使いの者を選んでいる。これを「房守」と称す。
時々下士官が来て働きぶりを調べて戒めている。その交代の時には、下士官が帳簿を持って室内にある調度品などを検査して交代するという規則になっていた。


食事のことなど

食事は1日2回で、たいてい10種類から17、8種に至る。三尺四方ばかりの有脚盆にうずたかく盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
牛豚鶏魚の肉、草餅、羮汁など、みな、器、皿に堆積する。しかし臭味がひどく箸を下す者が少ない。
ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。沙果・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと焼き魚も出した。蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。それらが、1人に対して実に10人分程もある驚くべき量であった。

炎熱の時節でもあり、その異様の臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって食傷を恐れて箸を下す者が稀であった。
なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。
(宮本たちの食事はいわゆる宮廷料理と思われる。なおメニューにキムチは見当たらない。(笑)詳しいメニューを知りたい人はこちらをどうぞ。)

出す物が豊かでなければ賓客を饗応するにふさわしくないとは言うが、飽かずに食うとしても人の口腹にも限度がある。膳台に種々の物をうずたかく積み上げて出すそれは、見ただけで人を先ず飽かせるものである。


味付けについて

胡麻を多産するので、ごま油をもって百食の調味の元とすると言っていい。
また、たいてい胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。それゆえに朝鮮人は咽喉への刺激により、一種の咽喉の病気を受ける者が多いと聞く。

醤油は上品下品とあって、極上品は日本製に及ぶが、値段が高すぎて容易に得ることは出来ないと言う(おそらくは日本からの輸入品か)。下等品は不味くて食せない。
味醂はない。
砂糖も無いので蜜を代用している。
牛乳は用いない。


酒について

酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。(宮本小一外務大丞の言。)
焼酎は良い味で飲める。琉球の泡盛に似る。しかし、強すぎて酒杯になみなみと盛って飲む者はいない。(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦の言)
米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。


膳台や食器など

盆や膳類は漆が剥げ落ち垢がついてすべて不潔さを感じた。
磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかしいずれも汚れたような不潔さを感じる。
酒(焼酎)は土瓶に入れている。杯は日本製である。また朝鮮製のもある。

彩画した皿や金銀の器が無い。
ただ、国王の賜饌の時に添えたる銚子は徳利形で、杯は薄いこと葉っぱのような銀製であった。蝙蝠の絵が画いてあった。
また、醤が入った磁器壷には石榴の模様が淡青で描かれていた。これらは支那の品に似ていて、おそらく朝鮮製ではないだろう。

銅の箸で食事をする。箸が重くて物をはさむのに不自由である。

牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
日本人がこの国に来れば、まず食べ物に注意しない時は、到底飢渇の患いを免れられないであろう。


米について

米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。


茶らしいもの

茶(緑茶)は無い。
干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。


菓子について

菓子は、小麦粉を練って胡麻を和したものであり、大薬菓と称する。米を固めて作った日本の「おこし」と同じ物がある。紅白の色に分けてある。
棗(ナツメ)は極めて大きく、蜜を練って衣とし松の実を貼り付けて皿に盛ってある。
餅に豆の粉をまぶしたものもある。
稀に、日本製の片栗の菓子も見る。

日本の漆塗りである春慶塗の重箱を尊んで菓子を盛って出す。


夏でも氷がある

金浦より東は夏でも氷がある。氷は漢江でこれを貯蓄する事が多量であるようだ。泥がまじっているのがあっても注意して飲食すれば害があることはない。このたびの炎暑酷烈で耐え難い時も氷水によって冷を得ることができた。


官妓の舞

王宮で朝鮮国王謁見の後に宴禮を受ける。賜饌の時に舞楽があった。数人が楽を奏す中に15、6歳の女子3人が舞う。太平楽、興民楽と言う。頭に異様の冠を戴き、赤色の紗の大袖長裾の衣をまとい、手に割竹、数珠、太鼓を持つ。その状は絵画に見るところの天人の如し。
この楽は久しく支那においては絶えたものであるが、朝鮮には残り唐の時代から伝えて今日に至ると言う。その古風を失わざるをもって誇ると言う。


官妓と楽人 撮影年代不明
風景名物に乏しく見物を嫌う

山々は、花崗岩質の土砂多く所々斑に青草が生えている。また、老松が疎らに立っている。禿山が多いからその風景の情が乏しいものに感じられる。
三角山と称する剣鋩の如き山あり。王城の鎮たり。有名の山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので遥かに見渡すことが出来る。

市街の一般民家は朝鮮政府の命令によって悉く門戸を閉じていた。十字路の所ははるか遠くに縄を張って一般の人の通りを禁じていた。ゆえに王宮に参内する時に通ったときは、道路は粛然として庶民の姿を見ず、ただ建物の戸の隙間からじっと見る目がたくさんあった。
このような状態であるから、我々一行が門外に外出しようとするなら、まず朝鮮官吏らが引きとめて、外出してくれるなと乞う。学校や貧民院や病院などを見学したいと言っても、見るに足らずと言う。あるいは、そのような施設は無いと言って1歩も外出させようとしない。
よって、日本人一行はまるで館に閉じ籠められた状態となり、これでは健康にも害があると朝鮮側に主張し、それで止むを得ずして「関羽廟」と「薬水」と言う地を見せると言う。それも3、4人づつ交代して見せると言う。その度に官憲が多人数付いてまわり、行く先々で集まる庶民を追い払い、各家の門戸を閉ざさせるなど、頗る混雑した。

「関羽廟」は「孔子廟」と共に、京城中で壮観なものであるとのことで、庶民崇敬尋常ならずと言う。中の文廟は理事官(宮本)以外は拝礼を許可しないというので、かくも面倒ならばと理事官は行かなかった。

「薬水」は、「ここから2キロばかりの所に樹木鬱蒼と繁り、渓流清冷にして最高の避暑地があるのでこの地に遊ばれたらよい」というので案内された。


迎恩門。現在は柱礎石だけが残る。「薬水」は背景の山麓にあるのであろうか。撮影年代不明
「迎恩門あり。支那より勅使の来るや国王みずから出て、これに迎うという。」(宮本大丞朝鮮理事始末 四/1 朝鮮理事日記/3 八月六日)
市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして他の地に行こうとしたが、朝鮮の護送兵が頻りに遮り拒むので、ついに館に戻った。

これでも、朝鮮人の話題にこの地のことがしばしば出るところからも、これをもって京城の風景名物に乏しいことを推察するべし。 このように3度ほど日本人一行が門外に出、又海軍士官が連絡のために浅間艦から往来し、そのつど市街の人民は居家を閉ざしたり往来を止められるので、その面倒さは実に苦であったろうが、ついに朝鮮王の特命が出て、それらの制限を廃した。

理事官が帰国に当たって「禮曹」に行ったときには、見物人が街頭に充満し、官憲が制することも出来ないほどであった。
この、窓を閉ざすという行いは、支那の勅使が来るときはこのようにして、勅使を見物するのは失礼であるからそうするという。あるいは、風俗を隠し秘するためか。
修信使が日本に来たときに、見物人が多く見ていたのは、実は修信使の心は快からずであって、このたびの日本人の使節もそうであろうから窓戸を閉ざさせたと言う。


草木について

京城近傍の草木は寒地であることもあって、別に珍しいものが無かった。
檜、杉、梅が無く、竹や棕櫚も無い。しかし柏、合歓の木が所々に野生する。
また各所に多く松を見る。この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。背が低くて横に曲がったものが多い。直立して天を指して伸びたのは稀である。
朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
釜山、江華府、京城、それぞれの山が草木が繁るのに不適のようである。禿山が多く、遠望すれば黄赤色が斑々としてその観は美ならず。
家屋の建築には松材以外に無い。
草木が少ないということは、それを愛玩して植える人もないということである。
京城に花戸というものがない。人が植えた花木というものが無い。

柑橘類の木はいよいよ無い。蜜柑を朝鮮では殊更に珍なるものとし、毎年冬至の祭りに日本から求めて国王自らこれを食するのが例典という。ゆえに、これを尊重し、かつて黒田全権大臣が朝鮮に来たときに冬であったから大量の蜜柑を持っていったが、朝鮮側もこれを殊のほか嘉賞したり。
修信使が東京に来たときにはじめて枇杷の実を食したが、これを甚だ賞した。
修信使らは日本のことを賞するのに、「建築が盛んであり、草木が多い」と言う。これによっても朝鮮には草木が少ないことを知るべし。

桜は釜山にある。対馬の人が植えたものなれば、朝鮮固有のものではない。京城近村で一本あったのを見たことがあると人の語るのを聞いた。しかし、開花の時でないから確認はできない。


田園地帯

土地は痩せていないようである。丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが村民が懶惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。
夏は雨が多いと言うが、本年は旱魃とのことで稲の水田がひび割れていた。畑には大豆が多く植えてある。黍(きび)、稗(ひえ)、甜瓜(マクワウリ)、ささげ(豆の一種)、胡麻、綿花、西瓜、南瓜、トウモロコシ、タバコなどを作っている。干天のために多少の損傷を受けているようである。
男は耕作をし女は餉を運び、耕牛は所々につながれて、その光景たるや日本の田舎と同じである。ただ田畑の並びが日本に比べて不整列であった。

田園風景 撮影年代不明
市場、産物

大海から直接船が来ることは無いようである。魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。もっとも、朝鮮人は、牛豚類を重用して鱗魚を賞しないようで、魚類は多く見ない。
野菜などは、通常の種類がある。しかし、浅間艦が1度に多量の数(船員約250人)を求めたが、すぐに得ることが出来なかった。都外はもちろん都内でも魚市の貿易常に寂寞たるを知るべし。

薪柴も乏しい。家屋の床下に竈を設けてそれを燃やし、温暖にしてその上に座して冬の寒を防ぐので、そのために極めて多量の燃料を必要とし、山々はそれがために禿山となっている。ゆえに薪柴は貴重品である。
石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。後に帰国してから山中に石炭を見たという。しかし掘る方法を知らないと言うので、後に(理事官-宮本小一が)石炭抗を掘る方法を書記して朝鮮国に送るを約束した。


一般民家

その家屋は石と泥をもって築立し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓が小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。たいていの家に「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が磊落して、ほとんど足をいれることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいである。
寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1、2の炊具を見る。
ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕であろう。質は頗る堅牢である。


庶民の姿

村民は、粗食に甘んじ寒寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、悠々として歳月を送る風がある。奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
長煙管をもって煙を弄びながら余念無く日本人を見つめる姿は、山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。


衣服について

朝鮮王(高宗)の衣服は、美絹にして桃紅色の礼服である。胸に袞龍(こんりょう)の如き金襴がある。冠は紅黄色の唐冠に似たものである。
重官は、松葉色に双鶴の刺繍模様ある礼服である。
一般人の服は木綿白色である。富貴の者は「紬(つむぎ)」を用いる。
庶民の場合、男女の服装がそう変わらないように見える。
(かつて黒田全権大臣は釜山草梁において一般男女の区別がついてない。)
染料はまだ無いようである。縞小紋の類はない。赤、紫、橙、黄など、人の目を悦ばす色もない。
婦人などで色のある服も見るが支那か日本から輸入したものである。
近来、日本から外国の染料を輸入しているから、漸次これを用いるようになるだろう。


雨具など

炎天陽光を遮る傘の類がない。ゆえにいかなる炎天であっても帽子なき者は天日を避ける術が無い。
雨傘は粗末なものがある。あるいは頭だけを覆う油紙の扇のようなものがある。雨が上がれば畳んで懐中に入れる。


家畜 馬、牛、豚など

朝鮮の馬は日本の在来種よりはるかに小型であり、時として「大馬」と称せられる馬ですら日本のものの8、9割ぐらいの背丈しかなかった。
馬具は日本古式と同じである。日本蒔絵の鞍を賞美する。


朝鮮の馬 1899年 ジェームス・S・ゲイル

日本の在来種 1868年 撮影者不詳
牛は肥大している。これは誰もが牧している。たいてい野に放って随意に青草を食べさせているがよく育っている。
浅間艦が牛1頭を買い求めたが、韓銭何貫文で値7円に相当したと言う。朝鮮人が牛を殖せば貿易の一助ともなろう。

豚は、普通の種類である。鶏はチャボの種類である。 山羊、羊の類は無い。


獣類

虎は、北部咸鏡道あたりで多く獲れるという。落し穴を作って捕獲するという。
皮は貢税の代わりとなるようで検印がある。官員の給料に当てることもある。
良皮一枚が16、7円より20円。下等の皮は10円から14、5円である。豹も虎と同じ地方に産する。上等皮8、9円で下等皮は5、6円である。
臓骨を取り塩をもって皮を製すと言う。日本のような皮革法をもって更に製錬しないので、夏の炎天下で湿気が伴えば腐敗する。朝鮮人はこれをどのように保存しているのであろうか。
虎の被害を受けた者は無数であろうかと問えば、稀有のことと答えた。

熊、狼の類で変わったことは聞かない。鹿は朝鮮人参の葉を食べるから最も薬効があると彼らは自負している。

咸鏡道の北部山麓に一種のイタチがいて、灰白色で胸腹が純白で、普通のイタチよりも小さいが毛質が柔軟で美なることウサギのようである。その皮で帽子を作っている。極めて温暖である。1頭の皮が24、5銭という。


細工物

細簾は朝鮮人の工の最も精妙なる物である。竹を糸のように細く削って製し、黒漆を塗って雷紋のようなものを画く。極めて佳致あるものである。

団扇(うちわ)は全羅道で製す。団扇の骨は細く何百筋も入れる。色は、紅、黄、青の三種がある。紅色のは光沢があり最も美しいものである。

扇も多く産す。油紙で片面を作り裏は骨が見える物である。極めて大きいものもある。扇の要に紐を通して奇物を下げてこれに工夫を凝らしている。

筆は毛が硬いが良く出来ている。
墨の形模様は雑で銀泥などの装飾も完全ではないが、墨質はとても良い。

梳き櫛を多く作る。朝鮮一の産物と言ってよい。


朝鮮国旗のルーツ

時として、団扇の中央に二つ巴のような紋章を画きだす。
これは、朝鮮国政府の徽章とも言うべきか。各衙門の扉やその他官府に係る物品の多くはこの紋章を画く。
これは、太極が剖判して両儀を生じた図と言う。
(宇宙混沌が開闢して陰と陽、天と地が分かれたという意味。故に円が2つに分かれた形となっている。)


製紙

紙は楮をもって作る。日本のものより厚くて強靭である。薄く美白色に製する方法をまだ発明していないようである。その値段は日本に比べれば高い。ただし楮の紙があるのは日本と朝鮮ぐらいと思われる。


いいかげんなのは国風

時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。そのことを気にする者はいない。公務などにおいても同様である。
対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。皆これらは朝鮮の風習である。


気候と風土病

一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。
(一行の京城滞在は、7月30日から8月26日まで)
日本人に病人が多くなってきた。これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。

帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。重症の下痢の者が多い。中の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。
(高熱を発して吐瀉を繰り返し心停止に至る。病状については「宮本大丞朝鮮理事始末 十/4 慶応4年3月から明治9年9月p23」に詳しい。赤痢の症状に似る。氷水の飲食が原因とも考えられる。また、奥 義制書記官が重体となり、帰国後長崎の病院に入院して一命をとりとめている。)
この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。

以上のように整理して見て、いくつか気になる点がある。

朝鮮の首都は公式には漢字で「漢城」と書く。しかし、宮本小一は使鮮日記などで一貫して「京城」と記述している。このページではそれにならって「宮本小一外務大丞、朝鮮国京城に行く」とし、上記まとめでも「京城」と記した。この「京城」と言う記述は、朝鮮政府の公式文書にもあり、日本政府との書簡のやり取りに何度も出てくる。しかしそれはどうやら、一般に国の京(みやこ)の意味を指す場合での「京城」ということであるらしい。
例えば、「宮本大丞朝鮮理事始末 五/3 明治9年3月から明治10年6月」中の「大朝鮮國禮曹判書 金在顕 呈書」には「両國使臣派送京城只以交聘事務・・・」とあるように、使臣を派遣するのに日朝両国の「京城」に送ることを言っている。つまり、朝鮮の首都の意味としての京城であり、日本の場合は首都である東京を意味としての「京城」ということであろう。
一方、随行した陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦介は「朝鮮紀行」では「漢城」と正確に記している。
なお、禮曹とは、朝鮮議政府下の行政府である六曹(吏曹、戸曹、禮曹、兵曹、刑曹、工曹)の内の一つで、外交の担当でもある。判書とは長官のことである。

・「旅宿がない」ということは日本のように庶民が観光旅行をする、ということも皆無なのであろうか。もっとも、朝鮮には景色を楽しむ名所が無いと宮本たちは言っているが。また、さらに「この度、入京したしくその実況を目撃せしに彼の国いたる所、駅亭の設けなく旅人の路次の民家に投宿し一飯の飢えを癒し僅かに露伏をのがれるのみ。その家屋はたいてい豚柵牛欄に異ならず。もとより客房ある無し。使臣、何様なる軽便なる旅装を好むともこの汚穢糞臭の家に止宿するあたわず。(略)民間を旅行するは一つの辛苦を嘗試するまでにして必ず多少の汚穢に触れ疾疫の基を起こすのみ。」(明治九年九月二十一日宮本小一外務大丞復命別紙)とも言っている。つまり朝鮮での旅行は苦痛でしかないと。

・「南大門の路の両側に矮小の藁屋が列をなす。」とあるが、士官らはそれを「往日、東京柳原ニアリシ床店ノ類」と述べている。屋台や仮店舗のことであろう。.写真のような雑貨屋もあったろうか。
牛骨が散乱している、とあるから肉を売る店、あるいは飯屋などもあったろうか。


雑貨屋 撮影年代不明
田舎の飯家 「朝鮮風俗繪葉書」日韓書房 明治44年か。
・「蚊および蚤はまれであった。」とあるが、京城の不潔さの記述から考えると、蚊が発生しないほどの水溜りであったということだろうか。糞尿の汚水ならそれも肯けるが。

・「米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。」とある。これは今日で言う「外国米」のことであろうか。ということは当時の朝鮮の稲と日本の稲は全く違う種類だったのであろうか。

・ なお、宮本らの食膳に供された朝鮮製の磁器皿類が粗雑なものであったということであるが、磁器に関して言えば、有田ポーセリンパークにある歴史資料館での資料によれば、朝鮮陶工が有田の磁土を用いて焼いた磁器は、くすんだ灰色で、一見、磁器と言うよりは土器(かわらけ)に近いようなものであった。それを日本人陶工が土を精製し、より高温で2度焼きするなど改良した結果、今日のようなガラス質の白磁となったのが有田磁器の原型という。やがて中国景徳鎮の磁器の作風を模した染付磁器となり、次第に色彩鮮やかなものに仕上げられ、その白と絵柄の美しさからヨーロッパの王侯貴族にまで珍重されるようになる。そうした煌びやかな日本の磁器皿などを見慣れた宮本小一にとっては、朝鮮製のそれは粗雑に見えたのだろう。

・「茶は無い。・・煎じ薬を飲むにも似ている。」とあるが、宮本小一は王宮で饗応を受けた際に、「茶礼」というものがあったと記している。しかし朝鮮政府が言うその時の「茶礼」というものは、次のようなものであった。
謁見式が終わって休憩所で王宮よりの饗として「白檀湯、蜜水、干し蛸、干し鮑、スモモ、スイカ-切り口に肉桂の粉末をまぶしたもの、焼酎」が出た。
次いで正式の宴席として司譯院で、「茶礼 先行酌礼」として、麺、餅、薬果、花菜、など魚肉を除いたものが出て、飲み物はやはり焼酎であった。次に「宴礼初味一酌」といって煎油魚や鶏湯などが出、「宴礼ニ味ニ酌」として饅頭や栗や鮑の蒸したものなど、「宴礼三味三酌」として魚肉、桃、禁中湯など、しかもいずれも焼酎が添えられるのであった。
このように王宮でも宿でも、日本のような「茶(緑茶)」はなかったことから、「茶は無い」と結論したのであろう。
「煎じ薬」とあるから王宮では「白檀湯」や「禁中湯」がそれに相当するのであろうか。尤も、以下の「茶に関する追加資料」の②で記すように、朝鮮に於ける茶の産出などの記録が全くなかったわけではない。

現在の韓国や日本の韓国人団体では「茶道の起源は韓国」などと言って「茶礼」などの「伝統」を披露している。

しかし、記事中の「茶せんで抹茶をたて、客人に振る舞った・・・韓国の大事な伝統文化を広めていきます」とは、いったい何のことであろうか?
本当の朝鮮王朝時代の伝統はやめてしまって、いつのまにか日本式に乗り換えたのであろうか。それとも茶礼とは別に朝鮮時代から「茶道」というものがあったのであろうか。

・茶に関する追加資料

①  宮本外務大丞が京城を訪れてより10年近く経った明治18年(1885)、農業改良の一つとして茶園の設置計画の資料がある。
「清英同盟及朝鮮国進歩ノ儀抄訳ノ件」のp4に、
「朝鮮国の進歩[五月十五日刊行澳国(オーストリア)東洋月報] 朝鮮政府は澳国人壱名を聘雇し、関税賦課法を制定すると同時に工業上並びに農業上の改良を計画することに汲々として、既に首都京城府中に於て硝子製造所、磁器製造所、焼瓦場、及生糸紡績所を建設し、釜山に於ては広大なる茶園及び桑園を設置し、其他煙草及巻煙草製造所、藁編物細工所、擦付木製造所、及麦酒醸造所を建設し、並びに京城中に水道を設置せんとの計画中なり。」とある。尤も、実際に全てが計画どおりに実行されたかどうかは不明である。
なお「摺付木」とはマッチのことで、楊花鎮にその製造工場が設けられて日本人数人が職工として雇われている。(「京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出発/2 明治18年12月23日から明治19年1月4日」p22)」)
したがって、朝鮮に於いてもし西洋人(英、米、独、仏、伊、露)の目に茶が触れたとしたら、それ以降の頃と思われる。(朝鮮の西洋国への開国は明治15年(1882)5月から。)

②  また、リンク「朝鮮の茶文化の記録」で指摘されているように、朝鮮に於いてかつて茶の産出や日本粉茶を喫した記録はあるようである。しかし、後の明治16年に京城駐在の日本公使・竹添進一郎の報告に於いても、「茶は葛根湯に類似するものを用いる。もとより茶樹はない。砂糖も無い。(「竹添弁理公使ヨリ朝鮮事情報告・機密信一、二、九、十、三、四、五、六、七、八、九、十 、十一、十三、十四、外ニ私報其十七通」)」とあるところからも窺われるように、既に茶を栽培したり喫する習慣が廃れたか、或いは殆ど流通していなかったということであろう。いずれにしろ当時朝鮮では、「茶」は一般的なものではなかったと思われる。
・「官妓の舞」・・・朝鮮の舞楽は、唐から伝わったものを古風を失わざるをもって誇るとあるから、独創のものではないらしい。

・やはり朝鮮には病院はなかったようである。釜山草梁公館に開設された日本のものが最初であるようだ。しかし、韓国の歴史関連の書物にはその記述があることは聞かない。

・朝鮮の馬はどれもほんとに小型のようだ。これでも子馬ではないのである。

「騎馬民族説」では、騎馬民族である高句麗が朝鮮半島を席捲後に日本を支配して現在に続く王権を建てたのだそうである。
↓ しかし、これではロマンも興醒めというものだ。 どうやら日本の馬に↓蹴散らされそうではないか。



こんな風に。(笑)

(「蒙古襲来絵詞」から。左端蒙古兵の乗る馬を縮小した。)

国の腐敗

さて、これら日本人の報告書を読んでまず印象に残るのは、やはり朝鮮国内の貧しさであろう。塗画装飾の立派な建築物もあった。彩色装飾された輿や塗り物の調度品などもあった。しかし塗画は剥がれ落ち門は傾き庭は荒れて久しく、輿の装飾は壊れ、国家の賓客たる国使をもてなす食膳の漆塗りは剥げ落ち汚れていた。
それらもかつては新しく美しいものであったろうに。どうしてこれほど荒廃してしまったのであろうか。この報告からはその理由は見出せない。
それらはむしろ10年以上後に朝鮮を訪れることが叶うようになった西洋人の旅行記や証言などでこそ窺い知ることが出来る。
すなわち、イザベラ・ルーシー・ビショップ、シャルル・ダレ、マリ・ニコル・アントン、アーソン・グレブスト、フレデリック・アーサー・マッケンジー、ホーマー・ハルバートなどなど、旅行家や宣教師やジャーナリストなどの、長期滞在による或いは恣意的調査によるものによってである。朝鮮政府内の権力闘争、官僚の腐敗、両班(文官と武官)の横暴、人心の荒廃、慣習制度の恐るべき野蛮さ、絶望的な身分差別などなど、朝鮮全体が腐敗しきっていたことを彼らの証言は明らかにしている。なお、これらはネット上で検索すれば容易に読むことが出来るのでここでは割愛したい。

しかしながら宮本たち一行の報告は、これら西洋人が触れることが出来なかった、当時の朝鮮政府や王宮の文化の先端レベルを窺うことが出来る貴重な資料でもある。しかもまだ日本が政治的にも経済的にも朝鮮にほとんど関与していない時代のものとして。

それにしても申大臣は正直な人であった。彼は素直に「朝鮮は至って貧しい国で物産とても僅かに綿および牛皮などであり」と述べ、呉慶錫は「世界中にても我が国などは殊に迂遠の国なれば如何せん。」と自分の国が文明の遅れた国であることを正直に吐露している。

朝鮮政府の接待全般について

宮本小一外務大丞ら日本使節団一行に対する朝鮮政府の応対は、これを国賓として最大級にもてなしていることが随所に感じられるものである。
通津府から京城に至る道路や建物を修理し清掃し最高の饗応を供し、京城では「上等の家屋」清水館を用意し、更にそれは柱などの彩色も塗り直すなど精一杯の化粧を施し、王宮では唯一国王のみが椅子を用いて大臣たちは椅子は許されずに全て立つ中に、宮本だけが椅子が用意されるなど、確かに隣国日本からの国使を遇するに最高の対応をしていることが、これら一連の記録文から窺うことが出来る。

だからこそ宮本小一は後の報告書の中に、
「総テ鄭重優渥ノ接遇ヲ極メタリ。同國ノ我ガ國ニ對シ友誼アルノ徴ヲ顕ハシタルハ厚ク御想像被降、後来同国トノ交際一層ノ懇遇ヲ与ヘラレ候様奉存候。」(宮本大丞朝鮮理事始末 五/2 明治9年9月21日 朝鮮国修好条規附録貿易規則約成之義 p2)
「総て鄭重を極めたもてなしでありました。同国が我が国に対して友誼のしるしを顕したことは厚く御想像くだされて、この後の同国との交際にいっそうの厚遇を与えられますことを願い上げます。」
と報告したのだろう。

ただ上記宮本らの「朝鮮政府接遇記略及風俗概要」では接待を受けた日本人としての感想を正直に述べたまでであって、そこに日朝の文化の違い国力の差というものがあるのは何とも致し方ない事であって、例えば食べ物でも日本人の口には合わなかったということであろう。しかし明治のこの頃の日本人はすでに肉食をしていたし(ちなみに猪肉や鹿肉や鳥肉などは昔から食している)、まして宮本たち高級官僚や上級将校たちであるから肉食には慣れており、ただ調理が合わなかったり清潔好きな日本人からは不潔に見えたということである。だからこそ「牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。」と感想を述べているのである。
もっとも、季節が真夏であるだけに腐敗臭が漂っていたのには閉口したらしい。
「途中郡鎮にて為に設くる処の饗膳も大抵大同小異なり。時、炎暑に際するを以て腐敗し易く臭気に堪えず、速に一、二箸を下して撤去せしむ」とある。(「宮本大丞朝鮮理事始末 四/1 朝鮮理事日記/1」p30)

なお上記の「食事のことなど」は、王宮での「茶礼」の後の司譯院で行われた申大臣や修信使だった金綺秀たちも出席しての政府主催の宴席も含めた感想である。だいたいどこでの食席も同じようなものであったと言う。ただ司譯院のそれでは音楽演奏と舞人が伴ったということである。
人を饗応するに「量」でするか「質」でするか、日本人はどちらかというと「質」を優先しむしろ「量」少なく多種を好む(若い人は違おうが)傾向があるように思える。朝鮮では「量」を優先するということであり、これは中華宴席も同じである。
先に来日した修信使の金綺秀は後に修信使日記を著し、その時の日本側の接待を「六七名使之留待擧行而居処器用極為精緻食供亦種々辨送頗有誠意(修信使日記)」
「6、7人の者を使って接待し、極めて精緻な器を用い、また種々の食を供してもてなし、頗る誠意の有るものであった。」と記している。その時のことを意識しての宮本たちへの接待でもあったろうと思うが、しかしまあ、食習慣の違いがあるとしてもねえ・・・・・

ところで、この時の宮本たちは気づいていないが、後には花房公使たちが朝鮮国の慢性的な飢餓状態に気付き、それにより接待を止めるように進言し、次の竹添公使に至っては大臣たちの邸宅を訪れても酒食のもてなしを受けるのが心苦しくて気の毒でたまらない、という感想を述べている。

文化風習の違いと国力の差があるのは、どうにもならないことであるが、だからといって茶道の例に見るように伝統を再現するならともかく「過去の栄光」を創作するのはどうかと思う。
当時の朝鮮国が貧しいながらも精一杯真心を現そうとしていたことに比して、今の「朝鮮国」は何か病的なものを感じざるを得ない。

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