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Monday, July 2, 2012

money in ancient japan and world

http://www.bk.mufg.jp/minasama/kakawari/gallery/tenji1_1.html




(1) 和同開珎 [わどうかいほう(ちん)]
(2) 萬年通宝 [まんねんつうほう]
(3) 神功開宝 [じんごうかいほう]
(4) 隆平永宝 [りゅうへいえいほう]
(5) 富壽神宝 [ふじゅしんぽう]
(6) 承和昌宝 [しょうわしょうほう]
(7) 長年大宝 [ちょうねんたいほう]
(8) 饒益神宝 [にょうやくしんぽう]
(9) 貞観永宝 [じょうがんえいほう]
(10) 寛平大宝 [かんぴょうたいほう]
(11) 延喜通宝 [えんぎつうほう]
(12) 乾元大宝 [けんげんたいほう]

唐の時代には、日本から遣唐使がしばしば派遣されて、中国文化が盛んに輸入されるようになり、それと同時にお金の造り方も伝えられました。そして、慶雲5年(708年)に武蔵の秩父郡ではじめて多量の銅が発見されたので、年号を和銅と改め、唐の開元通宝(かいげんつうほう)を手本にして、銀銭と銅銭の和同開珎(わどうかいほう[ちん])が律令国家によって造られました。これが日本最古の法定貨幣となりました。しかし、当時の一般社会の人達はお金を使うことに慣れておらず、一部の上層階級だけしか流通しなかったので、朝廷では銭を使うことを奨励するために、銭を蓄えた者には位を授け、納税は銭で納めることをすすめ、また旅人には、銭を携帯させたり、官吏の俸給を銭で支給するなど、各種の奨励策を講じました。ところが鋳造方法は幼稚で、模造し易く、偽造する者が多くなったので、銭文を次々と変えて改鋳し、和同開珎が鋳造されてから平安中期の天徳2年(958年)に、乾元大宝ができるまで250年の間には12種類の銅銭が造られました。

和同開珎・萬年通宝・神功開宝・隆平永宝・富壽神宝・承和昌宝・
長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝

これを皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)といいます。そして、改鋳毎に新銭1個に対して、旧銭10個の不当な交換率が決められ、その上新銭が出るたびに重さが減り、品質も悪くなり、又各地の産銅額が年々減少したこと、銭貨の退蔵が行われたことなどのために、一般の流通は円滑にゆかず、なお律令国家の体制もゆるんだので、皇朝銭はついに乾元大宝を最後として、その後600年間貨幣の鋳造は中止の止むなきに至りました。


(1) 原貝貨
(2) 骨貨貝貨
(3) 銅製貝貨
(4) 石製貝貨
(5) 大尖足布
(6) 空首布
(7) 尖足布
(8) 円肩方足布
(9) 反首刀
(10) 円首刀
(11) 蟻鼻銭
(12) 宝六化
(13) 垣字銭
(14) 秦半両
(15) 唐の開元通宝
(16) 和同開珎(銀銭)

遠い昔、まだ経済文化が未発達の頃、人々は欲しいものを手に入れるために、物々交換(ぶつぶつこうかん)を行っていました。交換の仲だちをするものとして、生活必需品の米や布・塩などが物品貨幣(ぶっぴんかへい)の役割をはたしていました。技術の発展とともに、金属を材料として、物を煮たきする器や武器・農具などさまざまな物を造ることができるようになり、貨幣も金属で造られるようになりました。また、中国では、すでに殷の時代(今からおよそ3000年前)に貝が貨幣として使われており、このことは貨幣関係の文字に貨・財・寳・貯・買・購・賃・貴・販・貧・賠・償など、文字構成の一部分に貝の字がはいっていて、また現存する貝貨によってもそのことは実証されています。
それから、周の時代には、はじめて農具や刀など物の形をかたどった青銅貨(刀貨や布貨など)ができ、秦の時代になると、これが円形角穴となり、かさばらず貯蔵運搬に便利なお金となりました。



(1) マケドニアの銀貨<紀元前4世紀>
(2) ビシニアの銀貨<紀元前2世紀>
(3) サロニカの銀貨<紀元前4世紀>
(4) コリントの銀貨<紀元前4世紀>
(5) マケドニアの銀貨<紀元前4世紀>

(6) トラキアの金貨<紀元前4世紀>
(7) ミシアの銀貨<紀元前2世紀>
(8) セレウコス朝シリアの銀貨<紀元前2世紀>
(9) カラブリアの銀貨<紀元前4世紀>
(10) プトレマイオス朝エジプトの金貨<紀元前3世紀>

地中海の東部エーゲ海に臨む各都市には古くから優れた文化があって、貨幣は紀元前7世紀に小アジアのギリシャ植民地リュディアというところで使われていました。それが対岸のアテネやコリントなどの都市に伝わり、さらに地中海沿岸の各地の植民地でも広く造られるようになりました。それらの貨幣は美術品ともいうべき精巧なもので、一定の重さの丸い金属の小片を鉄の枠にはさみ、その上下に図案を刻んだ鉄の刻印を置いて、それをハンマーで打って模様を打ち出す方法で造られました。貨幣の表と裏には神々の像や動物の姿、あるいは王様の顔などが浮き彫りになっていて、後世の人の真似ることのできない気品と魅力にあふれた貨幣でした。



< 天正大判(てんしょうおおばん) >

豊臣秀吉は天下を統一して全国の金銀鉱山の採掘権を一手に握り、積極的に開発を行ったので、金銀産出額は一層上昇しました。そして世界に類のない豪華な重さ44匁[165グラム]の大金貨、天正大判(てんしょうおおばん)が鋳造されました。これに続いて秀吉は金・銀・銅貨による幣制の統一を計画しましたが、まもなく政権は徳川氏の手に移り、元和元年(1615年)大坂城落城の際、家康の手にはいった黄金の大法馬(だいほうま)[大判1000枚分で1個44貫目165キロ]は50余個もあったと伝えられています。





(1) 慶長小判
(2) 元禄小判
(3) 宝永小判
(4) 正徳小判
(5) 享保小判
(6) 元文小判
(7) 文政小判
(8) 天保小判
(9) 安政小判
(10) 万延小判
(11) 天保五両判
(12) 太閤円歩金
(13) 慶長一分金
(14) 元禄二朱金
(15) 唐の甲州露一両金
(16) 甲州一分金
(17) 慶長丁銀
(18) 元禄丁銀
(19) 元文丁銀
(20) 豆板銀
(21) 小型豆板銀(露銀)

豊臣氏の後を引き継いだ家康は、産金の技術が西洋のそれに比べて劣っていることを知って、フィリピンから鉱山技師を招き、産金精錬の外国技術を導入するとともに、佐渡・伊豆・甲斐・石見などの金銀山を独占して採掘したので、年々産額は増加の一途を辿ってゴールド・ラッシュとなり、慶長・元和のころには最高潮に達しました。このころできた慶長小判(けいちょうこばん)は質量ともに最も良く、重さ18グラム、純度86% の良貨で、山吹色をした代表的な小判として、この慶長小判が知られています。
家康は貨幣制度を統一して、金貨の名目・重量・品位を定め、単位を両(りょう)・分(ぶ)・朱(しゅ)の四進法とし、金座・銀座を設置して、金貨は慶長大判・小判・一分金を鋳造、銀貨は秤量貨幣(ひょうりょうかへい)の丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)を鋳造しました。 (慶長6年[1601年])







(1) 明和五匁銀
(2) 明和(古)南鐐二朱銀
(3) 文政(新)南鐐二朱銀
(4) 文政一朱銀
(5) 天保一分銀
(6) 安政二朱銀
(7) 嘉永一朱銀
(8) 宝永通宝十文銭
(9) 寛永通宝一文銭
(10) 寛永通宝四文銭
(11) 文久永宝四文銭
(12) 天保通宝百文銭
(13) 加賀花降百目銀
(14) 秋田封銀八匁
(15) 秋田封銀四匁
(16) 秋田九匁二分銀判
(17) 秋田笹一分銀
(18) 細倉當百文(鉛銭)
(19) 筑前通宝百文銭
(20) 米沢当二百文(鉛銭)
(21) 土佐通宝二百文銭
(22) 琉球通宝百文銭
(23) 秋田波銭

秤量貨幣の丁銀・豆板銀は江戸時代を一貫した銀貨として使われましたが、この他に定量貨幣である明和(めいわ)の五匁銀(ごもんめぎん)や、定位貨幣である明和南鐐二朱銀(めいわなんりょうにしゅぎん)・文政南鐐二朱銀(ぶんせいなんりょうにしゅぎん)・文政一朱銀(ぶんせいいっしゅぎん)・天保一分銀(てんぽういちぶぎん)・嘉永一朱銀(かえいいっしゅぎん)・安政二朱銀(あんせいにしゅぎん)・安政一分銀(あんせいいちぶぎん)など角型の銀貨も造られて、丁銀・豆板銀とともに通用しました。
銭貨については、慶長通宝(けいちょうつうほう)や元和通宝(げんなつうほう)についで、三代将軍家光の時、寛永13年(1636年)に江戸と近江坂本に銭座が設けられて、銅銭ができ、つづいて各地で寛永通宝(かんえいつうほう)が鋳造されました。単位は貫・文で、銭一文の標準目方は一匁(3.75グラム)で1000文が一貫文だったのです。銭貨は後になって、宝永通宝(ほうえいつうほう)・天保通宝(てんぽうつうほう)・文久永宝(ぶんきゅうえいほう)などが鋳造されましたが、寛永通宝だけは寛永年間から幕末に至るまで、長く庶民に親しまれて通用した銭貨でした。









< 両替屋 >

江戸時代に金融機関の役割を果たしてきた両替商の日々の業務は、現在の銀行と緊密なつながりがあり、いわば両替商は銀行の前身ともいうべきものでした。
大名や庶民(商人)を相手に、預金・貸付の業務を営むとともに、金・銀・銅の三貨幣と藩札などの両替や、遠隔地との商取引にともなう支払の決済方法として為替業務も営んでいました。
この両替屋のモデル・ルームでは、当時実際に使用されてきた道具類を展示してその昔を再現しています。




(1) 旧二十円金貨
(2) 旧十円金貨
(3) 旧五円金貨
(4) 旧二円金貨
(5) 旧一円金貨
(6) 旧十銭銀貨
(7) 旧二十銭銀貨
(8) 旧五十銭銀貨
(9) 旧五銭銀貨
(10) 明治七年一円銀貨
(11) 二十銭銀貨
(12) 旧一円銀貨
(13) 貿易銀
(14) 新二十円金貨
(15) 新十円金貨
(16) 新五円金貨
(17) 一厘銅貨
(18) 半銭銅貨
(19) 一銭銅貨
(20) 二銭銅貨

明治2年、英国の香港にあった造幣局の機械設備を一手に買収して、大阪に造幣局(ぞうへいきょく)を建設することとなり、それと同時に幣制が一新され、硬貨は西洋諸国にならって円形の洋式貨幣が採用されました。明治4年に造幣局が完成、新貨条例(しんかじょうれい)が発布され金本位制となりました。従来の両・分・朱の四進法を改めて、単位は円を基本として、十進法で金貨は20円以下1円までの5種、銀貨4種、銅貨4種が制定され、別に開港場の貿易用に一円銀貨を本位貨に加えて発行しました。





(1) 明治通宝札十円券
(2) 第十一国立銀行五円券
(3) 第十一国立銀行一円券
(4) 神功皇后十円券
(5) 大黒札一円券
(6) 武内宿弥一円券
(7) いのしし札十円券

明治5年には、民間金融の円滑と商工業の振興を計り、かねて先に発行した不換紙幣である太政官札(だじょうかんさつ)・明治通宝札(めいじつうほうさつ)を引き換え整理するために、国立銀行条例を制定して、米国に紙幣の印刷を依頼し、金貨兌換の国立銀行券(こくりつぎんこうけん)を発行しました。しかし、発行された国立銀行券は、まもなく銀行へ舞い戻る有様で、転々と流通せず、各地の国立銀行は運転資金に欠乏したので、明治9年には国立銀行条例が改正され、金貨との兌換を改めて政府紙幣 (せいふしへい)と交換されることになりました。
明治15年には、日本銀行が設立されて、従来流通していた種々の不換紙幣を整理統一するため、紙幣発行権は日本銀行の一本とし、明治18年にははじめて日本銀行発行の紙幣が出されました。当時の日本は中国をはじめ東洋諸国やメキシコ等の銀本位国との貿易に影響されて、実質的には銀本位になっていたので、日本銀行紙幣の券面には兌換銀券(だかんぎんけん)と書かれて発行されました。

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